2019/7/18 追記
「現象として現れることはありません」とどう折り合いをつけて考えたら私の頭の整理になるのだろうか。が宿題になっている。このビリーくんのようなケースは「現象として現れることはありません」、つまり姿かたちは全く似ていない、記憶?のなかにのみ存在?する。これもまた確かに「現象として現れることはありません」と言えそうだ。
2019年7月18日 6時25分 Techinsight
豪テレビニュースキャスターのデイビッド・キャンベルさん(David Campbell、45)が寄稿したコラム。
ビリー君が2歳の時に故ダイアナ妃の写真を指差し、大声で「見て見て! プリンセスだった頃の僕だよ!」と叫んだ。
ダイアナ妃の息子ヘンリー王子とウィリアム王子について口にし、驚くことにダイアナ妃の兄で生まれてすぐに亡くなったジョン・スペンサーさんについて語り出した。
ダイアナ妃がよく滞在していたスコットランドのバルモラル城について「自分が王妃だった頃、不思議の国の城によく行ってた」その城の名をバルモラルと呼んでいた。
そして「城の上にはユニコーンがいる」と話すビリー君「ユニコーンはスコットランド王国の象徴となっており、実際に城の壁にはユニコーンが刻まれています。 彼はまだ4歳なんです。
妻のリサさんがビリー君に故ダイアナ妃の他の写真を見せたところ、次のように話したという。
「あっ、それはプリンセスの僕だ! だけどある日、サイレンの音が聞こえてきて僕はもうプリンセスじゃなくなったんだ。」
ダイアナ妃が亡くなったのは、1997年8月31日のこと。仏パリで交通事故に遭った彼女の耳には、警察車両や救急車両のサイレンの鳴り響く音が聞こえていたのだろうか。
日本で生まれかわりの話といえば平田篤胤の勝五郎研究が思い浮かぶが、その勝五郎に関する催しがニュースになっていた。
約200年前の江戸時代、多摩地域を舞台にした不思議な「生まれ変わり物語」が、江戸市中や京都で話題になった。歴史的な記録も残っている物語を調べてきた市民有志が14日、日野市の高幡不動尊金剛寺で講演会などのイベントを開く。 (松村裕子)
物語の主人公は、中野村(現八王子市)で生まれた小谷田勝五郎。八歳になったとき、自分は「程久保村(現日野市)の須崎藤蔵の生まれ変わり」と、突然言い出した。藤蔵は六歳で病死したが、魂が抜け出し、あの世で「三年たったから生まれ変わるのだ」と言われ、勝五郎の生家に連れて来られた、とも説明した。約五キロ離れた程久保村を訪ねたところ、勝五郎は知らないはずの道を進み、藤蔵の生家を言い当てた。家の中の様子や父母の名は話した通りだった…。国学者平田篤胤らが勝五郎からの聞き取りを本にまとめ、大評判に。明治になって小泉八雲が「勝五郎の転生」という本を書いて海外に紹介した。 日野市郷土資料館によると、勝五郎(一八一五~六九年)も藤蔵(一八〇五~一〇年)も実在した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201810/CK2018101302000139.html
死後の世界や生まれかわりを説明する輪廻に限って言えば、信頼できそうな人の臨死体験、例えば米国の神経外科医、エバン・アレキサンダー氏の臨死体験に関する手記からはあの世の存在を示唆する話がある。しかしあくまでも臨死であり死後の世界とは一線を画する。従って近くまではいけるが到達できない不全感が残らざるを得ない。
しかし次の中村真一郎の言は横の広がりに目を向けたものだ。つまり 歴史上の時代や文明圏の相違を考える時、 まことに不思議な一致だから事実であると結論する。
中村真一郎は「死を考える」の中で、次のようなことを言っている。「それが私を不愉快にしている。」というのがいかにも作りごとではなさそうな気配を漂わせる。
