◻️160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、清水宗治)

2021-04-19 22:35:21 | Weblog
160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、清水宗治)

 いつの時代においても、格段に義理堅い人は、それなりにいるものと見える。清水宗治(しみずむねはる、1537~1582)は、戦国時代の武将だ。出自は未詳だという。字は長左衛門。初め備中清水城主であったのだという。

 それが、長谷川掃部を殺して同国高松城主となる。毛利氏の小早川隆景に属した。1577年(天正5 年) 年には、織田信長の命での羽柴秀吉の中国征伐が始り,同 10年岡山まで進攻した秀吉から織田方につくようすすめられる。だが、応じなかった。
 秀吉としては、この城を攻めとる以外になくなる。やがての戦法としては、付近の湿地を考えての水攻めとあるが、これは参謀格の黒田勘兵衛の入れ知恵といわれる破天荒の策であり、戦略家の宗治も「まさか」の思いではなかったか。

 同年、本能寺の変の報に接した秀吉が毛利氏と親しい安国寺恵瓊(あんこくじえけい)をつかわし、宗治の自害を条件に毛利氏との講和を進める。

 それを受け入れ、兄の月清入道とともに自殺する。死して、信義誠実と、部下それに領民を守っての決断であったのだろう。

(続く)

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♦️222の3『自然と人間の歴史・世界篇』微分、積分の発見(ニュートンとライプニッツ)

2021-04-19 21:08:45 | Weblog
222の3『自然と人間の歴史・世界篇』微分、積分の発見(ニュートンとライプニッツ)

 ニュートン(1642~1727)とライプニッツ(1646~1716)は、微分、積分をほぼ同時期に発見したことで広く知られる。

 ニュートンは、イギリスの王立学会員にして、物理学者でありながら、行政にも携わる。もう一方のライプニッツは、ドイツの哲学者、数学者、物理学者であって、多才なことで知られる。

 ちなみに、現在使われている微分・積分(びぶんせきぶん)の記号(微分のd、積分の∫(「インテグラル」と呼ぶ))はライプニッツのものである。

 ライプニッツは、どちらが先かで争った同じ天才ニュートンが、力学的な見地から必要迫られ微分と積分を考案したのに対し、幾何学的興味から微分積分法を開発したといわれている。 

 そこで、微分のあらましから紹介しよう。一般的に、ある関数 f(x) に対して、以下の式で表される導関数 f′(x)[呼び名は「エフダッシュエックス」]を求めることを、「関数 f(x)を微分する」という。

 その原理としては、いまf(x)という関数があって、それに従うことでの点xとそれからhだけ正方向へ移動した(x+h)との間につき、hをゼロに近づけていくと、次のようになるという。

f′(x)=limh→0[f(x+h)−f(x)]/h

 こうなることを理解するには、図形としてみるのが便利だろう。そこでは、x が a から b まで変化するときの関数 y = f(x) の平均変化率は、2点A( a,f(a) ),B( b,f(b)) を通る直線の傾き を表す、としている。

 この平均変化率において,b を限りなく a に近づけた値を「微分係数」と名付ける。
 これまた図形でいうと、2点A( a,f(a)),B(b,f(b)) を通る直線は、点Bを点Aに限りなく近づけてみよう。その時、点A( a,f(a)) における接線に近づく。
 すると、かかる値としての微分係数は、関数 y = f(x) のグラフ上の点A( a,f(a)) における接線の傾きを表している。

 ここで、かかる「b を限りなくaに近づける」とは,「b-a=h とおくと、h→0 」であるから、微分係数を表す式としては、前述の
f′(x)=limh→0[f(x+h)−f(x)]/hとなっていることが、おわかりいただけるだろう。

