166『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、津田永忠、田坂与七郎、近藤七助、河内屋治兵衛)
津田永忠(つだながただ、1640~1707)は、岡山藩の池田光政、綱政の二代に仕えた。そもそもは、光政の児小姓として出仕した。その禄は、三十俵四人扶持であったという。その後、側小姓となり、精励しているうち、藩主に信望を得た。
それから横目役、大横目役、藩校手習所和意谷及び諸記録の総括、さらに郡代職へと昇進していくのだが、世にいう能吏にとどまらず、大局的かつ未来志向の見地から、数々の公共事業を指揮監督したや、藩主の命で財政再建を進めたことなどで、広く知られる。命じるのは藩主であっても、その事業がどんな風に取り組まれるかによってかなりの幅が出てくるものだ。
まずは、彼が中心となって手掛けた公共事業を、ざっとならべると、和意谷墓所、藩校(経営を含む)、手習所、閑谷学校、井田(せいでん)経営、倉田新田、幸島(こうじま)新田、沖新田、後楽園、吉備津彦神社、牛窓波止(うしまどはと)、大多府湊(おおたぶみなと)、倉安川、田原井堰の開削、同用水、備前大用水(びぜんおおようすい)など、多彩だ。
そんな中から、いくつか紹介してみよう。1654年(寛文4年)には、師匠の熊沢蕃山が旭川の洪水を防ぐ目的にて、新しい川をつくることを考案する。蕃山も藩主に重用されていたから、話はとんとんうまくいったのであろうか、1669年(寛文9年)に掘割が行われる。現在の百間川(ひゃっけんがわ)にほかならない。そこからが彼の発案にて、この百間川により排水が可能になったのに目をつけ、河口に広がる沖新田という干潟(ひがた)になっている地帯の干拓を提案するのであった。これの指揮を任せられると、鋭意取り組む。
その工事がハイスピードで進むことになるのは、飢饉に備える、もしくは飢饉をなくするため必要であったらしいのだが。ともかくも、関係者を叱咤激励して、まずは約12キロメートルの堤防をわずか約6カ月後に完成にこぎつける。それからも急いで、約1900ヘクタールの新田開発が成る。そして、彼が手掛けた新田開発には、このほかに、倉田新田(約360ヘクタール)、幸島新田(約600ヘクタール)なども手掛けたというのだから、驚きだ。
そればかりではない、ざっと見渡して変わったところでは、藩主の輝政が命じた池田家墓所や閑谷(しずたに)学校(当時の名は「閑谷学問所」)の建設(1665)を指揮した。何しろ、孔子が生きていたら喜びそうな案配にしなければならないということであって、ずいぶんと苦労したようだ。大がかりな工事で、石段なんかは極めて隙間なくつくられ、構内の建物の配置にも威風堂々さが現代に伝わる。
ほかに、藩主などがくつろぐための後楽園の造園も、命じられて取り組む。こちらは、ほとんど庶民とはかかわりのないものであったのではないか。岡山藩においても、武士は、やっぱり庶民の上に「胡座」(あぐら)をかいていたのであるからして。ともあれ、やることなすこと完璧な仕事ぶりには、藩主をして「彼者は使ひ様悪敷(ようあしく)ば、国の禍(わざわい)をなすべし、才は国中に並ぶ者なし」(「吉備群書集成」)と言わしめた。
それから、井田(せいでん)や社倉米(しゃそうまい)の制度を開発するなどの、民衆の生活に直結した事業も手掛けたという。社倉米は、永忠が光政に願い出て実現した人民救済の制度で、貧しい農民が借金していた高利の利息の一部を藩が低利で貸し付けて負担軽減するというものであった。また、彼が手掛けた工事に用水に関係するものとしては、田原井堰や倉安川などの開削が圧巻であろう。
付け加えるに、永忠自身の体力、気力も強靭というか、充実していたらしい。なにしろ41歳のとき、命を承り岡山と京都の間を4日で往復し、滞りなく職責を果たしたという逸話があるほどなのだ。
とはいえ、いかに天賦の才、実直にして努力の人といっても、これらの実績のどれほどが彼自身の発案なり、指揮監督で行われたかは、今日ではあまり語り継がれていないような気がするのだが。とりわけ、彼の下には事務方をはじめ、石工集団などの技術者まで幅広く人々が集まっていた筈であり、それらの状況がどんなであったかを紐解く、新たな史料の発掘が待たれる。
それから、財政改革の取り組みだが、光政の治世の末期ぐらいから二代目の綱政が家督を継いだ頃には、岡山藩は、主としてあれやこれやの出費増加により財政難に見舞われていた。このため、綱政は津田永忠、服部図書たちを登用し、藩の財政再建に取りかからせる。その頃の津田の暮らしぶりについては、例えば、こうある。
「木谷村閑谷の日々。延宝三年六月の郡肝煎の設置、同四年十月の小仕置の新設、同五年十月の仕置家老の差し替えなど、綱政による藩政の機構改革は着々と進められたが、永忠は依然として木谷村閑谷にあり、閑谷学問所・和意谷墓所、井田・社倉米の経営に当たっていた。この時期は、永忠の家庭にとってまことに多事多難な時期であった。(中略)
自分勝手作廻積目録と自分勝手簡略積。この悲喜こもごもの生活を送っていた木谷村閑谷の永忠は、延宝四年のある日、綱政に呼び出され、岡山藩の財政再建、藩士の借財整理に関する意見をもとめられた。」(柴田一「津田永忠」、谷口澄夫「岡山藩」)
その折の彼は、慢性的な赤字体質に陥っていた藩財政の再建、藩士の借財整理に関わる見積り書「自分勝手作廻積目録」と「自分勝手簡略積」を提出する。あくまでも、冗費の節減と厳しい支出の削減を基本とするものあったものの、農民や弱い立場にある側には、それなりの配慮をしていたらしい。
綱政はまた、財政再建のために、農村再建による新田開発が必要だと考えていたのかもしれない。この頃、大洪水などの天災が発生していたため、これを防ぐことを永忠に命じたという。児島湾に大がかりな干拓を行なって、また、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事を行なうことで、農業生産の実があがり、藩財政の再建にも役立ったという。
こうした津田の指揮した新田開発においては、普請奉行の田坂与七郎(1647~1710)や近藤七助(1655~1731)ら、それに大坂から津田が呼び寄せたといわれる石工・河内屋治兵衛(?~?)の職人などが、永忠の補佐役となって、連日たち働いた。前の二人は、それそれ津田の「片腕」ともいわれる、下級武士出身なから、藩にとってなくてはならぬ土木関係の専門家として名前を成した。また、河内屋は、津田にとっても、藩にとっても、それ以上にはないかのような縁(えにし)てむですぱれていたかのような、50年にもわたる岡山藩との仕事上の関係てあったという。
(続く)
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