◻️580『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

2021-09-24 23:16:21 | Weblog
580『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

 福田史郎(1927~2017)は、玉野市の生まれ。その海岸から3キロメートルばかり離れたところにある、直島(現在は香川県、かつて近隣の島から堀りだされる銅鉱石の製錬所があった)に、鉱山技師の父親、勘四郎の職場があったという。やがて、家族とともに津山に移り、多感な少年時代を過ごす。
 やがては津山市立西中学校の数学教師にして、だんだんに青少年カウンセラー、教育評論家ともなっていく。さらには、教育現場における実践を基礎に、「鶴山塾」(津山市が1985年に開塾)での活動など、幅広い青少年教育に献身的にたづさわったことで、この地で広く知られる。
 その事例研究には、他に追随を許さないほどの、自身の体験に裏付けられた説得力が感じられる。ここでは、そんな福田の60代の頃における報告の中から、一つを紹介しよう。

 「後進性を十分に脱した近代(文明)社会の中では、知識的、階級的な彼岸へのかけがいなき門戸という学校のイメージは、もはや成り立ちえない。そのうえ、学校がそこに根づき下から学校を支える基盤となっていた自然(地縁血縁)的な地域共同体も、近代化の帰結として解体してしまっている。この傾向に徹底的な追討ちをかけたのが、国庫補助による学校統合の嵐であったことは、記憶に生々しい。これが不登校増加をはじめ、今日の学校における失調現象(どの子にも生じうる)の本質的背景ではなかろうか。(中略)
 『風の又三郎』(宮沢賢治)のなかに、次のような一節がある。「九月一日の朝でした。『ほう、おら一等だぞ。一賞だぞ。』とかわるがわる叫びながら大悦びで門を入って来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔もしらないおかしな髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っているのです。そしてその机といったら、まったくこの泣いた子の自分の机だったのです。」
 かつては『風の又三郎』であったものが、今日では「いじめ現象」として現れてくるのは、教室で子どもたちがある対象に対してなんらかの違和意識を抱いたとき、それが「不思議」や「おそれ」として体験されえず、端的に「違和」(異物)としてしか体験されない傾向が大きくなったためではなかろうか。
 そのため、今日の「いじめ現象」は、たんに支配や攻撃ではなく、「(異物)の排除」という構造を大きな特徴としてもつ。「排除」は出口なしの体験である。今の「いじめ」がときに、子どもを死にまで追いやるのはこのためにちがいない。」(福田史郎(美作部落研副会長)「事例に思う、青少年問題の背景と課題」、「問題調査、研究」1995年2月号)


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 また、学校という空間との関わりで、こうも言われる。

 「学校は集団や組織として必要な要素があると同時に、その学校に人間としてどうしても必要な要素がある。学校に対する「私事化」の動向が強くなる中で、子どもたちが納得して我慢したり耐えたりするに足る何かを子どもたちに示すこと、そのためには、プライベート・スペースの拡大不可視空間の拡大と、それによる学校という集団・組織が子どもたちに期待し要請する課題遂行機能(全体化機能)からの離脱の保証が必要である。但し、離脱というのは逸脱ではない。(中略)
 いま一つ子どもたちの参加空間が大切なのではないか。日本では社会に開かれた「私」と「私」が共同の生活を営むという公共性の概念が育たないままきているために、他の文明諸国に比べて、公共性や共同性への関心が低い。その結果、どうしても参加空間が形骸化してしまう。学校では学級集団や学校社会といった共同性の場が崩壊している。「いじめ」の現場における「傍観者」の存在が、もっと象徴的にそれを示している。

 
 個性的なあり方と社会的なあり方とが切磋琢磨できる場としての参加空間があれば、その中で開かれた個が育っていく。いじめの問題においても、不登校の問題においても、さけることのできない問題提起、それが「共同性に開かれた個我を育てること」であろう。これは、あまりにも公共性・共同性を無視した個我のあり方がすすみ過ぎる日本社会の課題でもある。」(福田史郎(美作部落研究所副会長)「事例に思う、青少年問題の背景と課題」、問題研究所「問題」1994年10月号、No.112に所収のものから引用)

(続く)

 

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232『岡山の歴史と岡山人』玉野市

2021-09-24 08:22:49 | Weblog

232『岡山の歴史と岡山人』玉野市

 玉野市は、岡山県の南端、児島半島の付け根にある、玉野港を玄関として発達した臨海工業都市だ。市域は約104平方キロメートルで、約6割が山地、残りが平野部だという。やや東西に細長く、北部は秩父古生層地帯、南部の海岸部には花崗岩質の山麓が連なる。

 ぐるっとの海岸線は相当に複雑にして、そのあたりの平地は多くない。海水浴や潮干狩りで、かねてから県民、観光客に親しまれてきていた渋川海岸もある。近年は、海岸部の埋立造成地を中心に、岡山や倉敷に通う人びとの住むベッドタウンがひろがる。中でも平野部の七区地区は児島湾を埋めたて形成されたという。

 そんな玉野市の沿革などについては、これまで様々に紹介されてきていて、例えば、こうある。

○「岡山県の南端、児島半島の東南部に位置する玉野市は、造船工業地の玉地区と海の玄関口の宇野地区を合わせて生まれた都市である、明治初年までは漁業と塩田の一寒村に過ぎなかったが、1909年(同42年)に宇野港が完成して四国との連絡が容易になり、1919年(大正8年)に玉地区に三井造船所が創業して、このかた造船業とその関連産業が発達した。」(本間信治「にっぽん地名紀行」、新人物往来社、1992)

 同じことだが、1917年(大正6年)、児島郡日比町の玉地区において三井造船の前身としての三井物産造船部が創業されて以来、人口が急増し、産業構成なども拡大してきていた。そして迎えた1940年(昭和15年)に、児島郡の宇野町と日比町が合併したものである。

 瀬戸内海に面するこの地域だが、その気候としては、年間平均気温は15.9度で温暖かつ、年間で1479.5ミリメートルというから、県北よりはかなりしのぎ易いようだ。とはいえ、2018年7月の西日本豪雨の被害はこれまでの常識をくつがえすものであったろう。
 2019年現在の人口は約6万3千人だというものの、かつての高度成長期のような「企業城下町」のような賑わいは感じにくい。それでも、かつての基幹産業である造船業、鉱業などは息を吐いており、観光業などの新しい産業も育ってきているという。第一次産業でも、かねてからの農業に加え、地域住民のアイデアで特色ある加工品が登場し「お宝たまの印」としての玉野ブランドを認定しているとのことであり、頼もしい。
 交通ということでは、国道30、430号を骨格として、体系的な道路網が形成されているというし、鉄道ではJR宇野線が走り、バスでは路線バスが運行され、市内の要所を結び、さらに地域間交流促進を目的にコミュニティバスも運行されてもいると聞く。

