◻️136『岡山の今昔』1980年代の岡山

2021-09-18 18:46:44 | Weblog
◻️136『岡山の今昔』1980年代の岡山

 ここでは、1980年代の「岡山都市圏」(定義としては、全市と関連自治体)の暮らし向き(実生活)を、若干ながら観察してみよう。まずは、前提としての産業構造は、前段としての高度成長期(概ね1950年代半ば~概ね1960年代)から低成長への過渡期(概ね1970年代)の激動期を経て、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が見られる。
 それと相俟っては、人口動態に少し触れておこう。それというのも、同都市圏の出生数(年間)は、1980~1985年の70千人が1985~1990年には63千人と減少している。
 では、これとの関連での就業の状況は、どのように推移したのだろうか。これをみると、1980年には全体が534.9千人のうち、第一次産業が12.9%の69.2万人、第二次産業が32.8%の175.2千人であるのに対し、第三次産業は54.3%、290.5千人とされる。これが1985年までくると、全体が544.2千人のうち、第一次産業が11.4%の62.0万人、第二次産業が32.3%の175.8千人であるのに対し、第三次産業は56.3%、306.4千人とあり、製造業はほぼ横ばいで健闘するも、農業など第一次産業はウエイト及び就業者数の減少が止まらない。

 もう一つ、今度は県内を俯瞰的に見たら、どんな具合なのだろうか。視点を県内工業の重化学工業化比率に変えて見ると、1980~1985年の事業所数では19.8%から22.6%に、従業者数では43.1%から46.4%に伸びている
(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」岡山大学経済学会雑誌19(2)、1987に引用の統計から引用、以下この文節では同じ)。
 一方、出荷額等の比率は74.4%から73.2%と横ばいである。その中でも水島工業地帯の、同期間における岡山県工業における比率は、それぞれ3.8%から4.0%に、17.3%から15.3%に、58.2%から49.8%変化しており、中核的存在であり続けている。

(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️111『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、養蚕、伝統工芸など)

2021-09-18 06:45:39 | Weblog
111『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、養蚕、伝統工芸など)

 時代が明治に入って、内陸部では生糸の生産が盛んになっていく。こちらは、養蚕と製糸という二つの工程に別れる。ここでは、養蚕というのは、どのような工程をいうのか、かいつまんで紹介しておこう。
 かいこは、いうまでもなく、あの白っぽい虫のことである。その体の具合がよいのは、かいこの幼虫にとって暖かな住居が必要で、まずはボックス状の住みかを与えておいて、そこで新鮮な桑の葉を食べさせなければならない。季節は夏場、根気のいる作業が続けられる。
 そして大きく成長したところで、次の工程に移る。住居が必要で、碁盤の目のような木枠組みをしつらえた住みかを与えて、かいこが糸やを吐いて繭をつくるのを手助けする。
 通常の生糸としては、7~10個の繭から引き出した繭糸を より合わせて1本の生糸としていく。これを手繰りでいうと、そんな一つひとつの繭の扱いたるや、なかなかに神経を使うものであったろう。
 1、お湯で煮た繭を手ぼうきで 擦って糸口を出す。2、糸口が1本になったら多粒の繭を、より合わせをしないで1本づつ巻き上げる。3、糸を巻き上げてるうちに、繭の皮がだんだん薄くなって来る。4、その間は、糸どうしがくっつかないよう に乾燥しながら枠へ巻き取 るべし。5、糸を巻き続きて糸が重な り厚くなった状態、そうなったら、糸が崩れ ない様に、所々木綿糸で 網み結んだ後、枠から 取り外す。その全体の長さは、1個当たり、大きなものでは、約1500メートル位にもなるという。なお、2021年9月17日に放映されたNHKのBSプレミアム番組「風土記、東京の里山、多摩丘陵の夏を巡る旅」においても、その工程の一部が放映された)。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️158『岡山の今昔』新見から津山へ(山間部に生きる人々と暮らし)

2021-09-17 21:15:23 | Weblog
◻️158『岡山の今昔』新見から津山へ(山間部に生きる人々と暮らし)

○新見から東へ一駅目にあるのが、岩山駅である。こちらは、旧作美線が1929年(昭和4年)に新見~岩山で暫定開業した際に設置された。ちなみに駅舎は、その時のものが当時の姿のまま残されているという。
○次の丹治部駅は、新見市の東部(旧大佐町内)にあり、中央部を県道(新見勝山線)JR姫新線が南北に併走している。また、これらの南を東に横切るのが、中国自動車道(中国縦貫自動車道)であり、大佐トンネルへ向かう前には大佐サービスエリアがある。このあたりは、大方が山林原野であり、その分水田や畑の耕作面積は狭い。交通に比較的恵まれているものの、過疎化に歯止めをかけるまでにほ、いたっていないようだ。
 なお、中国自動車道は同トンネルを出てからは一路南東、それから東へ、後に述べる美作落合の手前で姫新線と交差する。
○それから線路は北へ向かい、備中側の最後の駅、美作との境目にあるのが刑部駅である。地形的に言えば、高梁川流域の一番奥、大佐山の麓で、この先の峠を越えると旭川流域の美作に入る。車なら、県道を直進して蒜山高原に抜けるのも、おすすめとか。
○富原駅は、真庭市の西に位置する駅にして、1930年(昭和5年)に開業した。富原村であったのが、1955年(昭和30年)に合併して勝山町へ。その勝山町も、それからかなりが経過しての2005年の合併により、現在の真庭市へと変わる。

○月見駅の建物内には待合室のほか、和室があるとのこと。月田駅の周辺は木材工場が多く、「木材の町 勝山」と書かれたものまで立っていると聞く。
○中国勝山駅は、旧城下町(勝山藩)にして、観光地で知られる。別項で見るように、1985年に岡山県の町並み保存地区に指定されている。勝山駅を降りると駅前広場、そこを抜け通ってきた道と、国道181号線が交わる交差点。そこを左斜め方向にゲートを構えている通りがウッドストリート商店街で約200メートルばかりその通りを抜けたところを右折すると、街並み保存地区の南端に出るとのこと。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️443に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大賀一郎)

2021-09-17 09:46:08 | 歴史
443に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大賀一郎)

 大賀一郎(おおがいちろう、1883~1965)は、植物学者だ。賀陽郡川入村(現在の岡山市北区川入)の農家の長男として生まれる。子供の頃から、近くの神社にあったのか、蓮のことにかけては並々ならぬ関心をもつ。
 やがて岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を卒業するものの、腸チフスを患い、1年遅れて第一高等学校に入学する。
 それに、どのような経緯があったのだろうか、つまびらかでないものの、1902年(明治35年)には、岡山基督教会でキリスト教の洗礼を受ける。

 1902年(明治42年)に同学を卒業して同大学院へ進学、藤井健次郎教授に師事して植物細胞学を専攻する。

 学業のかたわら、内村鑑三の無教会主義に影響を受けキリスト教に関心を示し、足繁く教会に通う、やがて同志社系の日本組合岡山基督教会で洗礼を受ける。
 そんなある日、内村に大学進学の相談をしたところ、「君はよく僕にハスの話をしてくれたじゃないか。ハスは、我々人間がどんなに知恵を絞っても決して作り出すことはできない。神様のみが創れるものだ。神様の創りたもう植物を勉強したらどうだろう」と言われたらしい。その影響もあってか、東京帝国大学理科大学植物学科に進学する。

 1910年(明治43年)には、第八高等学校(現名古屋大学)の講師となり、翌年、そこの生物学教授となる。

 1917年(大正6年)には、転機が訪れる。南満州鉄道の社員に転出し、大連へ赴任したのだ。教育所所員として働く傍ら、満州各地の植生を調査してまわる。

 1923年(大正12年)から1926年(大正15年)には、満鉄本社の計らいでアメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ留学し、球形素焼蒸留計使用の実験を行ったり、満州から持ってきていたハスの遺物の研究も進み、発芽に成功する。

 アメリカを離れ、満州に戻ると、教育専門学校教授に就任する、そして「南満州フランテン産の生存古蓮実の研究」によって東京帝国大学から理学博士の学位をもらう。
 そうはいっても、満州における日本の植民地政策に疑問を持っていたようで、1932年(昭和7年)には、満鉄を辞任して東京に戻る、政治には染まりたくなかったのではないだろうか。
 そんな大賀は、その後のある日、千葉市剣見川草炭地にて、2000~3000年ほどの昔のものとされる丸木舟が発見されたのを聞き、駆けつける。それが、後にいう「大賀ハス」との出会いであった。彼は、仲間とともにその研究に没頭し、新たな境地をともに切り開いていく。思うに、求道者のような心境でもあったのだろうか、こんな風に、ハスのことを述べている。

