法華経への道
はたして法華経は歴史的にどのようにして発生したのだろうか。誰が書いたのだろうか。こうした問いに氏は経典結集菩薩団の存在を挙げている。
経典結集菩薩団
大迦葉を中心に悟った人のみで経典を集める、如是我聞はこうして集めたことを示している、釈尊の説法を皆が正確に覚えているわけではない、阿難が一番正確に覚えていたのだが彼は悟っていない。
阿難は優しい人で悟れなかったので大迦葉に叱責されている。阿難は枕を変えることで悟りやっと結集メンバーに入れてもらえた。そして阿難が結集した経を訂正して採用されこれが在家に伝えられた。
比丘の説く釈尊の話だけを聞いても在家は心が落ち着かない、そういう人はお墓に行き、前で踊ったりした。今日の盆踊りと同じでインド映画を見てもインドの人は今でも踊るのが大好きだと氏はいいます。
大般涅槃経には火葬や舞踏や花を撒き供養したと書いてある。塔を管理していた人たちに比丘も入っていく、そして自分たちのことを比丘教団に対して経典結集菩薩団と呼ぶことになる。
経典結集菩薩団は干からびている経典ではなく新しい経典を作ろうとした。そこから大乗の般若経、南で華厳経、維摩、法華経は西北インドでできたと推定されている。
原始仏教からみても法華経が正しいと証明する手の込んだ証明をしていることからも釈尊滅後に説かれた教えということになる。
クシナガルの小高い山に火葬場を煉瓦でつくり、陵にお釈迦様の遺骸を運んで火葬にした。このあたりは日本の田園風景にそっくりで、敬慕の念が見宝塔見品を生んだ源流ではないかと氏は語ります。
小乗とは大乗の人がそれまでの原始仏教をさげすんで呼んだ言葉で小乗と呼ぶとタイの人々は怒る、テーラワーダと言わなければいけない。
釈尊在世の頃の仏教は根本仏教とよばれ、その後の仏教は原始仏教と呼ばれる。釈尊滅後の弟子たちは経から律や論の研究に勤しみ、人への救済をおろそかにした。経、律や論をできるだけ多く暗記している人が尊敬されると言う記憶力の競争のようなおかしな現象を招いた。
又、彼らは国王その他だれに対しても頭を下げなくなる、傲慢になった。これに対しておかしい、それじゃ宗教じゃないと教団を去る人が出始める。
ブッダの骨は当初8か所の塔にあった。滅後116年後にアショーカ王が出て8か所の塔の骨を全部集め、インド全国(8万か所と言われるが実際は数百か所だろう)に小わけした。
それぞれが大きな墓であり、 管理を富裕な在家に任せた。彼らの方が出家よりも力を持ち始め、さらには出家も坊さんをやめて仲間に加わるものがでてくる。こうして菩薩団が発生した。
文学的才能のあるものは自分たちで釈尊が生きていたら作ったであろう経文をあらたに作る、これが大乗経典であり華厳、阿含、般若経が成立する。さらに大乗に依然として残る二乗差別つまり声聞、縁覚は成仏できない、女人は成仏できない差別をなくして法華経ができあがると氏は語ります。
経典結集菩薩団について氏は30代の学究時代に次のように論文で記している。
古代銘文にあらわれた長者・居士について私は最近、菩薩団から大乗教団に進展して行く過程について研究をすすめているが、この菩薩団および大乗教団の基盤になつているのは、資産者階級・商人階級である。 論文「古代銘文にあらわれた長者・居士について 紀野一義」
大乗は在家の長者あるいは居士と呼ばれる富裕層、地主層から発生した。釈尊は葬儀といった日常儀礼は比丘ではなく在家に任せなさいと教えた。比丘しか成仏できないとされていた在家の居士たちが本来の釈尊の教えを結集して大乗が発生した。
氏が在家の伝道を貫かれたのはこの経典結集菩薩団発生の由来に学ばれたのであろうと思います。
以下氏の講演などで大乗の発生をさらに学んでみようと思います。
釈尊が亡くなる時が近づいてくると心配性の阿難がいろいろと先のことを考えた。釈尊は「阿難よお前たちは心を煩わしてはいけない。バラモン、商売人などが遺灰の心配をするだろう」と釈尊は阿難に諭す。
紀元前383年の釈尊滅後116年後にアソーカ王が発掘して遺骨を取り出して8万四千に分けた。これはインド特有の「多数の」との定型的ないい方で、おそらく数百に分けた場所に建てられた塔は今でいうお墓だった。
