まさおレポート

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青空を仰いで「なぜ僕は僕としてここにいるのだろう」2

2021-07-18 | AIの先にあるもの

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「なぜ僕は僕としてここにいるのだろう」の問いかけに対して紀元前8世紀の古代インド哲学ヤージュニャヴァルキヤ以来本質的に説明の方法は変わっていないが、現代では量子力学によって説明しようとするペンローズなどが出てきた。


ペンローズは物理法則を超えるような事象、つまり生まれ変わりの記憶、テレパシー、量子力学では時間が過去にも未来にも流れる、生命の誕生、進化、意識のハードプロブレム(物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験=現象意識、クオリアというものが生まれるのかという問題)は、この「世界そのものが巨大な量子コンピューター」仮説で説明できるとする。

ペンローズも映画「マトリクス」を彷彿とさせて興味深い。

(では巨大な量子コンピューターを作り出したのは誰だと問題は続くのだが)


物理的世界のニュートン力学では、物質から生命が生まれたり、物質から意識が生まれることはありえないとされる。しかし現実に生命や意識がこの宇宙に存在する。

最初の生命の誕生には少なくとも150種類の遺伝子とそれに対応するタンパク質があらかじめ準備されていなければならないが確率的に期待することは可能だろうが最後の判断でかなり無理がある。

しかし最近の研究では生命を育む惑星は地球のみである可能性が高いことが計算できるそうです。

DNA や RNA  4 種のヌクレオチドが一つずつランダムに結合する化学反応で生命活動を可能にするだけの40単位の長さの高度な情報をもった長い RNA が「たまたま」できあがる確率はあまりにも低いが、しかし宇宙の広大さ、星の多さから可能であるとの計算が成り立つ。https://release.nikkei.co.jp/attach_file/0528188_01.pdf

太陽のような星は我々の住む銀河系内に約一千億個、138 億光年の半径内に一兆の百億倍(10の100乗個)以上の星が存在するという。

自己複製などの活性を持つ RNA が生まれるためには、ヌクレオチドが最低でも 40 個、あるいはざっと 100 個程度以上につながらなければならない。非生物的な過程から正しい情報配列を含んで生まれれば、生命誕生における最大のハードルは越えたという。「複雑な生命情報の無生物からの誕生」への問いに一つの回答を出した研究だと言われている。

そして生命を育む惑星は、太陽系や銀河系どころか、我々が観測可能な半径 138 億光年の宇宙の中で生命を育む惑星は地球のみである可能性が高い。素晴らしい一つの回答だと思う。

しかし生命を育むことが説明できることは重要なパーツの説明とはなりえても、この宇宙でビッグバンに続き、ちょっとでも変数が狂えば成立しない見事な物理法則が存在し、結果としてこれほどまでに美しい地球をつくりだしたことに対する問いに答えることの困難さを一層認識させることでも上述の論文は光って見える。

ホモサピエンスが誕生し、人類の知能は量子力学の域にまで達し宇宙へも乗り出せた。このことは果たして偶然の確率で説明可能だろうか、とてもそうは思えない。

「竜巻が去ったあとに偶然にキャデラックが出来上がっていたくらいの不思議な偶然」

「猿がタイプライターを叩いたらシェークスピアができたくらいの不思議な偶然」

は依然として不可知であり続けるに違いない。


この宇宙そのものが巨大な量子コンピューターであり、本質はプラトン的世界であれば、私たちが生まれる前と死後はそこに戻る可能性も物語としてはあり得る。物語を信じるかどうかは個々人によるのはもちろんのことだが少なくとも「ホモサピエンスが誕生し、人類の知能は量子力学の域にまで達し宇宙へも乗り出せた」ことが偶然によりという説明よりは説得性があるように思う。

わたしも以前から直感的に生命や意識が物理法則を超越していると思っていたが直感の先になにか手ごたえのある仮説を探していたといってもよい。ペンローズとハメロフのアプローチは大変興味深い。


次の「インド哲学七つの疑問」宮元啓一の一節に対応してみると面白い。ペンローズも宮元啓一も意識や生命は日常目にする物理現象とは別の次元だと言っている。宮元啓一はさすがに量子力学的とは言っていないが。

ヤージャナヴァルキヤ(紀元前8~7世紀)は、(自己について)地の中に住し、地とは別ものであり、地が知らず、地を身体とし、地を内部で統御しているもの、これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。

水の中に 火の中に 中空の中に 風の中に 天の中に 太陽の中に 方角(空間)の中に 月と星宿の中に 虚空の中に 闇の中に 光の中に 気息のなかに 発声器官のなかに 眼の中に 耳の中に 意の中に 皮膚の中に 認識の中に 精子の中に

ヤージャナヴァルキヤは、自己は、これらすべてのなかにあるけれども、それらとは異なるものであり、それらを内から照らすものだといっている。「インド哲学七つの疑問」宮元啓一p94

シュレディンガーの次の言葉もまた同じことを述べている。タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり)これは梵我一如のことらしい。量子力学の発展を築き上げたシュレディンガーのことだから其は汝なりを重ね合わせ理論と重ねていたかもしれないと思ってみるのも楽しい。

古代インドの婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。

・・・

君は大地のように、否それにも増していく幾千倍も金剛不壊である。確かに明日大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日にかということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。

なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるのだから。
この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのない)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。

— エルヴィン・シュレディンガー(1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら


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