 それが今、人びとの耳目を集める、次のようなニュースが伝わる。

 「宇高航路(玉野市・宇野港―高松港)を唯一運航する四国急行フェリー(高松市)は11日、12月16日からの航路休止届を国土交通省四国運輸局に提出した。同運輸局は受理した。宇高航路は1910(明治43)年に国鉄連絡船が就航して以来、本州と四国を結ぶ主要航路だったが、109年で歴史を閉じる。瀬戸大橋との競合などで業績が悪化し、維持が困難になった。(中略)

 同社によると、2014年の瀬戸大橋料金水準引き下げなどの影響でフェリー離れが加速。利用者が少ない夜間・早朝便の廃止などコスト削減を進めたが、岡山、香川県と玉野、高松市から補助金を受けても収支が改善しなかったという。

 同航路にはグループ会社が1956年に参入。四国急行フェリーに移管された2013年度は1日22往復し、年間約43万人が利用した。減便を重ね、18年度は5往復、約14万人にまで落ち込んでいた。

 宇高航路は瀬戸大橋開通直後は3社が運航していたが、12年までに2社が撤退していた。(2019年11月11日付け山陽新聞デジタル版)

 さて、ここでの農業での話を一つ、紹介しよう。岡山市の灘崎町と玉野市の一部を指して備南地区と呼んでいて、このあたりの大方は、児島湾の干拓地でできている。ここで生産される千両ナスは、農家の大事な収入源だ。このナスの特徴としては、包丁を入れると、濃い紫色の切り口が出るのだ。この一帯が干拓地であるため、土壌は粘土質で粘り気とミネラル分を多く含んでいる。なので、モチモチ感があって美味しいとの評判とのこと。これが当たって、急速に作付け面積が拡大してきたらしい。


(続く)

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◻️558『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、手塚亮)

2021-09-23 21:46:33 | Weblog
558『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、手塚亮)

 手塚亮(てづかあきら(りょう?、まこと?)、1905~1999?)は、詩人だ。社会派、その中でも戦前の言葉で言えば、プロレタリア文学者の系統をいうのではないか。だとしたら、時代は元には戻らない、だからして、今日の作家たちが、発想の真似をしようとしても、それは叶えられぬ夢物語なのかもしれない。 

 しかして、その生まれは東京市、しかも下谷津の下町だという。父は、牧師、母もクリスチャンである。生家は、不忍池の湖畔がふるさと、ということにもなろう。後年の本人いわく、「その日上野の社は桜花らんまん、朝から花火が上がっていた。ただしぼくの誕生を祝ってではない。上野公園で乃木将軍の凱旋祝賀式の当日だった。(中略)このことを父から何度も聞かされた」と。 

 1912年(明治42年)には、名古屋で小学校に上がっている。父親の転勤があったのではないか、という。やかての1924年(大正13年)には、上京し上智大学に入学する。青春真っただ中であり、ドイツ語をやろうというのであったようだ。 

 それからしばらくたつと、この青年は社会運動に目覚め、当日の言葉でいうならば、「無産階級運動」へ参加していく。そして迎えた1927年、俗にいう「昭和恐慌」以降の暗い時代、そういう時代の変わり目に、学生をやめて、印刷工場の見習い工として働く、そのうちに雄弁さや頭の回転を買われてであろうか、日本労働評議会(全協)加盟の印刷工場の労働組合の委員長となるのである、
 
 そんな波乱万丈な生活を送ってきている手塚なのだが、戦前・戦中の大いなる活動期のものから、戦後にその頃を振り返ったり、美作に移ってからの新天地にて、ひいては1980年代位からの岡山詩人会議会員として、俗に「油の乗り切った」頃のものまで、かなりの幅広で考えてみたらいかがだろうか。

 いずれにせよ、個性の強烈な人であるからして、ここでは最初に、勇ましい「クレムリンの赤旗」から、お目にかけよう。   

 

 「昭和初年 友人の大学生から
こんな話を聞いたことがある
クレムリンの塔のうえの赤旗は
風のない日でもいつも波うっているんだと
夜は夜で照明の中で泳いでいるんだと

 

コミンテルンの指導部は
万国の労働者の団結と勝利
その確信と不屈の闘志のために
朝夕インターのチャイムを響かせ
扇風機で風を送っているんだとも

 

クッペル・ホリゾント(注)に美しく翻る赤旗。
ぼくは筑地小劇場の舞台を連想した
扇風機仕掛けとは子どもっぽいが
こんな演出家がクレムリンにいるとは
にくい(傍点がつく・引用者)ではないか

 

いつか モスクワを訪れる機会があったら
このからくり効果は見て帰りたいものだが
レーニン廟の長蛇の列だけはごめんだ
銅像崇拝・人間性抹殺の迷演出
イリッチの遺体はクループスカヤへだ

 

クレムリンの塔で泳ぎつづけた七十四年間
鎌とハンマーのあの赤旗」は
居心地の悪さを嘆いたことはなかったか
元来その旗は一国で占有すべきものではない
全世界の被抑圧者解放の旗印なんだ

 

1991年夏 ついにその旗も
クレムリンの塔からおろされる時が来た
TVの映像にぼくは目を凝らした
ぬっと痩せた右腕が屋根裏から伸びて
じぼんだ旗をつかんで消えた

 

歴史的瞬間はあっけなく
札砲も寺院の弔鐘も群衆の叫喚も聞こえず
日常生活 ホンのひとこまの
キャベツの葉っぱ一枚
むしり取ったほどの演技だった」(「道標」65号、1992.5)

 

(注)クッペル・ホリゾントというのほ、舞台後方の丸くふくらんだ壁のこと。とはいえ、これに該当するのは、当時日本では築地小劇場しかなかったと言われる。
 
                            
(続く)


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◻️557『岡山の今昔人』岡山人(20世紀、小谷善守)

2021-09-23 08:13:34 | Weblog
557『岡山の今昔人』岡山人(20世紀、小谷善守)

 小谷善守(こたによしもり、1930~1999)は、津山市の生まれ。父親の勤務の関係で幼児期を神戸、東京で過ごす。
 1936年(昭和11年)の小学校入学時に津山に帰り、鉄砲町の津山城西教会に住む。ちなみに、同教会は、21世紀の現在においても、訪れて来る人を皆さんで実に優しく労り、なんだか居心地が良くなる、不思議な場所柄でもある。
 戦後の1948年(昭和23年)には、津山中学を卒業する。1952年(昭和27年)には、津山朝日新聞社に入社する。そして、いつの頃からか、歴史、特に郷土、中国地方の成り立ちから今日までを調べ、検討し、記述する作業を始める。
 1996年に津山朝日新聞社を退職してからは、(財)津山社会教育文化財団津山基督教図書館、津山科学教育博物館理事を務める。
その内には、自らのライフワークの集大成に向かっていたのではないだろうか。
 著作としては、現役記者の時代から津山朝日新聞紙上に「峠」「木地師の道」「鉄(たたら)の道」「出雲街道」などを連載していく。中でも、「出雲街道」は大作にて、変わりゆく現実に追われるかのような雰囲気の中で、本線ばかりでなく、周りのそこそこに足を伸ばし、古老などを尋ね歩いた。写真も含めて、集めた資料は自宅なりにうず高く積み上げられていたのではあるまいか。
 
