◻️166『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、津田永忠、田坂与七郎、近藤七助、河内屋治兵衛)

2021-04-15 22:25:09 | Weblog
166『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、津田永忠、田坂与七郎、近藤七助、河内屋治兵衛)

 津田永忠(つだながただ、1640~1707)は、岡山藩の池田光政、綱政の二代に仕えた。そもそもは、光政の児小姓として出仕した。その禄は、三十俵四人扶持であったという。その後、側小姓となり、精励しているうち、藩主に信望を得た。
 それから横目役、大横目役、藩校手習所和意谷及び諸記録の総括、さらに郡代職へと昇進していくのだが、世にいう能吏にとどまらず、大局的かつ未来志向の見地から、数々の公共事業を指揮監督したや、藩主の命で財政再建を進めたことなどで、広く知られる。命じるのは藩主であっても、その事業がどんな風に取り組まれるかによってかなりの幅が出てくるものだ。
 まずは、彼が中心となって手掛けた公共事業を、ざっとならべると、和意谷墓所、藩校(経営を含む)、手習所、閑谷学校、井田(せいでん)経営、倉田新田、幸島(こうじま)新田、沖新田、後楽園、吉備津彦神社、牛窓波止(うしまどはと)、大多府湊(おおたぶみなと)、倉安川、田原井堰の開削、同用水、備前大用水(びぜんおおようすい)など、多彩だ。
 そんな中から、いくつか紹介してみよう。1654年(寛文4年)には、師匠の熊沢蕃山が旭川の洪水を防ぐ目的にて、新しい川をつくることを考案する。蕃山も藩主に重用されていたから、話はとんとんうまくいったのであろうか、1669年(寛文9年)に掘割が行われる。現在の百間川(ひゃっけんがわ)にほかならない。そこからが彼の発案にて、この百間川により排水が可能になったのに目をつけ、河口に広がる沖新田という干潟(ひがた)になっている地帯の干拓を提案するのであった。これの指揮を任せられると、鋭意取り組む。
 その工事がハイスピードで進むことになるのは、飢饉に備える、もしくは飢饉をなくするため必要であったらしいのだが。ともかくも、関係者を叱咤激励して、まずは約12キロメートルの堤防をわずか約6カ月後に完成にこぎつける。それからも急いで、約1900ヘクタールの新田開発が成る。そして、彼が手掛けた新田開発には、このほかに、倉田新田(約360ヘクタール)、幸島新田(約600ヘクタール)なども手掛けたというのだから、驚きだ。
 そればかりではない、ざっと見渡して変わったところでは、藩主の輝政が命じた池田家墓所や閑谷(しずたに)学校(当時の名は「閑谷学問所」)の建設(1665)を指揮した。何しろ、孔子が生きていたら喜びそうな案配にしなければならないということであって、ずいぶんと苦労したようだ。大がかりな工事で、石段なんかは極めて隙間なくつくられ、構内の建物の配置にも威風堂々さが現代に伝わる。
 ほかに、藩主などがくつろぐための後楽園の造園も、命じられて取り組む。こちらは、ほとんど庶民とはかかわりのないものであったのではないか。岡山藩においても、武士は、やっぱり庶民の上に「胡座」(あぐら)をかいていたのであるからして。ともあれ、やることなすこと完璧な仕事ぶりには、藩主をして「彼者は使ひ様悪敷(ようあしく)ば、国の禍(わざわい)をなすべし、才は国中に並ぶ者なし」(「吉備群書集成」)と言わしめた。
 それから、井田(せいでん)や社倉米(しゃそうまい)の制度を開発するなどの、民衆の生活に直結した事業も手掛けたという。社倉米は、永忠が光政に願い出て実現した人民救済の制度で、貧しい農民が借金していた高利の利息の一部を藩が低利で貸し付けて負担軽減するというものであった。また、彼が手掛けた工事に用水に関係するものとしては、田原井堰や倉安川などの開削が圧巻であろう。
 付け加えるに、永忠自身の体力、気力も強靭というか、充実していたらしい。なにしろ41歳のとき、命を承り岡山と京都の間を4日で往復し、滞りなく職責を果たしたという逸話があるほどなのだ。
 とはいえ、いかに天賦の才、実直にして努力の人といっても、これらの実績のどれほどが彼自身の発案なり、指揮監督で行われたかは、今日ではあまり語り継がれていないような気がするのだが。とりわけ、彼の下には事務方をはじめ、石工集団などの技術者まで幅広く人々が集まっていた筈であり、それらの状況がどんなであったかを紐解く、新たな史料の発掘が待たれる。
 それから、財政改革の取り組みだが、光政の治世の末期ぐらいから二代目の綱政が家督を継いだ頃には、岡山藩は、主としてあれやこれやの出費増加により財政難に見舞われていた。このため、綱政は津田永忠、服部図書たちを登用し、藩の財政再建に取りかからせる。その頃の津田の暮らしぶりについては、例えば、こうある。
 「木谷村閑谷の日々。延宝三年六月の郡肝煎の設置、同四年十月の小仕置の新設、同五年十月の仕置家老の差し替えなど、綱政による藩政の機構改革は着々と進められたが、永忠は依然として木谷村閑谷にあり、閑谷学問所・和意谷墓所、井田・社倉米の経営に当たっていた。この時期は、永忠の家庭にとってまことに多事多難な時期であった。(中略)
 自分勝手作廻積目録と自分勝手簡略積。この悲喜こもごもの生活を送っていた木谷村閑谷の永忠は、延宝四年のある日、綱政に呼び出され、岡山藩の財政再建、藩士の借財整理に関する意見をもとめられた。」(柴田一「津田永忠」、谷口澄夫「岡山藩」)
  その折の彼は、慢性的な赤字体質に陥っていた藩財政の再建、藩士の借財整理に関わる見積り書「自分勝手作廻積目録」と「自分勝手簡略積」を提出する。あくまでも、冗費の節減と厳しい支出の削減を基本とするものあったものの、農民や弱い立場にある側には、それなりの配慮をしていたらしい。
 綱政はまた、財政再建のために、農村再建による新田開発が必要だと考えていたのかもしれない。この頃、大洪水などの天災が発生していたため、これを防ぐことを永忠に命じたという。児島湾に大がかりな干拓を行なって、また、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事を行なうことで、農業生産の実があがり、藩財政の再建にも役立ったという。