 「奈良平安の頃、わが国では「蓮葉の宴」が宮中で催された。まさにこれは観蓮会である。この「観蓮の宴」はその後の記録にないが、徳川中期になって山本北山が上野不忍池で観蓮節の詩宴を張り、五山・枕山・湖山がこれに続いたが、昭和十年からはわたしがついだ。(中略)
 ハスといえば、仏教国のわが国民は、光明遍照の極楽浄土のこの象徴花を、いつしか陰気な暗い花にしてしまっていたが、特に戦後の新日本ではそうではなく、むしろ陽気な花となっているようである。(中略)生物長寿の好例となって、人生に希望を与えたばかりではなく、いつしかハスに対する人々の認識を深めたようにも思われる。(中略)
 私は「ハスは平和の象徴なり」という標語に思いあたった。(中略)願わくは、このハスが、わが国から世界各地に伝わって、殊に世界に平和の来らんことを念願するものである。」

 さらに、学業との関連もあったのだろう、戦後荒廃した上野不忍池の復興にも尽力する。以上のように、なんという清々しい話であろうか。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️415『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、柴原宗助)

2021-09-16 21:11:26 | Weblog
415『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、柴原宗助)

 柴原宗助(しばはらそうすけ、1847~1909)は、宗教家、地方政治家、教育者といった多方面の顔をもつ。後月郡井原村(現在の井原市井原) の柳本甚八郎の二男に生れる。
 幼名は恭二、のち宗助に変わる。幼少の時、興譲館で、岡山県内の阪谷郎廬に学ぶ。
 やがて、大阪に出て薬局に勤める。その後、京都で新島襄の同志社で学ぶ。
 帰郷後は、高梁・本町9の酒造業柴原家の養子となる。1868年(明治元年)には、酒造業のほか柴原文開堂を開店し、書籍・文具・小間物・薬の販売を始め、書籍の出版、郵便引受なども手掛ける。
 1878年(明治11年)には、学習結社「開口社」を共同設立し、一躍、自由民権運動へうって出る。翌年には、上房郡から初回の岡山県議会議員に当選する。全国的な国会開設運動に参加していく。
 他にも、中川横太郎や金森通倫(かなもりみちとも)を高梁に招き、キリスト教の宣教の講演会を開くなど、いた。彼等の招きにより、1880年(明治13年)には、キリスト者の新島襄(にいじまじょう)が来高し、その後彼とも親交を保つ。
 1882年(明治15年)には、高梁キリスト教会設立の中心となり、この年の 4月26日金森通倫によって福西志計子ら14人と共に洗礼を受け本格的に信仰の道に入る。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️476『岡山の今昔』岡山人((20世紀、川﨑祐宣)

2021-09-16 20:25:25 | Weblog
476『岡山の今昔』岡山人((20世紀、川﨑祐宣)

 川﨑祐宣(かわさきすけのぶ、1904~1996)は、鹿児島県横川町の生まれ。生家では、教育熱心だったようである。高等学校在学中、叔父である医師・永田安愛の献身的な姿に影響を受けたと伝わる。そのうちに、医師の道を志す。
 1939年(昭和14年)、「外科川崎病院」を開院。病院には「年中無休・昼夜診療」の看板が掲げられ、受付窓口には「医療費にお困りの方は、ご遠慮なくお申し出ください」という立て看板が置かれていた。
 この病院は、戦争により全焼したものの、1946年には再建することができた。1950年(昭和25年)、財団法人川崎病院を設立し、理事長兼病院長に就任する。当時は、なにしろ医師不足、本人は忙しく診療に当たっていたという。診察と患者の治療に当たるうちに、ある思いが浮かんできたらしい。

 「障害者のケアを県内のどこでもしていない。この人たちのために、私の手で専門の施設がつくれないだろうか」と。 

 伝わるところでは、川﨑は友人で医師でもある、三木行治岡山県知事に、胸中をうちあける。すると三木は、更井良夫(牧師・岡山博愛会理事長)を紹介する。

 1954年(昭和29年)、川﨑は「旭川荘設立趣意書」によって旭川荘の創設を正式に発表する。1957年(昭和32年)には、旭川荘が発足する。

 その翌年には、肢体不自由児施設「旭川療育園」、知的障害者施設「旭川学園」、乳児を対象とした「旭川乳児院」の三施設が開設する。旭川荘は、やがてそこに参加した医師や職員たちの努力によって、日本における医療福祉施設のさきがけとなっていく。

 さらに、良医の育成の必要性を痛感したとされ、当時としては、革命的な私学の大学を開設しようと企てる。並々ならぬ決意を抱いた。当時の文部省には、「倉敷という場所で、大学が運営できるはずはない。教員を集めることができるのか。資金はどうするのか」などと言われ、それでも諦めない川崎は、毎週のように霞が関に通っていたようである。

 そして迎えた1970年(昭和45年)に、川崎医科大学を設立する。1991年には、川崎医療福祉大学を開学する。良医と医療技術者の育成の必要性を痛感してからの歩みは、まさに一筋の大いなる道にして、その学窓からは多くの医療専門家を輩出していく。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️570『岡山の今昔』岡山人((20~21世紀、江草安彦)

2021-09-16 20:24:03 | Weblog
570『岡山の今昔』岡山人((20~21世紀、江草安彦)
 
 江草安彦(えぐさやすひこ、1926~2015)は、医師、社会福祉家、それに教育家でもある。
 笠岡町(現在の笠岡市)の生まれ。やがて、医学を志す。戦後の1950年(昭和25年)に、岡山医科大学付属医学専門部(現在の岡山大学医学部)を卒業する。翌年には、同部小児科学教室で働く。
 そのうちに、ある構想を抱く。障害をおった人々を医療でもって支えようというのだ。1951年(昭和26年)には、仲間とともに、中国四国地方初の重症心身障害児施設、旭川荘を開設する。
 そんな医療やの実践を通して、障害者療育の実践研究を積み重ねる。それらとともに、医療と福祉の一体化の推進を考えていく。社会がかれらに寄り添っていく道を考え続けていたのであろうか。

 1987年(昭和62年)には、重度障害者雇用事業所(有限会社・トモニー)の設立に参画する。
 やがて、その経験を基礎に、医学教育への福祉学の導入と福祉教育への医学の導入を探るべく、新しい学問分野である「医療福祉学」の体系化を進める。これなどは、前人未到の道というべきか。
 保健福祉人材の育成さらには国際交流に及ぶ広範な領域で優れた功績をあげる。1991年には、川崎医療福祉大学の学長になる。2007年からは、学校法人旭川荘の理事長を務める。誠に、世の中にいう「花も実もある」とは、江草の人生のような博愛精神とその実践に代表されるものなのかもしれない。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️5『岡山の今昔』岡山の地質と水

2021-09-16 09:55:34 | Weblog

5『岡山の今昔』岡山の地質と水

 岡山の地層としては、何があるのだろうか。結論からいうと、実に様々なのだが、その中でも、やはり石灰岩が挙げられる。これは、生物の化石が海底にたまったものが石灰化し、地層化していった。それが地層変動により地表近くに出てきて、今日私たちの目に触れるものとなっている。
 岡山では、「三群帯」と呼ばれる、新潟県から佐賀県に至る長い帯状に石灰岩を含む地質構造が見られて、日本でも最も純度の高い石灰質を含むことで知られる。この帯に属する石灰岩の大規模な鉱床としては、山口県の秋吉台と並んで新見市の草間台地があり、これらは美しい「カルスト台地」「カルスト地形」を形成していることでも有名だ。

 ここにカルスト台地とは、石灰岩からなる台地をいう。主成分の炭酸カルシウムが雨水や地下水に溶解されやすくなっているため、鍾乳洞などのカルスト地形を形成する。
 付随して地下水は、カルシウム溶出のため、硬度が高くなる。なお、水中のカルシウムとマグネシウムの合計量を示す尺度にして、工業上は1リットル当たり100ミリグラム以下が軟水、同200ミリグラム以上が硬水、中間領域は通常硬水と呼ばれる。参考のため、一概に言えないものの、日本では軟水が主流であり、飲用ができるのが普通のようである。

🔺🔺🔺

 これとは別に、岡山は、山間部を中心に水にまつわる情報ご数多く寄せられる土地柄でもある。その一つ、県内随一クラスの名水ところ「塩釜の冷泉」(真庭市八束(やつか))を紹介しよう。