 一連の著作群の中でもライフワークと言えるのが、「出雲街道」のシリーズであろう。その筆の運びに定評があるのはもちろん、興に誘われては、旅する本人の息遣いまでもが迫ってくるようであり、例えば、こうある。

 「旭川上流の高田(勝山)の川舟(高瀬舟)がいつごろまでさかのぼるのか。高田ー岡山間に高瀬舟が通ったのは、室町時代(1338~1573、足利氏が幕府を開いた時代)とする説もあるようだが、後の江戸期のような川舟通運ではなかったと思われる。先・三浦氏時代の旭川水運、特に高田ー岡山の通運は分からないが、西岸の本郷から東の高田村(勝山の町)まで、旭川を渡るのは、川舟があったとも思われるが、一般の村人は、徒歩渡りだったに違いない。
 美作西北部は、古くから明治まで、およそ旭川を隔てて東を大庭(おおば)、西を真島(まじま)の二郡に分かれているが、1900年(明治33年)4月、両郡が合併し、真庭郡になっている。
 高田村(勝山の町)は、高田城が築かれた北の如意山に続く旦(だん)と呼ばれている台地のふもとに、平野部が広がっている。西と南を旭川が流れ、東の久世町境は、旭川まで山が迫っている。旭川の西岸は、旧本郷、三田、組、横部村(現在は勝山町)になり、南岸は、旧草加部村(現・久世町)。山を旭川に囲まれた狭い盆地だが、旭川東岸の大庭郡内に入り込んでいるのが、真島郡高田村。
 東に続く旧久世村と同じように大庭郡になっていないのは、不思議だが、地形は、四方を山と旭川に囲まれ、独立している。大庭郡内に入り込んでいったのか、理由は不明だが、岡山・鳥取県の蒜山(ひるせん)を源にする旭川、支流となる新庄川が合流し、北の村々の出入り口に当たる位置。北の物資の集散地であり、人々の往来のかなめだったに違いない。」(小谷善守「出雲街道、活動ー久世」第2巻、「出雲街道」刊行会、2000)」

 なお、文中でに「先・三浦氏」というのは、14世紀に東国からこちらへ入ってきた、江戸時代の三浦氏とは異なる武士団をいう。


(続く)
 

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◻️231『岡山の今昔』備前市

2021-09-22 22:25:28 | Weblog
231『岡山の今昔』備前市

 備前市は、南東部の瀬戸内海に沿ってある、歴史ある町だ。そもそもの市制は、1955年(昭和30年)、当時の備前町、伊里町、香登町、鶴山村(和気郡)、それに鶴山村(邑久郡)が合併して備前町、ついでの1971年(昭和46年)4月にその備前町と三石町とが合わさって備前市となっていた。 
 さらに、2005年3月22日の備前市、吉永町との合併により、旧日生町は新たに備前市となっている。
 その位置だが、北から時計回りに美作市、和気町(和気郡)、東部は兵庫県に隣接する。南には瀬戸内市、そして西部は赤磐市に接する。
 新幹線にのって東から岡山県内にやってくると、そこは日生(ひなせ)地区だ。旧日生町での町役場は備前市役所日生総合支所となっている。それからは、ほどなく停車駅の岡山に到着しよう。
 市の中心部は片上地区で、ここに市役所など中枢部がある。エリア別で有名なのは、やはり伊部地区であろう、ここには備前焼の工房・陶芸店が集中している。 

 また旧日生町(ひなせちょう)は、兵庫県と境を接していた町であり、2005年3月22日の備前市、吉永町との合併により新たに備前市に入る。
 その土地柄について、合併前での「日生」の歴史から起こして、こう述べる向きもある。
 
 「岡山県の南東端、和気郡日生町は、瀬戸内海に臨む打瀬網(底引き網の一種)で知られる漁業の町である。江戸後期には四国沿岸へ、明治期には朝鮮海峡へ、さらに遠く台湾、シンガポールの近海にまで進出した。
 窯業も盛んで、西隣する備前市とともに東備窯業地帯を形成し、活況を呈している。森下美術館がある。
 さて、ヒナセは、日向瀬の意とされ、日ご早く当たる瀬戸を、あらわしたものとか。ここには、日陽奥と書いて、ヒナタノクと読ませる集落もある、」(本間信治「にっぽん地名紀行」新人物往来社、1992)

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 この地域における産業としては、おおまかに備前焼と耐火煉瓦と農漁業の町だといえるだろう。これらのうち、焼物については、そもそもが、これまでに数多くの須恵器の窯跡が知られており、なかでも、備前市・邑久郡長船町・牛窓町など吉井川左岸一帯の丘陵地に集中。このあたりは、「邑久古窯群」と呼ばれ、今までにおよそ90基の窯跡が確認されている。

 このことを裏付ける史料としては、10世紀のはじめころに編纂された「延喜式」中の「主計」と言う部分に、全国各地から都へ運ばれた貢納品の種類や数量が詳しく記されている。これによると、備前国から都へ納められることになっていた須恵器の量は、河内国(かわちのくに)のそれを凌ぐ全国一位という。
 ところが、平安時代末期に興った備前焼の産地は、そことは山一つ隔てた備前市伊部に発達していく。もう少しいうと、伊部集落周辺の山麓から、南北の谷筋沿いに標高400メートルを越えるような高地まで、5キロメートル四方にわたる。このように須恵器が備前焼へと発展しながらひと山越えた、そのメリットが何であったかは、一説には、次のように言われる。

 こうみてくると、かなり前からの産業構成みたいなのだが、そこは「一工夫、二工夫」が行われてきたようで、これまでの焼き物の歴史を生かすべく、培ってきた技術を使ってセラミックなどへの展開や、北部地区での林業や、海岸エリアでの蠣(かき)養殖も盛んだという。
 それから、最近の当市を眺めると、県南東部ということではあるものの、人口の減少や高齢化はかなり進んでいるという。そうなれば、医療や福祉の面でも、個々の自治体を跨がる形での調整の必要も出てくることを、例えば、次の記事が伝えている。
 「岡山、玉野、備前市など5市2町の将来的な医療体制について医療関係者が協議する「岡山県南東部地域医療構想調整会議」が8日、岡山市北区南方のきらめきプラザで開かれ、国が9月に再編・統合の検討が必要として公表した医療機関について意見を交わした。(中略)
 出席者からは、判断の基になったデータが古く実情を踏まえていないことを指摘する声が相次ぎ「住民の不安をあおっている」「再編・統合は地域の実情に照らし合わせて考えるべきだ」といった意見も出た」(2019年11月8日付け山陽新聞電子版)とのこと。
 ここに参加したのは、福渡病院(岡山市)、玉野市民病院、備前病院、吉永病院(備前市)、瀬戸内市民病院、吉備高原医療リハビリテーションセンター(吉備中央町)、赤磐医師会病院(赤磐市)の8病院であり、互いによる意見交換がなされたようだ。

