不条理への復讐という普遍的な心情を描き最後に愛へ。
不条理にいらだつ人々はいつの世にも存在し、共感を呼び起こす。それが復讐を叫ぶならなおさらだ。
ドストエフスキーの小説の登場人物の抱えている欠点はときどき欠点と思えないこともあって、それで彼らの欠点に百パーセントの同情を注ぐことができなくなってしまうのだ。 P276「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」上巻
作者もおそらく不条理に怒り、復讐心を持った体験があるのだろう。人の無明と復讐は直結する。復讐心を徹底的に描くことで普遍的な共感を得ることに成功している。
「苦しみは現に存在する、罪人はいない、万物はしごく単純素朴に原因から結果が生まれ、流転し、均衡を保っている。・・・おれに必要なのは復讐なんだよ。・・・無限のかなたじゃなくてこの地上で実現してほしい。・・・おれが苦しんできたのは、自分自身や、自分の悪や苦悩で持って、誰かの未来の調和に肥やしをくれてやるためじゃないんだ。おれは自分の目で見たいんだよ。鹿がライオンのとなりに寝そべったり、切り殺された人間が起き上がって自分を殺した相手とだきあうところをな。・・・調和なんていらない、人類を愛しているから、いらないんだ。それよりか、復讐できない苦しみとともに残っていたい。・・・おれは神を受け付けないんじゃない。・・・その入場券をつつしんで神にお返しするだけなんだ。」 亀山訳p243
調和なんていらない、人類を愛しているから、いらないんだと言い切るイワンの不条理に対する復讐の渇望はすさまじい。「万物はしごく単純素朴に原因から結果が生まれ、流転し、均衡を保っている」一種の輪廻観に見えるこの考えもイワンに救いを与えることはできない。神を引きずりながら無神論にもいきつけない宙ぶらりんの人間の深い悩み。
「おまえはすべてを法王にゆだねた。・・・おまえはもうまったくきてくれなくていい、すくなくとも、しかるべきときが来るまでわれわれの邪魔はするな・・・おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。・・・人間というのはもともと反逆者として作られている。だが反逆者ははたして幸せになれるとでもいうのか?」 亀山訳p263
神は人間を反逆者としてつくられた、つまり神が不条理に造り上げられた人間の不条理の世界の後始末は悪魔にまかせろということか。「おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。」は反逆者を開放することになることを指す。
「第一の問いを思い出してみろ。・・・おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!」 亀山訳p267
「こうしてついに自分から悟るのだ。自由と、地上に十分にゆきわたるパンは、両立しがたいものだということを。なぜなら、彼らはたとえ何があろうと、お互い同士わけあうということをしらないからだ!そしてそこで、自分たちがけっして自由たり得ないことも納得するのだ。なぜなら、彼らは非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者なのだから」 亀山訳p269
イワン(この台詞は大審問官に言わせているのだが)はこの2つの台詞で人間に対して実に鋭い、しかし誰もが認めたくない見解を述べる。
「いっしょにひざまづける相手を見つけるという事が有史以来、各個人のみならず、人類全体のもっとも大きな苦しみだった。普遍的にひざまづける相手を探し求めようとして、彼らはたがいを剣で滅ぼしあってきた。・・・そうなのだ。彼らはどの道、偶像の前にひれ伏さずにはおれない連中なのだ」 亀山訳p271
偶像とは権威である。人間は権威を常に求めている。ブランド、著名人、流行にひれ伏さずにはおれない。人間のDNAに刻まれた根源的なものであるとイワン(大審問官)は述べる。
「この地上には三つの力がある。ひとえにこの三つの力だけが、こういう非力な反逆者たちの良心を、彼らの幸せのために打ち負かし、虜にすることができるのだ。そしてこれら三つの力とは、奇跡、神秘、権威なのだ。・・・おまえはしらなかった。人間が奇跡を退けるや、ただちに神をも退けてしまう事をな。・・・そもそも人間は奇跡なしには生きることができないから、自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。例え、自分がどれほど反逆者であり、異端者であり、無神論者であっても。・・・おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。・・・誓ってもいいが、人間というのは、お前が考えているよりもかよわく、卑しく創られているのだ!・・・人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな」 亀山訳p277