 同じく、前述の微分の定義式でいうと、この式の分母はx の微小変化量、分子は y の微小変化量を表している。hを0に近づけていくと、この微小変化量がどんどん小さくなっていく。

 x の微小変化量と y の微小変化量が限りなく小さくなった時、x の微小変化量をhではなくdx、 y の微小変化量を f(x+h)−f(x) ではなく dy と書き表すことにする。d は「極めて微小な差」を意味している。すると、かかる微分の定義式は、

a=dy/dx

と表せる。ライプニッツ記法と併せると、

f′(x)=dy/dx

となる。この dy/dx という表し方をラグランジュ記法という。

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 一方、積分については、微分の前に発見されていて、その訳としては、一説には、長さ・面積・時間といった古代から使われている外延量が歴史上先であり、温度とか速度といった内包量は複雑なため、微分はその後になったのではないかと考えられている。


 「それについておもしろい話がある。ライプニッツは、はじめ、
∫f(x)
記号を使っていた。それは積分をたんなる和と考えていたことを意味する。
 しかし、あとで考えなおして、dxを加えて、今日のような
∫f(x)dx
という記号にきりかえた。それは、彼が、積を、和ではなく、内積(ないせき)の極限だと考えるようになったことを意味している。つまり、内積は積分の原型なのである。」(「遠山啓著作集」の「5量とはなにか」太郎次郎社、1978)

 このようにして「内積」の極限を考えての積分は、例えば「区分求積法」といって、「与えられた図形の面積や体積を、微小な基本的な図形の面積や体積の和の極限値として求める」(道脇義正・他著「工科のための微積分入門」東京図書、
1978)のに用いられる。


(続く)

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♦️362の13『自然と人間の歴史・世界篇』電子の振舞い(パウリ原理と不確定原理)

2021-04-19 10:42:30 | Weblog
362の13『自然と人間の歴史・世界篇』電子の振舞い(パウリ原理と不確定原理)

 パウリ原理というのは、ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(1900~1958)というオーストリア生まれのスイスの物理・化学者が発見した、現代化学の基礎となっているパウリの排他律とともに有名だ。

 その中では、原子内の電子がその占める位置に関してどのように振る舞うかを述べる。
 まずは、電子の位置を指定する4つの量子数というものがあり、具体的に、いうと、主量子数N、方位量子数L、磁気方位量子数ML、スピン量子数Sとあって、いわば これは電子の住所みたいなものだという。
 なにしろ、極微の世界のことなので、人間の目には見えないところでの物理法則の一つとしてある。
 この原理に従うと、一つの原子の中で、ある特定の住所をもつ電子は一つしかないという。言い換えると、2つ以上の電子が同時に同じ量子数(N、L、ML、S)の組み合わせを持てないということになっている。

 それはなぜかというと、次のように説明される。

 「具体的に言えば、同じ運動量と同じスピンのz成分を持つ電子は一個しか存在できないのだ。このパウリ原理が働くために、原子が安定に存在できることが証明できる。
 原子内では、電子は決まったエネルギーの大きさ(エネルギー準位という)で軌道が決まっているが、その軌道に入ることができる電子の数はパウリ原理のために決まっている、そして、下の準位から順々に電子が詰め込まれ、決まった数になるともうそこには電子が入ることができないから、上の準位に入るしかない。つまり、下の準位がいっぱいになると、電子はもはやそこへ遷移できなくなるのだ。」(池内了「物理学の原理と法則 科学の基礎から「自然の論理」へ」講談社文庫、2021)

 そこでもし、パウリ原理が働かなければどうなるだろうか。その場合は、電子はエネルギーを放出することで、いくらても中へ中へとたまっていく。そうなると、それぞれの原子はいつまでたっても安定てきないことになっていくだろうと。