遺骨の上に土饅頭や塔が建てられたがロシアの学者によると土饅頭、ストゥーパの高さは直径が5メートルだろうとしている。
法隆寺には土饅頭や塔のイメージが見て取れる。門から右に金堂に仏様がおられ、左に五重の塔でお骨を収める。法隆寺のまず金堂で礼拝し、そして五重塔で骨を礼拝する、これが敬意が均等でなければいけないというので中門の真ん中に柱が立っていると友人でもある梅原猛説をやんわりと否定しています。
仏塔をたて、塔(墓)を管理したのは比丘ではない、かかわってはいけないと釈尊に命じられたから、塔(墓)は在家が作るというのが釈尊のご遺言だった。仏塔をたてるのは在家がおこなうべきもので日本の仏教は本来の伝統から変わったのでしょうと述べている。
氏が寺の息子でありながら在家を通し当今の「仏教はなんら答えるべきものを持っていない」との痛烈な批判の原点をみる気がします。
曽我量深の大乗非仏説反論
大乗は釈尊が言われたことではないということを言いだす、つまり大乗非仏論をいう人たちがいる、大乗は後世の人間が勝手に作った文学作品だからあれは仏教ではないということを言い出した人がいて長い論争が今日まで続いていると氏は述べる。
原始仏教からみても法華経が正しいと証明して皆これ真実という時間を遡るという手の込んだ証明をする。映画のフラッシュバックみたいだ。このことからも法華経は釈尊滅後に説かれた教えということになる、滅後の紀元前1〜3世紀に大乗が出来上がった、これは事実であり、そのために法華経を含めた大乗は非仏説であると語る人々が今日にも存在すると氏はいう。
曽我量深は「法蔵比丘」という小さな本で驚くべきことを書いている、釈尊以前から仏教はあった、それを天才が言葉にしたのが大乗だと説明してそれがわからんといつまでたっても法華経はわからんと述べている。
曽我量深は仏教というのは釈尊が出てから仏教というものが起こってきたと考えられているが実は釈尊以降に仏教があるとしたら釈尊以前にも仏教があったはずではないかと問いかける。
紀野一義は、仏教とキリスト教の非常に大きな違いを考えるとき、キリスト教というのはキリストに始まるが仏教は釈尊が出る前にも仏教はある、それがキリスト教との大きな違いのひとつだと語ります。
曽我量深は、釈尊は別に特別な事を言っていない、前から言ってることを言った。釈尊以前の仏法とはどういうものであるかということを必ず思い出さなければならない、思い出すべきものであると思う、思い出さんということはむしろ不思議だと思う、そうではありませんかと阿頼耶識から見出した知見を述べる。
釈尊の仏教が出てくる前の仏教を学んで、そしてそれを今私どもが大乗仏教と言っている、宗派で論争している場合ではない、あら懐かしやと言って手を取り合うようになるだろうと。
紀野一義は「これが理解できないと仏教をいくら学んでも理解できるものではないですね」と言い理屈ではなくイメージで理解することの重要さを説きます。
常不軽菩薩
法華経のドラマは時間的前後関係を超越している。「方便品」で釈尊が法華経を説く前に退去していった「五千人の増上慢の四衆」に対して、後に成立した「常不軽菩薩品」では、釈尊の前生である常不軽菩薩によって救済の手が差し伸べられているという時間軸で語られ、紀野一義など適切な人の導きなしではまずなにがなんだか分からなくなる。
「信じない人のための<法華経>講座」そして「ほんとうの法華経」植木雅俊を読み、法華経 梵漢和対照・現代語訳を読んだ。立川武蔵の「空の思想」をよみ、宮元啓一の一連の著作も読んだ。おそらく20数年かけて読んできたこれらの内容が紀野一義によって具体的に結びついてきた。氏は法華経の究極を渡す人になることだと繰り返し述べています。
「ほんとうの法華経」植木雅俊では法華経が編纂された時点でそれまで考え出された仏について、あれはすべて私(釈尊)だったとうちあける。つまり法華経の前半では三乗(声聞、縁覚、菩薩)の教えを唯一つの教え、一仏乗によって統一し、後半、宝塔出現の際に十方の分身の諸仏が招集され空間的に諸仏を統一し寿量品で過去の諸仏を時間的に統一し集大成したと述べている。
