仏教は四苦八苦からの脱出を目指す。苦を離れるために無明からの脱却を目指す。
無明は生存本能の奥にあるものだが一応生きる本能そのものと理解している。
無明を去ると解脱する、つまり悪道に輪廻することはない。つまり四苦八苦しかないこの世界に帰ってくることはないのだ。
ここまでが釈迦の原始仏教だと理解している。
しかしこれではいかにも厭世的で無常観が漂い、当時としても国の隆盛やビジネスの成功などはおぼつかない。
仏教の人気が落ちて現世中心のヒンドゥ教が優勢になる。
大乗仏教の天才達は解脱後の仏よりも救済に汗する菩薩に最上価値を見い出し、菩薩が解脱した後に得た空観を最終認識であると見出す。
まったき無に何人もすむことができないことを知ったのだ。
ゴールインしたあとの厭世観、なにもない空の世界から永遠に救済に向かう菩薩に価値を置き換えた実に見事な転換だ。
しかし四苦八苦からの脱出を目指す先に必然的にブッダが大乗仏教の到来を予見していたものと思う。
空観がなにより重要な言葉となるのだが今ひとつ理解できないでいた。しかしショーペンハウアーと立川武蔵によって目が開かれた。
ショーペンハウアーは「意志と表象としての世界」で意志を転換し終えた人つまり解脱した人の世界を「そのあらゆる太陽や銀河を含めて、無なのである。これこそ仏教徒のいう般若波羅蜜なのではないか」と描く。これがショーペンハウアー流の空であると理解できる。
無 意志を完全になくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆に考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換しおえている人々にとっては、これほどにも現実的に見えるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて、無なのである。これこそ仏教徒のいう般若波羅蜜なのではないか。認識の彼岸に到達した世界意志なのではないか。ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」
まだ意志に満たされている人々にとって無であるものがすでに意志を否定し、意志を転換しおえている人々にとってはそのあらゆる太陽や銀河が無なのだと述べる。つまり往還したもののみが認識できる世界観を述べている。これが空仮中の中にあたるのか。
空と仮を往還したもののみが認識できる世界観だと述べていることは立川武蔵「空の思想史」によって一層理解できた。
空思想の考察および理解のための窓として私は行為を選ぼうと思う。 p19 空の思想は行為の思想に他ならない。 p105
空はまったき無を目指しているように見える。しかし、竜樹自身も述べているように、この否定作業は、否定を通じて新しい自己あるいは世界をよみがえらせるための手段なのだ。すなわち、竜樹自身まったき無に何人もすむことができないことは知っているのである。 p5
空を往還したものが菩薩となって救済に励む。仏道修行のゴール直前が菩薩なのではなく菩薩が最終ゴールなのだ、この転換は見事である。大乗の発生の機序ではないか。
迷いの世界という現状から修行という手段を経て空性を体得するに至り、そしてその空性の働きによって迷いの世界が浄化されるというのが空性を求める行為の全体像である。 p109
空とは一つの静的な状態なり、点を言うのではなくて、俗なるものを浄化しながら俗なるものにおりてくる、そういった一つの全体的円環的動態を呼んでいるのである。 p330立川武蔵「空の思想史」
宮沢賢治は詩と実践で菩薩道を行った。
芭蕉は「高くこころをさとりて俗に帰るべし」といった。高くこころをさとりては解脱であり、俗への往還こそが大事とした。
稲妻に悟らぬ人の貴さよ も同じことをいったものだろう。
こうして仏教と哲学と文学の尾根がつながる。
参考 松岡正剛は千夜千冊・遊蕩篇『意志と表象としての世界』でアルトゥール・ショーペンハウアーのわかりにくい「意志」を鮮やかに解説している。つまり(宇宙としての)意志はダルマであり物質化しているが人間は無明と云うフィルターがかかり「無目的に人間をかりたてる意志」しか表象として現れない。
意志には大別して二種類のものがあって、一般的な意味で「何かをしようとしている意志」と、他方で「無目的に人間をかりたてる意志」とがあって、ショーペンハウアーにおいてはこの後者のほうの意志が主題となったのだった。
ここで意志といっているのは、ラテン語でいえば「リベルム・アルビトリウム」のことで、「自由意志」のことをさす。リベルム・アルビトリウムは古代ギリシアから問題にされてきたもので、必ずしも人間の意志をさすとはかぎらない。むしろ自然や世界や宇宙にひそむ力の発動を「自由意志」とみなした。
物自体が意志だと言っておきながら、その物自体の意志が何かにあらわれるのではなくて、そこから人間が勝手な意志を切り取っているというのだから、いったい世界の意志は人間の意志にろくなものしか提供していないように思えるからだ。
『意志と表象としての世界』アルトゥール・ショーペンハウアー 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
ここでもまた「カラマーゾフの兄弟」のイワンが見え隠れする。