カメ漫だらだら、石めは散歩人生、この秋30年目を迎える。
エッセイのサブタイトルの由来は、1987年に開いた初めての個展、「東京原色図鑑」に関して、同展をプロデュ―スしてくれた玉田顕一郎氏のことば、「フォトマンダラ」、諸尊の悟りの世界を象徴するもの、諸仏、菩薩および神々を網羅して描いた図、曼陀羅ですね、を目指せという玉田氏の激励のことばに依っている。とにかく何にもわからぬままに始めた写真独学コツコツ散歩写真イン東京・都市心象風景実践の5年目に、個展をやるなんて思ってもいなかったから、マスコミへの資料提出の仕方からなにからよく分からぬまま、一人でやってのけたのだった。ぴあと毎日新聞と朝日新聞に、都市の心象風景を撮っていることなどを書いて個展の案内を送ったのでした。ぴあは、当時の若者の多くが読む雑誌で、都内のほとんどおもなアートイベントの情報を漏らさず載せていたし、新聞といえば、朝日と毎日しか思いつかなかったなあ。読売には送りたくなかったから送らなかった。(なんだか、嘘か本当か知らないが、あるアーティストが、取材依頼を兼ねて案内を送ったところ、ある日留守電に取材してやるからなんとかかんとかというメッセージが入っていたなどという情報をどこかで聞き及んだのだと思う。そんな新聞社ならこちらからお断りだなどというつもりではなく、ぼくなんかまったく取り上げてももらえないだろうと判断したからでした。)で、結果は、ぴあには割と大きく載せてもらえたし、毎日は記者さんのインタビューを渋谷の喫茶店で受けた。朝日は築地の本社に直接資料をお届けし、受付の女性が預かりますから、と言われて預けて帰った。さて、個展の初日だったか2日目に朝日新聞の社会部の記者の取材を受け、ギャラリーの壁面で大きく伸ばした写真をバックに写真まで撮られた。マヌケなぼくの写真がデカデカと、7段くらいの記事になりひえーと驚いて見たのは確か3日後だったか、会期中新宿東口の写真展会場はじつに多くの人が見に来てくれた。都内版ですけれど6段か7段の大きな記事になっていたのには本当にびっくりしましたよ。案内には、宮沢賢治なら今の東京をどう見ただろうか、賢治の心象風景を撮っています云々と書いておいた。これが良かったのか、100パーセントの結果を導き出した初の個展でありました。
まあ、1987年がぼくの人生の最も光るハイライトであったかどうだかはわからない。
この十余年、ぼくはどん底貧乏を体験したのだ。
でも、初の個展に藤圭子さんが花束を持って突然ふらりと訪ねてきてくれたこと、森山大道氏
が、見に来てくれて、「ソフィスティケイトし過ぎだよ」と感想を言ってくれたこと、このことだけで、やってよかったなあと思えたことでした。これがぼくの人生の最初で最後のハイライトであるとしても仕方がないようにも思えたのだ。玉田氏も実は推薦のことばで書いていたのだ。苦労するだろうと。
ああ、ぴったりあたってしまったなあ。
貧乏十余年、今ではこう考える。
歩けるくらいの健康と、小銭とデジカメがあれば、充分その日は幸せである。
旅に出られるくらいの健康と少しまとまったお金があればそれ以上何を望むか、という具合。
驚くべき数字を見た。貧困率というのだそうな。6人に1人が貧困になっているのだという。かって、ぼくが走り出した1987年から2,3年後には、たしか日本人の6,7割の人が自分を中流であるとアンケートに答えていたのだった。経済は1流、文化は3流などとも言っていたなあ。どうしたんだよお、日本。
ところで、カメ漫だらだらXXXがなぜ曼陀羅に通じるの?というのですか。中の3文字を取り出してご覧くださいな、漫だら マンダラ 曼陀羅となるでしょ。
エッセイ 石郷岡まさを
エッセイのサブタイトルの由来は、1987年に開いた初めての個展、「東京原色図鑑」に関して、同展をプロデュ―スしてくれた玉田顕一郎氏のことば、「フォトマンダラ」、諸尊の悟りの世界を象徴するもの、諸仏、菩薩および神々を網羅して描いた図、曼陀羅ですね、を目指せという玉田氏の激励のことばに依っている。とにかく何にもわからぬままに始めた写真独学コツコツ散歩写真イン東京・都市心象風景実践の5年目に、個展をやるなんて思ってもいなかったから、マスコミへの資料提出の仕方からなにからよく分からぬまま、一人でやってのけたのだった。ぴあと毎日新聞と朝日新聞に、都市の心象風景を撮っていることなどを書いて個展の案内を送ったのでした。ぴあは、当時の若者の多くが読む雑誌で、都内のほとんどおもなアートイベントの情報を漏らさず載せていたし、新聞といえば、朝日と毎日しか思いつかなかったなあ。読売には送りたくなかったから送らなかった。(なんだか、嘘か本当か知らないが、あるアーティストが、取材依頼を兼ねて案内を送ったところ、ある日留守電に取材してやるからなんとかかんとかというメッセージが入っていたなどという情報をどこかで聞き及んだのだと思う。そんな新聞社ならこちらからお断りだなどというつもりではなく、ぼくなんかまったく取り上げてももらえないだろうと判断したからでした。)で、結果は、ぴあには割と大きく載せてもらえたし、毎日は記者さんのインタビューを渋谷の喫茶店で受けた。朝日は築地の本社に直接資料をお届けし、受付の女性が預かりますから、と言われて預けて帰った。さて、個展の初日だったか2日目に朝日新聞の社会部の記者の取材を受け、ギャラリーの壁面で大きく伸ばした写真をバックに写真まで撮られた。マヌケなぼくの写真がデカデカと、7段くらいの記事になりひえーと驚いて見たのは確か3日後だったか、会期中新宿東口の写真展会場はじつに多くの人が見に来てくれた。都内版ですけれど6段か7段の大きな記事になっていたのには本当にびっくりしましたよ。案内には、宮沢賢治なら今の東京をどう見ただろうか、賢治の心象風景を撮っています云々と書いておいた。これが良かったのか、100パーセントの結果を導き出した初の個展でありました。
まあ、1987年がぼくの人生の最も光るハイライトであったかどうだかはわからない。
この十余年、ぼくはどん底貧乏を体験したのだ。
でも、初の個展に藤圭子さんが花束を持って突然ふらりと訪ねてきてくれたこと、森山大道氏
が、見に来てくれて、「ソフィスティケイトし過ぎだよ」と感想を言ってくれたこと、このことだけで、やってよかったなあと思えたことでした。これがぼくの人生の最初で最後のハイライトであるとしても仕方がないようにも思えたのだ。玉田氏も実は推薦のことばで書いていたのだ。苦労するだろうと。
ああ、ぴったりあたってしまったなあ。
貧乏十余年、今ではこう考える。
歩けるくらいの健康と、小銭とデジカメがあれば、充分その日は幸せである。
旅に出られるくらいの健康と少しまとまったお金があればそれ以上何を望むか、という具合。
驚くべき数字を見た。貧困率というのだそうな。6人に1人が貧困になっているのだという。かって、ぼくが走り出した1987年から2,3年後には、たしか日本人の6,7割の人が自分を中流であるとアンケートに答えていたのだった。経済は1流、文化は3流などとも言っていたなあ。どうしたんだよお、日本。
ところで、カメ漫だらだらXXXがなぜ曼陀羅に通じるの?というのですか。中の3文字を取り出してご覧くださいな、漫だら マンダラ 曼陀羅となるでしょ。
エッセイ 石郷岡まさを