 「中国山地の蒜山(ひるぜん)三座の一つ、標高1112メートルの中蒜山(なかひるぜん)中腹に湧く水が、20坪ほどの青く透んだ池を形成しています。湧出量(ゆうしゅつりょう)は日に2万6000トン、常温11度で、清水にしか育たないヒルゼンノリと呼ばれる藻(も)の生息地としても知られます。池は、山頂に向けて楕円(だえん)が2つ連なるひょうたん形で、湧出口から流れ出る小川が、水汲み場になっています。(中略)地元では、水道、灌漑(かんがい)のほか、マスの養殖にも使用しています。」(カルチャーブックス編集部編「日本列島百名水」講談社、1997)
 


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

     

新177○○161の4『自然と人間の歴史・日本篇』厳島の戦い(1555)と川中島の戦い(1561)

2021-09-11 13:38:44 | Weblog

新177○○161の4『自然と人間の歴史・日本篇』厳島の戦い(1555)と川中島の戦い(1561)


 戦国時代最大規模の戦いということでは、何があるのだろうか。やはり、それには、後への影響も含めて広い視野に立った検討が求められるのではないだろうか。

 まずは、安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の戦いをかいつまんで紹介しよう。そのきっかけとしては、1553年、毛利元就は、主君の大内義隆(おおうちよしたか)を下克上で討った陶晴賢(すえはるたか)に対し、兵を挙げる。やがて、毛利軍は、宮島に宮ノ尾に城を築く。その頃、すでに、数に勝る陶軍をおびき寄せて叩きたいと考えていたのかもしれない


 そして迎えた1555年10月1日の未明、陶軍の約2万人の軍勢に対し、毛利軍の約4千人の兵は港を出て、包ヶ浦に上陸を果たす。
 この航海においては、暴風雨の中、先頭の船だけに灯りをともす。味方には、兵の数に怯(ひる)まないだけの士気が上がっていたようだ。


 それからの毛利軍は、博打尾根を超え、敵の本陣のある塔の岡をつく。そうはいっても、陶軍は、軍備を完全にほどいていた訳ではあるまい。それとも、何かに気をとられていて気がつくのが遅れたのだろうか。そこらあたりのところは謎に包まれているような気がしてならない。

 ともあれ、一説には、陶軍は不意を衝かれて抗戦するも、四方八方に敗走し、晴賢は大江浦(おおえのうら)まで逃げむも、自刃したという。


 その実、元就の1557年(弘治3年)の自筆書状においては、「さては、厳島において、いよいよ大利を得る寄端にて候や。藻となり罷り渡り候時、かくの如きの仕候間、大明神御加護も候と、心中安堵候つ。然る間、厳島を皆々御信仰肝要本望たるべく候」と記されている(小和田哲男「戦国武将の手紙を読むー浮かびあがる人間模様」中公新書、2010より引用)。


 ともあれ、この一戦で毛利氏の中国地方での躍進が始まったことはいうまでもなく、毛利氏の勢力拡張にかける夢は西へ、播磨や摂津そして畿内、さらに都のある京都の方へと伸びていく。

 二つ目に移ろう。そこで本州を東に向かっていくと、北信濃が見えてこよう。1561年(永禄4年)9月10日(多数説では、その前に3回、その後に1回の対陣があったという、1553年からの約12年間の長きにわたる)は、すなわち武田信玄と上杉謙信との四度目の両軍対陣にして、これを「川中島の戦い」と言い慣わしている。なお、ここで川中島というのは、信濃更級郡の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)との合流地点を、その中洲(なかす)辺りをいう。
 
 始めに、なぜこの戦いに至ったのかは、よくわかっていないものの、信濃のかなりを領していた村上義清が信玄に追われて謙信に助けを求めたこと、奥信濃の高梨氏や井上氏らが不安を感じ、これまた謙信の庇護を求めたと。

 一方、信玄の動機としては、当時相模の北条氏康、駿河の今川義元と甲相駿3国同盟を締結していたことで、北や西にじわりじわりと進出したい話ではなかったか。とりわけ、川中島地方の穀倉地帯、ひいては海のある越後への足掛かりを求めたのではないかとも。いずれにしても、それらしき史料は見つかっておらず、推測の域を出ない。


 そこで戦いの模様だが、一説には、軍師の山本勘助の提案で、兵を2手に分けて、信玄の率いる本隊の約8千人は八幡原(はちまんばら)に布陣し、別働隊の約1万2千人が妻女山(さいじょざん)の裏手へ向かう。後ろから山にいる上杉軍を平野に追いおとす。そこを謙信軍を待ち伏せて「挟み撃ち」にするとの作戦であったという。


 ところが、事は思惑通りにゆかない。誰が気がついたのか、海津城(かいづしょう)からの炊煙の量が増えているではないかと。謙信が武田方の作戦を見抜いたのは、流石だ。

 つまるところ、謙信の上杉軍は、夜の間に妻女山を降り、八幡原に布陣する。そして深い霧が晴れると、向こうに謙信の軍が現れたのだろう。

 そのうちに上杉の攻撃が始まると、驚いた側の武田軍は柵を設けていなかったのであろうか、あれもこれもが響いて味方は劣勢となる。突き進んでくる敵は武田軍の陣営深くに達し、信玄の弟で副将の武田信繁(たけだのぶしげ)、軍師の山本勘助(やまもとかんすけ)などの名だたる武将が討ち死にしてしまう。


 さても、この戦いの後半では、武田軍の別働隊が、攻め込んだ妻女山がもぬけの殻なのに気付き、八幡原に引き返してくる。やがて、上杉軍はそれ以上の突撃を諦め、引き返してゆくのであった。


 そこで真に驚くべきは、その死者は約4千人を超え、死傷者が約8千人にも及ぶ、そこまでなる前にどちらも撤退しなかったのは、濃霧で大混戦になり、いたずらに死傷者を増やしたためもあったのではないか、と言われている。

 ちなみに、かたや上杉謙信(1530~1578)本人は寡黙の人であったのではなかろうか、それでは彼の好敵手と伝わるもう片方の人物は、戦いというものをどのように見ていたのだろうか。
 江戸時代に編纂された「甲陽軍艦」によると、武田信玄(1519~1574)の言葉として、「勝負の事、八分の勝はあやうし。九分九厘の勝は味方大負(おおまけ)の下作也(したつくりなり)」(品39)、「四十歳より内は、勝つように。四十歳より後は負(まけ)ざるように」(同書品39)などは、大勝は望まないとしてあるのは、有名である。これは、そのことが植え付けてしまうであろう慢心を戒めるのはむろんのこと、「また軍略だけでなく、信玄が戦に臨む上での処世訓のようでもある」(萩原三雄ほか8人の専門家による執筆にての「武田信玄入門」山梨日新聞社、2021)


 そして現代に至るも、ここまで冷静に戦いについて述べることができる人物というのは、日本史に限っては、他に類を見つけられないようにも感じられる。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️903の1『自然と人間の歴史・世界篇』溶ける氷河(アレックス氷河など)

2021-09-08 22:16:24 | Weblog

903の1『自然と人間の歴史・世界篇』溶ける氷河(アレックス氷河など)

   2018年の夏、例えば、アルプス山脈最大の規模を誇る、スイス南部バレー州にあるアレッチ氷河の融解が話題になっている。アルプス山脈(スイス・アルプス)の北部、ベルナー・アルプスに属するこの地で、今年夏の欧州は記録的な猛暑のため、7月下旬に、平年より約1か月早く降雪が止まった。そのため、氷河の後退が進んでいるという。

   この氷河は、2001年に国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された、極北を除く欧州では最大だ。この氷河の浸食作用によって削り取られた山々の肌は、氷河地形の典型だとされる。1970年代には、その長さが約24キロメートルあった。
 ところが、2014年には、約22キロメートルに縮小した。同地点で撮影された写真が公にされており、なるほど、同氷河の末端近くでは、岩肌の露出が見てとれる。

 最大クラスのものでこうなのであって、アルプス一帯にある中小の氷河にも融解がひろがっているという、この数千年間では前代未聞の出来事になっている。

 
 そこでもしこのような融解が続く中、そのことにより増えた水が海に大量に流れ出すことになると、話は地球全体のものとなっていくのだろう。
 なぜなら、陸上にあった氷がそこを外れていくのだから、例えば北極海で浮かんでいる氷が溶けるのとは異なる(注)、そしてまた、一旦水となりかわれば、そこからの温度上昇の程度によっては、海水面上昇をもたらしうるものとなるのだろうから。 
 いずれにしても、このような氷河の融解がこれ以上の話になっていく可能性はかなり大きく、これまで以上の対策がとられる話になっていくのかもしれない。

(注)