三乗とは声聞、縁覚、菩薩のことで小乗では声聞、縁覚を是とし大乗では菩薩を是としてお互いに避難し差別しあっていた。法華経に至って大乗の菩薩を超えた菩薩をたて声聞、縁覚、菩薩を止揚した、これによって大乗の菩薩を越えた菩薩が本来の釈尊であり、本来の教えということになる。
つまり一旦は完成した仏になるが、その後娑婆世界にもどってくるのが大乗の菩薩を超えた本来の菩薩となる。植木氏は「法華経 梵漢和対照・現代語訳」のあとがきでこの点を力説している。
釈尊滅後に思想が硬直化し出家が在家や女性を差別をし始めた時代、さらに小乗と大乗が互いに罵り合いを始めた時代に釈尊に戻れと法華経が生まれたというのはとても新鮮で納得がいく。
空を体験したものが空には長くいることができずに再び戻ってくると立川武蔵は著作で述べているがまさしく大乗の菩薩を超えた菩薩が再び戻ってきた菩薩と一致する。
娑婆にかえってきたら何をするか、止揚された眼で宗教間の争い、世界の危険な情勢を眺め、身をもって諫めるだろう。
氏は「そろそろそういう人がでてきてもよいころです」と語っているが、いまだそういう人が出てこないということは大乗の菩薩を超えた菩薩の出現がいかに困難かを示しています。
植木雅俊は常不軽菩薩を「常に軽んじないのに、常に軽んじられていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」と幾分まわりくどい訳をしているが、原点に忠実に訳すとこういう表現になるという。
石を投げられている菩薩、常不軽菩薩が大乗の菩薩を超えた法華経の菩薩の出現のありようと困難さをよく説明しています。
遠藤周作もこの常不軽菩薩を作品に登場させている。作品「おバカさん」のガストンなどは常不軽菩薩そのものだ、宮沢賢治のデクノボウと同列に連なるだろう。つまり常不軽菩薩は今も昔もかっこよくない、市井にひっそりと存在していて誰からも注目されない。こういう菩薩が法華経の菩薩の代表モデルとなっているのは大変重要だと思います。
法華経はドラマ
法華経各品の構成はドラマのステップとして読むとわかる。法華経が作成された当時では成仏や菩薩など恐れ多いとされていた。なぜなら釈尊の前世で、未来において、さとりを開き釈尊仏となるであろうと予言(授記)したことから、釈尊のみが成仏できるという考え方が支配的であった。そのため二乗(声聞、独覚)が人々の最高の到達点とされていた。
方便品では釈尊のみが成仏できるという考え方を打ち砕き、二乗にも成仏の予言つまり授記がなされ、仏の十号(如来、応供、正遍知、明行足など)を列挙し、実は二乗も菩薩であるという革新的なことが明かされる。ドラマでよくある第一幕が示されたことになる。
方便品では舎利弗に「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり」とのみ教え、成仏の期待を持たせたまま最終回答は与えず最終的には寿量品に答えを譲っている。これもドラマによくある手法だ。
インドの各地方で特色をもって結集された経の中で、華厳経はお寺の建築、維摩経は人間ドラマ、般若経は哲学、法華経はほとけのイメージドラマと氏はとらえています。
法華経28品に一体何が書いてあるんだろうと長年思いながらそれほど熱心に学ぶこともなく人生を送ってきた著者のわたし自身がまもなく後期高齢者を迎える。法華経全体を読んでみることもなく部分的に読んできたのだが疑問だけがあった。
形容の繰り返しは退屈に思え、読み通す気が起きなかった。富永仲基の「法華経は終始、仏を賛嘆するばかりで、全く経説としての実がない」もどこか頭の片隅にあった。白隠でさえ42歳まで法華経を深く読めなかった。
しかし紀野一義も語っている。法華経はロゴスで理解するものではない、イメージで理解するものだと。いわば右脳で理解せよとのことだ。なるほど勇気づけられる。富永仲基の批判はロゴスがないとも読めるがイメージは絢爛としており、絵画をみるように理解すればよいのだと思います。
