老人は自己紹介を始めた。1938年に慶応を卒業後三井物産に就職した。鉱山開発を専門とし昭和の中ごろに会社から減耗控除の経理を海外拠点に導入するためにフランスやインドネシアに派遣されたそうだ。
「げんもうこうじょ、一体何だろう、聞いたことがないですね」
減耗控除とは減価償却と同様に税法上の言葉で減価償却によく似ており、観念上の費用をいう。最初は意味が取れなかったが、減はへる、耗は消耗の耗と説明を受ける。
さらに英語で言うとdepletion allowanceだと説明を受けた。減価償却なら知っている。昭和初期に使われた減価償却の古いいいまわしなのかと思った。ネットで検索して調べてみるとそうではなく石油や鉱業分野で現役で使われる立派な経理用語なのだった。
石油、石炭、金属などの天然資源は生産によって減少し、また消滅あるいは枯渇する。 これを減耗(depletion)という。 この減耗を補充するため、売り上げまたは利益の一定割合を、主として探鉱による新しい埋蔵量の発見のための費用に充てるために控除することを減耗控除という。機械などの価値減少分を経理に反映するのが減価償却なら鉱山などの価値減少分を反映するのが減耗控除というわけだ。
減耗控除の話で一息入れ、老人はサヌールの海を眺めてコーヒーを飲んだ。わたしもバリコーヒーを注ぎ、老人の次の話を待った。老人の手元には「舞姫」文庫本が置いてある。この92歳は文庫本の活字がまだ読めるのかと余計な感心をする。
老人は減耗控除の話の後に若い日のヨーロッパでの悲恋の思い出を語りだした。減耗控除の話をイントロにいきなりロマンスの打ち明け話なんてピッチが速すぎるだろう。
彼は商社マンとしてパリに赴任した。パリに赴任が決まるのにこの減耗控除が伏線になる。あるとき三井物産で減耗控除経理の導入が決まり、パリを拠点にして教育普及を行わなければならない必要に迫られた。
「おい、だれかフランス語が話せる若手はいないのか」
「慶應仏文から2年前に入ったのがいます」
「話せるのか」
「多分話せます。以前からパリに行きたがっていました」
「じゃあ、そいつに決まりだ」
当時はおおらかなものだ、そんなノリで決まったらしい。
老人は妻子がありながら恋に落ち、その後転勤で日本に帰るとパリジェンヌが日本まで追いかけてきたというエピソードを話してくれた。減耗控除で人生が決まった。人生は本当にささいな岐路で決まる。
わたしはその話を聞きながら「しょうしょう話を盛りすぎじゃないか。この老人は「舞姫」の世界があたかも現実にあったことと勘違いしているのではないか」と内心で思ったが口には出さなかった。
わたしは老人の妄想の楽しみを邪魔したくないとの思いもあったので心とは別の言葉を述べた。
「なんだかこの森鴎外の「舞姫」に登場する太田豊太郎とエリスのようなストーリーですね」と手元の文庫本を指で指しながら感想を述べた。
「そんないいもんじゃあないですがね」と謙遜の言葉が返ってきたが目は謙遜していなかった。92歳の老人の顔の表情を読み取るのは魚の表情を読むようにむつかしい。どこまでが本当なのだろうと疑問のままに朝の食卓のテーブルを離れお開きにした。
そんな話を聞いたせいで急に森鴎外の「舞姫」を読みたくなった。幸いネット上の青空文庫のなかに収録されている。サヌール湾を望むレストランにパソコンを持ち込んで一気に読んだ。
40年ぶりの「舞姫」だが老人の話を聞いた後なので今回の方が一層面白く読めた。しかし40年ぶりの舞姫は以前の単純な感動ではない。幾分は太田に対して、つまり鴎外に対して「いい気なもんだ」という感情も交じっている。
舞姫の主人公で鴎外がモデルの太田は望郷の念と国家への奉仕の念、そして当時だれもが持っていた出世欲の入り混じった思いと、身重の恋人エリスとの生活を続けたい思いの激しい葛藤の末にある寒い夜、疲労困憊の果てに高熱を出して倒れる。
目が覚めると友人の相沢謙吉がエリスに別れの引導を渡していた。そのためにエリスは怒りと落胆で狂ってしまう。そのあと太田は金をエリスの母親に預けて帰国する。
