まさおレポート

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夏目漱石 「坑夫」と石見銀山

2011-02-02 | 紀行 日本
夏目漱石の「坑夫」を青空文庫で読んでいる。何度も書いているが、海外滞在者にはこの青空文庫がことのほかありがたい。本を読む時間はあるが、スーツケースに本を詰め込むとすぐに重量オーバーになる。青空文庫で、日本ではまづ手に取ってみることのない、忘れられた名作を読む楽しみはバリの楽しみの一つです。iPadで読むと灯りのない海岸沿いでも読めるし、日中でも反射光も感じることなく読みやすい。

19歳の多分失恋かなにかで家を飛び出た苦労知らずの書生が何かの事情で、ポン引き風の周旋屋に連れられて最も過酷な労働の働き場に連れられてくる。現世のままでの地獄めぐりを経験することになる。人里遠く離れた鉱山で1万人もの男が働いており日に4,5人の死人が出るほどの過酷さだ。19歳の書生がそんな鉱山の坑道で働く羽目になり、初めてシキ(坑道)に入るところまで読み進んだ。

山中深く分け入った坑道は全く現世離れしている世界で、南京虫が米粒を散らしたようにいる、湿気て固い布団の描写や、真っ黒な顔の獰猛な男たちに笑いものになる経験をして、これなら家を飛び出す原因になった(失恋?の)苦労など、ものの数ではないと思い出す。19歳の書生は、南京虫をつぶすと青臭い臭いがして、これをつぶすことに快感を覚える。この南京虫をつぶした青臭い臭いが読んでいるものにも臭ってくるようだ。そしてそのうち南京虫など米粒ほどにしか気にかけなくなる。このあたりになって俄然この物語は面白くなってくる。

これからどんな風に物語が進行するか後100ページほどあるので全く推測がつかない。この物語を読みながら4年前に行った世界遺産になっている石見銀山の坑道を思い出していた。見学用に設けられた、坑道の中でもごく一部のルートを歩いただけだが、この小説を読む助けに大いに役立つ。日の光のまったく射さないひんやりとした坑道からいくつもの枝分かれがあり、さらにその先に枝分かれがありと、鉱脈を求めて蟻のように掘り進めていく。坑道のところどころに鉱脈の兆しであるギラリを光る岩が見えた。この坑道では本の紙魚のように穴を穿つと表現されている。

石見銀山も佐渡金山も罪人の作業場であり、この銀山、金山に送られた罪人は40歳まで持たないと案内人が言っていたことを思い出す。激しい労働も地獄なら、環境も文字通り地獄で、地獄をリアルに描写するのにこの坑道ほどふさわしいものはない。石見銀山の見学コースという、かなり安全で歩きやすいコースの一部を見ただけでも過酷さの想像が容易にできる。石見銀山では、さらに入り組んだ細い危険な行動は立ち入り禁止になっていたが、その先はこの夏目漱石の坑道が描くような世界に違いない。体一つが通る真っ暗な穴や、腹まで来ている冷たい出水の中を歩く、あるいは荒金を放り込む深い穴へ降りていく危険なはしご下り、ときおり響くダイナマイトの爆発音など、この小説と記憶の石見銀山坑道が重なり合う。

この小説の舞台は明治で、さすがに坑道の労働者は罪人ではないが、世間からはじき出された男たちの吹き溜まりのような世界がある。19歳の書生は飛び出した実家の世界にも、この世間からはじき出された世界にも、双方になじめない自分を発見する。このあたり、疎外が、夏目漱石がもったモチベーションなのだろうか。
 
抜粋を追記 2017/07/25
 

考えると、妙なものだ。一膳めし屋から突然飛び出した赤い毛布けっとと、夕方の山から降くだって来た小僧と落ち合って、夏の夜よを後になり先になって、崩くずれそうな藁屋根わらやねの下でいっしょに寝た明日あくるひは、雲の中を半日かかって、目指す飯場へようやく着いたと思うと、赤毛布も小僧もふいと消えてなくなっちまう。これでは小説にならない。しかし世の中には纏まとまりそうで、纏らない、云わばでき損そこないの小説めいた事がだいぶある。長い年月を隔へだてて振り返って見ると、かえってこのだらしなく尾を蒼穹そうきゅうの奥に隠してしまった経歴の方が興味の多いように思われる。振り返って思い出すほどの過去は、みんな夢で、その夢らしいところに追懐の趣おもむきがあるんだから、過去の事実それ自身にどこかぼんやりした、曖昧あいまいな点がないとこの夢幻の趣を助ける事が出来ない。したがって十分に発展して来て因果いんがの予期を満足させる事柄よりも、この赤毛布流に、頭も尻も秘密の中うちに流れ込んでただ途中だけが眼の前に浮んでくる一夜半日いちやはんにちの画えの方が面白い。小説になりそうで、まるで小説にならないところが、世間臭くなくって好い心持だ。ただに赤毛布ばかりじゃない。小僧もそうである。長蔵さんもそうである。松原の茶店の神かみさんもそうである。もっと大きく云えばこの一篇の「坑夫」そのものがやはりそうである。纏まりのつかない事実を事実のままに記しるすだけである。小説のように拵こしらえたものじゃないから、小説のように面白くはない。その代り小説よりも神秘的である。すべて運命が脚色した自然の事実は、人間の構想で作り上げた小説よりも無法則である。だから神秘である。と自分は常に思っている。

頬骨ほおぼねがだんだん高く聳そびえてくる。顎あごが競せり出す。同時に左右に突っ張る。眼が壺つぼのように引ッ込んで、眼球めだまを遠慮なく、奥の方へ吸いつけちまう。小鼻が落ちる。――要するに肉と云う肉がみんな退却して、骨と云う骨がことごとく吶喊とっかん展開するとでも評したら好かろう。顔の骨だか、骨の顔だか分らないくらいに、稜々りょうりょうたるものである。劇はげしい労役の結果早く年を取るんだとも解釈は出来るが、ただ天然自然に年を取ったって、ああなるもんじゃない。丸味とか、温味あたたかみとか、優味やさしみとか云うものは薬にしたくっても、探し出せない。まあ一口に云うと獰猛どうもうだ。

して見ると、世間には、未来の保証をしてくれる宗教というものが入用いりようのはずだ。実際自分が眼を上げて、囲炉裏いろりのぐるりに胡坐あぐらをかいて並んだ連中を見渡した時には、遠慮に畏縮いしゅくが手伝って、七分方しちぶがたでき上った笑いを急に崩くずしたと云う自覚は無論なかった。ただ寄席よせを聞いてるつもりで眼を開けて見たら鼻の先に毘沙門様びしゃもんさまが大勢いて、これはと威儀を正さなければならない気持であった。一口に云うと、自分はこの時始めて、真面目な宗教心の種を見て、半獣半人の前にも厳格の念を起したんだろう。その癖自分はいまだに宗教心と云うものを持っていない。


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