106『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、倉安運河と幸島新田)
ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。
これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。
具体的には、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)という。
これにあるように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。あわせて、こうして開削された倉安川は、灌漑用水のみならず、吉井・旭の両川を結ぶ運河としても利用され、高瀬舟を通行させて米や薪などの物資運送の役割も果たしていく。
津田はこのほか、吉井川の東岸沿いに、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)の干拓工事も手掛けた。その河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生(ひなせ)、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。
なお、ここにいう幸島新田(こうじましんでん)とは、吉井川東岸辺り、当時の乙子村、それに神崎村沖の干拓の総称だ。1684年(貞享元年)の鍬入れから、同年中に潮止めが完成したもの。
もう少し詳しくいうと、吉井川東岸部でも藩による干拓が持ち上がる。そもそもは、寛永の頃の初岡山藩主・池田忠雄は、藩士を動員して神崎村内に神崎崎新堀を掘削し千町川の水を児島湾に分流(千曲川・神崎川)させる。
やがて池田綱政の時代になると、新たな規模での干拓が行われる。津田永忠が乙子村から小羽島・中羽島・大羽島・外渡島・西幸島・東幸島の各島を経て掛座まで、海面に堤を築いて河口両側に新田を造成しようというもの。
この工事により、新田中央部を南北に千町川分流が貫流する形となり、河口には石の樋門が築かれ、内側に遊水池が設けられる。島の名前(西幸島・東幸島)にちなみ、幸島新田と名付けられる。
ちなみに、この時の干拓に力のあったのが、河口部に設けた樋門(ひもん、水門のこと)と大水尾(遊水池)の結合による排水処理の技術であり、これを考えついた人物ははっきりとはわかっていないものの、津田永忠が大坂から呼び寄せた石工集団がいたればこその新技術であったのではないだろうか。
新田の配置について、最初は、幸島西新田村・同中新田・同東新田村と分けられる。それが1687年(貞享4年)には、西新田は幸西村、中新田は幸田村、東新田は幸崎村と改称する。さらに1691年(元禄4年)には、幸田が南北に、幸西・幸崎は東西にそれぞれの村に分割される。
参考までに、当地の一角(岡山市東区西幸西)には、橋長6.6m、橋幅:0.96m、桁厚:30cm、桁2列、3径間桁橋の「西水門の碑」が建てられていて、それにはこう記されているという。
「幸西地区には、貞享元年(1684)池田藩によって、浅海を干拓して生まれた海抜ゼロメートルの新田である。
この西水門は、樋守人の経験と努力によって、海の干満を利用して遊水池の水を放流し、干拓が行われた当初は、冠水の防止や塩水の排除を、後には水田水や雨水の排水を主な目的として利用され、約280年の間、幸西地区の農業と住民の生活を守ってきた。
しかし、昭和39年(1964)、東西の樋門を統合した近代的な新柿原樋門の完成と伴に、その役割を終えた。 往時、幸島新田には、これと同じ石造樋門が六ヶ所あったが、現在では全て撤去・改修され、昔の姿を留めるのは、西幸西にあるこの西水門の内側樋門だけとなった。 先人の苦労を偲び、その英知に心から敬意を表すると伴に、郷土の貴重な文化遺産として西水門の概要を記して後世へ伝えるものとする。平成十六年三月吉日岡崎務 撰文西幸西協同会 建立」
(続く)
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ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。
これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。
具体的には、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)という。
これにあるように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。あわせて、こうして開削された倉安川は、灌漑用水のみならず、吉井・旭の両川を結ぶ運河としても利用され、高瀬舟を通行させて米や薪などの物資運送の役割も果たしていく。
津田はこのほか、吉井川の東岸沿いに、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)の干拓工事も手掛けた。その河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生(ひなせ)、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。
なお、ここにいう幸島新田(こうじましんでん)とは、吉井川東岸辺り、当時の乙子村、それに神崎村沖の干拓の総称だ。1684年(貞享元年)の鍬入れから、同年中に潮止めが完成したもの。
もう少し詳しくいうと、吉井川東岸部でも藩による干拓が持ち上がる。そもそもは、寛永の頃の初岡山藩主・池田忠雄は、藩士を動員して神崎村内に神崎崎新堀を掘削し千町川の水を児島湾に分流(千曲川・神崎川)させる。
やがて池田綱政の時代になると、新たな規模での干拓が行われる。津田永忠が乙子村から小羽島・中羽島・大羽島・外渡島・西幸島・東幸島の各島を経て掛座まで、海面に堤を築いて河口両側に新田を造成しようというもの。
この工事により、新田中央部を南北に千町川分流が貫流する形となり、河口には石の樋門が築かれ、内側に遊水池が設けられる。島の名前(西幸島・東幸島)にちなみ、幸島新田と名付けられる。
ちなみに、この時の干拓に力のあったのが、河口部に設けた樋門(ひもん、水門のこと)と大水尾(遊水池)の結合による排水処理の技術であり、これを考えついた人物ははっきりとはわかっていないものの、津田永忠が大坂から呼び寄せた石工集団がいたればこその新技術であったのではないだろうか。
新田の配置について、最初は、幸島西新田村・同中新田・同東新田村と分けられる。それが1687年(貞享4年)には、西新田は幸西村、中新田は幸田村、東新田は幸崎村と改称する。さらに1691年(元禄4年)には、幸田が南北に、幸西・幸崎は東西にそれぞれの村に分割される。
参考までに、当地の一角(岡山市東区西幸西)には、橋長6.6m、橋幅:0.96m、桁厚:30cm、桁2列、3径間桁橋の「西水門の碑」が建てられていて、それにはこう記されているという。
「幸西地区には、貞享元年(1684)池田藩によって、浅海を干拓して生まれた海抜ゼロメートルの新田である。
この西水門は、樋守人の経験と努力によって、海の干満を利用して遊水池の水を放流し、干拓が行われた当初は、冠水の防止や塩水の排除を、後には水田水や雨水の排水を主な目的として利用され、約280年の間、幸西地区の農業と住民の生活を守ってきた。
しかし、昭和39年(1964)、東西の樋門を統合した近代的な新柿原樋門の完成と伴に、その役割を終えた。 往時、幸島新田には、これと同じ石造樋門が六ヶ所あったが、現在では全て撤去・改修され、昔の姿を留めるのは、西幸西にあるこの西水門の内側樋門だけとなった。 先人の苦労を偲び、その英知に心から敬意を表すると伴に、郷土の貴重な文化遺産として西水門の概要を記して後世へ伝えるものとする。平成十六年三月吉日岡崎務 撰文西幸西協同会 建立」
(続く)
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