◻️106『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、倉安運河と幸島新田)

2021-04-09 18:51:00 | Weblog
106『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、倉安運河と幸島新田)

 ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。
 これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。

 具体的には、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)という。

 これにあるように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。あわせて、こうして開削された倉安川は、灌漑用水のみならず、吉井・旭の両川を結ぶ運河としても利用され、高瀬舟を通行させて米や薪などの物資運送の役割も果たしていく。

 津田はこのほか、吉井川の東岸沿いに、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)の干拓工事も手掛けた。その河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生(ひなせ)、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。


 なお、ここにいう幸島新田(こうじましんでん)とは、吉井川東岸辺り、当時の乙子村、それに神崎村沖の干拓の総称だ。1684年(貞享元年)の鍬入れから、同年中に潮止めが完成したもの。


 もう少し詳しくいうと、吉井川東岸部でも藩による干拓が持ち上がる。そもそもは、寛永の頃の初岡山藩主・池田忠雄は、藩士を動員して神崎村内に神崎崎新堀を掘削し千町川の水を児島湾に分流(千曲川・神崎川)させる。

 やがて池田綱政の時代になると、新たな規模での干拓が行われる。津田永忠が乙子村から小羽島・中羽島・大羽島・外渡島・西幸島・東幸島の各島を経て掛座まで、海面に堤を築いて河口両側に新田を造成しようというもの。

 この工事により、新田中央部を南北に千町川分流が貫流する形となり、河口には石の樋門が築かれ、内側に遊水池が設けられる。島の名前(西幸島・東幸島)にちなみ、幸島新田と名付けられる。


 ちなみに、この時の干拓に力のあったのが、河口部に設けた樋門(ひもん、水門のこと)と大水尾(遊水池)の結合による排水処理の技術であり、これを考えついた人物ははっきりとはわかっていないものの、津田永忠が大坂から呼び寄せた石工集団がいたればこその新技術であったのではないだろうか。

 新田の配置について、最初は、幸島西新田村・同中新田・同東新田村と分けられる。それが1687年(貞享4年)には、西新田は幸西村、中新田は幸田村、東新田は幸崎村と改称する。さらに1691年(元禄4年)には、幸田が南北に、幸西・幸崎は東西にそれぞれの村に分割される。

 参考までに、当地の一角(岡山市東区西幸西)には、橋長6.6m、橋幅:0.96m、桁厚:30cm、桁2列、3径間桁橋の「西水門の碑」が建てられていて、それにはこう記されているという。

 「幸西地区には、貞享元年(1684)池田藩によって、浅海を干拓して生まれた海抜ゼロメートルの新田である。 
 この西水門は、樋守人の経験と努力によって、海の干満を利用して遊水池の水を放流し、干拓が行われた当初は、冠水の防止や塩水の排除を、後には水田水や雨水の排水を主な目的として利用され、約280年の間、幸西地区の農業と住民の生活を守ってきた。
 しかし、昭和39年(1964)、東西の樋門を統合した近代的な新柿原樋門の完成と伴に、その役割を終えた。 往時、幸島新田には、これと同じ石造樋門が六ヶ所あったが、現在では全て撤去・改修され、昔の姿を留めるのは、西幸西にあるこの西水門の内側樋門だけとなった。 先人の苦労を偲び、その英知に心から敬意を表すると伴に、郷土の貴重な文化遺産として西水門の概要を記して後世へ伝えるものとする。平成十六年三月吉日岡崎務 撰文西幸西協同会 建立」


(続く)

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新◻️107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

2021-04-09 14:33:06 | Weblog
107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

 そもそも百間川の名の由来は、「二の荒手」(中島竹田橋直下流)の幅が堤防を含め百間(約180メートル)あったことから、そう名付けられたという。現在の岡山市北区三野・中区中島付近で旭川と分流し、操山の北を東流する。それからは、同市中区米田付近で、東に仰ぐ芥子山を避けるように、大きく南に流れを変える。
 それからほどなく南下してといおうか、干拓地の間を通って児島湾に注ぐ。 旭川の分流部より瀬戸内海に出る河口までの総延長は12.9キロメートル、その間の幅は200~300メートル位あるという。