大審問官はローマ教会・カソリックを代弁し、降臨した男がプロテスタントと同じ主張をしていることを示唆している。つまり作者はここで新教、旧教の対立概念を創作の形で述べている。
大審問官は奇跡による信仰を人間の非力の故だと述べ、この非力な人間を導くための必要悪であり、奇跡を悪魔の所業としている。オームの麻原が見せたとされる奇跡に優秀とされる若者がころりとまいった謎がこの奇跡であったのだ。カソリックが奇跡を重要視しているのはしられたところだ。
ゾシマ長老が奇跡を起こさず死臭を放つことはカソリックの奇跡を否定する事であり、奇跡を否定した降臨したキリストと同じ考えをもっていることを示している。
大審問官の不条理への怒りはイワンの不条理への怒りを代弁して見せる。
お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間たちで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てば、それでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。原訳
16世紀を舞台にイワンが語る「叙事詩」のなかで、再臨したキリストが90歳になる枢機卿の大審問官の「言葉のみでは人類の救済に実際に役に立たないぞ」とキリストを非難する。
これに対して、言葉で反論するのではなく大審問官に無言のキスを与える。大審問官の内心の苦悩に対する再臨キリストの共感をあらわすのか、あるいは救いを表わすキスかの議論が起きるところだが、共感と救いの両方を表わすキスなのだ。
キリストみずからイワンの知と苦悩に深い共感と慰藉を与えて超越的な偉大さを示すキスなのだ。「彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。」は深い。復讐心は自らを救わない。作者が晩年に至った境地をゾシマの口を借りて述べていると理解したい。
ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明白に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う。生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。しかし、死は得られないだろう。 原訳
次の文章は亡くなる直前の神父たちに対する説教だがイワンに対して述べているというよりも作者自身に述べているように思えてくる。復讐心で占められた心根では永遠の地獄を迎えることになる。
神父諸師よ、『地獄とは何か?』とわたしは考え、『もはや二度と愛することができぬという苦しみ』であると判断する。
かつて、時間によっても空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的存在が、地上へ出現したことによって『われ存す、ゆえに愛す』と自分自身に言う能力を与えられた。
そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた。それなのに、どうだろう、この幸福な存在は限りなく貴いその贈り物をしりぞけ、ありがたいとも思わず、好きにもならずに、嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった。
このような者でも、すでにこの地上から去ってしまえば、金持とラザロの寓話に示されているように、アブラハムの懐ろも拝めるし、アブラハムと話もする。天国も観察し、主の御許にのぼることもできる。
しかし、愛したことのない自分が主の御許にのぼり、愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接するという、まさにそのことで彼は苦しむのである。なぜなら、このときには開眼して、もはや自分自身にこう言えるからだ。『今こそ思い知った。たとえ愛そうと望んでも、もはやわたしの愛には功績もないし、犠牲もないだろう。地上の生活が終ったからだ。地上にいたときはばかにしていた、精神的な愛を渇望する炎が、今この胸に燃えさかっているというのに、たとえ一滴の生ある水によってでも(つまり、かつての実行的な地上生活の贈り物によってでも)、それを消しとめるためにアブラハムは来てくれない。もはや生活はないのだし、時間も二度と訪れないだろう! 他人のために自分の生命を喜んで捧げたいところなのに、もはやそれもできないのだ。なぜなら、愛の犠牲に捧げることのできたあの生活は、すでに過ぎ去ってしまい、今やあの生活とこの暮しの間には深淵が横たわっているからだ。
地獄の物質的な火を云々する人がいるが、わたしはその神秘を究めるつもりもないし、また恐ろしくもある。しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶことだろう。なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。それに、この精神的苦痛というやつは取り除くこともできない。なぜなら、この苦痛は外的なものではなくて、内部に存するからである。
