村上春樹は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のテーマはぺシミズムをどう克服するかではないか。
まあそうかもしれない、と私は思った。誰かが私の体をしっかりと抱きしめてくれるわけではないのだ。私も誰かの体をしっかりと抱きしめるわけではない。そんな風に私は年をとりつづけているのだ。海底の岩にはりついたなまこのように、私はひとりぼっちで年をとりつづけるのだ。
このような「私」がひとりぼっちで年をとりつづける。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
これは「私」の問いかけであり、この小説のテーマでもある。
「今朝老人たちが僕の部屋の前で穴を掘っていた。何を埋めるための穴かはわからないけれど、とても大きな穴だった。僕は彼らのシャベルの音で目が覚めたんだ。それはまるで、僕の頭の中に穴を掘っているようだった。雪が降ってその穴を埋めた」
ねじまき鳥クロニクルでは庭で誰かが穴を掘っていたのを窓越しに眺める場面があったが重なる。ぺシミズムを埋めるというメタファと読んだ。
「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴しいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」
誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない生き方がぺシミズムを克服する生き方の結論のようだ。
しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ。
絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだとしてぺシミズムを克服する。
「あなたは川の中に落ちた雨粒を選りわけようとしているのよ」
「いいかい、心というのは雨粒とは違う。それは空から降ってくるものじゃないし、他のものと見わけがつかないものじゃないんだ。もし君に僕を信じることができるんなら、僕を信じてくれ。僕は必ずそれをみつける。ここには何もかもがあるし、何もかもがない。そして僕は僕の求めているものをきっとみつけだすことができる」
ここは「海辺のカフカの砂嵐」を連想してしまった。僕は僕の求めているものをきっとみつけだすことができるとするのも共通している。
「しかしあなたの言う救済というのはどういう意味なんですか?」
「死によって彼らは救われておるのかもしれんということさ。獣たちはたしかに死ぬが、春になればまた生きかえるんだ。新しい子供としてな」
死によって彼らは救われておる、つまりこれもぺシミズムを克服する答えの一つだ。
つまりあんたはもともと複数の思考システムを使いわけておったのです。もちろん無意識にですな。無意識に、自分でもわからんうちに、自己のアイデンティティーをふたとおり使いわけておったんです。先刻の私の比喩を使うならズボンの右ポケットの時計と左ポケットの時計をです。もともとの自前のジャンクションができておって、それであんたは精神的な免疫が既にできとったということになります。これが私の立てた仮説です」
ここは村上春樹に相当かぶっているのではないか、彼も小説を書くという行為で己のアイデンティティーをふたとおり使いわけている。彼の言葉では地下二階のアイデンティティーに向かうもともとの自前のジャンクションができており、切り替えることができた。彼自身は訓練の行き届かない人には危険な行為と書いていたような気がするが、危険とはまさにこのジャンクションの切り替えのことなのだ。
「これはある意味ではまさにタイム・パラドックスなのですよ」と博士は言った。「あんたは記憶を作りだすことによって、あんたの個人的なパラレル・ワールドを作りだしておるんです」
あんたは記憶を作りだす、これはあんたは小説を作りだすと置き換えることができる。