(続く)

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◻️141『岡山の今昔』出雲街道(米子~津山)

2021-09-21 21:33:53 | Weblog
141『岡山の今昔』出雲街道(米子~津山)
 
 出雲街道というのは、陸路にて、松江城下~出雲郷宿~安来宿~米子城下~車尾宿~溝口宿~二部宿~根雨宿~坂井原宿~新庄宿~美甘宿-勝山城下~久世宿~坪井宿~津山城下とやって来る。そこからは、勝間田宿~土井宿~佐用宿~三日月宿~千本宿~觜崎宿~飾西宿と来て、姫路城下に入るルートだ。
 その由来としては、江戸時代に入ると五街道に順ずる街道として、1604年(慶長9年)に幕府の命により津山藩など周辺諸藩としての松江藩、広瀬藩、勝山藩、津山藩の藩主が街道を整備していく。
 中でも、これらの諸藩が参勤交代のおり、藩主の宿所となった宿場町は飛躍的に発展していく。そればかりか、江戸時代中期以降、庶民の行楽嗜好が高まり、出雲大社(島根県出雲市)や伊勢神宮(三重県伊勢市)などへの参拝者が利用したり、道の周辺などに散らばる米、鉄や木材、炭などを運ぶ便利な街道として、往来が盛んであったことはいまも語り継がれる。


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 これらのうち、新庄から美甘(みかも)、勝山への道のりについては、郷土史家を当たってみると、往時(おうじ)を彷彿とさせる解説もあったりで、興味をそそられる、幾つか紹介してみよう。

○「本陣(茶屋)を中心にしながら江戸期を通して、松江松平藩に結びついていた新庄も、明治の変革、廃藩置県で、明治4年11月23日、松江県から新庄駅・佐藤六左衛門へ本陣廃止の通達があり、江戸期200年を超える宿場本陣に、次のように終止符を打っている。
 「今般、茶屋を廃止した。茶屋守を免じ、茶屋建物などをつかわす」
 続いて明治5年1月には「旧藩以来、飛脚の世話をしていたので、毎年2両を出していたが、今後廃止する。元松江県」と通知している。」(小谷善守「出雲街道」第1巻、「松江~米子~新庄~美甘」出雲街道出版会による編集、2000)
 
○「美甘の町から東は、新庄川沿いの狭い峡谷になり、出雲街道も山の中腹をたどり、真庭郡内の中心、勝山町(旧真島郡高田村)まで大きい盆地はない。集落も山腹に点在している。美甘、勝山(高田)、間を元禄4年(1691)は、「2里33町(約11.6キロ)」と記しているが、街道の中でも山中路として知られている。おそらく、この山の中をたどる街道の出入り口の役割を果たしたのではあるまいか。また、岡山・鳥取(美作・伯耆(ほうき))の境から勝山(高田村)までの間で、最も広い盆地であり、物資の集散にも適していたと思われる。
 新庄宿場が国境の固めとしての役割を持ち、美甘が物資流通の宿場という性格も持っていたのではないか。新庄川南岸から町(集落)が移ったのも、北岸のほうが、鉄山(かなやま)、黒田、田口、延風、美甘の村々(現在の美甘村内)、新庄村内の物資が集まりやすい条件を持っているように思える。南岸は、備中に続いていく山間部が迫っているが、北岸は、谷々に点在している集落の受け皿のような地形を持っている。」(小谷、前掲書)
 
 
○「県境の山を貫いている国道181号線・四十曲トンネルの右側(県境に向かって)に旧国道の峠道は出てくる。新庄の町へ向かって谷が真っすぐに東へ伸びている。ゆるやかな谷。急坂の鳥取側とは一変する。谷に沿いながら現在の国道は山腹を切り、陸橋も架かっているが、旧国道は、谷を一直線にぬい、陸橋の真下に明治以後、1965年(昭和40年)初めまで往来でにぎわった跡をしのぼせている。(中略)
 むかしから多くの人は、歩いて峠越えをしていたというが、古老の記憶などから人力車が峠を通るようになったのは、1887~1896年(明治20年代)からで、ふもとの坂井原と新庄に人力車のたまり場があり、根雨、勝山方面からくる人力車の中継所になっていたという。峠越えをする人力車の鼻引きは、地元の人たちの現金収入になっていたようだが、1928年(昭和3年)の伯備線、続く1930年(昭和5年)の姫新線津山ー新見開通のころには、姿を消したといわれる。」(小谷、前掲書)
 
 
○「森藩末期だが、元禄期の鉄生産には、真庭郡勝山町、伯州(ほうしゅう、鳥取県西部)、備中(岡山県西部)や伯州又野村(鳥取県日野郡江府町)の鉄山経営者、砂鉄の購入など、かなり広い交流をみることができる。山に囲まれた国境の村だが、人々の出入りもあり、情報も多かったのではないか。その源が山を仕事場にしていた木地師であり、タタラ(鉄山)で働く人たちだったと思える。」(小谷、前掲書)

(続く)
 

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◻️139『岡山の今昔』2020年代の岡山(新型コロナウイルス感染症など)

2021-09-21 15:22:41 | Weblog
139『岡山の今昔』2020年代の岡山(新型コロナウイルス感染症など)

 

 21世紀に入っては、日本では、感染症への恐怖は遠退いているかに見えていただろう。
 はるか以前に遡れば、735年に天然痘(現在での感染症の病名)が大流行、平安時代にはインフルエンザ発生の記録も残る。998年には、麻(ま)しんの流行もあったと記録されている。
 それからかなりの時が経過しての江戸時代になると、インフルエンザが乾いた冬の冷気に乗って繰り返し流行して、人々を苦しめる。麻(ま)しんも、13回にわたり流行が起こる。それからは、
この国での感染症の流行が頻繁かつ大規模になっていく。
 すなわち、1822年には、日本で最初のコレラ発生が確認される。以来、波が繰り返し寄せてくるように、1862年の記録では、江戸だけで約24万人が麻しんに感染して亡くなったという。
 時代が明治に衣替えすると、西洋医学も取り入れられていき、近代科学をもって感染症に立ち向かおうと、1877年(明治12年)には、政府がコレラなどの感染症の予防を論じた「虎列刺病(コロリびょう)予防心得」を発表する。
 それでも、明治時代の終わりまでに、天然痘の流行が6回あったほか、結核の流行も始まる。それらの中でも、コレラにいたっては、1877年(明治10年)に大流行があり、死亡者数も10万人を超え、その後も1899年にコレラが6回目の猛威をふるう。
 20世紀になっての1918年には、海外からスペイン風邪(スペイン型インフルエンザ)が入ってきて、大流行となる。