私も74歳、そろそろ法華経に対する積年の疑問を解明してみようと思い立って植木雅俊氏の書「思想としての法華経」を開いてみた。すると法華経28品の構成の必要性がわかった、構成がわかれば読んでみようという気になる、実に見事な解説です。
法華経が作成された当時、釈尊の前世で未来においてさとりを開き仏となるであろうと予言(授記)したことから、釈尊のみが成仏できるという考え方が支配的であった。そのため二乗(声聞、独覚)が人々の最高の上りとされていた。
法華経方便品でこの考え方を打ち砕く。二乗にも成仏の予言つまり授記がなされる、つまり仏の10号(如来、応供、正遍知、明行足など)を列挙し二乗も菩薩であるという革新的なことが明かされる。
しかし舎利弗には難解難入とのみ教え、成仏の期待を持たせたまま回答は与えず最終的には寿量品に答えを譲っている。期待を持たせ、答えを寿量品に委ねている。
しかしすぐには寿量品に至らず結論をださない。涌出品では二乗(声聞、独覚)より上位の無数の菩薩が滅後の布教を願い出るが「止みね。善男子よ。汝等が此の経を護持せんことを須いじ」として、君たちでは滅後の布教に役不足だと退ける。それまでの大乗仏教の菩薩では到達できない(所不能知止揚)とにべもなく拒否されている。
あれ、二乗(声聞、独覚)でさえ成仏の予言つまり授記がなされているのにそれより上位の俺たちには「止みね。善男子よ」とは一体どういうわけだ。
法師品ではかつて菩薩たちがすごろくの上りであると考えた仏陀の国への誕生を自発的にやめ、苦労の多いこの現世(閻浮提)に生まれることを願い出る。いよいよ菩薩にも段階があることが示される。仮の菩薩から真の菩薩の一大転換がなされる。すごろくのあがりのように成仏する前段を菩薩と考えていた衆生は一大変革を迫られることになる。
寿量品でいよいよ真の菩薩への止揚が説かれる。地涌の菩薩の出現で永遠の菩薩道を指示し、久遠実成の釈尊でさえ、すごろくのあがりに安住せず永遠の菩薩道を行うことが示される。
神力品で滅後の弘教の附属(口編)が行われ、永遠の菩薩道の徹底がなされる。
さらに具体的な菩薩のモデルを常不軽菩薩品で明らかにする。釈尊の前世に威音王如来という同じ名前をもつ2万億の仏が次々と出世され、その最初の威音王仏が入滅した後の像法の世、増上慢の四衆(僧俗男女)が多い中にこの常不軽菩薩が出現する。
最終的には嘱累品で他の菩薩にも滅後の弘教を託すことで菩薩から真の菩薩への止揚は完結する。実に6品(巻)で真の菩薩への止揚への道程を説くことになる。さあ、これだけの構成をおさえると法華経はドラマの演出表現だなと分かってきます。
薬草喩品も草木も成仏できると導く書だ。二乗、三乗を問わず一切のものが薬草に譬えられ成仏できるとする。
この説話の大雲とは仏で、雨とは教え、小草とは人間や天上の神々、中草とは声聞・縁覚の二乗、上草とは二乗の教えを通過した菩薩、小樹とは大乗の教えを理解した菩薩、大樹とは大乗の教えの奥義を理解した菩薩であり、仏は一乗の教えを衆生に与え、利益の慈雨で潤したことを例えている。
氏は大乗の特に法華経についてイメージで理解することの重要さを繰り返し説く。曽我量深の阿頼耶識による理解と通じるものがある。寺の息子として小学校1年から経を唱えさせられた。「小学1年生で意味なんかわかりっこありませんよね」親父に怒られるから唱えただけだが、意味も分からないままに唱えることで、あるときその意味がパッとわかる時が来るという。
法華経は字句解釈から入って理解してやろうと思ってもそれは不可能だ、朝夕唱えていてあるときパッとわかるとはいかにも現代的な教育法に反しているように聞こえるが氏は体験的にそうつかまえた。
インド哲学や仏教学の理論では決してすんなり入ってこないという。氏は学者でも訓詁注釈を重んじない。角田氏の右脳理論を引いてイメージによる領解は右脳によるので日本人には理解できるのではないかとも。このイメージによる経というのが私には感無量の言葉となる。法華経は人々が最高の教えというが、すごいぞ凄いぞというだけで何がどう凄いのかさっぱり書かれていないという批判が根強くあり、これをどう整理したらよいのかわたしの心の中の疑問として残っていた。