 そもそも、岡山城付近を流れる旭川は、安土桃山時代の宇喜多政権により、に行われた築城工事の時に、蛇行するよう付け替えられ、河道も狭くされた。これだと、北からの水流がその曲がりのところで岸に激しくぶつかり、岡山、石山それに天神山以外の岡山城下は、以来たびたび洪水に見舞われるようになった。特に、1654年(承応3年)に起こった大洪水は、城下に甚大な被害をもたらしたという。

 これに意見したのが、当時岡山藩に出仕していた陽明学者の熊沢蕃山であって、蕃山は、1654年(承応3年)の旭川洪水の経験から、洪水対策として「荒手」と呼ぶ越流堤と放水路を組み合わせた「川除け(かわよけ)の法」を提案し、津田永忠に伝授した模様だ。これを「よし」とした永忠は、藩として取り組むべきと藩主に進言したようだ。

 まもなく藩主の池田綱政から岡山藩郡代の津田に対し、荒手堤をつくるようにとの命令が下り、かかる構想に基に、洪水の際にはここに分流を呼び込んで、3段の荒手を設けることにしたという。これにより水勢を弱めながら旭川の氾濫を越流・放水させるという仕掛けだ。

 この工事は、1669年(寛文9年)に永忠の指揮で着工された。その翌年にかけて、岡山藩普請奉行藤岡内助、石川善右衛門らによって工事が指揮され、御野郡竹田村(現在の岡山市竹田)、中島村(現在の岡山市中島)の間に荒手堤が築かれた。


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 要は、城の上流地点で土手の一部を低くした荒手堤を構えつつ、幅広の百間川溝を掘って東の中川までつなぐ。そうした仕掛けを設けたことにより、旭川の洪水時には水がそこで分流されるようにしたわけである。


 ところが、中川周辺の地域の人々としては、もとより排水の悪い干拓地に、それまでは城下へ流れていた水がどっとこちらへ押し寄せてくるではないか。折しも、1673年(延宝元年)の旭川大洪水では、この百間川のおかげで城下の被害は比較的軽くすんだかわりに、濁水は中川周辺の農村部を襲い、大災害となったという。


 津田としては、この時、しからぱどうしたらよいのかだけでなく、ある壮大な構想を描いていて、その計画の中で、百間川を大改造し、中川周辺の河川排水をすべて一本化する排水路として延長、かつ、その河口部に前代未聞の大干拓を行うというもの、これが、後にいう沖新田である。


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 そして迎えた1682年(天和2年)には、永忠が郡代となり、池田綱政の命が下り、上道郡沖新田開発を計画するにおよび、排水の処理問題とも関連して1686年(貞享3年)から翌年にかけて、百間川の改造、拡張を築造していく。



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 そして迎えた1692年(元禄5年)沖新田の開発に伴い百間川を児島湾まで貫流させ、その河口に大水尾(おおみお)遊水池を設け、そこに唐樋(からひ)を築き、排水を促し潮水の逆流を防ぐ仕組みを導入する。

 すなわち、沖新田の干拓は、倉田新田(1679年(延宝7年)に完成)、幸島新田(1684年(貞享元年)に完成)に続いて、1691年(元禄4年)に、池田綱政の命により津田永忠が主導して干拓工事が開始された。そして、翌1692年(元禄5年)には完成するという、非常なスピードで進められたのは驚きだ。

 同時に、百間川を延長して新田の中央を通すことが設計される。前述した1692年(元禄5年)の沖新田の開発に伴い、百間川を児島湾まで貫流させる工事を完成させる。


 あわせて、その百間川が瀬戸内海へ流れ出るところの河口に、百間川の水を海に排出するための施設として百間川河口水門を設けるとともに、大水尾(おおみお)遊水池を設け、唐樋(からひ)の設備を築き、排水を促し潮水の逆流を防いだ。

 それというのも、大水尾周辺の低地は、一度洪水が起きれば、満潮時とかさなる時もあろう、その時の潮位というのは、時に海側の水位が百間川の水位を上回りかねなかったのではないだろうか。そこで、樋門によって水量を調整するためにも広大な遊水池をつくる必要があった。さらに、かかる大水尾池を造るために、当該百間川河口部に築いたのが、百間川大水尾堤防(現在のいわゆる「旧堤」)というわけだ。


