かつて「カラマーゾフの兄弟」メモ その9 大審問官で以下のように書いた。しかし重大なことを見逃していたようだ。つまり「大審問官」で記されるキリストと大審問官はあくまでもイワンの考えるところのキリストと大審問官であり、ドストエフスキーの考えではないという事だ。
ここは大方の読者が迷うところなのではないか。(お前だけだ、そんな読み方をしたのはとの反論が聞こえてきそうだが)しかし狂死を示唆されるイワンの大審問官の思想はドストエフスキーとは対極にあるものと考えるのも当然とも思える。それにしても大審問官の章立ては強烈過ぎて作者の意図をわかりにくくしている。おそらくあえて明確にはしなかったのだろうと思う。
もうひとつ触れていないことがある。現代の一大事件となったオーム真理教や戦後の新興宗教を一括りにすることは決してできないが、このなかの幾ばくかの団体は大審問官と考えを同じくするものがいるのではないか、いてもおかしくないとの思いだ。(もちろん純粋な動機をもつ指導者も多いとは思うが)
いまだ自由を扱いきれない人間に対し蜃気楼の信仰を与えることでパンを奪い合う人類を奇跡と権威と神秘、つまり悪魔の力を借りてコントロールしようとしたものがいるに違いないという思いだ。
大審問官は理想主義(キリスト)と現実主義(大審問官)の解決不能の永遠の相克を描いている。あたかもヒンドゥ教の善悪の相克のように。
「大審問官」はイワンがアリョーシャに語って聞かせる彼の創作になる物語だ。舞台は15世紀、スペインに降臨したキリストに対して大審問官は捕えて火あぶりの刑を宣告する。地下牢に一人で現れた大審問官はキリストに向かって、いまだ自由を扱いきれない人間に対し自由を与えることでパンを奪い合い、返って人類を不幸にしたと批判する。
無言で聞いていたキリストは最後に否定も肯定もせずに大審問官にキスをする。自由にすると互いにパンを奪い合って結局は破滅する人間は、奇跡と権威と神秘つまり悪魔の力を借りてコントロールしないと破滅するとキリストにいいつのる大審問官の心のなかに深い苦悩を感じ取り、憐みと共感のキスをする。
「カラマーゾフの兄弟」メモ その9 大審問官
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