ベルリン滞在中の森鴎外にも同じようなエピソードがある。女性は日本まで鴎外を追った。しかし時のエリートで国が嘱望する鴎外はその期待に応える以外の選択肢はない。自らの使命遂行を危うくする女性を日本に受け入れるわけにはいかないのでべルリンに追い返すことになる。鴎外には友人である賀古鶴所がいて追い返すときに「舞姫」の相沢謙吉と同様の働きをした。
「舞姫」は鴎外の血を吐く思いの懺悔であるに違いない。「舞姫」の太田も相沢に背中を押されている。鴎外も同様に生涯の親友賀古に背中を押されたに違いない。賀古はそれが友情だと信じて疑うことなく鴎外の別離の背中を押した。いや別離ではなく日本まで追ってきた女をおそらく相当の金を渡して捨てた。
この小説が高雅な文体と悲劇的な内容であろうとも、妊婦を狂わせ捨てた太田は下種の屑野郎に過ぎない。
「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。」
太田は「一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れり」とさらりと述べているが、鴎外の懊悩と後悔は深く生涯離れることはなかったのではないか。
文学史の研究では現在でもなお鴎外の捨てた女性には定説が無いという。A嬢説、B嬢説あり、売春婦説、期間契約の愛人説、純粋な愛人説といろいろ考えられるという。鴎外もベルリンで売春婦をカフェで買うことにはなんら躊躇していなかったらしい。俗に語ればこれほど低レベルのお話もない。
次の日も同じ食卓で朝食をとりに行くと既にプールでの水中歩行を終えた老人が愛人と同じ場所に座っていた。わたしも隣のテーブルに座る。老人と愛人に朝の挨拶を交わすと老人がこちらに古そうなカセットテープを手渡した。
「これを聞きたいんだけど機械が壊れてしまって。いい方法がありませんかね」
手に取ってみるとイブモンタンの「枯葉」が収められているカセットテープだが、今時テープ再生機は絶滅している。
「PCで聞けますよ。金子由香里の枯葉が入っています」
シャベルでかき集められる落葉が
忘れられない記憶を呼び起こす
ほら、かき集められる落ち葉は
僕の思い出の苦さに似ているよ(枯葉より)
既に滞在者は朝食を終えていてレストランには誰もいない。サヌールの波の音に負けないように音量を大きめにして聴かせてあげると
「バリで枯葉を聴くとはね。この詩がいいんだよね」老人は涙腺が緩みやすい、既にうっすらと涙が浮かんでいた。
ベルエポックのパリ、ふるきよきパリ時代を追想していたのかもしれない。
「舞姫を読んでみましたよ。今の時代から読み直すと結構きつい話ですね。」この老人ならこちらの感想を素直に述べても受け入れられるのではないか、そんな気がした。
「鴎外はパリの女性が日本に追ってきたのを追い返したことで生涯償いきれない深い傷を負っていますね」
「なぜそう思いますか」
「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。と最後に書いていますね。一点の彼を憎むこゝろとさらりと書いていますが深い傷を負ったことが感じられます」
「わたしもパリジェンヌが日本に追いかけてきたときは「舞姫」を読み返してみた。それで追い返すことができた。つらかったが」
パリジェンヌの来日で自分の家庭も壊れてしまったと、自らも犠牲を払ったことをぼそりと述べる。離婚はしていないがもう何十年も妻と息子二人とはあっていないと言う。
再び深い傷の話に戻った。
わたしは鴎外の遺言からもその深い傷が推察できると話した。「宮内省陸軍皆縁故アレトモ生死別ル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス、森林太郎トシテ死セントス」この遺言はわたしには鴎外の深い懺悔に聞こえます」
深い傷を語るためにわたしはかつて訪れた津和野の話をはじめた。
広島高速道路から中国高速道路へ入り、六日市インターから津和野に入る。途中の山並みの新緑と杉林の濃緑それにときおり姿を見せる藤の花の紫が眼前に広がる。インタチェンジを出ると高津川の清流が傍を流れ、津和野にたどり着くまで続く。ヤマメの釣れそうな清流だ。
