「大事なのは競争状態を作ることだ」
1985年眞藤氏がNTT初代社長になって全社員に一斉放送で挨拶と訓辞をおこなった。自席でその声を聞いたのだが、75歳と老齢のしわがれ声でとても小さい声で話した。内容が聞き取れないときもあったが誠実な話ぶりで妙に印象に残った話を記しておく。日本の通信業界に多大な貢献をしながらNTT法により痛恨の一撃をくらうことになる。
次の言葉は自らの行く末の予言のように聞こえてくるではないか。
NTTが民営化されたがNTT法は残った。このNTT法が残ったことの意味の大きさに殆どの社員は気づいていない。しかしやがてこのNTT法の存在が大きな意味を持ってくることを諸君は知ることになるだろう。 1985年眞藤氏がNTT初代社長に就任し全社員に一斉放送での言葉
日経新聞写真より 当時の眞藤氏稲盛氏盛田昭夫氏千本氏など
NTT法と眞藤氏
京都商工会議所会頭の塚本氏から当時電電公社近畿電気通信局を通じてハイテクの講演をしろ」と依頼が千本氏にあり聴衆の中に稲盛氏が座っていた。「 なんかすごい面白いね、なんか新しい事業できないか」と稲盛氏が千本氏に問いかけ「京セラにベンチャーキャピタルになってもらえませんか」との提案に稲盛氏は京セラ取締役会ではかるが全員に反対される。
300億とか500億とかの資金提供などとんでもない、当時数兆円規模のNTTに当時売り上げが2,000億ぐらいの京セラが戦いを挑むなど無謀との意見が圧倒した。しかしソニーの盛田昭夫氏、ウシオ電機の牛尾氏、セコムの飯田氏の応援を得た稲盛氏はあきらめない。千本氏も眞藤総裁に直接話をする奇策にでる。
「眞藤総裁、大それたことを考えてるんですが。絶対に競争相手がいないと通信産業はよくならない。そういう会社を実は作ろうと思ってるんですがご承認いただけますか」と千本氏が直訴する。眞藤総裁はにたっと笑いながら「そんなものおまえ、俺が推奨できるわけねえだろう・・・だけど俺は黙認してやるよ」と答えた。
テレコムの歴史を変えた一瞬だ。「民営化は万能薬ではない」「大事なのは競争状態を作ることだ」「事業の独占を放置したまま民営化すると、逆に民業圧迫になる」と後に語っているが既に当時から一貫した競争促進のためのNTT法との考えを持っていたことがわかる。
今なら「NTT法廃止は万能薬ではない」「大事なのは国際競争力をつけることだ」「事業を切り刻んでNTT法廃止すると、逆に日本の民業圧迫になる」あの世の眞藤さんからそんな声が聞こえてきそうだ。
マイクロウェーブ鉄塔
「大事なのは競争状態を作ることだ」「稲盛さん、頑張りなさいよ、応援してあげるから」と東京大阪間マイクロ回線の使用許可書を与えたこと、足回り回線接続料金を公衆料金と同額とした政治的ともに言える判断をしたことは今から振り返ると眞藤さんがNTT法で行った最も輝いている行為だと思う。(足回り回線接続料金を公衆料金と同額にせずコスト算出で請求したら今の新電電隆盛はなかった。)
NTT法廃止でNTTリーダーはこのような大所高所の高邁な判断ができるだろうか。ぜひ期待したい。
1985年当時の国内通信ではNTTを筆頭に第二電電(株)、日本テレコム(株)、日本高速通信(株)が1987年9月に国内電話中継サービスを開始した。東京通信ネットワ-ク(株)は少し遅れて1988年5月に電話を開始した。
西日本新聞記事より稲森氏記者会見
新電電開業の年である1987年9月3日に都内で新電電三社の合同記者会見が開催された。新電電三社の顧客獲得件数が発表される緊張の一瞬を迎える。最初に日本高速通信の菊池社長から15万件と発表があり、次いで日本テレコムの馬渡社長は27万件と発表する。最後に第二電電の森山社長が45万件とぶっちぎりの成果を発表した。
開業前の下馬評を大きく裏切った結果は記者一同に大きな驚きを与えた。当初は光基幹回線を自前で持つことができ、JRや建設省という巨大なバックのついた日本テレコムや日本高速通信が第二電電を大きく引き離すと見られていたが眞藤氏からのシンパシーを受けた第二電電がトップとなった。第二電電がNTT法と民営化の効果を最も受けたのだ。
「大事なのは競争状態を作ることだ」はNTT法でほぼ達成されたと見て良い。ボトルネックは致命的ではなくなった。しかし依然脅威ではあるので廃止後もなんらかの工夫が必要である。
続く