歴史家ブルクハルトは次のように言う。
歴史上にはなぜか過去がすべてその一人の人物の中に注ぎ込み、そのあとにやってくる時代のすべてがその一人の人間から流れ出すような、そういう人間がいる。
40代でひと勝負をかける。一兆円二兆円と数える規模の勝負をかける勝負がいよいよやってきた。
後年、孫さんは開業宣言の様子を以下のように述べている。
「2001年6月19日、ヤフーBBサービスの発表を行うホテルオークラの宴会場は、約1000人の記者と証券会社のアナリストであふれていた。私はピンクのシャツと白のズボンで堂々と舞台に上がった。そして宣言した。
「NTTのISDNより5 倍速い超高速インターネットをNTTの8 分の1 の料金、月990円でサービスします。初期設置費は無料、プロモーション期間中は家庭用モデムを無料で差し上げます」と。
場内は静まり返った。大変な宣言をしたが、拍手する人は一人もいなかった。私は構わず言った。
「みんな、私を狂っていると言います。ソフトバンクはすぐに破産する、と多くのアナリストは言います。しかし私は私なりの目で世の中を見ています。この事業は必ず成功します」と。
しかし、マスコミの反応は批判一色だった。また、世界的な金融機関であるモルガン・スタンレーなどは、ソフトバンクがいくら努力しても、少なくとも1億2000万ドルの営業損失は避けられない、とまで予想した。」
2001年6月19日にはまだ筆者は他社に在職中であったが報道によってソフトバンクがADSLサービスに進出することを知った。この開業の心意気を孫正義は次のように語る。
ヤフーBBサービスの発表を行うホテルオークラの宴会場は、約1000人の記者と証券会社のアナリストであふれていた。私はピンクのシャツと白のズボンで堂々と舞台に上がった。そして宣言した。
「NTTのISDNより5 倍速い超高速インターネットをNTTの8 分の1 の料金、月990円でサービスします。初期設置費は無料、プロモーション期間中は家庭用モデムを無料で差し上げます」と。
場内は静まり返った。大変な宣言をしたが、拍手する人は一人もいなかった。私は構わず言った。
「みんな、私を狂っていると言います。ソフトバンクはすぐに破産する、と多くのアナリストは言います。しかし私は私なりの目で世の中を見ています。この事業は必ず成功します」と。
しかし、マスコミの反応は批判一色だった。また、世界的な金融機関であるモルガン・スタンレーなどは、ソフトバンクがいくら努力しても、少なくとも1億2000万ドルの営業損失は避けられない、とまで予想した
ヤフー・ジャパンがそのサイトで営業と申込み受付を行い、年内100万顧客にサービスを開始するとある。横にいたY氏に話すと、「100万なんてできるわけないじゃないですか。第一、どうやって短期間に100万件も顧客にモデムを設置してPCの設定までするんですか」と言った。私もまさにそのとおりだと思った。既にADSLサービスを開業していたNTT東西、アッカ、イー・アクセスも、ADSL申込みがあるとその各家庭にモデム設置工事を行い、PCに設定を行い、うまくネットにつながるまでの手順に苦労していた。顧客自らがさっさと設定できる場合もあるが、そうでない方が圧倒的に多かった。
当時は顧客自らが設置する方法は主流ではなく、各地に散在する設置業者が顧客を訪問して設置していた。設置業者には衛星アンテナを主としてとりつける業者や、ADSLが進展するとみて電気店から転業する業者などさまざまで、しかも新しい業務であり扱える業者の数も限りがあり、その手配と、顧客の工事日を調整するだけでも大変な作業で、手離れ(ADSLサービス事業者から手を離れてさっさとサービス開始してくれること)と作業歩留まりの悪い仕事と捉えられていた。そのため経験を踏まえてとても年内に100万件のサービス提供なんて無理だと考えたのだ。