 いま氷が海水に浮かんでいることにしよう。これは、氷は海水より比重が小さい、つまり軽いことによる。

体積(V)の氷の比重をX)とすると、その重量(G)はこうなる。

 

 G = X・V   ・・・ (1)

 

 この氷がとけて水となってのその重量(G)は、質量不変の法則から変化しない。ついては、とけた水の体積を(Vw)、その水の比重を(Xw)とすると、その重量はこうなる。

 

 G = Xw・Vw  ・・・ (2)

 

 アルキメデスの原理によれば、水中の物体は、その物体が水に入る時おしのけた水の重量だけ軽くなる。

 

 そこでいま、氷の水没している部分の体積を(Vu)としよう、すると、氷に働く浮力(F)は次の式で求まる。

 

 F = Xw・Vu  ・・・ (3)

 

 かかる状態は、力のつり合いがとれている訳なので、の法則より、次の式のように、氷の重量=氷に働く浮力となっているはずだ。

 

 G = F   ・・・ (4)

 

(2)(3)式を(4)式に代入すると、(5)式が成立する。

 

 Vw = Vu  ・・・ (5)

 

 つまりは、氷がおしのけた水の体積はとけた氷の体積に等しい。

よって、海面に浮かぶ氷がとけても海面上昇はなく、これをもって、例えば北極海の氷が溶けても海面上昇には至らない。

 

 一方、氷床のあるところでは、溶け出したら海面上昇につながりうる話であると述べたが、その形成時期としては、いつ頃のことだったのだろうか。いま最終氷期(さいしゅうひょうき、Last glacial period)というのは、およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期をいう。
 それが、この直近の氷河期が終わった頃の日本列島での気温は、今より2、3℃高くなっていた。およそ6000年前、日本では「縄文海進」と呼ばれている時期、海面は今より5メートル位は高かったのでは、ないかと考えられている。ちなみに現在、海抜5メートル付近には、横須賀の夏島遺跡など多くの貝塚遺跡が明らかとなっている。

 

 参考までに、こうした論調には、次のような定量的な話も加わっていて、しばしばマスコミなどでも取り上げられている。

 「地球温暖化による大雨が増加する主な原因は、気温の上昇に伴う大気中の水蒸気量の増加にあると考えられている。クラウジウス・クラペイロンの関係(CC効果)によれば、気温が1℃上昇すると、大気に含まれうる最大の水蒸気量(飽和水蒸気量)は理論上約7%増加する(注1)。」(地球温暖化による大雨への影響評価には100年以上のデータが必要、NPO法人 国際環境経済研究所HPに掲載(2021年5月31日付け)の堅田 元喜主任研究員の論文、インターネット配信経由より引用)

 

 それが今日では、例えば、グリーンランドの事例で、こんな研究結果が紹介されている。


 「北極圏にあるグリーンランドで、2019年に解けた氷床の量が、過去最高の5320億トンに上ったとする研究成果を、ドイツや米国などの国際研究チームがまとめた。地球の平均海面が1.5ミリ・メートル上昇する量だという。
 チームは人工衛星による観測と気候モデルを組み合わせ、融解した氷床の量を推定した。19年に解けた量は、降雪によって増加した氷の1.8倍に上り、これまで最高だった12年の4640億トンを上回った。
 また、1948年以降で解けた氷床の量が多い上位5年は、いずれもこの10年間に集中していた。チームは、北極圏で急速に温暖化が進んでいる結果だとして、警鐘を鳴らしている。」(「読売新聞」電子版、2020年8月22日付け)

 

 ちなみに、いま1気圧の環境を考えよう。ここでの海水の比重(1.02程度)は真水の比重(1)よりわずかに大きいが、これを無視した上での話としよう。

 なお、かかる1気圧のもとでの水の密度(Y)は 、(1)氷(0度):0.91671g/立方センチメートル (2)水(0度):0.999840g/立方センチメートル (3)水(3.98度):0.999973g/立法センチメートルでこれが最大値であり、1番重い。

 これだと、0から3.98度までの水は、温度が上昇するにつれて体積が縮小していたのが、それ以後の温度上昇により熱膨張していく。

 次に、海洋の平均水深を(D)と見立て、海水の熱膨張は海面上昇の一つの要因となりうると仮定しよう。すると、各温度において海水温が1度上昇した時の、予想される海面上昇率(H)は、次のようになろう。

H(t+1時点)=(Y(t))/(Y(t+1)-1)D

 Y(t))は、温度tにおける水の温度

 (Y(t+1)は、温度t+1における水の密度

 

🔺🔺🔺

 
 とはいえ、これら、地球が温暖化しており、これからも上昇を続けるだろうとの議論には、別の論調も見受けられる。なお、産業革命からは徐々に、小規模ではあるものの気温の上昇が現時点では認められる。

(注)なお、氷河期(その中には氷期と間氷期とがある)と氷期との使い方で相互乗入れというか、同じく「期」を付けることによる混同が、ままあるようだ。ついては、「氷河時代」の中に「氷期」と「間氷期」があるという書き方に統一するのが望ましいとの見方もあるほどだ。いづれにしても、現在が「間氷期」であるという認識で、地球の歴史の中では比較的「寒冷な時期」であるという点だと考えられていることては、変わりはなかろう。

 言い換えると、現在の完新世間氷期は、約11,700年前に更新世の最後の氷期が終わりを迎えるとともに始まった、氷期と氷期の間に挟まれた、気候が比較的温暖な時期であると考えられている。

 けれども、この先の気候かどうなるのかの確かなことは、まだわからない。だから、より厳しい寒冷な氷河期への転換が起こってくる可能性もありうるという、上記の地球温暖化学説が描くシナリオと逆をゆく学説も出てきていることに、留意すべきだろう。その一つには、こう、ある。

 「1、地球の平均気温は長期にわたって変動を繰り返してきた。中世温暖期(~10世紀)から小氷河期(16~18世紀)を経て、現在は再び中世温暖期とほぼ同じ気温に戻った。300年前から上昇してきた気温は18年前から頭打ちになっている。
2、気候変動と太陽活動との間に強い相関があることは古くから知られていたが、最近、これは太陽磁場が地表に到達する宇宙線量を左右しているためであるという認識が得られた。すなわち太陽磁場が弱くなると宇宙線量が増え、これが低層雲を作ることで気温を下げることになる。現在、太陽は長期にわたる活動期を終了したので、今後は活動が弱まるにつれて気温の低下をもたらすものと予測される。
3、今後の数十年間は、太陽活動の低下による寒冷化の一部は二酸化炭素の増加による温暖化によって打ち消されるが、全体として気温は頭打ちから低下に向かい、大きな寒冷化が頻発するものと予想される。
4、大気中の二酸化炭素は植物の成育を促すプラスの効果はあっても、人間の環境にとって如何なる意味でもマイナス要因にはならない。

 存在する二酸化炭素を減らすこと自体に意味はないのであって、二酸化炭素排出削減は炭素資源を子孫に残すためにこそ意味がある。
5、炭素資源に替わるエネルギー源の開発は緊急の問題である。将来のエネルギーシステムとして可能性があるのは、水と太陽光から水素を作って水素を2次エネルギー媒体として使う水素エネルギーシステムと、藻類バイオマスエネルギーである。とくに藻類エネルギー開発には国家プロジェクトとしてただちに取り組むべきである。」(深井有(ふかいゆう)「地球はもう温暖化していない」平凡社、2015)


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


458♦️♦️『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義革命時代の文化人(プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、マヤコフスキー、ショーロホフ)

2021-09-06 10:41:23 | Weblog
458♦️♦️『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義革命時代の文化人(プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、マヤコフスキー、ショーロホフ)

 

 プロコフィエフ(1891~1953)は、20世紀のソ連を代表する作曲家の一人なのだが、アメリカでも活躍した作曲家、ピアニストとしても活躍する
 5歳にして最初のピアノ曲をつくったというから、周囲は驚いた
ことだろう。9歳で、これまたさいしのオペラの作曲を行うという、早熟であったのだろう。
 13歳の時、ペテルブルグ音楽院に入学し、作曲を専攻する。そのうちにピアノと指揮も学ぶ。
 1917年のロシア革命が起こると、アメリカに亡命する(途中、日本にも立ち寄る)。ピアニストとしても活躍するものの、のちに帰国する。
 作風は、「モダニズムと叙情豊か」というのが、大方の批評のようだ。代表作には、歌劇「戦争と平和」、バレエ音楽「放蕩息子」「ロメオとジュリエット」組曲「エジプトの夜」交響曲「交響曲第7番嬰ハ短調青春」「ピアノ協奏曲第3番」「交響的物語」としての「ピーターとおおかみ」など。

