211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、米井源治郎)
米井源次郎(よねいげんじろう、1861~1919)は、現在の津山市下高倉の生まれ。
やがて、地元の政治家にして文化人でもある、仁木永祐の籾山校に学ぶ。その後、津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業する。
津山藩出身の磯野計が創業した磯野商店(主に食品を扱う)の番頭として仕事を行う。そのうちに、三菱銀行の岩崎久彌に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイなどの経営にも携わる。それとと共に明治屋(旧磯野商店)の二代目社長をも務めていく。
1897年(明治30年)には、機械・金属・雑貨の輸出入を手掛ける米井商店(現在の株式会社ヨネイ)を、磯野計と創業して社長に就任する。日露戦争当時には、イギリス産の無煙炭を海軍に納入していた模様だ。
1900年(明治33年)には、合資会社明治護謨製造所(現在の明治ゴム化成)の創業に参加、社長に就任する。
1903年(明治36年)には、明治屋の2代目社長に就任する。1907年(明治40年)には、「機を見るに敏」とでも形容しようか、明治屋が一手販売権をもつ「麒麟ビール」の製造会社ジャパン・ブルワリー社を、岩崎久彌の協力を得て買収する。その上で、麒麟麦酒株式会社(現在のキリンホールディングス)の設立に参加して、初代の専務取締役になるという目まぐるしさであって、驚くほかはない。
そういうこともあって、本人には過度の負担がかかって、いわば、ほとんど休みなくして人生航路をひた走ってきたのではないだろうか。50代での急逝ということがなければ、本人の激動人生を振り返り、何かしらまとめる時間があったのではないかと、日本の産業史に一石も二石も投じてもらいたかった気がして、惜しい。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
米井源次郎(よねいげんじろう、1861~1919)は、現在の津山市下高倉の生まれ。
やがて、地元の政治家にして文化人でもある、仁木永祐の籾山校に学ぶ。その後、津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業する。
津山藩出身の磯野計が創業した磯野商店(主に食品を扱う)の番頭として仕事を行う。そのうちに、三菱銀行の岩崎久彌に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイなどの経営にも携わる。それとと共に明治屋(旧磯野商店)の二代目社長をも務めていく。
1897年(明治30年)には、機械・金属・雑貨の輸出入を手掛ける米井商店(現在の株式会社ヨネイ)を、磯野計と創業して社長に就任する。日露戦争当時には、イギリス産の無煙炭を海軍に納入していた模様だ。
1900年(明治33年)には、合資会社明治護謨製造所(現在の明治ゴム化成)の創業に参加、社長に就任する。
1903年(明治36年)には、明治屋の2代目社長に就任する。1907年(明治40年)には、「機を見るに敏」とでも形容しようか、明治屋が一手販売権をもつ「麒麟ビール」の製造会社ジャパン・ブルワリー社を、岩崎久彌の協力を得て買収する。その上で、麒麟麦酒株式会社(現在のキリンホールディングス)の設立に参加して、初代の専務取締役になるという目まぐるしさであって、驚くほかはない。
そういうこともあって、本人には過度の負担がかかって、いわば、ほとんど休みなくして人生航路をひた走ってきたのではないだろうか。50代での急逝ということがなければ、本人の激動人生を振り返り、何かしらまとめる時間があったのではないかと、日本の産業史に一石も二石も投じてもらいたかった気がして、惜しい。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