2021/4/16 加筆
2014/04/29 加筆
①「薔薇の名前」の終わり近くにある下記のフレーズ <神とはただの無なのだ>がこの書のテーマだろうと思う。一体どのような意味が込められているのか。神は存在しないと言っているわけではない。「人間が考えなければいけないことは、唯一つだけだ。この年になってやっとわかった、それは死だ。p109」に呼応する。 ウンベルト・エーコの感慨と一にするのだろう。
ほどなくして、わが始まりの時と私は混ざり合うであろう。そしていまではもう信じていない、それがわが修道会の歴代の僧院長がといてきた栄光の神であるとも、あるいはあのころ小さき兄弟会士たちが信じていたような栄光の神であるとも、いや、おそらくはそれが慈愛の神であるとさえも。<神とはただの無なのだ。今も、この場所も、それを動かさないのだから・・・・・・> 下巻 p383
②神は存在しないとの意だろうか:そう単純ではない。そうではないと思えるフレーズがこの物語にはあちこちに散見される。
「神は・・・ 私たちの魂の内部から語りかけてきます」 上巻p52
すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、・・・ 下巻 P40
③作者は神をどのようなものと考えているのか:下記のフレーズはいずれも太陽の輝きとして感じとれる神に言及している。
いや、むしろ目の中で。太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、濡れた葉に照り返す陽射しのなかで、光として感じとられる神 上巻 p98
滴り落ちてくる光の粒があたりに散乱するさまは、まさに光に象どられた精神の原理<輝き クラリタース>を思わせ、・・・ 上巻 p120
あの至福のなかで、私の全精神を忘却へと誘ったものは、たしかに永遠の太陽の発する輝きであった。 上巻 p402
これはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャがローマ教会の神ではなく天上の星々に神を実感したものと同等であり、アニミズム的直観による神の把握とでも呼べる。
また、人間の知性のなかにも神を見出している。
ロジャー・ベーコン、この方を師とも仰いでいるのだが、この巨匠の言葉によれば、神の意図はやがて聖なる自然の魔術すなわち機械の科学となって実現されてゆくであろうという。上巻 P32
人格神を否定しているのではなく仏教のダルマを意図しているように思える。ボーアの言及などが参考になる。ボーアは仏教が量子力学と呼応しあって発展すると述べている。
④作者はなぜ教会の神を否定するのか:
下記のフレーズには原理主義的な考え方への嫌悪が読み取れる。ローマ教会のみならず異端各派も同様に原理主義的であり否定している。
すると師は、宇宙のすばらしさは多様性のうちの統一性にあるばかりではなく、統一性のうちの多様性にもあるのだ、と答えた。 上巻p31
これは難解だな。アリストテレス風の見方だけではなくプラトン風のイデアの多様性どちらにも真理が潜むということか。あるいは多様性こそが大切ということか。統一性がなされたと思っても次々と謎(多様性)が表れてはまた新たな統一性を目指す、その繰り返しは永遠に終わることはないとの意と受け取れる。現代物理学の標準理論から万物の理論への道を示しているようにも。
標準理論、万物の理論の先にあるものは多様な物理法則の多元宇宙という解釈もありか。
「偉大な一巻の書物にも似て、この世界が私たちに語りかけてくる痕跡を読み抜くこと 上巻P40
宇宙の始まりはビッグバンであり、その先には未知の心理が隠れている。「この世界が私たちに語りかけてくる痕跡」の大いなる例として真空やブラックマターやブラックエネルギーが最先端の科学で想定されている。(無のあらたな意味として仏教の空の意図するところを付け加えるのがふさわしい。)
ヨハネスの考えでは、どうやら、正義の人であっても最後の審判が下るまでは至福のお姿を享受できない、と主張するらしい。 下巻P69
これは難解だが、カラマゾフの兄弟にヒントがありそうな気がする。わが宿題!
「だが、何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」「純粋さのなかでも何が、とりわけあなたに恐怖を抱かせるのですか?」「性急な点だ」 下巻 p208
⑤の性急な純粋さの希求の否定と併せて、このフレーズの意味は深い。雑は純より強くて深い。(強権国家の恐ろしさ)ゆらぎは静止より深い。(揺らぎから宇宙の銀河が生まれた)遅つまりネオテニー化はホモサピエンスがネアンデルタール人に勝ち、生き残らせと信じている。
異端・異論を人権迫害を持って性急に封殺する国家、社会は安定しない。人類の浄化などという残虐行為も「純粋」の追及の恐ろしさ。秀吉の伴天連禁止令と滅びは関係するのか。外様の存続は300年の長きにわたる徳川幕府を安定させた。「純粋」への積極的否定をこの書で初めて見出した。
⑤作者はなぜ異端各派をもローマ教会と同様原理主義的であると嫌悪し否定しているのか:
どちらも性急に純粋を希求しすぎたのであり、またローマ教会の聖人の受けたものも異端各派のそれも結局は性の快楽と同等のものであると言う。
快楽以上に人間を興奮させるものが一つだけある。それは苦悶だ。 真っ赤に灼いた鉄を押し付ければ真実がつくり出せると思い込んでいる者たちの群れのなかに、わたしも入っていたときがあるから。・・・そうだ苦悶の欲望というのがあるのだ。・・・彼ら(悪人たち)の弱さが聖者たちの弱さと同じだと知ってしまったからには 上巻 p100
⑥なぜ、「神はただの無なのだ」と言ったのか:あいかわらずよくわからない。
村上春樹は「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」のなかで人間の核は人間の原理と言うよりもむしろボイド(虚無)が色々な飾りをつけて存在すると述べているが、このボイド(虚無)はなにかしら上述の「神はただの無なのだ」に近いものを感じさせる。
すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、 下P40
これがヒントになるかもしれない。神とは全宇宙に書かれた一巻の書物であり、人格神では無いとしている・・・。
人間が考えなければいけないことは、唯一つだけだ。この年になってやっとわかった、それは死だ。p109
これもよくわからないフレーズだ。もう少し時間をおいて考えてみよう。
「薔薇の名前」 読書メモ
「薔薇の名前」下巻 読書メモ
ウンベルト・エーコ追悼「薔薇の名前」
「出家とその弟子」「薔薇の名前」「カラマゾフの兄弟」は語り合っているか
「薔薇の名前」とコンピュータ
「薔薇の名前」追記
「薔薇の名前」は「中世の秋」と響きあっている
「薔薇の名前」事実は小説よりも奇なり 毒の塗ってある本が見つかった
「薔薇の名前」とベルクソンをつなぐもの「笑い」