まさおレポート

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カルタゴ紀行1 2003年

2021-05-19 | 紀行 モロッコ・チュニジア

2003年12月にスイスのジュネーブでの国連ITU主催の催しに参加し、次いでチュニジアのカルタゴを訪れた。以下はカルタゴ紀行1 2015年稿の加筆版です。

カルタゴとカルタフェが頭の中で結び付かなかった。それくらいの知識でチュニジアに出張した。向かう機中でお隣の席の同行者にローマ史に詳しい方がいた。ハンニバルのアルプス越えや象の大群をひきつれて山脈を越えようとしたこと、象は途中でほとんどが死んだこと、そして機がアルプスの上空に差しかかったときに「いまだにハンニバルのアルプス越えのルートが分かっていないのですよ」と親切な説明をしていただいた。ハンニバルは古代の有名な将軍であることぐらいは知っているが、映画「羊たちの沈黙」のハンニバルがまっ先に思い浮かぶ程度の貧弱な知識しかない。

下界にはアルプスの山並みが黒々として広大に広がっていたが、どこがアルプス越えのルートなのかさっぱりわからなかった。しかしお隣さんは往時のハンニバルのアルプス越えを頭に浮かべているのだろう。該博なローマ史の知識と眼下の山並みがしっかりと結びついているのだ。


ハンニバルのアルプス越え、軍馬の「ふん」でルート判明か。2016.04.06 (CNN)


紀元前218年、カルタゴの将軍ハンニバルが共和政ローマを北から攻めるため、大軍を引き連れて決行したアルプス越え。軍事史上最大級の成功を収めたとされるこの作戦だが、実際にカルタゴ軍がどのようなルートを通って山脈を越えたのかは歴史家の間でも意見が分かれてきた。

英国などの研究者の主導する調査チームが作戦に参加した軍馬のものとみられるふんの分析によって正確なルートを割り出したと発表し調査に携わった北アイルランドのクイーンズ大学ベルファストの微生物学者、クリス・アレン氏は、このほどインターネット上に研究結果を公開。

現在のフランスとイタリアの国境に位置するトラベルセッテ峠付近で「動物(おそらくは馬)の大便に由来するとみられる堆積物の塊を発見した」と述べた。調査チームは炭素同位体分析を行い、この塊が紀元前2世紀ごろのものだと断定したという。

「遺伝子レベルでより多くの情報を得られれば、古代に生きたこれらの動物の出身地域なども正確に判別できるだろう」と指摘。調査はまだ完了したわけではないとしながらも、最終的なルートの特定に向けた期待を示した。

トラベルセッテ峠は過去にもアルプス越えの有力ルートの一つとして検証されていたが、その狭さと海抜3000メートル近くという高度を理由に否定的な見解もあった。

アルプス越えの際、ハンニバル将軍の率いた軍勢は兵士3万以上、馬1万5000頭、ゾウ40頭余りに上ったと伝えられる。通説では兵士のうち1万人以上、もしくはそれをはるかに上回る数の死者が出たとみられている。


チュニジアの首都チュニスからバスにのり郊外のカルタゴ遺跡に向かった。11月中旬ですでに北アフリカはかなり寒い。本格的な冬支度のオーバーコートが丁度よかった。遺跡にはいると草木の生えていないむき出しの荒れ地にほんの少し住居跡らしいのがあり、丸い石がごろごろと転がっていた。古代の戦闘シーンでみる投石機の弾につかったものだという。

遺跡というにはあまりにも何もない。もっこりとした盛り土があり、ほんの少し住居跡と思えばそう見えるだけの風景だ。件のローマ史に詳しい氏がひとこと「カルタゴ的殲滅ですね」といった。そうか、そんな歴史的キーワードがあったのかと記憶に残った。

ローマがカルタゴを滅ぼした後、未来永劫不毛の地になるように大量の塩をまいたという。盛り土に見えたのは塩でその下にいまだ発掘されていない遺跡が眠っているらしい。滅ぼした後にもなお、カルタゴに対する恐怖心から大量に塩をまく。根絶やし、殲滅の言葉の意味がリアルに理解できた一瞬であった。日本にはないこの民族性は深くこころに植え付けられた。

カルタゴ近郊の人口池。かつて模擬海戦が行われた。紀元前2世紀にこのような人工物がと感嘆する。

こんな船を浮かべたと思われる。by wiki

これも紀元前2世紀とは!

カルタゴ遺跡 第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)でカルタゴは滅亡。スキピオ・アエミリアヌスはカルタゴが再び復活することがないように、土地には雑草一本すら生えないよう塩がまかれた。

フェニキア人によって建設されたカルタゴ市はローマ軍によって完全に破壊されてしまったため、このカルタゴ遺跡はその後カエサルが再建させた植民都市時代以降のものであり塩は撤去されたかどうか。あるいはさすがに2000年も経つと塩の影響はなくなったか。

wiki

「カルタゴを建設するディド」(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画)wiki

ディドは、ギリシア・ローマ神話でカルタゴを建国したと伝えられている女王。ターナーは往時を幻視していたに違いない。

父の死去の際、彼女と兄のピュグマリオーンが共同で国を治める様に遺言されたが兄は王位の独占と叔父の財産目当てにディドの命をも狙った。彼女は航海に出た。

一行はチュニジアの地に辿り着いた。そこで彼女はこの地の王であるイアルバースに土地の分与を申し入れた。イアルバースは1頭の牝牛の皮が覆えるだけの土地であれば分与しても良いと応えた。そこで彼女は牝牛1頭分の皮を細かく引き裂いて丘の土地を取り囲み、この地が後のカルタゴとなった。

イアルバースは彼女に求婚したが、再婚しないと誓っていたので火葬の炎の中に自らの命を絶った。(アイネイアースに裏切られたディドは悲嘆の余り、火葬の炎に身を焼かれて命を絶ったという別の話もある) 

カルタゴ遺跡のカタパルト砲弾。完ぺきな球形にみえる。そうとうな石の加工技術をもっていたものとみえる。

カルタゴ遺跡の石。墓石のように林立する。松と棕櫚の木の組み合わせがカルタゴならではの印象を受ける。

wiki 遺跡と棕櫚

カルタゴ遺跡の住居跡 一木一草も生えないように塩がまかれた、いわゆるカルタゴ的殲滅のあとも今では緑が覆う。

wiki

カルタゴ遺跡。

カルタゴ遺跡。

2015年初稿

ジュネーブ紀行 2003年

 

 

 


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