森鴎外記念館は折あしく休園中で隣の森鴎外旧家をみた。5間ほどの家屋に庭がある家で質素だが気持ちのおちつく家だった。庭に面した4畳半は森林太郎の勉強部屋で掘りごたつのような床が掘られていた。家のすぐ隣が清流の流れる高津川だった。数々の文明開化用語を残した西周旧家はすぐそばにある。
森鴎外は終生津和野に帰ることはなかったが、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言した。森林太郎の名前の通り森と林に囲まれた地で、石見人と誇りえるなつかしさのつまった土地柄であることを清流と森の緑に圧倒されながら感じた。
「生死別ル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」には鴎外の死生観がよく表れている。国に尽くすことを最大優先に求められ栄達も得たがその心の奥には森と川に恵まれた地に帰ることを願望する。
森鴎外はエリス風の女性を捨てた後に深い後悔と栄達の葛藤にさいなまれ、最後の遺言で官権威力に「もう十分だろう、死に挑んでまで言う通りにはならない」と背を向けることで懺悔の精算をつけたのではないか。我慢に我慢をかさねた人生の最期に自らの心底を吐露したのだ。
<鴎外の遺言> 大正11年7月6日
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ
ココニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス 死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官権威力ト雖、此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、宮内省陸軍皆縁故アレトモ生死別ル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス、森林太郎トシテ死セントス、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス、書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ、手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
ある夜日本食レストランに入り、老人を25年前から知っているというレストランオーナー女性と話す機会があった。あまりに話がドラマティックで、妄想を話してくれただけではないかとの疑いが頭の片隅にあったからだ。
その女性は老人と25年前にジャカルタで知り合ったという。女性がジャカルタでブティックを経営して慣れない土地で困っていたときにいろいろと助けてくれたという。そのときの恩を感じているのでバリに滞在中は金銭的にも面倒を見ているとも話してくれた。
そしてすこし困った風に笑いながら、パリジェンヌとの恋や日本へ追いかけてきたことなどは本当の話だと話してくれた。
「あの方は老齢のせいでときおり少し奇異な行動もされます。このビラにあの方と昔から知り合いの女性が一人で滞在していらっしゃるのですが、夜に頭からサロンを被って忍び込んできて驚かせることがあったりします」
「現実と妄想の世界がわからなくなっているのか。認知症がはじまっているのかな。」
「まだらぼけっていうんでしょうか。時間帯でときおり突拍子もないことをされるんです。ま、92歳ですから実害はありませんが」
やはり聞いた話も妄想だったかもしれないな、妄想でも面白ければよいか、混濁のなかにも真実がある、そんな思いで聞いた。それにしても60代の愛人は大変だなと同情した。
レストランのオーナーから話を聞いた後、1週間ほどたったある夕方に自転車で近所のスーパーにビールを買いに出かけようとビラの中を走っていた。
出口に近いビラのテラスでこちらを向いて手を振る老人が眼に入った。手をこまねいているのでビラのテラスに自転車を止めて挨拶を交わした。
「お茶を飲んでいきませんか 日本茶のおいしいのを日本からもってきています」