『ところで、私は四十歳の大患中に、心と肉との分離の経験が幾回かあったり、入院中に私の副身(ドッペルゲンガー)らしい存在の出現が、病院外で、目撃せられるというような事件があったりで、死は単純に私の願っているように、肉と魂との同時消滅を意味しないかも知れない、死は肉体にのみ発生する現象かも知れないと疑うようになり、入手しうるかぎりの、古代から現代に至る死後の世界の記述(チベットの『死者の書』など)、あるいは死の世界の訪問記(スエーデンボルグなど)、又、一旦、死んで甦った現代の人たちの告白の医師による膨大な報告、又、甦る際に、同時に甦った別人と魂の入れ替った記録、自己の前生や、更にそのまた前生への記憶の回復の記述などを、次から次へと各国語の文献によって検討して行った。
そして、極めて興味ある事実に気付くに至った。それは、ほとんどの古代から現代に至る記録が共通して、肉体の死後に、私の希望に反して魂だけ生き残るらしいという事実を示しており、その魂のこの世からあの世への移転の状況が、無数の実例によって、酷似しているという、これまた奇妙な事実である。
これは、 歴史上の時代や文明圏の相違を考える時、 まことに不思議な一致だということになり、このような、相互に全く影響のない経験のあいだに、このような一致が見られるとすれば、それは客観的な事実であると結論するのが常識だと、私は考え、それが私を不愉快にしている。』
ところで輪廻の話を日本人や外国人の友人知人と話すとき、あるいはそれに関する小説を読む時に輪廻の捉え方に根本的な違いがあることに気がつく。例えばバリ人のバグースは輪廻を、生前の人格的なものをまとった霊のようなものが輪廻転生すると考えている。「バリ島物語」にも語り手のファビウス医師が、ププタンで死んだバリ一番の踊り手=イダ・バグース・ラカの孫の踊りを見て、オランダ人のシューピース=ファビウスが転生を実感する話が出てくる。
「私ははっきりと悟った。ちいさなラカのうちに祖先が生まれ変わった事を、又、誰なのかを。彼は再びこの島に還り、今一度生きるために表れたのだ。・・・金色の衣装に包まれた小さな身体が子供のラカではなくて祖先の、光り輝く、魅力あふれる、往事のラカであると思われたのである。」バリ島物語 ラカのうちに祖先が生まれ変わる
三島由紀夫は小説「豊穣の海」で、第一巻では明治期に20歳で死ぬ若者が第二巻では昭和期の右翼青年と転生し、ほくろが同一人格の証明であることを示唆する。
このように同一人格であるかのような転生を輪廻と捉える見方がある一方で、インド哲学者の宮元啓一氏は次のように述べてこのような人格を伴った輪廻を否定している。(ように思う)つまり誰が誰の転生であるかは他人からは決して伺いしれぬもので、同一にして不変な主体が輪廻転生していくのだが、「現象として現われることはありません。」つまりほくろやあざなどの肉体的痕跡はありえないものとなる。
因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることですから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければなりません。この主体こそが自己なのです。(p.104)
自己は、まさに自己反省的自己あるいは自己完結的自己ですから、あらゆるものごとに実在性を与える根源であって、現象として現われることはありません。(p.181)『仏教かく始まりき:パーリ仏典《大品》を読む』
このように大きく違う輪廻転生の見方があり、この二人が出会って輪廻転生の話をしても、おそらくすれ違いに終わるだろう、たしかに小説にするには「現象として現われる」輪廻の方が面白いが「現象として現われることはありません。」の輪廻が本当ではないかと考えている。
すると平田篤胤の勝五郎研究や中村慎一郎の「肉体の死後に、私の希望に反して魂だけ生き残るらしいという事実を示しており」などは「現象として現れることはありません」とどう折り合いをつけて考えたら私の頭の整理になるのだろうか。どうも生まれ変わりは「現象として現れること」には入らないと考えざるを得ない。つまり「現象として現れること」とは端的に幽霊を指しており、生まれ変わりは小谷田勝五郎と須崎藤蔵の例のように全く別の人間だが転生の記憶のみを共有していると。