 これとの関連があるのこどうか、興味深いのは、いわゆる不確定原理からも、電子の振る舞いが、例えば次のように、説明されていることだ。


 「原子は、原子核というプラスの電荷と電子というマイナスの電荷を持った粒子で構成されている、これらの間に働く力はクーロン力て、プラスとマイナスの電荷を持つものの間に働く力は引力(引きつける力)だから、そのみでは電子は原子核に落ち込んで、原子は崩壊してしまうはずである。しかし、電子は落ち込まず、原子は安定に存在している。なぜだろうか。
 これは不確定原理で説明できる。1億分の1センチに広がった電子が10兆分の1センチの小さな原子核まで落ち込もうとすれば、位置の不確かさ×運動量の不確かさ=プランク定数という不確定原理によって大きな運動量を持たざるを得ない。
 大きな運動量を持つとは、激しく行き交う速さを持つということである(運動量は質量と速度の積であることを思い出そう)。つまり、電子が原子核に落ち込み原点に近づいて位置の不確定度が小さくなると、反対に運動量の不確定度が大きくなってさっさと通り過ぎてしまうのでえる。このため原子は潰れる暇かなく、安定性を保っているといえる。そのエネルギーはゼロ点エネルギーなのである。不確定原理があればこそ原子は安定に存在でき、私たちは生きていけるとも言えるのだ。」(前掲書)


(続く)

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♦️964『自然と人間の歴史・世界篇』核の削減か近代化か(核兵器の現状)

2021-04-19 09:45:43 | Weblog
964『自然と人間の歴史・世界篇』核の削減か近代化か(核兵器の現状)


 2021年4月10日付けの新聞各紙において、アメリカのオバマ政権以来の、かれらの内部でのと核兵器をどうするかの議論の一端が伝えられた。
 それによると、以来、アメリカでは、核兵器の近代化計画を見直す動きにあるという。

 そこで、まず、最近の世界の核兵器がどうなっているかを、概観してみよう、かなりの信用度を持つであろう、資料を紹介したい。

  
(資料1)
国名、配備核弾頭、その他核弾、核兵器数(2020年1月時点)

米国は1,750、4,050、5,800、6,185。ロシアは、1,570、4,805、6,375、6,500。英国は、120、95、215、200。フランスは、280、10、290、300。中国は、–、320、320、290。インドは、–、150、150、130~140。パキスタンは、–、160、160、150~160。イスラエルは、–、90、90、80~90。北朝鮮は、–、[30~40]、[30~40]、[20~30]。
 以上の合計としては、3,720、9,680、13,400、13,865。

注釈:「-」は0(ゼロ)をいう。[○~○]は不明確のため,合計数には含まれていない。
出典:「SIPRI YEARBOOK 2020」



(資料2)

 その中でも、他の国々に比べて断トツの規模で核兵器を保有しているのは、アメリカ、ロシア、それに中国ということになるだろう。

○核弾頭数は、アメリカが5800発、ロシアが6370発、中国が320発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(ICBM(大陸間弾道))は、アメリカが400発、ロシアが340発、中国が88発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(SCBM(潜水艦発射弾頭))は、アメリカが280発、ロシアが160発、中国が48発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(MRBM(準中距離弾頭))は、アメリカがー発、ロシアがー、中国が216発。

○核弾頭ミサイル搭載原潜数は、アメリカが14隻、ロシアが10隻、中国が4隻。

○核弾頭ミサイル航空機数は、アメリカが66機、ロシアが76機、中国が104機。

引用は、2021年4月10日付け朝日新聞より引用。原典は、「2020年6月現在。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)による。退役・解体待ちを含む」とされる。

🔺🔺🔺

 ここに核兵器とあるのは、原理的に原爆と水爆とに分かたれよう。前者は核分裂反応、後者は核融合反応を利用するとのであり。いずれも、人や、人がつくったものを殺戮ないしは破壊する目的で、兵器として関係国により開発されてきた。

 これらのうち、水爆というのは、その名前の通り、水素の中でも重水素と呼ばれる重陽子(陽子と中性子が結合した原子核)同士、もしくは重陽子とトリチウム(陽子に中性子2個が合わさっての原子核)の反応を通じ、あたかも太陽の中で行われているところの核融合反応を念頭においたものと言えよう。