ビールを待っている家族のことが浮かんだが日本茶の誘惑に心が動いた。このところ飲んでいない。テラスの椅子に座ると目の前に小さな池が見え、黒い淡水魚が泳いでいるのを眺める。オランダ人の飼っている猫が淡水魚を狙っていたがやがて諦めて池の前に這いつくばった。燕が低空飛行してきた一瞬に猫は飛び上がり爪をひっかけた。見事な狩の成功だ。
「さあどうぞ 静岡のお茶ですよ」
愛人が入れたお茶の色が薄緑だ。口に含むと甘くて脳を刺激する香りが立っている。
「昨日に舞姫の話をしましたね。実はわたしは慶應文学部仏文専攻を1938年に卒業しました」
「そうなんですか お隣のビラに滞在の藤村さんも慶應ですよ」
藤村さんも60歳を過ぎてから熟年の看護師の女性と恋に落ち、駆け落ちするようにバリにやってきたと聞く。同じビラの増山さんも豊野さんもくくれば同じパターンに入る。バリ島は似たものを引き寄せる神々がいる。
老人はちらりとお隣の藤村さんを眺めたがその話題にはあまり関心がなさそうで永井荷風の話題に移った。
「わたしは永井荷風のふらんす物語などでフランスにあこがれていました。フランス滞在を終えた永井荷風が慶應義塾に就任し1910年に仏文専攻が生まれました。荷風は既に1916年に慶應を辞職しています。わたしが入学した1934年とは時代が違います」
この老人のうわさをこの間聞いたばかりだ、しかしこの記憶力はどうだ、少しもぼけていないどころか年代まで正確に記憶している。この老人の場合、ぼけは突然やってくるのだろうかなどと内心考えている。
「荷風は文学をやるなと言って親父に厳しく反対されていますよね。あなたもご両親に反対されなかったんですか」
「もちろん親父は反対しました。しかし慶應の仏文は商社にも就職ができたんです。だからねばって親父を説得し、卒業したら三井物産に入り商社マンになるからといって親父を説き伏せました」
右隣のバンガローのドアがあいて60代の女性が出てきた。レストランオーナーが話していた老人の妄想の相手はこの女性だ、どんな顔をするのだろうと観察すると女性はきつい目をして老人を無視して前を通り過ぎた。わたしの目にはまったく魅力のない60代の女性だが老人は後ろ姿を追っている。「ああ やはりレストランオーナー女性の話は本当ぽいな」と思う。
時計をみると既に1時間が過ぎている。ビールを買いに行かなくてはスーパーが閉まってしまうと慌てて自転車に乗り、別れを告げてビラの門から飛び出す。スーパーでビンタンビールを4本買って帰り老人のビラの方をみると窓越しに白ワインを飲むカップルが見えた。
この老人は一年ほど見かけなくなった。レストランオーナーの女性に
「あの方はどうされましたか」と尋ねると
「日本に帰られています。近々バリにこられるそうで、今度はリタイアメントビザでいらっしゃるそうです」
「ええ!93歳で今度はリタイアメントビザで」と思わず今までは何のビザだったんですかと突っ込みを入れたくなった。
その後1年経っても老人を見かけなかった。再び道でレストランオーナーの女性にであったときに老人の消息を聞いてみた。
「あの方は長野県の山荘であの女性に看取られて94歳でお亡くなりになりました。お幸せな一生だと思いますよ」
わたしはなんだか嬉しくなった。人が亡くなって不謹慎なのだが94歳のやりたい放題の老人が愛人に看取られて死ぬ。これって最高なんじゃないの。そうレストランオーナーの女性に言い残してその場を去った。
ビラに帰る途中しばらく懐旧した。92歳にもなると人に話を聞いてもらうのが楽しいひとときだったのだろうか。この老人はビラの玄関横にある椅子に腰かけて外を眺めていてわたしと目が合うと寄って行けという。
毎日わたしを待っていたのかもしれないと思った。わたしには家族もいてなかなかその時間も作れずに終わってしまった。もっととっておきの昔話を聞いておけばよかったとこの破天荒な、家族との人生に背を向けた人生を送った老人を懐かしく思い出した。
そして荷風の文学の毒にあたったのだ、文学の毒は距離感をもって接すると生きていくうえでクスリになるが、誤ると身を亡ぼす猛毒になるとつぶやいた。
それにしても94歳まで生きて最後は愛人に看取られて死ぬ。果たして身を誤った人生というべきか、いやむしろ鴎外の最期の遺書をみれば老人の一生は悔いのない人生だったとも。