◻️192の4の21『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、浮田佐平)

2021-04-26 10:46:04 | Weblog
192の4の21『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、浮田佐平)
 
 浮田佐平(うきたさへい、1867~1939)は、実業家だ。津山・伏見町の商家の生まれ。伏見町は、江戸期においては、津山城の南に位置する。東は材木町、西は京町、南は吉井川、北は山下に接する地域である。

 父の卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていた。明治に入ると、貨幣改方手代を命じられる。明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となる。
 母の柳は、明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられる。明治13年、同所が廃止されると、夫の卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を設立する。  
 やがて、家業の製糸業をつぐ。新進気鋭というか、機械製糸の導入など改良と近代化につとめる。大正元年には、津山市に浮田製糸を設立する。
 そのうちに、植林業や果樹園経営、さらには奥津峡の観光開発なども手がけていく。
 それだけでは満足しなかった、ということだろうか、やがては、津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」の窯元となる。こちらは、1922年(大正11年)、55歳のとき、陶磁器製造業を始める。
 なにしろ、その動機か奮っていたらしい。浮田は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていた、というのだ。それも、海外にも通用する美作特産の焼き物が完成すれば、津山の工業の展開にも一役かうことがてきるのではないかと。


(続く)

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◻️192の4の22『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、服部和一郎)

2021-04-26 10:39:52 | Weblog
192の4の22『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、服部和一郎)

 服部和一郎(はつとりわいちろう、1894~1989)は、実業家にして社会事業家 だ。
 邑久郡牛窓村(現現在の牛窓町)の生まれ。服部家はこの牛窓に基盤に活動をする、岡山に名前の知られた商家であった。


 11歳の時、なんと、祖父・服部平五郎から家督を譲られたという。そうであるなら、よんどころのない事情かあったのだろう。

 1912年(明治45年)に、津山中学校を卒業する。それからは、家業である土地経営や製塩業に従事する。


 おりしも、日本は、朝鮮を1910年に併合していた。これに乗ろうとしたのだろうか、1917年(大正6年)より、朝鮮での土地経営を開始する。朝鮮服部合資会社や京城服部合資会社・朝永土地株式会社を設立する。


 国内でも、意気揚盛んであったらしく、土地や塩田の経営を進め、邑久農事株式会社・鹿田塩田・千里山永楽園住宅土地合資会社などを設立する。
 
 1942年(昭和17年)には、郷里牛窓町の山林にオリーブ園を開く。温暖な気候が幸いするとの読みがあったに違いあるまい。そして、「オリーブは栄養もよく、薬用にもなり、灯火にもなり、自然も守る」とし牛窓の丘陵地にオリーブ畑を広げていく。


 戦後になっては、日本オリーブ株式会社を創業する。1949年に日本オリーブ株式会社を創立し、第一号商品の「オリーブマノン バージンオイル」(純粋オリーブ100%の化粧用油)を発売する。

 1992年には、スペイントルトサにも自社オリーブ園を開園する。事業範囲も、栽培から加工、販売を一貫して行う。


 また、牛窓信用組合・備前信用金庫・両備バス株式会社・岡山県共同石炭株式会社などの経営にも加わっていく。


 その一方で、社会事業家の列にも参じていく。老人福祉・貧困者救済などの社会事業に携わり、大正12年に財団法人服部養老会を設立する。


(続く)

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