 

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 20世紀になっての1918年には、海外からスペイン風邪(スペイン型インフルエンザ)が入ってくる、その日本での死者数は多すぎるのだろうか、よくわかっていないようだ。1933年になって、その正体がウイルスだとわかる。
 1957年には、アジア風邪(アジア型インフルエンザ)が大流行する。1961年には、コレラのにほんでの7かいめの流行が起こる。1968年には、香港風邪(香港型インフルエンザ)か、これまた大流行する。1980年には、WHO(世界保健機構)が天然痘の世界からの根絶を宣言する。
 1985年には、日本で最初のエイズ患者(HIV感染者)が発生し、これ以前に血液製剤(けつえきせいざい)による感染者があることも判明する。1995年には、アフリカにおいてエボラ出血熱が流行し始める、2014年から2018年にかけても大流行する。1997年になると、香港で鳥インフルエンザの鳥から人への直接感染が確認される。
 
 2002年には、SARS(サーズ)が中国で発生が確認され、世界で大流行する。2007年の日本では、10~20代で麻しんが流行する。また2009年には、日本で新型インフルエンザが流行する。
 
 2012年には、MARS(マーズ)が中東地域で発生し、アジア世界で流行する。2018年、麻しんも世界で大流行する。
 
 そして迎えた2019年の後半には、新型コロナウイルスが中国で発生したと見られ、2020年春になると、日本でもこのウイルスに感染が確認される。
 
 なお、以上の情報元は、小林いんてつ「人類VS感染症の歴史」、株式会社ポプラ社、2021などから。

 

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これまでの岡山県での経緯について、新聞などから引用してみよう。

 

○2021年5月16日には、岡山県、広島県及び北海道の3道府県に、蔓延防止等重点措置が適用される。

○2021年8月には、「岡山県内で24日、160人の新型コロナウイルス感染が発表された。県内の感染者は延べ1万1939人となった。
 内訳は岡山市94人▽倉敷市26人▽津山市10人▽玉野市、笠岡市、瀬戸内市各4人▽井原市3人▽総社市、備前市、美作市、勝央町、美咲町各2人▽高梁市、赤磐市、真庭市、早島町、久米南町各1人。中等症4人のほかは軽症か無症状(調査中除く)で、91人の感染経路がわからないという。
 年代が公表された人では20代43人、30代34人、40代22人、10代14人の順で多かった。」(朝日新聞電子版、2021.8.25)

 

○それからは、9月12日をもって緊急事態宣言が解除され、9月13日から9月末までの期限で、まん延防止等重点措置の適用が決定される。このことを受け、岡山市、倉敷市など県下17市町村を措置区域とし、重点措置を講じることとする。

 

 

(続く)

 

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◻️123『岡山の今昔』明治・大正・昭和(戦前)時代の岡山(文化、マスコミなど)

2021-09-21 09:11:20 | Weblog
123『岡山の今昔』明治・大正・昭和(戦前)時代の岡山(文化、マスコミなど)

 まずは、20世紀に入ってからの岡山の歩みを、少し振り返ってみよう。1901(明治34年)に、県立農事試験場が開設する。1902年(明治35年)には、県水産試験場が開設となる。1905年(明治38年)には、岡山市において上水道事業が開始される。
 同年11月には、倉敷紡績所玉島工場の女工1300人がストライキを行う。1909年(明治42年)には、宇野港が竣工する。1910年(明治43年)には、宇野線の全線開通が成る。
 同年11月には、岡山市で陸軍特別大演習が行なわれる。1918年(大正7年)8月には、米騒動が起こる。同年11月には、岡山県普通選挙期成同盟会が結成される。1920年(大正9)には、 第1回の国勢調査が行われ、その結果。岡山県総人口は121万7698人と判明した。1921大正105 岡山で初めてメーデーが開催される。同年5月には、岡山県が創立される。同年10月には、岡山県農民組合連合会が結成される。1928年(昭和3)年には、倉敷市が誕生する。1929年(昭和42年) には、津山市が誕生する。1930年(昭和5年)には、 宇野港が開港する。
 同年11月には、陸軍が特別大演習を行う。ここからは、戦時色が濃厚になっていく。1932年(昭和7年)には、 因美線の津山~鳥取間が全通となる。1935年(昭和10年)には、岡山市に民間防空組織が組織される。1936年(昭和11年)にほ、 姫津線の姫路~津山間が全通する。同年12月には、山陽新報社と中国民報社が合併して合同新聞社となる。1937年(昭和12年)には、在郷軍人会による、国威宣揚市民大会が開催される。

 見られるように、時の経過とともに戦時色が濃くなり、人々は暗い時代の到来を肌で感じていたのではなかろうか。

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 こうした動きに呼応する話でもあったのだろうか、マスコミ(新聞)の再編が進む。山陽新報社は、1879年(明治12年)の新聞に創刊するが、当初は国会開設運動の指導的立場にあったことなどから、当局から度々の発行停止処分を受けた。それでも部数を伸ばし、1901年(明治34年)には、社屋を栄町から西中山下(現在の中山下)に移転す。
 1936年(昭和11年)12月には、山陽新報社と中国民報社とが合併し合同新聞社となり、山陽中国合同新聞を創刊、翌1937年(昭和12年)9月には、紙名を合同新聞と変える。さらに、これより後の1941年(昭和16年)には、岡山新聞社が合同新聞に吸収合併される。なお、戦後の1848年(昭和23年)、創刊70年を記念し紙名を合同新聞から山陽新聞、社名を山陽新聞社と改め現在に至る。
 
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 では、当時の人々の気分なり雰囲気なりは、どのようなものであったのだろうか。そういえば、これら当時の岡山発の新聞紙上にも、あまたその風景がさりげなく、もしくは恭(うやうや)しくもあっただろうか、折に触れて写し出されている。
 そこでもし、その横に挿入されていた文を見つけるようだと、それを眺めてため息をついた人も多かったのではないかと、察するにあまりある。例えば、「銃後」にも触れている半藤一利は、戦後にこう解説している。
 「日中戦争時の銃後をもっともよく象徴する風景に、街頭の千人針があった。虎は千里を征って戻ってくるといういい伝えで、虎の絵などを豆しぼり風に描いた布切れに、千人の人が針と糸で真心をこめて結び目をつくってゆく、これを腹に巻いて戦場にでると、弾丸に当らないと信じられた。
 当時のさまざまなことは、いまになって考えれば、馬鹿馬鹿しい限りなんだが、千人針もその一つ、大まかにいえば、献金、千人針、武運長久祈願の村民大会というのが、銃後の国民の三大行事だった。国家総動員法にもとづく、これこそが精神総動員の証(あか)しとなれば、誰もが逃げるわけにはいかぬのである。いまに直せば、カンパ、署名、集会である。どうやら民衆運動とは昔もいまも同じような形態をとるらしい。」(半藤一利「世界はまわり舞台」創元社、2010)

