ウンベルト・エーコ追悼 2016年2月19日、がんのため84歳で亡くなる。
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「薔薇の名前」 ウンベルト・エーコ
薔薇の名前の舞台は1327年、教皇ヨハネス22世時代のカソリック修道院でアリストテレスの古書を秘匿するために次々と殺人事件が起きる。山を動かす期待をする人には神は無なのだ。過多な期待はせず、太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、捉えた愛、花や草や水や風のうちに神を讃える人には神は有なのだと語りかける。
抽象的な神学よりもアリストテレスの具体、ロジャーベーコンの人々を具体的に幸せにする知識が大事だともいう。
何を言いたいかはっきりとわかるところもあり、矛盾する、あるいはつかみどころのない文章にも出会う。著者は神とこの世に対してつかみどころなどはないといっているようにも思えてくる。しかしつかみどころがないがそれでも素晴らしいではないかと。
正義への歪んだ欲望
ベンチョのそれは、単に飽くことのない好奇心であり、知性の驕りであり、ひとりの修道僧が自分の肉体の欲望を宥めたり、その捌け口にするための手段の一つと、なんら変わるところがなかった。この世にあるのは肉体の欲望だけではない。ベルナール・ギーのそれも、やはり欲望だ。正義への歪んだ欲望であって、それは権力への欲望に同化される。 ・・・それは不毛な欲望であり、愛とは何の関係もないばかりか、肉欲の愛とさえもそれは関係のないものだ・・・ 真の愛とは愛される者の喜びを願うものだ 下p225
知のための知は不毛な欲望だと師は断じている。異端審問官として高名なベルナール・ギーは生涯に40名の異端を火あぶりにした。彼もまた知のための知を求めた男として断罪している。
アリストテレスは笑いを善良な力と
アリストテレースが「詩学」の第二部をとくに笑いのために充てた 上p178
ところが笑いは、身体を揺らして、顔の形を歪め、人間を猿のごときものに変えてしまう。 上p209
「いったいなぜ、キリストは笑ったと、福音書は決していわないのですか?」・・・「キリストが笑ったかどうか、という疑問は、無数の人間たちが抱いてきた。そういう、問題に私はあまり興味を覚えない。きっと笑わなかっただろう 上p257
禁じられた一巻の書物をめぐる事件、アドソよ、禁じられた一巻の書物をめぐる事件なのだ 下p222
なぜ、数多ある書物のなかから、この一巻をあなたは守ろうとしたのか?なぜなら、あの哲学者が書いたものだからだ。あの人物の著した書物は、キリスト教が何世紀にもわたって蓄積した知恵の一部を破壊してきた。 下p343
アリストテレスは笑いを誘う傾向を、認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を正確に私たちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、と私たちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思い込んでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、明るみに出された真実。 下p341
笑いは、束の間、農民に恐怖を忘れさせる。けれども掟は恐怖を介して律するのであり、その真の名前は神への畏怖だ。 下p345
悪魔は物質界に君臨する者ではない。悪魔は精神の倨傲だ。微笑みのない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。 下p350
キリスト教徒たちが学ぶべき科学の著作まで、怪物や虚偽の書物の間においてしまっている。 下p99
清貧が民衆に対して悪い見本に
フランチェスコ会の多くの者たちがふたたび往時の清貧へ修道会を立ちかえらせたいと思うようになった。 上P83
清貧を実践する修道士と言うのは、民衆に対して悪い見本になりやすいのだ。 上p382
キリストと使徒たちは所有したのではなく、使用したのであり、彼らの清貧は損なわれずに保たれた。 下p138
清貧とは宮殿を所有するか所有しないかではなく、俗世の事物に法を定める権利を保持するか放棄するかを意味しているのだ 下p144
もしもキリストが聖職者たちに強制的な権力をもたせたいと願ったならば、モーセが古代の戒律をもってしたのと同様に、細かい規則を作ったであろうに。しかしそうはされなかった。 下p160
わたしたちが焼き討ちをし、強奪をしたのは、普遍的な掟として清貧を掲げたからだ。わたしたちは他人が不当に蓄えた富を自分たちのものにする権利を持っていた。 p207
異端とは聖者たちが説いてきた事柄を、身をもって実践し正気の沙汰でないことをしてしまった人間たち
たくさんの聖者たちが説いてきた事柄を、身をもって実践したばかりに、正気の沙汰でないことをしてしまった人間たちの物語だ。ある時点まで追い詰めていくと、どちらに非があるのか、わたしにはわからなくなってしまった。 上p190
