◻️211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、米井源治郎) 

2021-04-30 21:08:40 | Weblog
211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、米井源治郎) 


 米井源次郎(よねいげんじろう、1861~1919)は、現在の津山市下高倉の生まれ。
 やがて、地元の政治家にして文化人でもある、仁木永祐の籾山校に学ぶ。その後、津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業する。


 津山藩出身の磯野計が創業した磯野商店(主に食品を扱う)の番頭として仕事を行う。そのうちに、三菱銀行の岩崎久彌に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイなどの経営にも携わる。それとと共に明治屋(旧磯野商店)の二代目社長をも務めていく。


 1897年(明治30年)には、機械・金属・雑貨の輸出入を手掛ける米井商店(現在の株式会社ヨネイ)を、磯野計と創業して社長に就任する。日露戦争当時には、イギリス産の無煙炭を海軍に納入していた模様だ。


 1900年(明治33年)には、合資会社明治護謨製造所(現在の明治ゴム化成)の創業に参加、社長に就任する。


 1903年(明治36年)には、明治屋の2代目社長に就任する。1907年(明治40年)には、「機を見るに敏」とでも形容しようか、明治屋が一手販売権をもつ「麒麟ビール」の製造会社ジャパン・ブルワリー社を、岩崎久彌の協力を得て買収する。その上で、麒麟麦酒株式会社(現在のキリンホールディングス)の設立に参加して、初代の専務取締役になるという目まぐるしさであって、驚くほかはない。
 
 そういうこともあって、本人には過度の負担がかかって、いわば、ほとんど休みなくして人生航路をひた走ってきたのではないだろうか。50代での急逝ということがなければ、本人の激動人生を振り返り、何かしらまとめる時間があったのではないかと、日本の産業史に一石も二石も投じてもらいたかった気がして、惜しい。


(続く)

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◻️211の38『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森下精一)

2021-04-30 20:43:32 | Weblog
211の38『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森下精一)

 森下精一(もりしたせいいち、1904年~1978)は、和気郡日生村(現在の備前市日生町)の生まれ。父親は雑貨販売と漁網の製造を営む。
 高等小学校を卒業すると、家業を手伝い、関西や九州でも漁網の売込みを行う。
 1929年(昭和4年)に、父親のあとを継ぐ。東洋麻糸紡績の漁網用ラミーの特約販売を担う。

 西日本から朝鮮半島にまで販路を拡大し、漁網用ラミーではシェア80%を占める。戦時中には、大砲や戦車を覆う擬装網なども手掛ける。

 戦後になっては、生産拡大を目指して動力編網機を導入する。1947年(昭和22年)には、有限会社森下製網所を設立する。1948年(昭和23年)からは、東洋レーヨンが開発した新合成繊維のナイロンの製造を担う。 

 1956年(昭和31年)には、株式会社に変更。1957年(昭和32年)には、ラミネート製輸送袋などを製造する森下化学工業を設立する。他にも、20社位の企業を設立する。レジャー用品、ゴルフ練習場、フェリー運航、ガソリンスタンドなど、経営の多角化を行う。

 そんな仕事一筋の人かと思いきや、彼の名前による美術館が、故郷に建つ。1975年3月に開館する。

 古代中南米専門美術館ということで、中南米に商用で出掛けたおり、せっせと買い集めたものを収蔵しているとのこと。
 中でも、インカ・マヤなど、古代南アメリカ大陸で作られた土器、土偶、石彫、織物が観れるということで、有名だ。

 その魅力としては、折に触れて収集したものが基(もとい)となる。中南米11カ国約1600点におよぶコレクションは学術上、美術史上、大変貴重な物ばかりだというから、驚きだ。
 その建物としても、外壁にはなんと1万数千枚もの備前焼の陶板をあしらっていて、なんとも興味深い。


(続く)

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◻️23の4『岡山の今昔』女性視点からの岡山の戦国時代(金山城、三星城の悲劇)

2021-04-30 10:05:49 | Weblog
23の4『岡山の今昔』女性視点からの岡山の戦国時代(金山城、三星城の悲劇)

 そもそも、宇喜多直家が登場以前は松田氏が金川城を拠点に西備前に揺るぎない勢力を誇り、東備前の浦上氏に対抗していた。その松田氏を重臣として支えていたのが宇垣氏であったのだから。
 その前からも、松田氏の領国経営は、当主元輝の強引な宗教政策によって人心は離れてきていて。これにつけこんだのが直家であって、「備前軍記」には、こうある。

 「金川城中にも日蓮宗の道場を建立しければ、家中の兵士も領内の百姓も左近将監をうとみ退去するもの多し。直家是を幸の時なりとはかり討たんと思へども、老臣に横井土佐・橋本某・宇垣市郎兵衛・其弟与右衛門などいふよきものありて、家をとり治めける故亡しがたし。この横井土佐は医術をよくして此薬をのめば病も則平癒するやうにいひふらしける。其上正直仁愛の生れつきにて、敵といへども薬をあたへ療治しける。又宇垣兄弟も謀などよくせしものなりし。
 直家ある時沼より金川に到りて鹿狩を所望して城主と共に狩をしける。其時鹿をうつとて誤りて宇垣与右衛門を討殺す。誰うちしともしれず。実は直家の臣に搏(う)たせし事なりとぞ。」(「備前軍記」巻第三「宇喜多松田を討ち金川落城の事」)

 つまるところ、主君の松田元輝からすれぼ、嫡男の義父である宇喜多直家に誘われて鹿狩りを行ったが、この時、あってはならない、宇垣与右衛門が誤射され死亡したことから、相当に悩んだのではないだろうか。


 以下は、一部繰り返しになるが、松田元陸(まつだもとみち)の代の時には、第12代の室町幕府将軍・足利義晴より侍所所司代に命じられる。 
 1531年、足利義晴の命により天王寺の戦いに参陣するも、赤松政祐の裏切りを受けて、浦上村宗、細川高国と共に討死する。 松田元輝の代の1562年には、子の松田元賢に直家の娘と婚姻させ、姻戚関係を結ぶ。南と東の方から、宇喜多直家の力が強大になってきたのに、脅威を感じていたのであろうか。
 月山富田城の尼子晴久に味方するも、明禅寺の戦いにて、宇喜多家に援軍を出さず、関係が悪化していく。
 また、領内の寺には、前述のように、領民に日蓮宗への改宗を強要したり、これに従わない吉備津彦神社を焼き払うなど、寛容さに欠けていたのではないかと。さらに、前述の宇垣兄弟への仕打ちがあった。
 そして迎えた永禄11年(1568年)、宇喜多直家は松田家の重臣である虎倉城主の伊賀久隆を内応させ、頃合いをみて金川城を包囲させ、軍勢も派遣する。松田元輝は伊賀久隆の鉄砲隊によって討死する。子の松田元賢は、金川城の落城から、弟・松田元脩と共に、夜闇に紛れ城を脱出するのだが。


 そして、西の山伝いに下田村まで落ち延びたところを、伊賀勢の伏兵によって発見され、奮戦して後討死する。そればかりか、この知らせを聞いた正室である宇喜多直家の娘も、自殺したという。

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(続く)


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