Hさんの最後の仕事である電話帳編集システムではシステム開発と言いながら、コンピュータソフトの開発よりもむしろシステム全体を満足なレベルに仕上げるための核となるハードウェアの開発と使用文字の調査に全力を挙げていた。当時ようやく新聞印刷に電子写植機が採用され始めた頃で、まだまだ鉛を使った版下を利用する活版印刷が主流であった。電話帳印刷を請け負う各地の電話印刷会社もその例に漏れない。熟年の活版工がなまりまみれで活字を拾っていた。
富士通に電子写植機の開発を依頼しその開発を心待ちにしていた。これは鉛活字を使わず、フィルムに文字をトナーで静電吸着させる仕組みで、今ではコピー機でもかなりの版下ができるようになったが当時はかなり大掛かりな版下作成装置が必要であった。1*2*3メートル程度の大きさがあったと記憶している。その電子写植装置がようやく工場レベルでの完成をみたとの報告を受けてHさんに連れられて富士通・明石工場までその出来具合を見学に行った記憶がある。この装置の開発ポイントはいかに活字に肉薄できる版下ができるかで、当時の製本業界の専門家からみれば電子版下などは活字製本の美しさからみれば足元にもよれないレベルであった。Hさんは持ち前のものづくり精神で活字に匹敵するまでとは言わないがなんとか専門家の許容範囲の美しさレベルに到達しようとスタッフを叱咤していた。富士通側は電話帳版下に要求される5.5ポイントサイズを美しく仕上げるのに光学的メカの部分に苦労していたようであった。結果的にはあの虫眼鏡で見ないといけないほどの電話帳文字を富士通の努力で開発することに成功した。
もう一つのハードウェア開発は漢字入力装置で、当時日本語の入力をどのような方式にするのがベストかで日本中多いに議論があった。今でこそパソコンのローマ字変換入力が当たり前になっているが、当時は専門的に入力するには日本文字一文字に2ストローク必要だということで入力速度に問題があると言う批判があった。Hさんの最終判断で当時の漢字タイプライターに近い方式を採用した。今でこそ絶滅したが漢字和文タイプライターを使える技能者は職業訓練所で教えていることもあり、当時かなりの人材がいた。
この入力版のどの位置にどの漢字を配列するかで入力速度に影響がでるため、Hさんはかなりの研究時間を配置に取っていた。利用頻度の高い文字を打ちやすい位置ブロックに収容するために電話帳に収録されている漢字の頻出度を全文字調査するということを実施していた。電話帳に収容されている3千万か4千万人の人名と使用される文字の調査であった。広い意味でのシステム開発には違いない。なんだか中世の建築家が教会建築を行うに当たって土地を購入し、開墾し、素材の石を遠国まで調査に赴き、天井画や壁画の画家まで探しに行くような壮大さと悠揚さを連想させる。
1970年代後半の頃、コンピュータに漢字を含む日本語・記録させることについて、多くの議論があり、今からは想像がつかない程の揺籃期であった。このことを示すある一つの論文がある。当時の国立国語研究所のある研究員が論文を発表していた。それによると日本語をコンピュータに記録するには倍の記憶容量を要し、今後の発展のハンディになる。従い日本語はすべて英語に改めよという過激な内容であった。梅棹忠夫氏の日本語ローマ字化提唱に匹敵するほどの大胆な提案をまじめに行っていた。
今では記憶容量もキロからテラになろうとしており日本文字が2バイト必要とすることなど誰も気にしないし、ましてそのために日本語がハンディになるなど考えも及ばないが、記憶容量が国の産業全体の足を将来引っ張るかの心配をする時代もあったのだ。当時は日本語とコンピュータに関してはあらゆることが新鮮な調査・研究・開発のテーマになり得た。
当時はほとんどの人が電話帳に姓名を掲載していた。従い電話帳掲載の姓名と使用文字・特殊な読み方=難読姓を調べることは国語研究上のかなり貴重な資料になり得た。当時でも人名に関する辞典や研究書はあったがここまで網羅的にほぼ全日本人について調べたことは無いと思う。その意味で調査は極めて貴重な生産物なのだが、おそらく保存されていないだろうと思う。当時の青焼き資料がどこかにあればNTTデータで製本して出版するかそれがかなえられなければ国立国語研究所に寄贈する方法もあったのだが。Hさんしか出来得なかった徹底した綿密な調査とその貴重さに今頃はたと気がついている。当時の調査が現存していればいいのだが。
回想のNTTデータ