ソフトバンクのADSLサービスはプロバイダ料金は別建てで2280円という驚異的なサービス提供価格であり、プロバイダをYahooにしても3000円代である。当時、NTT東西、アッカ、イーアクセスも1.5Mbitで6000円を切る程度だったので速度が8Mbitになるうえに価格は半分以下だ。他社や業界関係者はそのクレージーな価格設定に呆気にとられたといっていい。ベストエフォートだが、その最高速度も当時他社の最速1.5Mbpsを一気に8Mbpsに引き上げた。採算と設置工事の困難さの現実を度外視したむちゃくちゃなサービス開始だと他事業者の誰もが思った。ソフトバンクが東京電力やマイクロソフトと組んだ無線ネットサービス「スピードネット」が頓挫した記憶がまだ人々の印象に残っており、このADSL事業も破壊的な価格ではその二の舞になるのではと誰もが思った。
事業開始のミーティング
2001年当時ソフトバンクグループはグループ社員数数千人を越え、ヤフーを筆頭にして日本を代表するインターネット企業に向かっていた。
一方ではITバブルの崩壊で株価は低迷していた。
本社ビルは東京都中央区日本橋箱崎町24-1にある20階建てにある。ある日関連企業の社員たちが孫さんの一声でこの薄青色のビルへと集められた。
当時ソフトバンクグループは「流通事業」「出版事業」「金融事業」「インターネット事業」「放送事業」の5事業があった。
「今度ヤフーBBって事業やるから、各社、人をだしてください」という要請が出た。
数日で各社から合計20人ぐらいが送り込まれることになった。
箱崎本社ビルではこの人数を収容できないため、近くの雑居ビル(イマスビル)を借りた。箱崎のビル17階ソフトバンクの社長室から歩いてやってきた孫さんが一席ぶったがみんなキョトンとしている。
「この事業はソフトバンクの中核を担う事業である」
と演説をしたがぴんときていない反応だ。
「ソフトの問屋事業、出版事業、インターネット事業(主にヤフー)、金融事業、放送事業についであらたにADSL通信に乗り出すことになった」と孫さんが説明する。
「これからこの事業が日本のブロードバンドを変える、世界でもっとも遅れた日本が、最も優れた世界標準で、世界で最も安いサービスを提供する」
孫さんが熱を帯びてしゃべっている割には周りの幹部は冷めた目で見ている。
集まったメンバーの自己紹介が始まった。
「XXでファンドの組成やってました」
「YYで総務部長やってました」
「先月ソフトバンクに転職してきました」
初期メンバーは通信のイロハも知らない。さらに各社から集められたメンバーも輪をかけてスーパー級の素人だった。
「ADSLは事業として大丈夫かを検証したい。お前たちでやってくれ」その号令でMさん、Kさん、Tさん、Hさん、Hさん、Nさんなど10人程度がビジネスプランを作成することになった。
「孫さん それは無茶苦茶です。もっとまじめに事業を考えてください」と一人が反論すると
「だまれ、お前は俺より技術は上だが俺の方が経営は詳しい」口調は厳しいが目は笑いながら孫さんが返す。
「ソフトバンクが通信をはじめると言っても一般のお客さんは我々ソフトバンクのことなんて知らない。ヤフーブランドを使わん手はない」と孫さん。
「今すぐに電話つないでくれ」
「おい、ADSLをやる。今すぐにKとNを寄こしてくれ」
ヤフーの役員KとNがまもなく会議にやってきた。
「なんにも知らんくせに反対するな」
「君こそ事業でやったことがないだろう」
そこでまたもや遠慮のない、罵しりあいのような会議が始まる。
ヤフーブランドを使うことはブランド戦略上正しかったが相互のオペレーションを経験者が切り分けてこなかったことにより9月1日以降のオペレーションが大混乱を生じることになる。しかし当時はそれを知る由もない。