🔺🔺🔺

 ショスタコーヴィチ(1906〜1975)は、クラシックの作曲家にして、ピアニストとしても名を馳せる。ソビエト連邦時代のロシアのサンクトペテルブルクの生まれ。幼い頃から、ピアニストだった母から音楽の手ほどきを受ける。
 やがてペトログラード音楽院に入学する。19歳になっての卒業作品としてつくられた「交響曲第1番 ヘ短調」は、「天才現(あらわ)る」の高い評価を得る。国内のみならずヨーロッパ各地でも演奏され、一躍広く世に知られるようになる。
 その後,オペラ「鼻」などの劇音楽や映画音楽を生み出していく。そして、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の公演により、大成功を博す。
 ところが,この作品を全面的に否定する評論が出される。こうなれば、仕方がなく、彼は作品の発表を休止する。
 これには舞台裏があるようで、スターリンは「ショスタコーヴィチは役に立たないオペラではなく、重要な映画音楽を書かねばならない」(千葉潤「激情のショスタコーヴィチ、ショスタコーヴィチ研究の新局面」、「音楽の友」2016年6月号より引用)と述べたと伝わる。
 
 これに、当時、映画問題に関してスターリンの諮問役を務めていたシュミャッキーが「ショスタコーヴィチも多くの作曲家と同様に良いリアリスティックな音楽を書くことができますが、それには彼が管理されているのが条件です」と応じると、スターリンは「それが難点なのだ。彼らは管理されていない。(中略)どうしてこんなにも音楽では左翼主義が繁茂(はんも)しているのか。
答えは一つ。誰一人、作曲家や指揮者に対して、明瞭な大衆芸術を要求していないからだ」(同、以上はシュミャッキーの速記録)とし、専門的な音楽形式をどうのこうのというよりは、彼らを政権の思う実践的分野に動員することの方が大事と、スターリンは考えていたようである。
 

 なお、これを紹介する千葉潤氏の次の指摘は、新たなスターリン像としても興味深い。

 「スターリン独裁といえば、一枚岩的で抑圧的な全体主義というイメージを思い浮かべるが、近年のソ連研究の成果は様々な方面からこの通説に強力な疑義を突き付けている。ロシア人研究者レオニード・マクシメンコフによる先駆的なスターリン文化研究は、アーカイヴに保存された政治的資料の広範かつ緻密な読解から、ショスタコーヴィチの創作活動を揺るがした二つの批判事件の影で作用していた真の動因とその帰結について新たな解釈を提示する。」(同)

 
 これを受けてか、政府は、「社会主義リアリズム」(形式に、おいて民族的、内容において社会主義的)な作風を彼に求め、ショスタコーヴィチもこれに従う。

 その後、満を持して交響曲第5番ニ短調(通称は「革命」)の初演にふみきる。この交響曲は大きな成功を収める。これによってショスタコーヴィチの名誉は回復される。
 このようにして、ショスタコーヴィチは,ときに当局による批判を浴びながらも、創作の手を休めなかっのは、偉大だ。また、教育者としても、彼のもとからは多くの作曲家が巣立っているとのこと。
 
🔺🔺🔺
 
 マヤコフスキー(1893~1930)は、劇的な人生を生きたソ連の詩人だ。ジョージア(グルジア)の林務官の子として生まれる。
 父の死後1906年にモスクワに出て、ボリシェビキの非合法活動に加わる。三度逮捕され、監視つきで釈放されたのち画家を志す。美術学校で未来派の画家・詩人ブルリュークと知り合い詩に転じる。
 1913年には、本人を見立てての、詩人の悲しみと出発を描く詩劇「ウラジーミル・マヤコフスキー」を、1915年には長詩「ズボンをはいた雲」を、1916年には「背骨のフルート」を、これまた幻想的な発表する。これらでは、第一次世界大戦の現実を前に、幻想的なユートピアを奏でたともいえるだろうか。
 1917年にもなると、ロシアは大いなる転換点に近づく。救世主的詩人の登場を歌う「戦争と世界」、「人間」を発表し、労働者・勤労階級からする前衛的な作風になる。内戦の戦況を伝えるプラカードを多数制作したとも。
 1924年のレーニンの早すぎる死去をうけ、長篇哀歌「ヴラジーミル・イリイチ・レーニン」を捧ぐ。その中で彼が、レーニンを類い稀な英雄として祭り上げるのではなく、そのひたむきな人間性を示そうとしたのは、間違いあるまい。
 1925年には、世界一周の旅に出るも、パリのホテルで旅費を失い、北米を旅し帰国する。だが、旅日記を記して、意気軒昂なところを見せている。
 その後のスターリン政権に失望を深め、「南京虫」や「風呂」で、その独裁的な姿勢を風刺する。
 1930年4月には、モスクワ市内の仕事部屋で謎の死を遂げる。一説には、自殺したのだという。翌日のプラウダ紙において、「これでいわゆる一巻の終り/愛のボートは粉々だ、くらしと正面衝突して」との「遺書」が掲載されたものの、判然としない。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

1155♦️♦️『自然と人間の歴史・世界篇』商品管理から社会システム管理へ(ビッグデータとAIと資本主義、社会主義の未来)

2021-09-04 22:41:01 | Weblog

1155♦️♦️『自然と人間の歴史・世界篇』商品管理から社会システム管理へ(ビッグデータとAIと資本主義、社会主義の未来)

 21世紀になってからは、情報管理技術の発展のテンポが一段と速くなっているのではないだろうか。日々の生活に身近なところでは、スーパーやコンビニエンス・ストアなとでの買い物で、POSシステムで顧客管理の網に入ったり、出たりする(注)。スマートホンを取り出して道先案内を頼むと人工衛星との関係で位置情報なりが、またアプリをダウンロードすると新型コロナ感染拡大の現在がわかるという、それら以外にも、さまざまな情報が個人に、家庭に、職場に、社会全般の中を相当分自由自在に飛びかっているようなのだ。

(注)

 POS(Point Of Sales、「販売時点情報管理」)というのは、物品販売の売上実績を単品単位で記録し集計する仕掛けを指し、「パソコンPOS」「POSレジスタ」などとして、様々な現場や事務所で使われている。現在はPOSと様々形で連携する周辺機器を通信回線共々ひっくるめ、総称して「POSシステム」と呼ぶこともある。お馴染みのPOSとしては、スーパーマーケットやコンビニエンスストア、ドラッグストア、アパレルショップ、ホテルなど、全国のあらゆる施設で導入されている。

 


🔺🔺🔺

 そんな中から、ここではまず、私たちの買い物を取り仕切られているかのようなものに、今や、POSシステムの採用でいろんなことができるようになっていることがあろう。これを用いることにより、次に掲げるような管理・運営ができるという。

○売り上げ管理
 商品が「いつ」「何が売れたのか」「決済方法は何か」など売り上げに関する情報を管理し、データベースに記録。顧客リストがあれば、顧客ごとの売り上げも管理の可能性あり。
 なお、決済時にはレシートを発行する他、店舗によっては顧客ごとに、ポイントに応じて割引券やクーポン、チラシを発行したり。

○商品情報の管理
 商品コード、名称、単価など、商品情報をPOSシステムに登録できることから、売り上げが発生する前に商品のバーコードと情報をPOSシステムに記録することで、その商品がPOSシステムで扱えるようになる。これにより、商品やサービスが売れると、直ちに同システムの中にデータとして反映されよう。

 ○在庫管理

 これだと、売り上げ登録と同時に、在庫数を更新することで在庫情報を管理できる。リアルタイムで在庫状況がわかり、在庫が規定値以下に減ると自動的に発注依頼をするものも見てとれる。

○顧客管理
 商品を購入した顧客に関する情報を管理。顧客の年齢、性別、来店日時など顧客の行動を分析し、次回来店時の接客に活かすこと可能性。顧客の持っているポイントや、ポイントシステムに登録した個人情報を売り上げ情報と紐付けて管理することも可能。

○顧客管理
 データベースや在庫管理とも連動し、顧客毎に売り上げ管理。発注管理や商品企画などのマーケティング。複数店舗の管理や分析。売り上げジャーナルを参照・発行することが可能となろう。

○従業員や出入りの業者など関係者の労務管理、契約管理など

 こちらは、関係者に対して、より細やかな、それていて大胆な管理を行うことごできるようになってきているのではないだろうか。

 これらをまとめると、このシステムは、商品やサービスの金額を時間刻みに応じる形で計算(集計など)するだけでなく、多種多様な情報を蓄積できる。POSから取得したデータを商品別、時間帯別、顧客別などの切り口で分析することで、店舗や企業のマーケティングツールとして活用できる。それのみならず、仕入れ先や各種サポートを授受している他業者などとも通信回線で必要な情報をやりとりすることも、技術的には可能だ。

