ボロブドール遺跡を回想しているうちに、それより前のジャワの仏教やイスラム事情が知りたくなったので調べてみた。いずれもネット検索から得たものです。
法顕は399年に60歳で陸路インドへ長安をたつ。法顕には、慧景、道整、慧応、慧嵬らの総勢5名がいた。戦乱の世の中、シルクロードを目指し 仲間はパミールからインダス河をくだり小雪山を越えるとき1人の僧が白い息の粉を吐いて死ん でいく。 3年を要してインド西部に入った法顕は一人でブッダの古蹟を巡る。
インドはグプタ王朝の盛期にあたり、第三代チャンドラ・グプタ二世 (375-414)の治世で インドの大統一国家を形成していたため平和の時代であった。
法顕の年齢はすでに70歳を越えていて、海路が楽だった。あるいは南伝仏教の足跡をたどり、学びたかったのか。帰路は、まずガンジス河の河口の港町で約2年間逗留して待機し商人の大船に乗った。彼は412年 200人以上をのせるインドの「商人大船」で中国に帰ろうとした。彼の航海はベンガル 湾で嵐にあう
冬の初め、昼夜14日でスリランカ島に至った。スリランカでも約2年間滞在した後、200人あまりの乗った商人の大船で出発し3日目からは大風の中、13昼夜である島のほとりに着き船を修理し、さらに航海を続けてマラッカ海峡を過ぎてジャワの港に到着し5カ月間逗留した。
法顕はスリランカから中国に帰る途中、ジャワに414年に漂着した。著書「仏国記」の中でこの国のことを「耶婆堤(ヤバテイ)」と音訳し、「バラモン教が盛んで、仏教は言うにたりない」と記している。この時代にすでにジャワ.スマトラ方面にヒンドゥー教を信奉する社会が成立していた。
ジャワ島の仏教遺跡ボロブドゥールには大船のレリーフがある。法顕はこのような船で中国に帰ったのだろうか。
古代にパレンバンで栄えたスリウィジャヤ王国は仏教との関係が深い。古い時代のインドネ シアの王国はすべてヒン ドゥー教の王国。
葉調国(中国史書) 西暦 100年―500年 ジャワ島
クタイ王国 300-400年 ボルネオ島(カリマンタン島)
タルマ王国 400-600年 ジャワ島西部(ボゴール)
丹丹国(中国史書)500-600年 ジャワ島中東部
カリンガ王国 500-600年 ジャワ島中北部
カリンガ王国 500-600年 ジャワ島中北部
当時中国僧が葉調国に至っていた。日本では弥生時代から卑弥呼時代。葉調はジャヴァドで「ジャヴァ(闍婆)」「ジャワ」の語源となっ た。しかし葉調国の遺跡らしいものは何一つ残っていない。
インドネシアでは「葉調国」の次に国家の存在を伝えるのはカリマンタン島(ボルネオ)東部マハカム川中流のクタイ王国で、4世紀頃パムーラヴァルマンが建てたサ ンスクリット語の石柱「クタイ碑」発見さ れている。碑文に書かれた内容からこの王の父がヒンドゥー教を国家の原理として採用したことがわかる。
またヒンドゥー教および仏教の彫像が発見され、その中にはグプタ様式の青銅仏像が発見さ れている。
丹丹国(ヒンドゥー王国)
6世紀になると、中部―東部ジャワには「丹丹」という国が成立した。この国は、稲作農 耕に立脚していたが、支配層は例に漏れずインド化していた。 丹丹国では王はシュリー・シリンガというサンスクリット語の姓名を持ち、バラモン8人 が大臣として仕えていたという。 この王国のことは中国史書では、「其の穀は稲のみ」と稲作の盛んなこと、大きな人口と「州 県」という地方統治制度をもつことが強調されていた。丹丹からの朝貢は7世紀前半まで 記録され、その後ジャワからは後述の「訶陵」が朝貢するようになったとされている。
カリンガ王国(ヒンドゥー王国)または「訶陵」国
唐代(618-907)の漢文史料に見える国。7世紀中ごろから9世紀中ごろまでジャ ワに存在した国。「訶陵」国としているが、原音についてはカリンガ(インド、インド人の 意)説が最も妥当のようである。
この中部ジャワのカリンガ(訶陵)国は、内陸「ディエン高原」に、ヒンドゥー教シバ神 を祭る寺院を残している。このカリンガの人々は、インドのベンガル湾にカリンガ地方(紀 元前300-160年にカリンガ王朝として栄えた)があり、そこから渡ってきた人達で、 ジャワ中北部の港を拠点とし次第に内陸中部地方に勢力を展開していったのではないかと 見られている。
647年、訶陵(カリンガ)国、国王、唐の太宗に入貢す(唐書蛮夷伝)、初代国王サ ンナハ、二代サンジャヤ王が支配する。