モデム選定のミーティングが持たれた。
今回のプロジェクトはこれまでの
「孫さんまた始まった」
とどうも違うと皆が感じだした。
そのうち孫さんはミーティングで
「100万台が採算ラインだ」
と新たな方向性を打ち出す。
全国100万台を一気に予約を取るという方針が決まった。孫さんは台湾製モデムを有利な価格で仕入れるには100万台が条件だと説明する。
孫さんは1994年の暮れの思い出を語りだす。
「俺は1994年に既にADSLシステムに注目していた。しかし総額500万円と当時日本で初めて売り出されたADSLシステムは値段が高すぎたんや。
それが国際標準の台湾製のモデムを100万台単位で購入すると5万円台の国内標準の国産モデムに比較して5分の一程度になる」
「N お前に物流の管理を任せる。100万台がうまく流れるようにしろ」
このモデムの買い付け量で皆は孫さんの本気度を改めて知ることになった。この当時先行ライバル各社はせいぜい数万の発注量だった。
モデムの技術標準をどうするのかも議論となった。
「台湾製モデムを100万台仕入れる」と宣言する孫さんに対し
「NTTはアネックスCですよ。イー・アクセスもアッカもアネックスCです。アネックスAはNTTのISDNに干渉を引き起こすので横やりがはいる可能性がありますが大丈夫です」と技術総括のTさんが答える。
「お前がそういうなら大丈夫だ。国際標準で行こう」とTさんに絶対的信頼を置く孫さん。
NTTなど先行企業の反対を予想する技術者もいたが怒涛の進撃のまえには抵抗するすべもない。
「M お前は全国に100万台のモデムを設置するためのグランドプランを作成しろ。NTTには局舎が多い。どの局舎に何台設置するのか、そのプランを早急に作れ。」
Mさんは日本地図と連日向き合うことになった。とりあえずNTT局舎の加入者数比例で100万顧客見込みを配分してみる。しかしすぐにこの作業の困難性に気が付く。
「孫さん NTTの局舎情報が少ないので詳細なプランができません」とMさん。
「T NTTに話をして局舎情報を出すようにしてくれ」と孫さん
局舎情報としては電力が受けられるかの事情、局舎から借りるスペース事情、局舎間をつなぐ光ファイバーの空き状況などを詳細に把握する必要がある。
しかしNTT東西と打ち合わせをもってもなかなか思うように話が進まない。
「サーバーの電気代少し削減出来ないか」「NTTの局舎用ラックもっと小さいのでもOKじゃない?」と細々と費用削減を検討するスタッフにいきなり
「ユーザー料金はどうしても2,000円を切りたい。1,980円にしよう」と孫さんが言い出した。
初期の設置料金でも「100万台を無料、設置料金も無料でいこう」と主張する孫さんと企画担当との攻防が続く。
「社長、それでは赤字になります」
「さっき月額料金の方は妥協したやろ、初期料金の方はワシの意見を使わんかい」
「俺のほうがお前らより数字は強い。おれは経済学部卒なんだからな」孫さんは笑いをとり和らげてはリードしていく。
「いつから受付ができるんだ」とヒトデ型会議電話でヤフーに迫る。
「受付システムを作るために準備しています。顧客の二重チェックや受付可能なエリアなどのチェックなどそんなに簡単にはいかない。」とヤフーが答える。
「時間がない。とにかくなんとしてでも今月中に作ってほしい」と孫さん。
「言い出したら聞かない人だからKとN、何とかしてくれ」とヤフー側はミーティングに送り込んだKとNに言い残して会議電話を切る。
「ソフトバンクが通信事業に本格参入 ヤフーBB 通信料格安 100万人初期費用無料」のアピール効果は凄かった。
ヤフーが受付を始めると猛烈な勢いで申し込みが殺到し100万に達した。
「どうや わしの言った通りやろ」と孫さん。
Mさんはビジネスプランの要である顧客の局舎への割り当てをこの申し込みによって再作成した。