(続く)

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◻️133『岡山の今昔』戦後の高度成長期へ

2021-09-20 22:02:33 | Weblog
133『岡山の今昔』戦後の高度成長期へ
 
 まずは、その前段の話(大まかな経緯)から始めよう。顧みると、敗戦直後の混乱状態から、なんとか早期に立ち直ったということでは、岡山県の人々、産業が持つ底力といおうか、大いなる努力が働いたに違いない。
 そんな中でも工業の再建はかなりのハイペースで行われたようで、下野岡山大学教授の論考には、こんな特色があるという。

 いわく、「(前略)1947年(昭和22年)の岡山県の工業生産を「岡山県統計年報」および「統計から見た過去20年の岡山県」に基づいて見ておくと、主要な業種としては木製品工業、食料品製造業、化学工業の順位で、生産額および製造品出荷額等では機械器具工業、紡織業、化学工業、食料品製造業、製材および木製品工業の順位となっている。
 また、重化学工業の占める比率を見ておくと、従業者数では34.7%、生産額では42.9%、製造品出荷額等では46.3%となっていて、1950年代はおろか1960年(昭和35)の状態より高いことがわかる」(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」)とされる。

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 一方、岡山市に比べ、紡職業の製造品出荷額等においてかなり大きいのが、倉敷紡績を擁する倉敷市であって、前者が39億2033万円なのに対し、後者のそれは70億5948億円となっている。同従業者数も、それぞれ3392人と7544人と差は大きい。ちなみに、倉敷市内の同事業所数は1092であるという。
 他にも、「第2位を占めている業種としては食料品製造業、印刷出版及び類似産業、第一次金属製造業、輸送用機械器具製造業の4業種があり、このうち玉野市が第1位を占めていると思われる輸送用機械器具製造業を除く3業種は岡山市に、つくものであった。」(下野、前掲論文)

(続く)


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◻️126『岡山の今昔』大正・昭和(戦前)時代の資本と労働(倉敷紡績を中心に)

2021-09-20 21:04:22 | Weblog
126『岡山の今昔』大正・昭和(戦前)時代の資本と労働(倉敷紡績を中心に)

 

 1888年(明治21年)3月には、倉敷紡績の総会が開催され、初代の頭取・大原孝四郎ということで、資本主義的な経営に打って出る。
 
 その4年後の1892年(明治25年)には、労働争議が発生している。これは、2年前からの干魃(かんばつ)による凶作で、米価が高騰し、労働者の生活が苦しくなった。そこへ会社の業績が回復して、操業短縮を解除してきていた。この状況に、労働者側は「職工同盟会」を組織し、賃金引上げを目指すも、ストは不発であり、若干の賃上げで終息する。

 1904年(明治33年)12月には、孫三郎が父・孝四郎から経営を引き継ぐ。それからは、次第に積極的な経営になり変わる。その手法としては、経営の多角化が有名であろう。そして、この本業分野でいうと、言うまでもなく、利益最大化を目指したといえなくもなかろう。

 けれども、孫三郎は、同時に、単に資本主義的な経営にとどまるのではなく、それに付随する、もしくは社会への影響についても、勤労国民の利益増進の立場から、可能なかぎり拾い上げようとしている、例えば、こんな話が伝わる。
 
 「従来倉紡には各工場に医局を設けていますが、未だ従業員の健康を保証するもので足るものであるとは申されず、現在の社会情勢から言いましても、より完全な施設を作り、従業員の健康上に遺憾なきを期することは、工業経営者として当然の義務と考えるのであります。そこでここに倉紡従業員1万人の健康を保証するに足る設備を施し、同時に之を公開して一般の医療機関とするため、当病院の建設を決意したのであります。
 一般公開のことについては、将来工場を社会化させるという意味もあり、殊(こと)に紡績職工といえば、社会からまだ異様な目で見られている現在において、わが社が、職工を人として、平等の人格を認めて待遇していることを示す一事実と致しまして、ここに開放された病院において一般人と同じく平等な取扱を為すことは、可成り意義あることであると信じます。なお、他の理由と致しましては、先年当地方に感冒が流行した際、庶民階級の人々に対しては医療の方面に甚だ不行届であったことを目撃し、人道上捨て置き難い大事であると痛感し、一日も早く庶民階級を中心とした病院を設立しなければならぬと考えた次第であります。」(倉敷紡績株式会社社史編纂委員編「回顧六十五年」倉敷紡績、1953)
  1927年(昭和2年)には、全国的に金融破綻が相次ぎ、1929年に勃発した世界大恐慌に入ると、日本経済は大不況に入る。倉敷紡績もその、あおりを受け、輸出不振が響き、経営赤字に転落する。これに対して、役員報酬の減額、倉紡中央病院の独立などの合理化を図るも、状況は悪化するばかりで、人員整理で労働争議も起こる。
  1932年(昭和7年)、ようやく為替が円安に転じて輸出が伸び始め、倉敷紡績も不況のトンネルを脱していく。おりからの人絹ブームで倉敷絹織も、順調に発展する。そんな新たな波に乗る形で、1935年(昭和10年)、大原資本(財閥)は1935年(昭和10年)には、倉敷毛織を設立する。1939年(昭和14年)、孫三郎は息子の總一郎に経営を譲る。
 
 
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 会社とグループは、孫三郎の代となってからは、積極的な経営で、日本資本主義の中での力を伸ばしていく。だが、世界大恐慌など外からの影響で、それまでのやりくりが、通用しなくなる。
 1930年(昭和5年)には、倉敷紡績でかなりの規模のストライキが起きる。こうなったのは、経営側が不況の到来を理由に人員整理を行おうとしたことから、労働者の福利厚生も含めた不満、怒りが爆発した。会社側は、一部の「急進分子」のスト扇動をいうのだが、正しくない。案の定、同年9月には、職工の「首切り」と賃金引下げが出てくる。
 そして迎えた同年10月末には、これらを押し戻そうとする労働者620人がストライキに突入し、職場の大講堂に立て込もったりで抵抗する。一夜明けると、会社側は官憲(警察、ガードマンなど)に守られて、かれらの要求を拒絶して譲らない。そうしたなりふりかまわぬ圧力が効いてか、労働側の態度が軟化したのに、長期勤続者への退職者手当の支給を決めたりして、同年11月には、なんとか双方が折り合い、このストライキは終息する。


(続く)

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◻️119『岡山の今昔』明治時代の労働者・勤労国民の暮らし(自由民権運動との関わりで)

2021-09-20 09:30:00 | Weblog
119『岡山の今昔』明治時代の労働者・勤労国民の暮らし(自由民権運動との関わりで)
 