(続く)


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新◻️107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

2021-04-09 14:31:26 | Weblog
107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

 それからさらに大いなる時間が経過していった。1907(明治40年)から1925年(大正14年)にかけては、政府により高梁川の大規模な河川改修事業が行なわれた。その時は、酒津から南西に水路を開削して東高梁川と西高梁川を結んだ。そして八幡山の西流路を閉め切る工事を行った。また、酒津以南の東高梁川を廃川とする。これによって、高梁川は一本の大河となって、現在の倉敷市水島と玉島の間を流れ水島灘・瀬戸内海に流れ込む。その河川跡地には、454ヘクタールの新たな土地が生まれた。これにより、広大な新田ができたことも大きいが、それよりも第二次世界大戦後の高度成長期からは、水島工業地帯による工業用地となって現在に至っている。
 あわせて現在、玉島に乙島(おとしま)地区が広がるが、ここは元は海があって、島があった。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)を中心に。さらに、沖合水域が埋め立てされていった。こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。
 これらのうち、元は海の中の島であった「乙島地区」(おとしまちく)には、作家・徳冨蘆花(とくとみろか)が訪ねたことがあり、その歌碑が建てられていて、こう刻んである。
 「ここ養父ヶ鼻の地は、もともと瀬戸内海岸でも有数の景勝地で、白砂青松の海辺として全国に知られていた。また遠浅で,潮干狩、海水浴釣魚などの場として四季を通じて賑わい、海中に点在する飛石、はね石、ごろごろ石などと呼ばれた布石の妙は人々の目を楽しませた。たまたま明治大正期の文豪徳富蘆花(1868~1927)が訪れたのは大正七年の夏で、滞在数十日、この地の明媚な風光とこまやかな人情を愛した。
 「人の子の貝堀りあらす砂原を平になして海の寄せ来る」
 この一首は当時の景観をえがいた名歌で、一読、今も満ち潮の押し寄せて来る様子が眼前に浮かんでくる。碑は地元の人々によって、昭和8年10月に建てられたが、同18年以来数次にわたって養父が鼻沖は干拓せられ陸続きとなり、さらに現在のような工場地帯と変わった。かえりみてまことに今昔の感にたえない。蘆花には「不如帰」「自然と人生」「思い出の記」などの代表作がある。玉島文化協会」

(続く)

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新◻️107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)(興除新田、福田新田、阿賀崎新田)

2021-04-09 14:28:30 | Weblog
107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)(興除新田、福田新田、阿賀崎新田)

 そもそも、備中における干拓の歴史は、今からおよそ500年前にも遡る。時代を区切れば、近世も後半になってからのことだ。豊臣政権の成立後は、時流に乗っていち早く織田方についていた宇喜多直家の子、秀家が、新たに備前と備中の領有を正式に認められる。
 その秀家は、鋭意新田開発に取り組んだ。折よく、近世の松山川(高梁川)下流1では、上流からの土砂の堆積により、三角州が発達し、干潟が諸々にできていた1581年(天正9年)に、倉敷と早島(はやしま)の間に広がっていた干潟に潮止(しおどめ)のための堤防を築き、そこを埋め立てた。この堤防は「宇喜多堤」と呼ばれる。
 この時は、現在の倉敷市北部一帯500ヘクタール余りの土地が緑溢れる作物の実る農地になった。この時の水の便を整えるため、彼は湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水から水を引くつもりで調査していた。
 しかし、これが無理とわかったので断念し、その4年後、酒津(さかづ)(倉敷市酒津)からの用水を築く。これが倉敷東北部・早島一帯を潤す「八ヶ郷用水」の始まりである。
 時代は移って、江戸期からは、かなりの規模で埋立てや運河の建設が行われてきた。水門の設けられたのは、これらのうちの船穂町エリアの水江にある。

 江戸期に入ると、それかさらに南方に干拓が進んで、その範囲は現在の玉島エリアの全体まで及ぶようになっていく。ちなみに、その当時の玉島というのは、海に張り出したところというよりは、福島、七島、連島、乙島、柏島などの独立の島も含んでのことである。全体として、あたりは瀬戸内の風光明媚な島々に育まれた土地柄であると言える。

