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まさおレポート

馬鹿丸出しで生きる 紀野一義

以下は紀野一義氏の講演からの要約です。
 

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇

  我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数
  無量百千万 億載阿僧祇なり

常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫

  常に法を説いて 無数億の衆生を教化して
  仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり

 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
 我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

  衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず
  而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く
  我常に此に住すれども 諸の神通力を以て
  顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらし

衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心

  衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し
  咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず

日蓮宗の人であれば在家の人も暗記している。私も子供の時から意味もわからず読まされてすっかりイメージとして定着している。

衆生を度するというのも面白い言い方ですね。衆生を向こう岸に渡す方便として涅槃を現ず。死んでしまうと言うことですけど実は永遠の世界に帰っていくというのを涅槃に入ると言います。

涅槃に入る姿を見せるけれども実はこの娑婆世界にいる。これを常住此説法と言います。

愚かなのでわたしが常在し説法していることを知らない

 

見えない、見るをもう少し考えて見たい。仏を見たという方はそういらっしゃいませんけどまあいらっしゃるわけですね。

例えば恵信僧都という方は山から降りて来られる仏さまを見てそれを忘れないために袖をちぎって矢立でそれを描いたと言われていますね。

円覚寺の夏期講習会で衣が金色に翻るのを見たという人がいた。そして本堂の仏さまがすーっと上がっていくのを見た。わたしは頭がおかしくなったのでしょうかと相談された。

それは見仏と言うのは違う、袈裟が赤く見えようが金色に見えようがそんなことはどうでもよいことですがそれによって境地が進むのはよいことだと思いますね。

でも本当に見仏した人は少ないと思いますね。

夢窓国師の臨終の事が大変面白い。死に様の事はいらぬ事にて執心執着の深からんように扱うべしとおっしゃった。


諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。

諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。

諸所言説。皆実不虚。所以者何。

諸の言説するところは皆実にして虚しからず。所以は何ん。

如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実。非虚。非如。非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如来明見。無有錯謬。

如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。


自分のことを語ろうとする人とそうでない人がいて、ここでは自分のことを語ろうとする人のことについて言っているような気がいたします。

自分の事を語るということは気恥ずかしいことでもある。それを語ろうとする人がいる。それは菩薩だというわけです。

一度しかお目にかかったことがない暁烏敏は母の実家の近くの寺井から少し離れたところに住んでいらっしゃった方です。

今でも寺があります。この方は真宗のお東の方ですが大正8年5月3日43歳の時にこの人の師匠でありました清沢満之の17回忌にあたって「清沢先生へ」という文章を発表している。

大正2年2月21日に最初の奥さんの房子という女性を病気で亡くしております。その死を大変悲しんでおりながら彼は若い女と関係し、それを告白し周囲から非難され憎悪されそんな中で第二の妻となった今川房子というかたへの愛を告白しまして求愛して周囲の反対を押し切って大正3年の7月22日に結婚している。

清沢満之の浩々洞という同志的結合は瓦解の危機に直面しておりました。中外日報に痛烈な非難攻撃をされ、それによって多くの友人から背を向けられ郷里のお寺に帰って行った。

「私の色欲の満足を買うためというのが最も真実に近いのであります。

今日の私にはやがて救うてもらわねばならぬ仏も神も無くなってしまいましたので罪も罰もなくなりました。誠に広い世界であります。無量光明度であります。無量光如来であります。

今日の私は宗教家でもない、政治家でもない、学者でもない、ただ一人の人であります。

規範もなく模範もなくただ創造の生活をやっていくのであります。」

とまあびっくりするような告白の文章であります。

この前の年大正7年の秋に奈良高等師範学校の生徒たちに講演をしましてその後で彼に会いにきた三人の中に原谷豊子という女性がいました。

この方は卒業後小松高等女学校に奉職し、それから通ってくるようになった。この方と非常な恋愛をする。房子さんと結婚したばかりでまたこれは周囲で大変な騒ぎになったわけですけれど、そういう中でこの豊子さんは胸を煩い大正13年の12月29日に29歳で死んでおります。

臨終に近い頃に彼女は合唱してお念仏を唱えて無量義経を唱え最後に念仏を唱えて息が絶えたそうであります。この方との間に非常に多くの愛の手紙が往復したそうでありますけれど2番目の奥様になられた房子さんは二人の愛を許して、暁烏敏が亡くなった後に編まれた暁烏敏全集の百数十ページにわたって手紙を収録しています。


私はある時に妙達寺に暁烏房子さんを尋ねました。暁烏敏全集を全部はそろっていませんでしたが買い求めましてまあ自分の体ほどの重さのある本を担いで帰りました。郵便で送るという気はしなかったですね。

帰って本を開けると最初にこの手紙が飛び込んできて、一体だれがこの本を編集したんだと調べてきたら房子夫人だった。

びっくりしましたね。こういうことを暁烏敏という人は或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。というような世界を我々に語ってくれているわけですね。

これを隠したままで通り一遍のお説教で通していたのであれば、私は暁烏敏という男には一つも惹かれなかったと思います。

それで私は感動しまして暁烏敏のことは度々書きました。そうしたらですねあるとしに金沢県立高女同窓会のお婆様が私のところにおいでになりまして記念講演をして欲しいと。どのくらい集まりますかと聞いたら千人くらい集まると。

その講演では暁烏敏のことは話さなかったんですが講演が終わった後に演壇に品のいいおばあさんが十人くらい集まってきまして、豊子さんの友達ですとか房子さんの友達ですとか明烏先生の弟子でございますとか言ってくるんですね。

この人たちには暁烏敏という人が本当に生きてるんだなと思いましたですね。

また前田周一という人にもその縁で惹かれるようになったんですけども、大正13年6月の1日2日3日と金沢市の公会堂で暁烏敏の無量寿経灌仏会という講演を聞いている。

この頃の暁烏敏は非常に評判の悪い人でありましたので人が集まらないんじゃないかといわれたが、5百数十人が集まって3日間聞いた。この頃はマイクロホンなんてなくて肉声ですがそれがまた感動を与えて獅子吼というようなお話をなさっている。前田氏は20年経ってしみじみと当時のことを思い起こしておられる。

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