 明治に入ってからの岡山で最初に起こった大事件といえば、やはり血税一揆をあげない訳には行くまい。この一揆のあとの1874年(明治7年)には、北条県の小野参事(知事)は、地租を納める住民が参加する民会を発足させ、働く者の懐柔というか、融和策をとる。
 かかる民会は、町村会・区会・県会に分かれ、議会は選挙で選ばれる仕組みである。内容面では、議会での議論や決議は自由で、全国でも進んだ制度とも宣伝されたようだが、町村会・区会・県会は、各議会において某かを決議しても執行する権限はなく、そのままでは県庁の裁断を待つしかない。
 北条県内において、議会で取り上げられた事柄事を見ると、「新聞の件」や「税金・村の費用」から、「学校」「道路や用水」、さらに「娯楽」といった地域の暮らしに結びつく、あれやこれやの案件が取り上げられている。ちなみに、その「民会議事略則」には、こう記されていた。

 「一、民会議事の基本は言語をひらき上下の情を通じ天賦(てんぷ)の自由をとげ、もって厚生利用の権を得せしむる事。」

 1876年(明治9年)、北条県は合併して岡山県となる、これは吸収されたとみるべきだろう。1879年(明治12年)になると、最初の岡山県議会議員選挙が行われ、県議会が開かれる。
 ところが、この間に中央政府の支配の網の目は地方にも及んできていた。いわく、「富国強兵」、地方と人民はこの国家の崇高な目的のために粉骨砕身、努力を惜しむなと言う訳である。
 これに対して、美作・津山の立石岐(たていしちまた)、鏡野の中島衛(なかじままもる)らの豪農政治家は、備中・備前の代表と協力して、「県議会が開かれても、政府の規則や命令で何もできない。くらしを良くする為には、政治を変え、人民の国会を開くしかない」と国会開設請願の署名運動を起こす。この運動は、全国的なうねりを作り出して、日本の歴史を前へと進めていく。
 おりしも、西南戦争(1877~1878)という内乱に勝利した政府は、新たな権力基盤としてのブルジョア的な政治経済体制を築いていく。その過程で、「新生岡山」においても、以降、様々な政治・経済・文化を引っくるめての動きが活発化していくのであった。

(続く)

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◻️122『岡山の今昔』明治・大正・昭和時代(戦前)の工業の発展

2021-09-20 08:35:47 | Weblog
122『岡山の今昔』明治・大正・昭和時代(戦前)の工業の発展
 
 1909年(明治42年)から1913(大正2年)にかけての岡山県内の産物(生産物価額)の比率としては、農畜水産物比率が50%台を維持しており、人々の暮らしの維持にとって頼みの綱であったのがわかる。
 これを1912年(大正元年)分の岡山市の統計をみると、なかなかに興味深い。というのは、「岡山市の農産物価額が岡山県全体の0.3%しかなく郡市最下位の20位(岡山市の産業生産総価額の中でも1.4%しかない」(下野克己「第一次世界大戦前の岡山県の工業」)というのだ。
 一方、工産物価額(同年分)でいうと、当時の岡山市は同市の産物生産総価額の中で96.9%を占めて、他の郡市とは大いに異なる構成だ。ちなみに、この時点で郡市の中で工産物価額が全体の過半数を占める状態になっていたのは岡山市、浅口郡、都窪郡(つくぼぐん)、小田郡にかぎられるとのことであり、その頃の岡山県はまだ「工業立県」とは程遠い状況であったようである。

 
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それでは、当時の工業生産額の、主だったところでの産高構成は、どうなっていたのだろうか。

◎1913年(大正2年)の岡山県で生産された工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって1606万2000円である。そして2位は綿織物で814万1568円、3位は清酒で604万9438円。4位が花筵(はなむしろ)で、278万6749円。
 
○岡山市の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって494万8000円である。そして2位は綿織物で294万8247円、3位が紡績絹糸で69万9763円。4位が菓子類で、50万1107円。
 
○児島郡(こじまぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって136万円、2位は繊維雑類で128万7786円、3位は綿織物で123万3392円。4位が人造肥料で、108万4247円。
 
○浅口郡(あさくちぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって351万2000円である。そして2位は綿織物で85万9573円、3位は清酒で61万9828円。4位が機械製麦粉で、31万2492円。
 
○都窪郡(つくぼぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって357万7000円である。そして2位は花筵で100万5747円、3位は取引卸簿荷で50万762円。4位が畳表・蓙座で、45万2038円。
 
○小田郡(おだぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が綿織物であって160万4000円、2位は紡績綿糸で30万8955円、3位は取卸簿荷で27万7500円。
4位は麦稈真田であって、25万7538円。
 なお、麦稈真田(ばっかんさなだ、麦藁真田ともいう)とは、むぎわらを、真田紐(さなだひも)のように編んだもの。夏の帽子を作るのに用いる。
 
○上道郡(じょうどうぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が綿織物であって117万1928円、2位は紡績綿糸で106万円、3位は醤油で1527万4632円。4位が西洋紙で、14万1900円。

(続く)

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◻️132『岡山の今昔』敗戦時の岡山市街、闇市、復興方針など

2021-09-19 09:28:02 | Weblog
132『岡山の今昔』敗戦時の岡山市街、闇市、復興方針など
 
 敗戦の少し前の1945年6月29日未明の、岡山市空襲の状況については、米B29爆撃機138機が岡山市上空に来襲し、焼夷弾(しょういだん)約9万5千発を投下したというから、驚くほかはない。
 これにより、亡くなった人が1700名以上(市史によると1737人とも)と言われる(別項で詳述)。その時の人々の主な死因は、直撃弾によるものばかりではない。火災による焼死のほか、防空壕や下水溝暗渠のなかでの圧迫死ないし焼死、それに窒息死も少なくなかったという。負傷者も、6000名以上というから、さながら地獄と化していたのであろう。
 また、建物や住居などの被害については、アメリカ軍のものを含めてかなり多くの写真が撮られていて、中心市街地の70%近くが焼失し、県庁や市役所は全焼、各官庁の出先機関も大方被災し、岡山城を始め寺院等の文化財・建造物もかなり多くが灰となった。
 民間の建物の中では、天満屋や岡山の交通網など、詳しくは岡山空襲展示室(北区駅元町)を訪れると、全体を俯瞰しての理解のはや道となろう。その状況は、つまるところ、廃墟のような有り様であって、市街地全域への集中爆撃ということでは名古屋などの被災風景なりと重なる部分があろう。
 