法華経には不思議なイメージがあり、触発されるとイメージ脳のなかに思いもかけないイメージが脳裏に現われ、自然が美しくなったり、人間がすばらしく見えたりすると氏はいう。そして法華経を真に理解できたのは世界で日蓮上人、道元禅師、宮沢賢治の三人のみだという。道元禅師が正法眼蔵で、法華経は凡夫には理解できない世界で唯仏与仏と記しているとも教えられた。白隠でさえ法華経を42歳になるまでわからなかったという。
法華経の舞台は途中で霊鷲山から虚空へ舞台が変わっている、そして最後にまた虚空から霊鷲山に戻って来るが、これは空に至ったものが色界に戻ってくることを壮大なドラマで表現している。
法華経をメタファーで讃える譬喩が10の例で示される。2000年も前のインドの、しかもバラモンの素養がある人向きの譬喩が多いのでぴんと来ないかもしれないが、意図は十分にくみ取れる。現代ならどのような喩を用いただろうかなどとフィクションの世界に飛ぶのも必要になってくるだろう。
海が第一であるように
山々のなかで、須弥山が第一であるように
月が第一であるように
太陽が夜の闇を破るように
転輪聖王が第一であるように
帝釈天が諸天のなかの王であるように
大梵天王が衆生のなかの父であるように
菩薩の修行それぞれの境地に達したものが第一であるように
一切の声聞や辟支仏のなかで菩薩が第一であるように
仏が諸法の王であるように、この経も諸経の王である。
救済とはなにかを具体的に11例で説明して「一切の苦、一切の病、一切の生死の束縛を解く」と結んでいる。
渇いたものがオアシスの水を得たように
寒さに震えるものが火を得たように
裸のものが衣を得たように
商人が守護者を得たように
子が母を得たように
渡りに船を得たように
病に医者を得たように
暗闇に灯火を得たように
貧しいものが宝を得たように
民が王を得たように
貿易商が海を得たように
一切の苦、一切の病、一切の生死の束縛を解く
イマジネーションの成果としてできたものが法華経であり、情緒と論理でたどり着こうとしても絶対にわからない。
画家の宇佐美圭司さんの「心象芸術論」を読むと「春と修羅・序」が宮沢賢治のアンチリアリズムつまりイマジネーションの成果だと氏は言います。
この世の中は移り変わるが見失わないようにしなさいとの釈尊のことばがありますが、鋭い感覚で道元はこの箇所を本行菩薩道、永遠の生命を生きているととらえた。直観力、壮大なイメージでとらえることが必要です。どちらにしても人は本行菩薩道のただなかにあると解せられた。
イメージでとらえることが必要であることに関して。
山形浩之の絵は実に道元の言う透脱の世界をもっています。山形さんの絵を見てあまりのクリアな、わたしの今までにない美意識も開かれた。毎日眺めていると「あ、こりゃいいな」と思うようになりました。
取材に行ったときに山形さんに絵を教えた人に出会った。そこで出会いに大騒ぎしたんですけど、じつはとうの昔に山形さんに会うに決まっているという気がしています。これも本行菩薩道という気がします。永遠の生命が、ほんとうにおもしろい出会い、よかったなという思いをもたらす。これを本行菩薩道と読んでいいのではと思います。あるとき、あるときがあるだけです。死んだあとのことなど情緒的論理的に考えるからです。一瞬一瞬が勝負であり、ある現象に過ぎない。
戦争中のことを語るが過去の今を語っています。思い出しているそれぞれが今であるのじゃないでしょうか。今生で菩薩になるのは前生で立派な修行をしていたからだ。これを本行菩薩道と道元さんは言います。
法華経は読み方を誤ると途中で嫌になり挫折すると植木雅俊氏はいう。例えば序品には女性も含めて1250人の名前が延々と書き記されていてこれで嫌になってやめてしまうがここは読むところではない、映画のクレジットのように眺めるだけでよい。要は適切な先達に学ばなければ感動に至る前に早晩挫折するようだ。
