192の4の21『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、浮田佐平)
浮田佐平(うきたさへい、1867~1939)は、実業家だ。津山・伏見町の商家の生まれ。伏見町は、江戸期においては、津山城の南に位置する。東は材木町、西は京町、南は吉井川、北は山下に接する地域である。
浮田佐平(うきたさへい、1867~1939)は、実業家だ。津山・伏見町の商家の生まれ。伏見町は、江戸期においては、津山城の南に位置する。東は材木町、西は京町、南は吉井川、北は山下に接する地域である。
父の卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていた。明治に入ると、貨幣改方手代を命じられる。明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となる。
母の柳は、明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられる。明治13年、同所が廃止されると、夫の卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を設立する。
やがて、家業の製糸業をつぐ。新進気鋭というか、機械製糸の導入など改良と近代化につとめる。大正元年には、津山市に浮田製糸を設立する。
そのうちに、植林業や果樹園経営、さらには奥津峡の観光開発なども手がけていく。
それだけでは満足しなかった、ということだろうか、やがては、津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」の窯元となる。こちらは、1922年(大正11年)、55歳のとき、陶磁器製造業を始める。
なにしろ、その動機か奮っていたらしい。浮田は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていた、というのだ。それも、海外にも通用する美作特産の焼き物が完成すれば、津山の工業の展開にも一役かうことがてきるのではないかと。
(続く)
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母の柳は、明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられる。明治13年、同所が廃止されると、夫の卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を設立する。
やがて、家業の製糸業をつぐ。新進気鋭というか、機械製糸の導入など改良と近代化につとめる。大正元年には、津山市に浮田製糸を設立する。
そのうちに、植林業や果樹園経営、さらには奥津峡の観光開発なども手がけていく。
それだけでは満足しなかった、ということだろうか、やがては、津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」の窯元となる。こちらは、1922年(大正11年)、55歳のとき、陶磁器製造業を始める。
なにしろ、その動機か奮っていたらしい。浮田は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていた、というのだ。それも、海外にも通用する美作特産の焼き物が完成すれば、津山の工業の展開にも一役かうことがてきるのではないかと。
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