 こうした津田の指揮した新田開発においては、普請奉行の田坂与七郎(1647~1710)や近藤七助(1655~1731)ら、それに大坂から津田が呼び寄せたといわれる石工・河内屋治兵衛(?~?)の職人などが、永忠の補佐役となって、連日たち働いた。前の二人は、それそれ津田の「片腕」ともいわれる、下級武士出身なから、藩にとってなくてはならぬ土木関係の専門家として名前を成した。また、河内屋は、津田にとっても、藩にとっても、それ以上にはないかのような縁(えにし)てむですぱれていたかのような、50年にもわたる岡山藩との仕事上の関係てあったという。

(続く)


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◻️46の4『岡山の今昔』廃城令(1873)

2021-04-15 21:39:24 | Weblog
46の4『岡山の今昔』廃城令(1873)

 明治政府は、グレオリオ暦(注)でいう1873年1月14日(明治6年1月14日)に、太政官(明治時代初期にあった政府の役職)から陸軍と大蔵省(現・財務省)への通達(「太政官達」)「全国城郭存廃ノ処分並兵営池塘選定方」を出す。これを略して「廃城令」、「城郭取壊令」もしくは「存城廃城令」と言い慣わす。


 この通達によって、全国に散らばる城は、2種類に分けられた。一つは、明治維新後、陸軍の所有物となっていたうち、陸軍が軍施設なり軍用地として使用する城、もう一つは陸軍が使用しないものは大蔵省へ引き渡して売却用財産とする城である。