「ええなあ ええなあ」が善哉にもっともふさわしい、「ええなあ ええなあ」の感動がなければ読んでも嘘で、法華経は論理的に読んでもわからない、佐藤勝彦という画家は会うたびに「いやー」と感心してくれるが感動する人を氏は大好きだといいます。
世尊よ願わくば仏身を見奉らんという願いによってイメージによる官能の喜びから精神的な喜び、静かな喜びへと喜びは移っていく。
ほとけの眉間の白毫は右回りに巻いていて、そこから白光を発すると十方の世界の分身の諸仏がはせ参じる。そのとき海も山もなくなって大振動する。紺色のガラス状になった大地に宝珠の木が並んでいるなどは官能の喜びといってよい。
法華経方便品
ほとけは凡夫でない人には法を説かない、凡夫に説かれた、その人にとっての一大事因縁、何かをさせられるということ、それがおのれを知るということでそれがわからないといくら学者の話を聞いても、キリスト教の話を聞いても何にもならないと氏は繰り返し述べています。
方便品は嘘も方便とのことわざでかなり誤解されている、方便とは早く理解でき早く近くに行く手立てをもともと意味する。三乗は方便でありほとけからみれば同じで、すべての人に仏乗を説くことが究極だと明かす。三乗は方便だった、教えはただ一つなのだ、わからないのはあなた方が仏乗だと言うこと知らないからだと。
訳もわからず読む
紀野一義は方便品・自我偈を小学一年の頃頃から訳もわからず声を出して読んでいた。氏は声を出して読むことを折に触れて勧めている。
氏が仏教の話をしたときに正法眼蔵がよくわからないと質問を受けた。どんな読み方をしているかを確認したら、岩波の本を読んでいるとの返答に、「正法眼蔵は声を出して読まないとわからない」と答えている。
氏は読経しているうちにほとけさまにお経を読まされているということが体で分かってきた。親父に意味を聞いても教えてくれない。「そのうちわかる」「おとうさん、ほとけさんて僕のなかにいるようなきがするんだけど」「そうだよ」と父は答える。そんな会話を紹介しています。
開示悟入
方便品に開示悟入としてさとりの順番が説かれる。目が明かないとなにも見えない。目を開くと無数の花が咲いているのがわかる。これは意欲がないとだめだ。
諸仏は唯一大事因縁をもってのゆえに世に衆生をして仏知見を開示悟入せしめんために現れた。目が開くとはまず真実の自己に目覚めることがなければどうにもならない。ほとけがいろいろ見せて下さる。
氏は目が開くを鈴木大拙の話を紹介して説明している。
花を見て花を見ず、この言葉は氏がつくった、鈴木大拙がアメリカから戦後初めて日本に帰った時一番最初に話を東大でされた。その時にインド哲学研の特別研究生だった氏はいちばん最初に話を伺うことができた。
仏教の著名な学者が100人くらい東大に集まり列から一番後ろの方で聴いた。途中で鈴木大拙は花瓶を持ち上げ「これは一体何ですか」前にいた学者の一人が「それは花瓶です」
鈴木大拙はこれは花瓶ではないかもしれない、これは酒を入れるものだと思うかもしれない、その人その人の感じ方によって違う。
花弁であるという先入観で対象を見ていたら実はそのもののポイントが見えないことになる、ものを見るということはそういう風であってはいけないと言われた。
花は見て花を見ないと言い方が氏のなかに来た。ヘッセの作品「シッタルーダ」でシッタルーダのかつての盟友ゴーヴィンダが、自分は年老いているがさぐり求めることをやめていないと述べたのに対し、さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことであると述べる。
これは方便品の開示悟入の開そのものではないか。目標をさぐり求めるために広く目が開いていないのでは大事なものを見出すことはできない。見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことであると述べる。知識ではなく目を開くことで悟にいたると氏はいいます。
