時分割多重装置は日本メーカーの本来お手の物の装置であり、米国製を日本ダイレックス社を通して購入する必然性はない。中曽根政権の貿易均衡への配慮が働いたものだ。田中失脚は北原失脚と繋がり、中曽根、眞藤ラインはレーガンと組んで米国製スパコンや米国製料金システムの導入、米国製時分割多重装置を納入する日本ダイレックス社の興隆へと繋がっていった。
産経新聞 朝日新聞デジタル
北原安定氏に対して中曽根氏や眞藤氏は米国からの製品導入で貿易摩擦を解消し米国との蜜月をつくり出そうとした。眞藤氏と北原氏の初代社長争いは電電ファミリーと米国と日本の新たな参入企業群の戦いの様相を呈してくる。財界主流は松下電器をはじめ反電電ファミリーの声が強く後者を支援したと推測している。
北原氏は戦後の日本の電気通信産業界を最大効果のあるやりかたで牽引してきたが一方の眞藤氏は造船の経験から米国機器をいれたがっていた。どちらも技術者でありポリシーの違いが対応の違いにあらわれた。しかし「眞藤が明日アメリカに出発するが向こうで記者会見を開くことになったと先行して渡米していた北原安定副社長から連絡があった。眞藤にカラのかばんで行かせるわけにいかない。NTT経由でクレイを買ってもらえないだろうか」との述懐は北原氏もかたくなに国産主義ではなく柔軟に政府の貿易摩擦解消に協力しようとの姿勢を示していたのだが色分け的には国産主義とされたのだ。国際政治と民営化、NTT法は密接に絡み合っていた。
NTT NHKの画像
今後のNTT法廃止議論も国際政治と密接に絡み合っていく。NTT法の行方を考える時に議論の表には出てこないが国際政治を抑えなければ道を間違うおそれがある。
当時の自民党はなぜNTT法の行き着く先であった分割に慎重だったのか。NTTや経団連からの働きかけもあっただろうが日本の半導体の凋落が自民党に慎重論を取らせたと考える。
1980年代半ば、日本の半導体特にDRAMは世界を席巻し技術力、売上高でアメリカを抜いた。それに対してアメリカは通商法301条に基づく提訴や反ダンピング訴訟を起こした。
米国は日本半導体のアメリカ進出は、米国のハイテク産業あるいは防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がある」との批判を繰り広げた。1986年7月に「日米半導体協定」(第一次協定)が結ばれた。
1987年4月レーガン大統領は「日本の第三国向け輸出のダンピング」および「日本市場での米国製半導体のシェアが拡大していない」ことを理由として日本のパソコンやカラーテレビなどのハイテク製品に高関税(100%)をかけて圧力を強めた。
1991年8月に第二次「日米半導体協定」が日本市場での米国半導体のシェアを20%まで引き上げることを要求した。
NTT法の先の分割議論はこの日米半導体摩擦の真っ只中に行われたことになる。この日本の半導体の総本山にNTTがあると見た米国がNTT法とNTT分割を演出していたと推測する。
自民党はこのあたりの事情を察知していて分割に慎重論をとったのだと思う。国内競争と国際競争のバランスを巧妙に取ろうとした。
日経新聞
今回は米中対立の構図のもとで情報公開の義務撤廃が表舞台に立って議論できる。過去のNTT法と分割議論がNTT法廃止で取り巻く国際情勢が様変わりしていることにライバル各社も注目しなければならない。
NTT島田社長は、NTT法の「研究開発の推進・普及責務」の見直しも要望した。
「IOWNなどを海外のベンダー・メーカーなどのパートナー企業と連携して展開する場合、パートナーから、研究開発の成果の独占的な開示を求められることが考えられる。しかし、現状では公平な開示義務があるため、要請に対応できない可能性がある。開示義務に基づいて海外の政府機関や海外企業(その子会社)から開示請求がなされた場合、経済安全保障上の懸念も生じる」という。 総務省資料より