通信インフラ業者、コールセンター、モデム設置業者などビジネスパートナーに電話をかける声が聞える
「大至急、来てくれませんか」
「家庭に必要な通信用モデムを100万台配る。モデムはじいさん、ばあさんじゃつけられない。100万人の設置部隊を全国設置にパソナのNさんに頼んでみる。Nさんにアポとってみる」
孫さんはN部さんに電話をする。
「Nちゃん、相談したいので来てくれないかな?」とお願いしている。
「孫さん あんたが自らの事業としてやった方がいいんじゃないの」とNさん。
「いや、この手の仕事はNさんの方がうまい」と孫さん。
「お互い利益関係者なので利益相反になる」とNさん。
ADSL通信事業はNTTの設備を借りて行う事業だ。NTTに相談、申請を必要としたが対応スピードがソフトバンクに合わない。
2021年8月11日は孫さんの誕生日だが夜遅くまでNTT局舎設置の建設会社と打ち合わせが行われた。
ADSL準備工事が一向に進展しないことの報告をNTT系列の電設業者から受けて
「こんな進捗でよく報告できるな。ふざけるな。」
孫さんは報告資料をびりびり破り、床に叩きつける。
「こっちは本気でやろうとしてるんだ。全然分かってないんじゃないのか、今からNTT東日本とNTT西日本の社長宛にFAXを送れ。こっちは本気なので、大至急設備申し込みの手続きをはじめてくれと」と孫さんは怒りだした。
NTT本社のFAX番号に代表印を押し孫正義名でFAXを送った。NTTの社長宛にFAXによる要望が入るなど前代未聞だろう。
たちまちNTTから電話がかかってきた。「すみません社長の孫が送ってくれと。改めてご挨拶に伺いますのでお時間頂けますでしょうか?」
東京めたりっく通信社員が参画しスタッフも40名ほどになった。先行予約者の中からユーザーへ試験サービスをはじめることができた。そして一般顧客宅にようやく通信が繋がった。
「つながったぞ やっぱりつながったぞ」孫さんは興奮状態でスタッフに喜びを伝える。
「今日は焼肉に行くぞ」30人ほどが水天宮前の焼肉屋「トラジ」に向かった。
さらに孫さんから直接100万円入りの現金封筒をもらった。
「お前らありがとう ボーナスや」
ソフトバンクグループの社員向けの試験サービスをしていたときに一報が入った。
「社員の家でモデムのアダプタが熱で溶けている」コールセンターのスタッフが青い顔をして報告する。
「大至急回収しろ。仕入れのメーカーを変えろ」と幹部スタッフが絶叫する。火事に繋がる大惨事になるところだった。もしそうなれば事業そのものも終わりかねない。
「NTT担当が倒れてしまいました」
「顧客データシステム構築の担当が倒れました。しばらく出社出来ないようです」
夜中の12時まで会議をしたあと孫さんが帰宅についた。トイレで一緒になると「今日は誕生日なんだ。家族が待っているので帰る」と言って自宅に帰った。深夜の誕生日お祝いを想像した。
仮設社長室から2メートルも離れていないので丸聞えだった。
その叱り飛ばし方がユニークだった。頭の血管が切れるんじゃないかと思うほど本気で激しているのだが、からりと乾いている。激からの唐辛子を食べた直後は激しく辛くて痛いほどだがあとはさわやかになる、はたで見ていてそう感じたものだ。
Aさんの仕事ぶりが遅いことに激して。
「お前がまかせろと言うからまかせたんじゃないか。これじゃ話にならん
「はあ・・・」
同じような繰り返しの応酬が延々10分ほど続く。(思わず吹き出したくなったが堪えた)
「そんなチンタラチンタラやってたら進まんやないか」
「俺は本気なんだ。お前ら本気でやってるのか」
ホワイトボードを叩き、ホワイトボードのペンなどを投げつける音が聞こえる。
「貴様、何をやってくれたんだ」
「頭から煙が出る」
「脳がちぎれるほど考えろ!」
そんな言葉が飛び交っていた。