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 さて、岡山藩による興除新田(こうじょしんでん)とは、備前児島湾岸を目当てに幕府倉敷代官の絶大な援助の下、1823年(文政6年)に完成した。これの地名としては、開発途上の1822年(文政5年)、詩人でもあった岡山藩士小原大之助が、中国の思想家・管子の「興利除害」から興除の文字を提案したことに由来するという。同時に、当時藩政の責任者であった郡代が地域を3つに分けて、東村、中村、西村と方向性を示した。

 その開発経費の工面などについては、こうある。

 「ともかく、文政3年(1820)幕命によって倉敷代官の監督のもとで、岡山藩が請負って興除新田(児島郡、839町歩、5096石)を開発する運びとなった。ただし、実際に干拓工事を引きうけたのは児島郡の大庄屋5人で、人夫は同郡内の42か村へ割付けて着工した。
 幕府へ申達して開発経費は銀5322貫目(金8万8705両)であって、そのうち藩当局が4万7817両を負担し、残り4万両余は児島郡側で調達したようである。ちなみに最大の銀主は、のちに興除新田内尾(うちお)の大地主・名主となった城下町人の紙屋利兵衛(のち岩崎姓)であった。」(谷口、前掲論文)


 しかし、こうして出来た新田ながら、これへの水の供給を巡り問題が起きる。それというのも、高梁川上流の湛井十二ヵ郷用水の末を庄村から引く東用水路、それより下流の同じ高梁川岸の酒津から引水する八ヵ郷用水の定水川の流末を引く西用水路の2本が造られたものの、その先はどのようにしていけばよいのだろうか。

 それというのも、そもそもこの両用水路を造ることには、上流井組の村村から異議が倉敷代官に出されていたものの、結局、幕府の役人の立ち合い検分によりひとまず決着したのだが。参考までに、その用水工事費は合わせて銀約720貫目であった(谷口澄夫「岡山藩」、児玉幸多・北島正元編「物語・藩史6」人物往来社、1965)という。

 それが、いざ新田ができてみると、周辺に流入する河川水は開発期の古い、上流部村々の設けたせきによる引水によってほぼ使いつくされてしまうとか。つまり、すでに余裕がなく、高西用水路からの水はしばらくで不通となりかねない。
しかも、「このようにして、用水路はできたが、備中の他領にある既設の用水から、その余水や流末水をもらうのであるから、つねに水不足になやまされ、一つもつれたら血の雨が降るというきびしい慣行にしばられざるを得なかったのである」(谷川、前掲論文)とも言われる。

 それともう一つ、この新田への入植にあたっては、貧富の差によって大いに厳しい話になっていく。総括的には、例えば、こう言われる。

 「さて、文政6年に興除新田の検地が行われ、石盛は上田一石二斗・上畑一石、免は二ツ五分五年(地内)ないし十年(外通り)の鍬(くわ)下年季」がきめられた。
 新田の土地配分は、地代銀を取り立てて売りさばく方針をとったが、地代銀が高額なため、年賦払いにしたり、藩当局から手元銀・農具代・肥料代などの無利子年賦払いでの貸与、家屋の建造・修繕費の支給などの撫育政策をとって入百姓の定着をはかった。
 しかし、土地はおのずから地主・富商のもとに集中的に買得され、中・下層農民はほとんど小作民にならさるを得なかったようである。」(谷口澄夫「岡山藩」)