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 その頃、空襲と敗戦による経済の混乱とが合わさって、焼け野が原と化した岡山に闇市(やみいち)が出現した。
 というのも、市外への買い出しもかなりの程度あったろうが、大方は配給だけでは食べて行けなかったから、人々はかなり価格が高くとも、手を出さざるを得ない。それでこそ、栄養失調や病に倒れる、もしくは餓死を免れることができるだろうと。
 その主な場所としては、駅前は言うまでも無く交通の要所であった。後楽園前も、当時は西大寺鉄道が通っており、後楽園はその終点となる駅があり、こちらも人の動きが多くあった事があったろう。
 中でも、奉還町から上伊福(現在の北区、岡山駅から北へ向かって歩いて行ける)にかけてのエリアは、空襲で当時の県庁舎が焼失してしまっている。そのため、現在の岡山工業高校のある辺りに仮庁舎が作られており、出店が並ぶなどして賑わう。
 そんなうちにも、1946年(昭和21年)9月、現在でも市街地にある岡ビルの地には、西川沿いに現在の「岡ビル市場」(現在の北区野田屋町)につながる「岡山マーケット」がオープンし、闇市と区別して、「お客さんが安心して買い物できる市場」、マーケットをスタートさせたと伝わる。
 
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 それからの岡山市の再建の様子については、色々あろう。参考までに、次にその一部を紹介する、当時の市長の「緒言」には、自戒を込めつつも、並々ならぬ決意が見てとれる。

 「緒言
 我国の都市の多くは、今日まで全く無秩序と言つてもいゝ様な状態で発達して来た。(中略)
 我が岡山市も維新以来無統制な都市形態を以て、発展変貌しつゝあつたのであるが、大正12年都市計画の指定を受け同年12月都市計画道路網が内閣の認可を得て決定せられ昭和三年事業に着手し昭和13年一応第一期事業と見るべきものは終つたのであるが、結論として満足すべきものではなかった。(中略)
 かくて戦争は終結した。洵(まこと)に不幸なことではあるが、一面今こそ思い切った、理想の都市を建設すべき絶好の機会である。将来の日本が平和国家、高度文化国家として、再び世界人類に貢献出来る日のある事を信ずる以上飽迄(あくまで)理想的計画を実施する必要がある。敗戦国の故を以て、将来の計画に対してまで卑屈であっては絶対にならない。
 今回の岡山市の復興計画は県、市、当局を主体として衆智を集め、研究しつゝあるのであるが、之(これ)は相当思ひ切った案である。之が実施の可能は当事者の誤らざる信念と不退転の努力にあることは申すまでもないのであるが市民各位の燃ゆるが如き愛郷の精神と互譲融和の精神とによって、当面する様々の隘路(あいろ)は克服され初めて此の一大事業は完遂せられるものである。そして我々は再建岡山市を期待しそれから生まれ出づる香り高き文化を我々子孫が享受し得る事を切に祈るものである。
 岡山市長 橋本富三郎」(岡山市復興局編「岡山市は如何に復興されるか」合同新聞社、1946、なお本人は翌年。GHQによる「第二次公職追放」(マスコミ関係を含める)の発令を心配したのであろうか、一身上の都合により市長職を辞任したという)
 

(続く)

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◻️138『岡山の今昔』2000~2010年代の岡山

2021-09-18 22:07:47 | Weblog
138『岡山の今昔』2000~2010年代の岡山
 
 続いて取り上げるのは、2000~2010年代の「岡山都市圏」の暮らし向きなのだが、前提としての20
世紀末までの産業構造とは、かなり異なっていく。すなわち、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が一段と進んでいく。
 今回も、それと相俟っての人口動態に少し触れておこう。具体的には、同都市圏の出生数(5年間)は、2000~2005年の56千人が2005~2010年には51千人に激減しているではないか(「国政調査」)。
 また、これとの関連での就業の状況は、2000年での全体数567.2千人のうち、第一次産業が6.4%の36.3万人、第二次産業が29.5%の167.2千人であるのに対し、第三次産業は64.1%の363.7千人とされる。それが2005年の就業総数553.7千人のうち、第一次産業は6.3%の35.0万人に、第二次産業が26.7%の148.0千人なのに対し、第三次産業は66.9%、370.7千人となっており、農業などとともに、製造業もウエイト及び就業者数を減らしている。
 さらに2010年になると、就業総数519.6千人のうち、第一次産業は5.06%の25.8万人に激減、第二次産業については25.2%の131.0千人と引き続き低落したのに比べ、第三次産業は69.8%、362.7千人とほぼ横ばいであり、農業などとともに、製造業のウエイト及び就業者数の低下が続いている。
 
 かくて、これだけの状況を1980年と2010年とで俯瞰的してみると、かかる30年の間に全体の就業者数は2.9%だけ減少したことになっている。次いでその中身でいうと、第一次産業の就業者数は62.7%、第二次産業のそれは25.2%に減った。それらに対し、第三次産業の就業者数は24.9%の上昇をしめしているのである。


(続く)

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◻️135『岡山の今昔』1970年代の岡山

2021-09-18 21:14:02 | Weblog
135『岡山の今昔』1970年代の岡山

 

 岡山県での1970年代といえば、どんな出来事があったのだろうか。大きなところでいうと、さしあたり、1970年(昭和45年)6月には、 岡山県消費生活センターが開設される。同年7月には、本四連絡橋公団が発足し、本州と四国の橋渡しの立案を行う。
 1971年(昭和46)年5月には、岡山県衛生会館が、同年8月になると岡山県立博物館がそれぞれ開館する。同年12月には、岡山県として自然保護条例を制定する。
 1972年(昭和47年)3 月には、山陽新幹線が、新大阪から岡山まで開通し、東京からの超特急列車の運航が始まる。1974年(昭和49年)12月には、あの水島石油コンビナートにおいて重油流出事故が発生する。

 その模様を生々しく伝える本としては、やはり写真と文との合わせわざでのものが、一番馴染みなのであろう、その文にはこうある。
 「1974年12月18日、倉敷市水島の三菱石油水島製油所で大量の重油流出事故が発生した。流出した重油の量は42,800キロリットルに上り、海に流れ出した量は10,000キロリットルで、その被害は東瀬戸内海一帯から紀伊水道におよんだ。瀬戸内海は魚の宝庫で年間の漁獲量は、全国沿岸漁業の約25%を占めていてが、この事故は特に養殖漁業に壊滅的打撃をあたえた。被害は漁民だけでなく鮮魚商をはじめ水産関連業者、つり舟、海水浴場、国立公園の景観などにもおよび、消費者にも大きな影響をあたえた。
 沿岸住民は事故後、正月も返上して連日家族ぐるみで清掃作業をおこなったが、つぎからつぎへと漂着する重油に追われていた(これより以降の写真撮影は伊藤昭一)」(宮本憲一監修「写真・絵画集成、日本の公害4、高度成長と公害」日本図書センター、1996)
 1975年(昭和50)年3月には、山陽新幹線の岡山~博多間が開通し、列車は関門海峡をくぐって九州へと行けるようになる。同年7 月には、岡山県立森林公園が開園となる。続く10月には、中国縦貫自動車道の吹田~落合間が開通し、大阪から2時間ばかりで岡山県に来れるようになる。1978年(昭和53年)10月には、瀬戸大橋の児島・坂出ルートが着工となる。

(続く)

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