 その意味では、軽い原子核が融合・合体し、ヘリウムに変わる、そのとき大変なエネルギーが解放されるという、いわば自然界の究極の原理を大量殺戮兵器に転用するものであり、「人類知も、ついにここまで来たか」の感を免れまい。

 この反応を、一度核兵器として使うとなれば、どんなことになっていくのだろうか。その結末を予言できる人や国家、組織などは、はたして存在しうるのだろうかと、今さらながらに恐怖を覚えざるを得ない。


 ただし、これの平和利用の研究も行われているという。とはいうものの、また確立された安全な技術とはなっていないようだ。なにしろ、摂氏1000万度からの高温状態を実現するのみならずその状態を維持しなければならない。そのためには、高温の粒子を閉じ込めておく必要があるからだ。

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(続く)

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♦️363の6『自然と人間の歴史・世界篇』光の波動説(18世紀)

2021-04-19 06:51:02 | Weblog
363の6『自然と人間の歴史・世界篇』光の波動説(18世紀)

 18世紀になると、光の波動説が再び話題になってくる。そうはいっても、200年位の間、粒子説を唱えたニュートンの流れがあり、光の粒子説が優勢であったという。
 思い起こせば、アイザック・ニュートンは「光の屈折は、このエーテル媒質が場所によって密度を異にし、光は常にこの媒質のより密な部分から遠ざかることから起こるのではないか」「エーテル分子は空気や光の粒子よりもはるかに小さく、弾性的なものであろう」(1704年の「光学」、島尾水康訳による岩波文庫)と推論していた。


 そんな時に、この論争に加わってきたのが、ヤングである。彼は、もとは医者であった。音の現象に興味をもち、音波と光との類似から出発して光は波であろうと考えた。当時、19世紀末は、光は波であるという解釈が多かった。


 1802年には、いわゆる「ヤングの干渉実験」を行なった結果を発表する。そこで実験の仕組みだが、レーザー装置と二重スリットを設置し、前者は位相の違った光の束を発することができる。

 まずは、細い1番目のスリット(ついたての穴)S、その次にはS1、S2(同)を持つ、ついたての板を平行に置く。さらにその後方に、スクリーンを置く(なお、かかる装置の図解としては、例えば、二宮正夫「宇宙の誕生」岩波ジュニア新書、1996)。


 そうしておいて、Sの手前の光源から平行な細い光線を入れてみた。しかして、これが単色光ならば明暗の平行な干渉縞を生じ、白色光ならば干渉縞の明線の部分は色付いて見えるだろうと。
 そうすると、スクリーンの上には、中心線の両側に明暗の縞模様が現れた。ところが、2番目のスリット2つのうちいずれか一方を塞いだところ、スクリーン上の縞模様は消えて、代わりというか、スクリーン全体がぼんやりと暗くなるのであった。


 こうなると、光が粒子ということでは、説明できない。かたや、この干渉現象は、光を波と考えると考えた方がうまく説明できるのではないか、とヤングは考えた。
 なぜなら、干渉を起こすという性質は、波動に特有なものだからというのが、キー・ポイントとなるだろう。もう少しいうと、2番目のスリットの光が、スクリーン上のある点に到着した時、波が山であったとしましよう。

 次には、スリットB(下側、上側はA)を通った光が、これと同じ点に到着した時、光の山となっていたとしよう。そうなると、波の山の高さが2倍になると。他方、その逆にというか、かたやその一つが波の山、もう一つが谷ということなら、スリットAとBを通った光の波はスクリーン上で互いに打ち消し合うため、その像は暗くなってしまうだろうと。


 こうして二つの孔を持つスクリーンに光を当てると、その後ろに干渉縞(かんしょうじま)が生じることがわかると、今度は光が回折、すなわち波動が障害物の後ろに回り込む現象の起こるかどうかの研究が進められ、1816年のフレネルの実験でそのことが知られるようになった。



(続く)


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