おわかりのように、パタリーニ派、カタリ派、ヨアキム主義者、厳格主義者、その他どのような類であれ、異端の掟と生活とは、大なり小なりこのようなものだったのです。驚くには当たりませんよ。最後の審判における死者の蘇りを信じないし、悪人を罰する地獄も信じませんでした。かれらはなにをしても罰せられないと考えていたのですから。 上p240
「カラマーゾフの兄弟」にも同じことがイワンの口から述べられる。
「人類は最終的に形が整う。だが、人間のぬきがたい愚かさを考えれば、おそらく今後1千年間は整わないだろうから、すでにもう真理を認識している人間はだれも、新しい原則にしたがって、完全に自分のすきなように身の振り方をきめることが許される。この意味で彼には「すべてがゆるされている」ってわけ。…神の立つところ、そこがすでに神の席ってことだ!」 カラマーゾフの兄弟 亀山訳4巻p395
現実には平信徒がいて、あとから異端がくるのだ。 上p319
堀米庸三 西欧精神の探求には「一般の信徒のなかには、こういう形で自発的な貧困の生活をする人がたくさん出てきました。・・・事実、民衆の「使徒的生活」への反応と共鳴とが現れてくる十二世紀のはじめから、西ヨーロッパでは異端と呼ばれる人々が続出します」
異端は純粋から起きるが純粋はいつも恐怖を覚えさせる
「だが、何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」「純粋さのなかでも何が、とりわけあなたに恐怖を抱かせるのですか?」「性急な点だ」 下p208
いったい私たちの誰に、断言できようか、正しかったのがヘクトールかそれともアキレウスか、アガメムノンかプリアモスか、いまでは灰の灰にすぎないひとりの女の美しさを求めて、彼らが争ったというのに? p219
気違いと子供は正しいことばかり言うものだ、アドソよ。 下p222
反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛からやってくるのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人がでるように。 下p370
聖戦もまた一つの聖戦です。それゆえ、聖戦などというものは、おそらく存在するはずがないでしょう。 下p244
優れた審問官が最初になすべきは、最も誠実そうに見える者を疑うことなのだ 下巻p268
邪悪な知能に長けたものの企みは何もなかった
見せかけの秩序を追いながら、本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであったのに 下p372
邪悪な知能に長けたものの企みを追って、私はホルヘに辿りついたが、そこには何の企みもなかった
花や草や水や風のうちに神を讃えた愛にはいかなる裏切りも潜んでいない
いや、むしろ目の中で。太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、・・・・・・そのようにして捉えた愛のほうが、被造物のうちに、花や草や水や風のうちに神を讃えた、フランチェスカに近いのではないか?この類の愛にはいかなる裏切りも潜んでいない。それに引き換え、肉体の触れあいのうちに感じた戦慄を、至高者との対話にすり変えてしまう愛は、わたしには好きになれない・・・・・・ 上p98
滴り落ちてくる光の粒があたりに散乱するさまは、まさに光に象どられた精神の原理<輝き クラリタースを思わせ、・・・ 上p120
以前には空を見上げて泥にまみれた物質に眉をしかめたというのに、いまでは地上を見つめては地上の証明にもとづいて天上を信じるようになった。 p344
今一度だけ、彼女に会いたい
私は知性では彼女を罪業の火種であると心得ていたのに、感性ではあらゆる恩寵の隠れ家であるかの如くに捉えていた。 下P39
まさに森羅万象が彼女のことを語りかけてくるみたいであり、そのなかにあって、私は願っていた。そう、今一度だけ、彼女に会いたい。 下P40
あの至福のなかで、私の全精神を忘却へと誘ったものは、たしかに永遠の太陽の発する輝きであった。
上p402
愛ハ、認識ソノモノヨリモ遥カニ強イ認識力トナル 下P42
それに精神の忘我の幻影と肉欲の罪の熱狂とは紙一重の差だから 上p96
快楽以上に人間を興奮させるものは苦悶
快楽以上に人間を興奮させるものが一つだけある。それは苦悶だ。 真っ赤に灼いた鉄を押し付ければ真実がつくり出せると思い込んでいる者たちの群れのなかに、わたしも入っていたときがあるから。・・・そうだ苦悶の欲望というのがあるのだ。・・・彼ら(悪人たち)の弱さが聖者たちの弱さと同じだと知ってしまったからには p100
神・天国
「・・・長い因果の鎖を遡るのは、天にも届く塔を建てようとするのにも似て、愚かな業だと思えてなりません」
「神は・・・ 私たちの魂の内部から語りかけてきます」
ウベルティーノと話していると、地獄というものは裏側から見た天国に過ぎないような気がしてくる 上p110
一輪の薔薇も注解
すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、 下P40