🔺🔺🔺

 

🔺🔺🔺

 次に移ろう。社会主義国は、現在はぐんと少なくなってしまった。それでも、ただ手をこまねいているのではなく、社会主義市場経済を標榜している。例えば中国では、公有セクターにおいて、「改革・開放」の中、個々の工場、事務所などにかなりの権限が与えられていることではかなり分権化が進んでいるようである。

 ここで「分権化」とは、これからの展開としては、各事業主は、過去の販売データと現在の売り上げ状況を組み合わせ、人工知能(AI)がアルゴリズムにしたがって販売の予測モデルをつくる。

 その際には、各々の業界に対応する共有データベース(各種事業者が共同して運営するのが望ましく、各々はこれに通信回線によりつながっている)にアクセスして、必要な部品や役務などについての業界レベルの情報をもらい、自らの供給量と価格を決めるのに役立てる。
 なお、ここでアルゴリズムとは、何らかの問題を解決するための数学的計算手順(算法ともいう)であり、これで得られた手順をコンピュータに理解させるように記述したものがプログラムである。

 それでも、そうして得られた予測が需給の変化や錯誤などで正しくないとわかった瞬間には、それまでのモデルに変更を加える必要が出てくる。その時は、AIが見通しを修正し、公有セクターは価格を改めることにもなりうるのだろう。

 なお、重要な物資・サービスについて、政府がそれらの企業に価格を示達するのはあり得て、その場合でも、市場メカニズムによる価格形成を否定するのてはなく、当該価格の上限と下限に留めるべきだろう。厳しめの誘導が必要な局面では、その幅を適宜調整すれば普通は足りると考える。参考までに、資本主義経済下のアメリカでは、1971年7月に金とドルと交換停止政策を打ち出した際時、賃金と物価の90日間凍結命令が出されたことがある。

 これだと、価格は過去の慣習や、業界内の暗黙の了解で決められるのではなくて、その時々の需給に応じて変化するものとなり、価格を決める過程が科学的で明快なものに近づけることが、これまで以上にできるのではないだろうか。

 顧みると、ソ連時代のゴスプラン(国家計画委員会)は、国の膨大な経済情報に収集と一元的処理を担う前提にて生産・供給計画を策定していた。しかし、短時間で多数の商品に関する生産情報(それに要する部材を含む)や消費者の多様なニーズを集めたり、それを分析、そして処理することでは、1970年代からは次第に遅れをとるように成り変わっていた。

 
 なお、国家の中央当局が出てくるのは、そのことが必要な状況、それには例えば、供給の隘路、競争激化による価格暴落や、カルテル結成による価格操作など、もっと大きく国民経済に好ましくない状況が起きている時などが考えられよう。

 それというのも、一方で、地方及び中央には格段ごとに記された経済発展計画があって、それぞれに見合った形で社会主義原則による管理が行われている。このうち後者には、最近は多分に民間のIT大手への独占禁止法絡みの規制が含まれよう。
 中でも、国家統計当局が総供給と総需要を把握するということでは、ビッグデータの、通信技術を用いての収集と分析は、計画経済を効率的に運営することでは、現状と比べると、大幅な前進の可能性を与える可能性が込められているのではないだろうか。

 なぜなら、一口に市場を使って国家・公共計画サイド(分権的な社会主義経済システムが前提)が、必要な情報を試行錯誤的に手にいれようとしても(注)、そうこうやりとりしている間にも市場での状況は変化していく、中には思わぬ展開で大幅な変化が生じることもありえよう。

(注)ちなみに、経済学者のオスカー・ランゲは、1936年の論文「社会主義の経済理論」の中で、完全競争経済を前提に、「効率的な資源配分をもたらす価格は、所有権の私有公有を問わず存在し、政府は試行錯誤なの末にその価格を探り当て、効率的な資源配分を実現する」とした。

 もしそうなれば、かつての社会主義計算論争などをわざわざ経由することなく、かつ、かつてソ連が取り組んでいたようなコンピューター管理による一極集中とは抜本的に異なる社会主義経済運営が可能になる、その下地が生まれるのではないかと期待されるのである(なお、ソ連での経験としては、さしあたり、当時のソ連の計画担当者の筆になる、日本語訳「コンピューターと社会主義」岩波新書を薦めたい)。


 (続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 


新630○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本の領土問題(ロシアとの北方4島、同経済協力を巡って(2016~、韓国との竹島、中国との尖閣)

2021-09-02 22:56:48 | Weblog

新630○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本の領土問題(ロシアとの北方4島、同経済協力を巡って(2016~、韓国との竹島、中国との尖閣)

 さて。現在の日本が直面している「領土問題」というのは、はたして日本及び世界のどれだけの人々が、それなりの問題意識をもって眺めているのだろうか、それに対する解答はなかなかに見あたらない。
 例えば、議論の中で国際法を持ち出す向きがあるのだが、双方が認めざるを得ないような、これといった条文なり、慣習法があるわけではあるまい。
 といっても、第二次世界大戦後の世界で起こっている領土問題の多くは、国対国のもめ事であろう。したがって、それを持ち出して自分の主張を正当化しようとする、それぞれの国の政府・人民の気持ちはわからないでもない。


🔺🔺🔺

 ここでの話のそもそもは、第二次世界大戦の終盤からその戦後処理にかけて、顕在化した。その後、サンフランシスコ講話条約のおり、日本側は2島返還の主張であったのだが、その会議にはソ連が参加していなかった。そのため、合意は不成立であった。日本は、その後に4島一括返還要求に転じ、双方合意のないままに現在にいたっているのは、別項で述べておいた。

 「日ソ共同宣言」の後、すべからく、この領土問題の解決に向けた両国の足取りについては、遅々として進んでこなかった。それが、2016年12月になって、ロシアのプーチン大統領が来日しての日ロ首脳会談で、日ソ経済協力の活動(共同経済活動)に向けて協議することで合意した。それまでの交渉の仕切り直し、もしくは新たな目標設定ということであろうか、新たな出発だといえよう。

 ところが、2017年に入ってはやくも今後の見通しに修正を迫る動きが出できている。いずれも、ロシア発のもので、次のような動きである。

 2017年2月22日、ロシアのショイグ国防相が、わが国の呼称でいう北方4島と千島列島に、2017年中にロシア軍を配置する新しい師団をもうける考えを、ロシア下院での報告で発表した。また、ロシアのプーチン大統領は2017年6月1日、わが国の呼称でいう北方4島につき、「日本の主権下に入れば、これらの島に米軍の基地置かれる可能性がある」などと述べ、日米安保条約が適用される現状では日本への返還(条約でいうと2島となる)は難しいとの認識を示した。

 この背景には、2017年に入り、日本の政府(自民と公明の連立)が安全保障問題でアメリカに盲従を強めている中で、ロシアが危惧を抱いていることがあろう。ロシアが、自国の安全保障にとってこの島々を確保しておくことが有益だと考えるのは、現在の世界の政治・軍事バランスの上では大方自然な流れでもあろう。それから2017年8月23日には、メドベージェフ首相が色丹島での水産加工業を対象に、ロシアの法律での経済特区(先行発展地域)を創設する決定に署名したと、現地ノーボス地通信などが伝えた。

 こうなると、話は「ぎくしゃくしてくる」のが、これまでの歴史の常(つね)であって、せっかく定めた日ソ経済協力においても、ロシア領土、ロシアの法律の影響下の前提に立っての協力を求めるロシアに対して、それを望まない日本との間で引っ張り合いが強まる、そのことで全体がうまく行かなくなっていく可能性があるだろう。

 それでは、経済協力の項目としてはどのようなものが考えられるだろうか。これについて、双方にとって利益が見込め、将来性のある道が示されるべきであろう。その一つに、LNG(液化天然ガス)の共同開発・輸入が考えられるのではないか。LNGは、マイナス摂氏162度で液体(体積は約600分の1)になり、船に積んで日本に運べる。

 おりしも、2017年1月6日、東京電力ホールディングス子会社の東電フュエル&パワーと中部電力sの共同出資会社「JERA(ジェラ)」が、米国産シェールガス由来のLNG(液化天然ガス)を国内で初めて輸入した。積載船が同日、中電上越火力発電所(新潟県上越市)に到着した。