真実の自己に目覚めても人に示すことができるのでなければ本当にさとってはいない。「何とも言えない」というセリフは最後に言わないといけない。あるいは見ようとする意欲のあるものには示されると簡単に考えてもよさそうだ。示とは自らの遍歴で体験することから示されることではないか。
自分がなんであるか、知らなかった自分を知る。悟は自分が何であるかを悟ること、ははーんとわかること、あるいは鐘の音を聞いた瞬間にわかってしまうことを指す。
さとりに入った人は構えがなく、わかっていても手をぶらんぶらんして一見馬鹿のように歩く。悟入の後はまるで布袋さんみたいに歩き、俺はえらいなんて決していわない。
入は涅槃に入る。
氏は、このひと本当にわかっているのかのリトマス試験紙として画集を見せることがある、すると「わたしは絵がわかりませんので」と云う僧もいる、座禅ばかりで絵も小説も音楽もわからずに目が開くものでしょうかねと氏は批判的にいいます。
十如是は本当は十ではなく九つでしかも梵語の原文であるサンスクリットでは五しかない。羅什が竜樹の大智度論を念頭に意訳あるいは超訳して十如是になった。十如是の本末究竟等は竜樹の大智度論にあり、これも羅什が訳している、そのために本末究竟等を入れた。
氏は羅什の名訳を讃嘆し、十如是の本は肝心かなめで末はつまらないことでこれが実はひとつであり、等の意だと説明する。羅什の十如是の名訳は開示悟入の示の現われだと氏はいいます。
酒は飲む、女をからかったりする、その反対に仕事しか頭にない馬鹿、人生にはどちらも大事なのだ、これを諸法実相、本末究竟等という、目が開いたものに示される諸法の実相とはこういう事だと氏は説きます。
諸法実相は縁起、縁と同じことだ、これあるときにかれありと経の随所に書かれているが縁起を時間も空間もひろがった関係性と考えることを教えてくれたのが竜樹だ。
あるギリシャの哲学者は竜樹に会いたかったからペルシャ遠征軍について行ったが残念ながら王が暗殺されて会うことはかなわなかった、竜樹の名はアレクサンドリアまで鳴り響いていた、竜樹も示の人だったと氏はいいます。
紀野一義は30代の頃に書いた論文「法華経と道元(二)開示悟入」で、後々にしばしば述べることになる骨子を既に述べている。
道元禅師の思想は法華経の思想にその根底を置いている。しかし道元は法華経の思想をそのまま取り入れたのではなく法華経の原文を鳩摩羅什が訳出した妙法蓮華経の特定の個所を選び出し、深めていつた。
道元禅師は「正法眼藏 法華転法華」巻に十個所に「開示悟入」をとりあげている。
サンスクリットの「促す」という意味が羅什により「開」と訳出された。
道元禅師は「まなこいまだひらけず」すなわち「不開」から仏の促しによって「おほよそ心に正信おこらば」となると言い、仏の促しにより「桃花翠竹のなかより獲心得道するあり」といい、仏の促しは「おほよそ諸仏の境界は不可思議なり、心識のおよぶべきにあらず」と言う。これは方便品「諸仏智慧甚深無量」をそのまま述べている。
氏は諸法実相がポーンとわかった体験を語ります。
一年のうちに二、三度富士山が異常に美しい、普通の日じゃない日がある。あわてて八ミリをもって富士山に写真を撮りに行った。そのとき富士山は氏に語りかけた。そのときこの諸法実相がポーンとわかった。つまり富士山から示があった。富士山から示があったことがわかるためには心が裂けなければわからない。少年のときから唱えていた方便品のお経の諸法実相がいまごろわかる、実に長い話だと氏は体験としての本行菩薩道を語っています。
人が身口意の三業に仏の相を標示して三昧に端坐するとき、存在するものすべてがさとりとなる、菩提そのものになる。親鷺が「彌陀の誓類不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」と規を一にしていると氏は言います。生死はすなはち涅槃なり「生死」とは流転し輪廻する迷いの世界のことである。
