新◻️40『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴、1798)

2021-04-25 10:24:25 | Weblog
40『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴、1798)

 18世紀の後半の岡山は、どのようであったのだろうか。1783年(天明元年)の美作・津山町中で「うちこわし」が度々起こっている。豪商などへの民衆による襲撃があった。おりしも関東では、1783年6月25日(天明3年5月26日)に浅間山の噴火が鳴動して噴火を始め、8月3日(旧暦7月6日)には全山が崩れる惨事が起こっていた。同じ年の津山町内に、連続して「米一揆」があったことが伝わっている。

 続いて、1797年(寛政9年)まで、幕府は美作に残る幕府天領の搾取を強めた。その翌年の1798年(寛政10年)、美作の天領228か村の代表格に広戸村市場分庄屋である竹内弥兵衛がいて、彼を中心に各村々の実情がつぶさに解き明かされ、5月には、総代5人の庄屋を江戸表に派遣することに決めた。

 ここに美作の天領228か村の構成は、播州竜野脇坂氏の一時預り領としての勝南、英田、久米南条、久米北条四郡のうち77か村が一つのグループ。二つ目は、久世代官所所管の大庭、西々条郡二郡66か村のグループ。三つ目は、但馬生野代官所所管の勝北、西々条、吉野、東北条、西北条五郡のうち五五か村のグループ。四つ目は久美浜代官所所管の吉野郡35か村のグループであった。

 そのことの起こりを簡単にいうと、当時、幕府領の年貢の3分の1は、毎年収穫時の津山城下にての米価に換算して、銀で納めることになっていた。ところが、1797年(寛政9年)のおり、幕府勘定方の勝与三郎がこの地・津山にやってきていうのには、それまで津山相場を割り引いて課税していたのを、そのことなくして課税するのに改めると。

 折しも、当年の米相場は急騰したため、これではならんと農民たちは悲鳴をあげた。激震が走ったと見えて、かかる村村の庄屋たちは、倉敷(現在の美作市林野)の福島屋や高瀬屋に集まって、どうしたらいいかを話し合う。取り急ぎ、なんと江戸へ出て、元に戻してくれるよう直訴をしようということになったという。

 1798年6月18日(寛政10年5月5日)、大庄屋を務める代表5人が、江戸へ向けて旅立つ。その面々とは、岡伊八郎(池が原村、現在の津山市大崎)、竹内弥兵衛(広戸村、現在の津山市広戸)、福島甚三郎(目木村、げの真庭市久世町)、国広利右衛門(中山村、現在の美作市大原町)、小坂田善兵衛(海田村、現在の美作市美作町)にて、同月7月6日(旧暦5月23日)には、江戸に到着したという。

 次いでの7月18日(旧暦6月5日)には、幕府勘定方の勘定奉行柳生主膳正に嘆願書を提出したものの、所管役所の添書きがないとの理由で受取りを拒否されてしまう。
 そればかりか、その翌日には国広が奉行所へ囚われてしまい、残る4人は禁足のあと、7月24日(旧暦6月11日)には帰国を命じられ、箱根越えの通行切手を渡されたというのだが、とにかく、「とりつく島がない」ままに門前払いされてしまった。
 しかし、4人は、これで諦めなかった。帰途の途中から引き返して、密かに、直訴の機会を探った模様だ。

 かくて、このときの百姓の税減免の訴えは、紆余曲折の末というか、同年9月2日(旧暦7月22日)、老中松平伊豆守信明の籠を待ち受けての直訴に及んだ。ちなみに、ここにいう松平信明は、三河・吉田藩主で、奏者番、側用人を経て老中となり、定信とともに寛政の改革を進め、定信をして才知・才能のするどき人物と言わしめた。1803年(享和3年)に辞職するも、1806年(文化3年)に再任され老中首座となった。

 この直訴は幕府に認められ、咎(とが)めもなかったと記されている。これを「美作の寛政の国訴」と呼んでいる。

 1817年(文化14年)、幕府により津山藩の禄高が5万石から10万石に復した。この5万石加増の理由として、津山藩7代藩主松平斉孝に継嗣(けいし)がなく、この年、将軍家斉の子斉民を8代藩主として迎えた。1837年(天保8年)、但馬、丹後国中の一部と美作国、讃岐国との間で村替えをするよう幕府の命令が下された。1838年(天保9年)、この幕府の命令による領地村替えで小豆島のうち、西部6か郷(5千9百余石分)が津山藩領となったことがある。

(続く)

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