 2015年度のLNGの国別輸入比率は豪州(22.9%)が最多で、マレーシア(18.7%)、カタール(15.8%)、ロシア(8.5%)(財務省の貿易統計)。アメリカの東海岸ないし南海岸からの輸入ルートで考えれば、先頃拡張されたパナマ運河を通って大平洋に出る輸送ルートがコスト安の要因となっている。一方、ロシアからLNGを調達する場合は、今のところ船だが、ロシアとはパイプラインで繋がりうる。そういう意味では、ロシアLNG、米国産LNGを調達する動きは加速していく可能性を秘めているのではないか。


🔺🔺🔺

 韓国との間では、竹島が領土問題となっていて、現在ここを占有しているのは、韓国側である。

 こちらについては、まずは歴史学の中にも、優れた研究業績なり、提言なりが提出されていて、かなりの程度、これからの道案内人になってくれるのではないだろうか。

🔺🔺🔺

 それから、現在の日本と中国との間には、尖閣の島々(中国側の表現でいうと釣魚島)の領有をめぐって意見の対立がある。そこで今、ここを領有しているのは日本ながら、中国側はこれを認めていない、いやそこは自分の国のものであると主張してゆずらない。
 思い起こせば、1970年代の日中国交回復のおり、尖閣・釣魚領有帰属の問題は、まずは国交回復が大事というコンセンサスが何かしらあったりで、双方が激突を控えたのだった。

 ところが、あれから約50年を経た今日、このことを認めない議論が日本の政論に少なからず見受けられるものの、そう言うのなら、中国側になぜあのとき、その問題を明確に日本側に示し、要求しなかったのかと聞いてみるべきだろう。なぜなら、あのときの日本も、かかる問題をあえて交渉の場に持ち出さなかった。そして、もし両者があの時激突していたなら、日中国交は暗礁に乗り上げていたのかもしれないと考えるのだが、いかがであろうか。
 近いところでは、テレビの時事ニュースなり解説を見ていると、「我が国の尖閣に中国の艦船、飛行機が何回進入した」旨の話の向きなのだが、かたや中国側は自国の海域にいて何が悪いということになっているようである。それというのも、21世紀になってから、ここを日本が国有化し、占有してしまう。当時の野田・民主党首班内閣が行ったものだが、当然のことながら、中国側は反発する。
 これには、日本の学者においても、いうなれば「寝た子を起こすようなもの」との声が上がったのは、改めて述べるまでもなかろう。それからは、日中双方が、この問題で火花を散らすように変じている。
 したがって、ここで述べておきたいのは、両者が張り合っていても解決しない、話し合う姿勢がないと、もはやこの問題は解決の方向に向かうことはない。それともう一つ、日本はアメリカとの安全保障条約をかざしてアメリカに、この問題で有事が発生したら助力してほしいと頼んで、アメリカ側もこれに理解を示している。
 だが、そのことを額面通りに受け取る識者(何かしら関心のある人のうち)は、そう多くはあるまい。というのも、もはや経済力(購買力の比較でいうと、2014年に逆転、為替でも差はそれほどない、政治家や政治学者などではいざしらず、経済を勉強している者の中では、現下の状況は当然の成り行きであろう)はほぼ互角の上、軍事バランスも2018年頃を境にほぼ拮抗してきている。なお、後段については、日米の軍事専門家の間でも今や共通の認識なのではないだろうか。
 ついては、幾ら安全保障で日米に取り決めがあっても、米中がこの問題で激突する(小競り合いではなく)ことは、可能性としては少ないだろう。少なくとも、それを避けるため最大限の注意をはらうのが、この二つの大国にとっては、その時の他の何物にも増して最重要となるのであろう。
 このことをなぜ今いうのかといえば、それは1941年10~12月に遡ろう。その前の10月、近衛文麿(このえあやまろ)内閣を追い落として首相となる直前の東条英機(とうじようひでき、当時は陸軍大臣)は、支那などは日本の「心臓である」として、対米英戦争への最終飛躍を促した。それまでアメリカの力を知ることでは、人後に落ちなかったであろう山本五十六(やまもといそろく)は、それをどのように受け止めたのであろうか、けれども軍人の常として、その後の天皇(大元帥・政府・議会の大号令に従う。
 

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

61○○『自然と人間の歴史・日本篇』聖徳太子とその政策をめぐって(諸説の紹介など)

2021-09-02 20:36:29 | Weblog
61○○『自然と人間の歴史・日本篇』聖徳太子とその政策をめぐって(諸説の紹介など)

 聖徳太子(諡(おくりな)、以下「太子」と言おう)はといえば、人々の脳裡に何が浮かんでくるのだろう。数十年前までは、大方の子供たちは、教科書で「お決まり」のストーリーを学んでいたのでは、ないだろうか。それが20世紀後半からはかなり変わってきているようである。

 一番は、その頃はまだ日本というのではなくて、倭国であって、日本中心の独立した政治ということではなかったようだ。二番目は、冠位十二階の制度や憲法十七条を制定したり、仏教寺院の建設などを含め文化面でも斬新な政治を打ち出したという、その経緯を含めて、太子という人物像がはっきりしなくなっている。そうした中には、実在性を否定する有力学説さえもが提出されており、歴史の専門家(考古学者を含めて)の誰もが納得できるには、かなり隔たりができているようである。

 そこでまず、太子の生涯を簡単に振り返ってみよう。史料として、720年(養老4年)に成立した「日本書紀」などによると、一説には、聖徳太子(諡(おくりな)、以下「太子」と言おう)は、大兄皇子(おおえのみこ)こと橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)を父、その橘豊日尊の異母妹にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として生まれる。橘豊日尊は、のちの用明大王(ようめいだいおう、在位は585~587)である。

 また、太子の外戚ということでは、父の大兄皇子と母・穴穂部間人皇女とは、ともに大豪族にして、倭の朝廷における実力者たる蘇我稲目(そがのいなめ)の孫なのであると。

 これに関連して、太子の生年を記したものとしては、平安時代半ばになって書かれた太子伝・「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」があり、それによると敏達大王(びだつだいおう)の治世3年というから、574年とされる。また、聖徳太子の没年は622年とのことであり、妃(きさき)の膳部大郎女と相前後して亡くなったとしている。

 もっというと、少し繰り返しになるが、太子の父・橘豊日尊は、欽明大王(きんめいだいおう)の子にして、稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)を母としている。太子の母・穴穂部間人皇女も、欽明天皇(きんめいだいおう、継体大王から数えて4代目、なお継体のあとは2代目・安閑)を父とし、堅塩媛の妹・小姉君(おあねのきみ)にして稲目の娘を母としている。
 
 とはいえ、太子は、かの継体大王以来の第一順位の直系とは認められない、というのが、当時からの大方の見方であったのだろう。すなわち、敏達大王と王女広姫(ひろひめ)との間には押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえおうじ)がいて、こちらの方がより大王家の直系だというのは、はっきりしていよう。そうであれば、幾ら太子が女帝の推古大王(用明大王の妃にして、そのことゆえに同王の次の王を引き継ぐことができた女性)の下で善政を行い、ゆくゆくは彼女の権威を引き継ごうとしても、やや無理があったのだと目されているようである(例えば、山本博文「歴史をつかむ技法」新潮社新書類、2013)。
 
🔺🔺🔺
 
 ここでのまとめとして、前記と重なる記述が相当あろうが、次に太子を巡りどのような政治・社会の動きがあったかを、簡単に振り返っておこう。
 587年には、用明大王が死去し、これに乗じて蘇我馬子らが物部氏を滅ぼす、これには太子も仲間に入っていて、従軍する。用明大王のあとは、より蘇我氏の息のかかっていたであろう、蘇我稲目(そがのいなめ)こ孫にして、欽明大王と稲目の娘・小姉君の間にできた崇峻が大王となる。592年には、蘇我馬子らが崇峻大王を暗殺し、新たに豊満宮にて即位した推古大王の治世となり、翌593年には、太子が皇太子となる。この年、四天王寺の建立を開始する。595年には、高句麗の僧侶・慧慈(けいじ)が来日すると、太子は彼を師として学ぶ。600年には、遣隋使を派遣する。603年には、推古大王が、小墾田宮へ遷都。この年冠位十二階を、翌604年には十七条憲法を制定する。その翌年の605年には、宮を斑鳩(いけるが)にうつす。606年、太子は推古大王に勝鬘経と法華経を講説したという。607年には、斑鳩寺(法隆寺)を建立し、遣隋使に小野妹子(おののいもこ)らを派遣する。
 しかしながら、それらの政策は時の実力者たる馬子共々成したものであろうし、またそれらを記した「日本書記」などには粉飾などが相当あるようで、どこまでを太子が中心になって行ったものか、史実なのか、研究者の見方は割れている。
 太子が皇太子のまま亡くなったあとは、下り坂と言おうか、643年には、太子の息子の山背大兄王皇子を蘇我馬子が攻め殺し、一族は滅亡してしまう