 このとき岡山地方では、岡山城、津山城、そして備中高松城などの扱いに命令が下る。


 これらのうち岡山城は、「存城」として陸軍省の管轄に入れられる。すなわち、城の大方の建物は取り壊され、堀が埋められる。とはいえ、すべての建物が取り壊されるわけではなく、天守、石山門、月見櫓、西の丸西手櫓の4つが残される。


 これを受けて、岡山城のとりこわされた部分の跡地は、追々決まっていく。西の丸は小学校として、本丸は中学校として利用されていく。残った天守は、追って国宝(旧法下)として扱われていく。


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 では、津山城はどうであったのか。1870年4月12日、津山城は大阪鎮台の所管となり、次いで大蔵省の所管に入る。
 それから、1871年8月29日に廃藩置県が行われると、当初の県内には、各藩別(一部天領)に14県ができた。

 1871年12月26日には、その14県が岡山県、深津県、北条県に統合され、美作地区の津山県、鶴田県、真島県は北条県に入る。また、旧津山県の小豆島の飛地も当面の間管轄することになる。

 なお、県庁は西北条郡山下(現在の津山市山下68、津山文化センター)の津山城内に設置される。翌1872年(明治5年)1月25日には、 小豆島の飛地が香川県に移管となる。

 1873年2月23日の大蔵省は、先の太政官達で城郭の存廃が決定されたのを受け、北条県に対し現況、絵図の提出などを命ずるとともに、また同県管内の津山、真島(旧勝山)が廃城取扱いになったことを通知してくる。

 なお、これを実現するための細目として、同指令にいわく、「尤(もっと)も、地所、石垣、樹木等は、従前之儘(まま)存置候条、不取締無之様注意可致事」となっており、それらを除いて取り壊さなければならない。

 1873年2月28日には、同1873年1月14日の太政官通達を受ける形で、北条県の初代参事(後の知事)・淵辺高が、大蔵大輔の井上馨あてに津山城郭払下げを実施するとの届けを提出する。

 これの背景には、津山藩が土壇場になってようやく新政府側に恭順を示したのに照らし、警戒したのだという。そのため、旧徳川親藩の津山士族に対しては、厳しい態度で臨んだと理解するのか適当であろう。

 1874年5月29日には、同届けが認められる形で、内務省から払下げ許可された。そして、城郭内の天守閣を始めとする建物は、代金1125円で、慶助、岩吉両名に払い下げられる。それから取壊が着手し、翌年に終了となる。


 そして迎えた1876年(明治9年)4月18日には、 北条県は、第2次府県統合により岡山県に吸収合併となる。

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 (注)なお、当時は、暦の改定があったことでも、時代の大いなる転換期であった。したがって、以上の年代表記については、グレゴリオ暦との対比日本の明治時代に入って5年目の改暦は、統治体制が代わってからの懸案事項であったのは、疑う余地がない。
 しかし、わずか20日後に、1000年以上も続いた太陰太陽暦を、世界共通と目されるグレゴリオ暦に切り替えようというのだから、かなりの強硬実施となる。
 それでもなお改暦を実行したのは、別付随的な理由があったのではないか、そのことが窺えるのか、当時政府の参議を務めてい大隈重信の日記「大隈伯昔日譚」に記されている、経費節減説であるとのこと。
 それによると、そのままの暦だと明治6年にうるう月があり、月給制を採用した新政府は、1か月余計に給料を出さねばならない。それか、従来暦を太陽暦に変更することにより、その1か月、さらに2日間だけの12月もあわせて合計2か月分の給料を節約できたことになるのだと。
 かくて、一般に旧暦と呼ばれる天保暦(太陰太陽暦)の明治5年12月2日(グレゴリオ暦1872年12月31日)の翌日を、新暦と呼ばれる太陽暦の明治6年1月1日(グレゴリオ暦1873年1月1日)とした。そのため明治5年12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった。ついては、当該12月は僅か2日にして翌年の1月1日となる。


(続く)

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