まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

紀野一義の研究16 種田山頭火

2021-12-01 | 紀野一義 仏教研究含む

紀野一義は自らは超楽天的であり人生万事肯定派であり、死地を何度も潜り抜けて運がよいと自らいう。


楽天主義というと人はすぐ

「いいかげん」とか「気楽さ」とか「人の良さ」とか

「うすのろ」とか連想するらしいが、

楽天主義とは凄まじきものである。

殺されたって「人を信じ通す」という人生観を変えないのだ。

人間は素晴らしい。

自然は素晴らしい。

生まれてくるってことは素晴らしい。

死ぬってことも素晴らしい。

病気になるってのも素晴らしい。

という風に、徹底的に信じ通すのだ。

肯定、肯定、絶対肯定してゆくのだ。


一方で世間的価値観では不遇で生活破綻し淋しい人生を送った歌人や詩人に深い共感と同情を寄せる。

その一人が種田山頭火だ。氏は講演でたびたび種田山頭火を取り上げている。氏はあきらかにこれらの人の背後に菩薩を見ている。(わたしはいまだその境地に達しない)

種田山頭火の俳句は種田山頭火の人生と重ねあわせないとその俳句だけでは深い感銘を与えない。この句からよく知られた種田山頭火の人生が浮かぶ仕掛けになっている。

ちなみに芭蕉は紀行と句集がセットになっていて作品として完結する。その点から放下の度合いと覚悟が芭蕉よりも一段と凄みがある。

したがって西洋風の文芸では彼の日記みたいな文章と一体になって感銘を与える詩や来上がり、日本でも芭蕉の紀行などで説明が完結するのだが彼はそんな文章は一切しるさずそれを読者に100%委ねてしまう。

彼が自覚的にそうしたかどうかは不明だが結果的に彼の破壊的な人生はいろいろなところで紹介されていてそれが通奏低音となって、あるいは解説文となり彼の俳句が読者の参画で作品として補い完成し輝く。

改めて日本にしかない、そして種田山頭火でしか作れない文芸形式だと思う。

彼の自由俳句はそんな自覚をもっていたのかどうかもわからないほど見事な放下ぶりだ。


うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ
酔うてこほろぎと寝ていたよ
鴉啼いてわたしも一人
笠にとんぼをとまらせてあるく
けふもいちにち風を歩いてきた
鈴をふりふりお四国の土になるべく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
まつすぐな道でさみしい
ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
すべつてころんで山がひつそり
また見ることもない山が遠ざかる
松はみな枝垂れて南無観是音
分け入つても分け入つても青い山
鉄鉢の中へも霰
山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
生死の中の雪ふりしきる
おちついて死ねそうな草萌ゆる
濁れる水の流れつつ澄む

水音の絶えずして御仏とあり

<iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=amazonasomasa-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=B0BHJB4W65&linkId=dbb033ac7157172e6032ceaad75927b0" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" sandbox="allow-popups allow-scripts allow-modals allow-forms allow-same-origin"></iframe>


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。