 そして現在、太子の墓と目されてきるのが叡福寺北古墳(宮内庁による治定、えいふくじきたこふん、現在の大阪府南河内郡太子町にあり、磯長谷古墳群を構成する古墳の一つ)という直径約50メートルの円墳で、本人とその母、妃が葬られたとされる。



(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

新39◻️◻️『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(経済、新見荘)

2021-09-01 19:32:05 | Weblog

新39◻️◻️『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(経済、新見荘)

 また、その頃から、備中国・新見には、平安時代末期より戦国時代にいたるまで長い命脈を保った荘園があった。その荘園は、「新見荘」(にいみのしょう)と呼ばれた。場所としては、備中国哲多(てった)郡、現在の岡山県新見市北西部と、阿哲郡神郷町(しんごうまち)の北東部一帯を占めていた。
 そもそもは、平安時代の末頃、おそらくは12世紀末葉、大中臣孝正(大中臣氏)の開発した耕作地だと伝わる。その孝正は、これを壬生官務家(みのぶかんむけ)の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻は、さらに建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする京都の最勝光院(さいしょうこういん)に寄進した。後ろ盾になってもらった訳だ。この寄進は、上級の権門の保護を得るため当時広く行われていた措置であり、新見荘は最勝光院を本家(本所)、小槻氏を領家(領主)とする荘園となった。


 それからも土地をめぐる権利の移動があって、鎌倉時代末の1325年(正中2年)から1330年(元徳2年)頃にかけては、本家と領家のいずれも、後醍醐天皇により京都にある東寺の寺領になる。本家が移ったのは、その頃ほとんど皇室の御願寺(ごがんじ)としての体をなさなくなった最勝光院を東寺に割り当てた。これにより、当荘は東寺を本所とすることとなった。その後さらに「下地中分」が行われ、それからの新見荘は、西方を領主方、東方を地頭方に下地中分される。

 ところが、やがて地頭の新見氏、領家の小槻氏は東寺から疑われるようになる。事実上罷免された格好になりかねないので、両者とも東寺との対立関係が生まれる。その結果、小槻氏は東寺から年貢の一部を報酬として受け取るのと引き換えに領家の職分を放棄するに至る。一方、新見氏は室町幕府の下で地頭の地位を保ちつつも、実質支配の職分は東寺から閉ざされ、現地に新たに代官が派遣されてくる。

 そして迎えた1461年(寛正2年)、代官安富氏の圧政に耐えかねた農民たちが、一揆をおこす。かれらは、安富氏を追い出すのに成功する。これに驚いた東寺側は、直接的支配・経営に乗り出し、その翌年、新代官に僧の祐清が派遣されてくる。しかし、この代官も圧政を行う過程で、荘園の中でこれに反発した者に殺されてしまう。その分、東寺による農民たちへの圧政は何某か緩んだのではないか。

 その際のエピソードとしては、祐清に仕え、身の回りの世話をしていた女性たまかきがいた。その彼女による、東寺あての、主人の遺品を送り届けてほしいとの手紙が「たまかき書状」として現代に伝わる。

 その後の経過については、誠に有為転変というべきか。1467年(応仁元年)からの応仁の乱により西国は混乱に見舞われる、その過程で、新見荘の農民たちは東寺に拠って、新見氏などの武士の傘下に入るのを拒んだ。しかし、やがて新見氏などの武士の力がこの地に浸透してくるのを止めることはできなくなった。

 さらにその後の戦国時代に入ると、新見氏は三村氏に攻められて弱体化し、その三村氏も西から手を伸ばしてきた毛利氏によって敗れ去っていく。そんなこんなで迎えた1574年(天正2年)、すでに名ばかりとなっていた東寺の支配権は戦国大名に奪われて最終的に失われ、荘園としての新見荘は消失するに至る。


🔺🔺🔺 

 それでは、かかる新見荘は、当時の世の中において、どのように管理・運営され、またどのような社会的役割を果たしていたのだろうか。これらの課題につき、戦後、日本の中世史の刷新に貢献した歴史家・網野善彦は、次のように記している。

○「備中国の山奥に新見荘という大きな荘園があり、鎌倉時代の末から京都の東寺(とうじ)が、その支配者であったため、関係文書が東寺に数多く残されています。その中に、建武元年(1334)に作成された「地頭方損亡検見並納帳(じとうがたそんもうけみならびにのうちょう)」という前の年の年貢の収支決算書があります。長さ23メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実体が非常にわかるのですが、その文書の中に「市庭在家(いちばざいけ)」という項があります。

 それによってみると、この支配者の地頭方市庭には30間(軒)ほどの在家が建てられていることがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道にそって間口の同じ家が短冊(たんざく)形に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」とよばれました。そしてその傍らの空き地に商人か借屋で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。15世紀になると、そこで酒を買い、昆布や豆腐、狸(たぬき)や小魚などの肴(さかな)を買って酒をのむ飲み屋までができていたことが、史料によって明らかになっています。恐らく遊女のような女性もいたでしょう。そのような形で、市庭に関わる都市が成立していったと考えられるのてす。」(網野善彦「歴史を考えるヒント」新潮社、2001)



○「市庭で交易をする際には通常、売り手と買い手とが相対して売買の値段が決められましたが、その行為及び決定した値段は「和市(わし)」と呼ばれていました。話し合いで平和的に値段を決めたという意味を含んだ言葉で、新見荘の文書にも、代官が「市庭」で「四十九俵弐斗弐升四合」の米を1俵あたり395文の和市で売り、19貫530文の銭を入手した、という記述が見られます。

 この「市庭」は穀物の取引が、3日・13日・23日の「三」の日に行われる「三日市」だったようで、そのときどきの「和市」が立っています。いわば、のちの相場が立っているので、これは商品流通が広域的に発達していることを示しており、同じころ和市の高い市庭を選んで塩を売っている事例も知られています。これに対して、和市てはなく、強引に値段を決める方法は「押し買い」「押し売り」と呼ばれており、市庭では禁じられていました。」(同、前掲書)

 

 

○「また、さきほどの新見荘の文書によって、代官が京都の東寺に大量の銭を送る時には、現銭ではなく「割府(わりふ)」を送ったことがよくわかります。代官の書状の中にもそう書かれているのですが、代官は現銭ではなく、十貫文の額面の「割府」を現地の市庭(いちば)で入手して都の送っています。「割府」は、はじめは「替文」「かわし」と結びついていましたが、桜井英治氏の研究によりますと、14世紀には、約束手形・為替手形となり、流通していたと考えられるのです。

 実際、新見荘でもこのときに十貫文の額面の「割府」が流通していたようで、新見荘の代官は、「割府」を何枚も東寺に送っています。つまり、この「割府」は代官が振り出した、ものではなく、、別の人が振出人である「割府」が流通していたと考えられます。

 そしてこの「割府」を受け取った東寺の人が替銭屋(かえぜにや)に持って行くと、現銭に替えることができたのです。

 その手数料として1貫文につき10文、従って10貫文の額面なら500文の「夫賃」がらとられます。本来これは人夫が運んだ費用を意味しています。ともかく、一定の比率の手数料まで定められるほど、中世に、おいては手形の送進が安定して行われていたのてす。ぢ、「手形」という言葉は古い時代の手を押した「手印(えいん)」とも関わりがあるとも考えられ、印判などを押した契約書、証明書、信用の根拠になる書類の意味で江戸時代には広く使われ、やがて約束手形・為替手形になっていきます。

 「割府」のような手形が生まれたのは、13世紀後半ごろからですか、このように信用に裏付けられた文書の流通の起源はさらに古く、10世紀の中頃、平安時代後期にまで遡ることができます。」(同、前掲書)



○「前述した備中国新見荘の文書には、元弘3年(1333)12月に国司の上使が荘に入部(領地内に入ること)してきた時の接待の内容が記されています。それによると、この上使の人数は83名という大勢で、そのうち馬に乗っている人が21人、徒歩の者が62人もいました。代官は清酒や白酒を買い、更に市庭で兎(うさぎ)、スルメ、大根、大魚、鳥(雉(きじ))などを買って、酒肴(しゅこう)を調(ととの)え、朝夕に酒を出してもてなしています。更に、馬にも粥(かゆ)や豆を食べさせ、3貫文で恐らく織物などを買い、引出物として渡したと記されています。」(同、前掲書)


(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