ボルビリス
4/18 ボルビリスに向かう途中、ムーレイ・イドリスが興した町を遠望。(ローマが去った3世紀にムーレイ・イドリスはこの地を都とした)メクネスから70km離れたこの地ボルビリスはモロッコに残る唯一のローマ遺跡で2世紀のものだという。(建築が開始されたのは紀元40年頃で168年には8つの門と城壁が造られたという)
ボルビリスへの道すがら小花が咲き乱れる。
ボルビリスは紀元前40年にローマの属州となったという。映画「ベンハー」のローマ軍統治責任者のようないかめしい軍装で進軍する幻影がラッパの音とともに浮かぶ。アフリカコウノトリが当時も今も変わらずこの光景を見守る。
これはボルビリス裁判所の遺跡。大平原に忽然とこのような建築物が現れると当時のひとはローマの威光をいやがうえにも感じたことだろう。
往時の草花は人と馬に踏みにじられただろう。今は訪れる人もまばらでひそやかにわが世の春を謳歌している。遺跡に花が似合う。
これほど外敵から守られた場所もない。外敵の哺乳類と爬虫類から完全に守られた巣で子育てを営むつがいのアフリカコウノトリ。雨の時は自らの羽で覆いひなを守る。
ギリシャの建築様式であるドーリア、イオニア、コリント様式のうち、ローマ時代までコリント様式が残ったそうだが、まさにこれはコリント式。
神殿跡の柱の上にはコウノトリが巣を営んでいる。体長1メートル、翼間は2メートルになるこの鳥は、こうした場所が大好きと見えてモロッコではしばしば見かけた。
ゆうゆうと飛ぶコウノトリ 翼間2Ⅿはあるか。
巣作りするコウノトリ
すべての柱の上に巣が。凄まじい争奪戦の後の安定。
体長1メートル、翼間は2メートル。
オリーブの木は多いが夾竹桃は見えない。ボルビリスとはベルベルの言葉で夾竹桃だという。
ボルビリスの面積は40万平米。
眼下左手に広がるオリーブ畑と地平線まで広がる穀物畑をバックに2本の柱がそびえる。
年月とともに空気に触れてこの赤褐色の色に変化したのかあるいは本来の石の色か。おそらく本来の石の色。
幼児の積木細工のように危なっかしい。しかし2000年を閲して倒れずにいる。
床のタイル画1。何故か尻尾に向かって逆に乗る不思議な男。馬の尻に向かって乗る男は一体何をしているのか。逆馬と呼ぶ。右手に十字、左手に鉈を持つこのモザイクは病院を示すという。
このころから十字は病院を表していた。
床のタイル画2。魚を釣る男。
床のタイル画3。全図のアップ。釣り師の足の親指の爪まで描かれているのが見える。
どこか昔話に登場するような男の顔。
日時計。
遺跡の周りは一面の小麦畑。
石畳の両サイドはこのようなアーチ型の門が延々と連なる商店街と邸宅。商店には貴金属、馬具、刀剣、武具などが売られていたのだろうか。フィレンツェの橋の上のように。
夏草や兵どもの夢のあと。ロバが草をはむ悠久。
ほぼ往時の原形をとどめる頑丈な凱旋門。217年にカラカラ帝を讃えて建てたもの。両サイドに店や邸宅の建ち並ぶ石畳の道を歩んでこの凱旋門に至る。凱旋門の上部にはローマ字でこの門を顕彰する文が刻まれている。ローマ帝国が最大版図となる2世紀にモロッコ周辺もローマ帝国に組み込まれた。ローマ人の習性か丘の上に立ち、下方には河が流れている。
市民のために大浴場をつくった皇帝として知られるカラカラ帝はローマ史上最悪の皇帝でコンモドゥス、カリグラ、ネロをも凌ぐといわれる。
石をくりぬいた水桶。
住居跡。
既にこの頃から、現在モロッコのフェズ等でみられるようなタイル紋様がみられる。裕福なローマ人の邸宅には必ずモザイクタイルが敷き詰められており、このモザイクの規模と質で富裕度が推し量れる。すこし外れたベルベル人の屋敷跡ではモザイクタイルはない。
戦う兵士のモザイク。倒した敵を前に今にも刺す寸前か。
これはアポロン?奇妙な男の顔のモザイク。顔から蛇が8匹飛び出し、頭には羽が生えている。いったい何の象徴か。
ローマ軍は水平線のかなたから進軍してこの門を通ってボリビウスの街に入る。遙か彼方からローマの兵士が馬でやってくるのが幻視できる道と門。
過去の地震にもかろうじて耐えてきたのだろうか。あるいは立て直したのか。いずれにしても次の地震では耐えられそうにないトリッキーな石組み。この門から兵士達はこの街に入ってきた。
けなげな草花が遺跡を弔う。
遺跡近くの原っぱで草をはむロバたち。
この遺跡が発見される前はこんな風景だったのではないか。現在は発掘され石柱も再構築されているが、発見された18世紀の往時は石も埋もれて見渡す限り野草の茂る放牧場だったのではなかろうか。凱旋門、6つの神殿、オリーブの油の圧搾所58カ所、4つの公共浴場があったという。
落ちた巨大な石のパーツ。
草をはむロバには歴史の時間の流れがない。