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 この期に入ってからの玉島地区の埋立のとっかかりは、松山の前藩主、池田長幸による、長尾内新田10町歩をもって嚆矢としてよいのではないか。その後の水谷氏になってからは、本格的な干拓が始まる。具体的には、1624年(寛永元年)から1624年から19年がかりにて、松山藩が「長尾内外新田」を手掛けたのが創始とされる。
 やがての1661年(寛文元年)の上竹新田(上竹は、現在の道口、富、七島地区)からは、隣の岡山藩も新田開発に乗り出す。また、1659年(万治2年)には、松山藩(当時の藩主は水谷勝隆)により、玉島新田が完成する。工事が始まったのは1655年(明暦2年)で、足かけ5年の工事で、乙島、上成、爪崎を結ぶ広大な海域が埋め立てられる。
 同じ1659年(万治2年)には、備中松山城主の水谷勝隆が、家臣の大森元直に対し、高梁川下流域(現在の玉島・船穂地区)に、水流の高低差を調整するのに水門を使った運河を開削するように命じた。その頃の高梁川は、そのやや上流で二本に別れていた。
 その一つ、西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、新見までを結ぶ高瀬舟の運行をより便利にしようとしたもので、完成した年代は、正確な記録がないものの、1664年(寛文4年)頃であろう。
 さらに1671年(寛文11年)には、これまた松山藩(当時の藩主は水谷勝宗)により阿賀崎新田が拓かれる。以下、勇崎押山新開と柏島森本新開(1670年)、柏島水主町新開などを干拓する。
 このほか岡山藩も、上竹新田(1661)に続き、七島新田(1670)、道越新田(1669)を手掛けていて、主として西岸からは高梁の松山藩水谷氏が、東からは岡山藩池田氏の両藩が競うように干拓を進めていたことになる。なお、これに応じて、埋め立て地における両藩の境界も設定されていく。なお、これらの位置関係については、たとえば、森脇正之著「玉島風土記」(岡山文庫169)を参照ありたい。

 顧みるに、両藩による、これら一連の埋立ての中でも、松山藩の阿賀崎新田は大規模で知られる。この工事にとりかかる1658年(万治元年)、松山藩主の水谷勝隆は神社を勧請し、阿賀崎新田の工事成功を祈願した。その社は、水谷勝宗、克美までの3代55年で完成したもので、拝殿瓦に「からす天狗」を鎮座させているのが、元はといえば山形県の羽黒神社に棲むという伝説上の生き物をあしらったものらしく、なんとも珍しい。ここに羽黒神社というのは、この工事の前は阿弥陀山、工事後は羽黒山と名前が変わっている。
 この埋立てのため、阿弥陀山と柏島との間に汐止めための堤防を築いて埋め立てた所(羽黒神社の西側)には、人々が集まり、「新町」を形成していった。問屋街として栄えていくのだが、それから350年余を経た現在は、県の町並み保存地区に指定され、倉敷美観地区につぐ町並み観光スポットなっている。潮止堤防の上に築かれたこの町は、かつてこの堤防上に回船問屋が立ち並んでいた。最盛期には、かれらの富の象徴である、切り妻造り、本瓦葺き、虫籠窓の商家や重厚な造りの土蔵が設けられていて、土蔵の数はざっと200以上に及んでいたというから、驚きだ。
 かくして、海に臨んだその町の南側には、北前船などの千石船が船着場に頻繁に入船、出船していて、ほど近い下津井港に負けず劣らずの賑わいを見せていたことだろう。その新町への行き方だが、新倉敷駅からバスで、爪崎南、爪崎西、八島、七島、文化センター入り口、玉島支所入口と南に下り、玉島中央町で降りる。
 次に運河について、俯瞰しておきたい。一の口水門は、高瀬川の下流部、小田川との合流点下にあった。このあたりは、倉敷市玉島長尾、爪崎を経て高瀬舟による河川水運と海運船による内陸水運の接点として栄えたところで、ここが運河の取水口となる。
 この一の口水門には、今でも堰板(せきいた)を巻き上げる木製のウインチが残っている。これにより、二つの水門の開閉によって水深を調節し船を通す仕組みであって、「閘門(こうもん)式」の運河と呼ばれる。ここで生じていた水位の差は、2~3メートル位ではなかったかとも言われている。この一の口水門と、その下流約300~350メートルの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を調整する仕組みが導入されたことになっている。
 かかる水路としては、船穂町の一の口水門から高梁川の流れを導き、長尾・爪崎を経て、玉島港に通じる。「高瀬通し」と呼ばれる区間(現在の倉敷市船穂~玉島間)約9~10キロメートルにかけてが、それに当たる。


 さて、この松山藩の阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。
 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」
 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。


(続く)

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新◻️107の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)

2021-04-09 14:24:40 | Weblog
107の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)

 さて、近世もかなり大詰めになっての江戸時代の後期まで、封建時代の生産関係の下で基本となる生産力のは発展は、およそ次のような推移をたどったようである。

 「1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。
 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。
 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)

 さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。
 この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。
 計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。
 この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。

(続く)

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