道元禅師は菩提を現じた者はふたたび生死流転の世界に帰り來るべきであると考えた。法華経「仏知見の道に入らしめる」とあるのはそのことであると道元は理解した。法華経自身にはそうであることを示す文章はないが、道元はそうでなくてはならぬと考え、その方向を示した。般若心経に「空即是色」と立ち帰る方向を示しているのに合っていると氏は言います。
止みなん、舎利弗、復くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
舎利弗が何度も釈尊に法を説いて欲しいと頼むが断られる。止みね舎利弗と云って説かない、三止三請といい仏教では肝心の事を簡単に教えてくれることはない。現代の僧でも「いや、説いてもむだだから」との答えが返ってくると氏は言います。
氏は高野の明遍が法然を訪れるときのエピソードを紹介して簡単に引き下がってはいけないとの話をする。
法然が高野の明遍に念仏を説明しても「自分の心が納得するように聞いているのだ」となかなか分かったと言わない、そして引きさがらない。今の人はすぐ引き下がると氏はいう。
ようやく法然の「おおらかに念仏すればよい。気が散ったって大丈夫だよ」との言葉に対して「そうです そうです」と明遍は完全に納得しさっさと引き下がる。
明遍と法然は初対面の人どうしだがくどくどとした挨拶もせず分かればあっさりと別れる。当時の人はお互いにそのあたりの呼吸がわかっていたと氏はいう。
問う舎利弗と教える世尊にもその関係があった。釈尊も舎利弗から三度も請われたら説かないわけにはいかない。ようやく説き始められるとそのときに増上慢つまり傲慢な在家の5000人が「今だ得たり」と思って出ていってしまった。
釈尊は黙然として出て行くものは止めない。みんながみんな聞くなんてことはない。退くもまたよしと。
清少納言の枕草子では、法華経の説法を中座しようとした清少納言に藤原義懐が「やあ退くもまたよし」と皮肉ったと言われています。そんなことは現代ではわからないギャグになってしまったと氏は述べる。
安詳三昧
安詳三昧、これは寺の小僧さんでも知っている方便品の一節で羅什の名訳で梵語では「過去の出来事をひとつひとつ思い出して説く」
従三昧安詳而起 爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げた。
法華経の時間論・空間論について氏は語ります。「是れ、法住・法位にして世間の相常住なり」この文は天台も伝教も日蓮上人も注目していないが道元禅師が「正法眼蔵 有時」でとり上げ時間論を展開している。つまり前世のまた前世のまた前世を思い出して説く。過去のことを一つ一つ思い出しながら新たな自覚を持って瞑想から立ち上がり、法華経を説かれた。過去のことは全部覚えている、しかし無意識の底に沈んでいるから現実にはなかなか意識の上に戻ってこないと氏はいいます。
過去の記憶に達することの重要さを内観研究所の話を通して氏は紹介している。
大和郡山に吉本伊信の内観研究所があり、そこにノイローゼや手の付けられない不良の子供を預け、部屋を簡単に囲ったところで自分を見つめさせる。自分の心の底に眠っていたもの、親が自分にしてくれたことなどを思い出すと死んでしまいたくなる。さらに自分の真の自己、真我に到達すると突然号泣する。
そして自分の身を犠牲にして育ててくれた父や母の大きな愛というものを自覚するようになる。
吉本伊信の師を辿っていくと、駒谷諦信、そしてこの人を教えたのは西本願寺の西本諦観という人、さらに真宗の中川上人にいきつく、真宗のお坊様にこういう素晴らしい人がいらっしゃった。今はみなくなりましたねとつけ足される。
瞑想に一遍入らないとわからない。なんにも考えない状態でなければ過去の出来事をひとつひとつ思い出すことはできない。だから安詳三昧から入らないといけないんですねと氏は言います。
「大菩薩の無量無辺不可称数なると東方より来る。所経の諸国普く皆震動し、宝蓮華を雨らし、無量百千万億の種々の妓楽を作す」ここで東は過去のことで、過去を白毫光で照らしたという意味であり、すると諸国普く皆震動し、宝蓮華を雨らし、無量百千万億の種々の妓楽を作すという、なんと壮大なドラマが過去を見るだけで蘇る。
続