最近ある原稿を書いているのでヒンドゥのことを調べる機会が多い。ヒンドゥはジャワなどで仏教と混交しているし、バリの人も仏教とヒンドゥは同じだと考えている人も多い。ヒンドゥはバラモンから来ているが同様に原始仏教へとも続く、いわば兄弟だ。ブッダはバラモンのカースト差別を嫌い、そしてさらに初期仏教の二乗の差別をも嫌って一仏乗の大乗へといたり、法華経へと歴史的に変化してきたのではないかという事にようやく体験的な気づきがあった。
バリ・ヒンドゥでは醜悪・怪奇な像も多い。日本で見る鬼子母神もバリでは嘔吐を催す像に出くわす。ヒンドゥの3大神のビシュヌ神が破壊と再生の神であり、再生はさておいてその破壊を全面に押出と三島由紀夫が言うところの嘔吐を催す怪奇な風貌になる。宇宙的規模で考えると人類が嫌う「腐敗」も再生の一つの過程だから醜悪・怪奇もこの世に必要な破壊であり、神の目で見た大きな道理なのだが日本に伝わる仏教ではこうした醜悪・怪奇な側面は影を潜めて受け入れられている。
醜悪・怪奇な像といえば仏像の足元に押さえつけられている天邪鬼くらいか、本来破壊を担当すると思われる阿修羅像も美しい。
ブラフマが梵天に、ビシュヌが帝釈に、シバが大黒天として日本に伝わっているがいずれも平和な穏やかな神の側面のみが伝わったようだ。本来は地球の創成期のように火山が爆発し、溶岩が流れ、恐竜が絶滅するといったすざましい破壊を前提とした生成、弱肉強食のヒエラルキーやエントロピーの増大原則と生殖によるエントロピーの縮小を経て現在の美しい地球への到達があり、冷静に考えるとき地球のこの先は再び不透明である。破壊と再生を説くヒンドゥはこの世の真実であると思い知らされる。
悪と醜悪から善と美へ、差別から平等へ、破壊から生成へ、怒れる神から慈悲の神へとあたかも地球や宇宙の生成の歴史のように変化してきたのだが冷静に考えるとヒンドゥも真理を教えている。ただし人の救いという観点で見た時に真理のみでは私自身はおさまらない。救済を全面に押し出した仏教が私には好きだし必要だ。
しかしヘッセの「シッタルダ」ではバラモンのシッタルダが最後に渡し守となり救済を全面に押し出した物語となっている。あくまでも受け取りようの問題だとも思えてくる。