紀野一義氏は戦争に行き修羅の体験をする。戦争にいった人は二通りに意見が分かれる、行ってよかったと思う人と損したと思う人で、氏は損したと思ったことがないという。俺は情けない、毎日土方みたいなことをすると否定するよりは体を鍛えればいいじゃないかと肯定的に考えて生き抜いたという。
戦場に送られて戦死するものは圧倒的に否定派が多い、インテリの部下は殆ど死んでしまう、生死の場では教養が邪魔をすることがあると述べています。
氏は軍隊で裸になって肛門まで検査され、それ以降人間が変わったとも述べています。
わたしは二十一歳で絶望的な戦況のフィリピンのレイテ戦場に送られ、何十回も死にかけたが、ついに死なないで終戦を迎えた。死ななかった最大の理由は、私自身がツイていたからです。どうしてツイていたかというと、どんな絶望的な状態の時にも、「私が死ぬはずがない、仏さまが守っていて下さる。」と信じて疑わなかったからです。ツキは、陽気で、楽天的で、絶対肯定して生きている人間に来るのだと今でも信じています。
紀野一義の祈り
50年ほど前にNTTの学園(当時電電公社中央学園 調布市入間町)で彼の講演を聴いた。人柄を感じさせる語り口で様々な話をされ、私を含めた受講生は大きな感銘を受けた。台湾での爆弾処理の話ではお題目を唱えて信管処理をしたところ不思議に事故がなく部下も真似してお題目を唱えながら信管処理に従事した。紀野さんは当時48歳。
紀野さんは米軍爆撃機が投下した不発弾1752発の信管をはずしたとwikipediaにある。
紀野の仏教に対する理解は戦争体験により深められたという。学徒出陣で太平洋戦争には陸軍工兵士官として応召。レイテ島に送られる予定であったが輸送船団が壊滅し、台湾に送られる。台湾では米軍爆撃機が投下した不発弾1752発の信管を外す作業を命じられる(失敗すると爆死する)。命じられたのではなく、紀野の講話や本によると、爆弾処理の部隊が誤爆のため壊滅し不発弾には触れてはならないという軍命令が出ていたが、台湾の農民のために軍命令を無視して爆弾処理を行った。wikipedia
こういう壮絶な体験から生き抜いてきた紀野一義氏の信仰は必然的に絶対者ブッダによる救済となる。そしてそれは日本特有の道元、日蓮、親鸞に連なる大乗仏教の信仰が中心となる。
佐々木閑氏は
「私は劣等感の塊のような人間だった」と述べる。そして科学者への道を挫折した人間だとも述べる。人生は少しの楽しみもあるが本質的には苦しいものだと考える人だ。つまりペシミズムなのだ。仏教の本質はペシミズムであり、その上で仏法僧に忠実な伝道者(氏は自らを仏教学のインストラクターだという。伝道者とは言わない)となる。
一体どちらが正しいのかという問いかけは意味をなさない。お二方とも好みで選べば良いと断言している。歴史学的にどちらが仏教かといえば佐々木閑氏の方だろうが紀野一義氏はそのような議論には興味がないようだ。自分を支えたものが法華経や鎌倉の祖師たちである以上、大乗も仏教なのだ。
初期仏教ではブッダは何人もいるが数十億年に一人しか生まれない。釈迦以前にも釈迦以降にもブッダは存在する。56億年後に弥勒が生まれる。この考えから大乗が生まれたのだろうかと私はぼんやり考えている。
私は紀野一義氏の
どんな絶望的な状態の時にも、「私が死ぬはずがない、仏さまが守っていて下さる。」と信じて疑わなかったからです。ツキは、陽気で、楽天的で、絶対肯定して生きている人間に来るのだと今でも信じています。
という考え方が好きだ。しかし佐々木閑氏の説明も好きだ。一見相入れないのだがどちらも好きなのだ。自らの生きるよすがは紀野一義氏に与する、つまり自らが生を終える時には紀野一義流の絶対肯定で死を迎えたい。だが佐々木閑氏の説明があってよりこの絶対肯定が光ってくるように思う。