「バリ島物語」にはヒンドゥの教えらしき文章が点在する。しかし著者は出典を記述しないのでどこから持ってきた言葉かわからない。口述で伝えられてきたものかも知れないし、著者の創作かも知れないが、古代以来のバリ人の根っこにありそうに思えてくる。
「ある男が言う、我は一人の男を殺せりと。他の男が言う、我は殺されたりと。されど両者は何ものをも知らざるなり。生命は殺すことを得ず、生命は殺されることを得ず。」
「終わりと言い、始めというはこれ夢に過ぎず。霊魂は永遠なり。そは生誕と死滅と変化とを超越せるものなり。」
男女の「愛」という西洋の概念が100年前のバリでどう理解されたのか。下記の文書からは、「愛」の概念がまだ定着していないことが伺える。日本の100年前もそう変わらないだろうと思いながら読んだ。
・・・「君はその人をとても愛しているのか?」
「愛というものは物の本にある古い詩の言葉です。現実の生活には愛は存在しません。猿や鳥のように人々は一緒になる。時に女と遊ぶことは甘美なものですが、ひと風吹くとそれでお終いです。あなたが愛と言うとき、どういう意味で言われるのか私には想像がつきません」
バリにはケチャダンスなど舞踏者が踊っているうちにトランス状態になるものがあり、何回か実際に見たことがあるが、本当に燃え立つ椰子殻の上に立ってもやけどを負わないという不思議を見せる。やけどをしない=本当にトランス状態にはいっている証明みたいな演出だ。
「踊る前に舞踏者は「何故かわからないが、彼の意識は脱落して、すっかり我を忘れてしまう。胸の鼓動が轟き、筋肉は重い荷物に結ばれた綱のようにピンと張り詰める。老師はこの状態を「他の世界の思いに耽る」と呼んだ。」という状態にはいることも。これは実際に見聞しなければ書けない。」
時としてバリ島に伝わる古代文書=「ロンタール書」は賭け事の勝ち方まで教えるものらしい。
「三つの古いロンタール書があって、それには、ある特定の日に特定の鶏が闘鶏場のどちらの隅から出て、どんな種類の対手と闘えば勝てるかということが書いてあった。」
まだ実際に見たことはないが、「ロンタール書」は椰子の葉にでも書かれているのだろうか。
下記の文章は日本の巫女のように神懸かりになる女の様子が描かれている。このあたり、日本と東南アジアを結ぶ古代の交流があったのだろうか。
「彼女の目が据わってきて頭が前に下がると、人々は、彼女が神性を受け入れる準備が出来たことを知った。背後に蹲っていた老女達が彼女を支えた。・・・突然、トウラギは霊感を受けた。彼女の口から聞き慣れぬ太い鳴りわたる声が、彼らの理解できぬ言語を語り始めた時、群衆のあいだには呟きが走った。 それは古代ジャワ語であるカウイ語であって、高僧と学者だけが知っている言葉であった。」