同じ言葉で離れた現象を命名
この世には不思議な知恵があって、本来はかけ離れた現象であるのに、同じ言葉を用いて命名することがある。 上p399
神とはただの無
ほどなくして、わが始まりの時と私は混ざり合うであろう。そしていまではもう信じていない、それがわが修道会の歴代の僧院長がといてきた栄光の神であるとも、あるいはあのころ小さき兄弟会士たちが信じていたような栄光の神であるとも、いや、おそらくはそれが慈愛の神であるとさえも。神とはただの無なのだ。今も、この場所も、それを動かさないのだから・・・・・・ 下p383
わたしたちの精神が想像する秩序とは、網のようなもの、あるいは梯子のようなもので、それを使ってなにものかを手に入れようとするのだ。しかし手に入れたあとでは、梯子は投げ捨てなければいけない。なぜなら役にはたったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。 下p372
人間が考えなければいけないことは、唯一つだけだ。この年になってやっとわかった、それは死だ。 上p109
薔薇の名前
過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり 下p383
一つの意図だけを汲み上げようとはせず
自分が見たまま聞いたままを、言葉によって繰り返し、そこから敢えて一つの意図だけを汲み上げようとはせずに、いわばやがて来る世の人々のために徴の徴として、いつの日か読み解かれんことを願いつつ、ここに書き残しておこう。 上P23
すると師は、宇宙のすばらしさは多様性のうちの統一性にあるばかりではなく、統一性のうちの多様性にもあるのだ、と答えた。 上p31
美しい花はあるが花の美しさはない
偉大な一巻の書物にも似て、この世界が私たちに語りかけてくる痕跡を読み抜くこと 上P40
以前にも何度か私は師が普遍概念に対して非常に懐疑的な話し方を、そして個々の事物に対しては非常な尊敬をもってかたるのを、耳にしたことがあった。 上P48
美しい花はあるが花の美しさはない。こうしてわが師は明らかに彼の好みでない抽象的な議論をいとも鮮やかに打ち切ったのである」 上P52
なぜかわからぬが、哲学者たちの記述は完璧であっても、実際にそのとおりに作動した試はない。それに引き換え、農夫の鎌は、いかなる哲学者にも記述された例はないが、つねに過ちなく切れるものだ 上p344
ロジャー・ベーコンの知識への渇きは、欲望ではなかった
ロジャー・ベーコン、この方を師とも仰いでいるのだが、この巨匠の言葉によれば、神の意図はやがて聖なる自然の魔術すなわち機械の科学となって実現されてゆくであろうという。 上P32
ロジャー・ベーコン 1214-1294 アリストテレスやアラブ圏の学問を研究、飛行機、蒸気汽船、光のスペクトラムなどを予想した。
ロジャー・ベーコンの知識への渇きは、欲望ではなかった。彼はあくまでも神の民を幸せにするために学問を利用したいと願ったから。それゆえ知のための知は追及しなかった。ベンチョのそれは、単に飽くことのない好奇心であり、知性の驕りであり、ひとりの修道僧が自分の肉体の欲望を宥めたり、その捌け口にするための手段の一つと、なんら変わるところがなかった。この世にあるのは肉体の欲望だけではない。ベルナール・ギーのそれも、やはり欲望だ。正義への歪んだ欲望であって、それは権力への欲望に同化される。 ・・・それは不毛な欲望であり、愛とは何の関係もないばかりか、肉欲の愛とさえもそれは関係のないものだ・・・ 真の愛とは愛される者の喜びを願うものだ 下p225
反キリストを打ち負かすためには、薬草の効能を調べたり、岩石の成り立ちを究めることが必要だ、と。それどころか、きみが嘲笑う空飛ぶ機械を考案したとき初めて、それに備えられるのだ、と。 上p107
悪魔の存在を証明する唯一のもの
「犯罪行為については口にされながら、その原因である悪魔については、触れようとなさいませんね」 上
よろしいですか、悪魔の存在を証明する唯一のもの、それはおそらく、そのような瞬間にあって、すべての人々が悪魔の仕業を知りたいと願っている熱烈さにこそあるのです 上P53
一場の夢は一巻の書物
私が見た幻は、すべての幻が瞬時のものである如くに、わずかな祈りの言葉にも等しく、長続きするはずはなく、「怒りの日」の歌の長さほども続かなかったのだ。 下p284
おまえは、以前から承知していた物語の枠組みのなかに、この数日間の出来事や人物たちを挿入したのだ。夢の大筋は、以前にどこかで読んだり、あるいはおさないころに学校や修道院で人から聞いたりした出来事なのだ。 下p286
思うに、おまえの魂は、まどろんでいる間に、わたしがこの6日間に、しかも目覚めているあいだに、理解したのよりもはるかに多くの事柄を、理解したのだ 下p289
一場の夢は一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない 下p289
旧知の人間が幻想のうちに蘇ってきたりする不思議な瞬間
肉体的疲労と精神的緊張が極限に達すると、旧知の人間が幻想のうちに蘇ってきたりする不思議な瞬間がある。 下P15