また、かりに取り除くことができたとしても、そのためにいっそう不幸になると思う。なぜなら、たとえ天国にいる行い正しい人々が、彼らの苦しみを見て、赦してくれ、限りない愛情によって招いてくれたとしても、ほかならぬそのことで彼らの苦しみはいっそう増すにちがいないからだ。
なぜなら、それに報いうる実行的な、感謝の愛を渇望する炎が彼らの胸にかきたてられても、その愛はもはや不可能だからである。それにしても、臆病な心でわたしは思うのだが、不可能であるというこの自覚こそ、最後には、苦痛の軽減に役立つはずである。なぜなら、返すことはできぬと知りながら、正しい人々の愛を受け入れてこそ、その従順さと謙虚な行為の内に、地上にいたときには軽蔑していたあの実行的な愛の面影ともいうべきものや、それに似た行為らしきものを、ついに見出すことができるはずだからである……諸兄よ、わたしはこれを明確に言えないのが残念だ。
イワンの悲劇は知による限界を悟らなかったことによる。
「神は欠かせないといった考えが、人間のような野蛮で獰猛な生き物のあたまに忍び込んだという点が、実に驚くべきところなのさ。その考えは、どれほど神聖で、それほど感動的で、どれほど賢明で、それほどまで人間に名誉をもたらすものなんだよ」 亀山訳p216
「仮に神が存在し、この地球を実際に創造したとしてもだ、おれたちが完全に知りつくしているとおり、神はこの地球をユークリッド幾何学にしたがって創造し、人間の知恵にしても三次元の空間しか理解できないように創造したってことさ・・・そもそも俺の持っているのは、ユークリッド的、地上的頭であって、だからこの世界とかかわりのない問題は解けるはずもない、とな・・・つまり神はあるかないかという問題はな、・・・三次元だけの概念しか与えられずに創られた頭脳には全く似つかわしくないんだ。だからこそ俺は神を受け入れるのさ」 亀山訳p218
いずれにせよ、自分の頭脳の限界を感じることを神の存在理由にしていることに注目する。どちらか判断できない場合は神の存在を信じようとする、イワンの意外な謙虚さからでた言葉だろうか。つまりイワンの本質は謙虚で信仰心があるのだろうか。そのイワンが神の創った世界の不条理に対して怒りと復讐心でのた打ち回るように悩むところにこの小説の切実さがあるのだろう。
しかし理性で理解しようとする彼に欠けているものがある。少年時代に両親の愛を受けそこなった男はその背後にある神の愛も実感することができない。作者は地上の愛は神の愛を知るための通路であるといいたいのだ。地上の愛に欠けているイワンは復讐心で一杯になり、自己の統一性を破壊してついに狂う。
作者はきわどいところまでイワンによりそい、土壇場でイワンと決別する。愛がなく怒りと復讐心では救いがないといきついた作者の深い見解を示している。
「カラマゾフの兄弟」をドストエフスキーの人生の投影として読む面白さ。
ドストエフスキーは人生でトラブルを繰り返し、その体験をベースにしてエピソードを紬ぎ作品化している。根源的体験とは癲癇や推測される幼児体験、父が殺された事件、空想的社会主義に共感した体験で、「カラマゾフの兄弟」をドストエフスキーの人生の投影として読んで見た。(ネットでさまざまな知識やドストエフスキー作品引用を参考にさせていただいた。元になる文献の確認はしていないことをお断りしておきます)
三人の兄弟はそれぞれに半端者でありカラマーゾフだと作者は作中で何回となく示している。カラマーゾフ名兄弟がそれぞれにのた打ち回りながら聖性を求める物語と言えるだろう。それは賭博癖や浪費癖に苦しんだ作者ドストエフスキーの分身たちと言える。
友人のグリゴローヴィッチ。1846年、ドストエフスキーは25才、『貧しき人々』。二人で散歩している最中、葬式の列をさけようとしたドストエフスキーは突然発作をおこした。
パーティーで発作、病院に向かっています。知人に対して不安で助けが欲しかったと。
友人の医師ヤノーフスキイ1947~49年にかけてヤノーフスキイは3回の発作を目撃しています。一度はベリンスキイの死の知らせを聞いたあと、一度はペトラシェーフスキイの会で、不愉快な出来事があったその夜。
1849年に逮捕され死刑宣告の直後の恩赦体験をへて、1949年オムスク要塞監獄に収監され4年、その後セミパラチンスクに5年の合計9年をシベリアですごす。オムスクにいた29才の時発作が悪化した。
1857年、シベリアの部隊の医師エルマコフがてんかんでの診断を下した。
『アンナの日記』少なくとも25回のてんかんについての記載が。この間はルーレットに熱中した時期。てんかん者特有の粘着性と賭博者の耽溺傾向には共通するものがある。
地主だった父親は農奴に殺されている。フョードル殺しに反映している。
ドストエフスキー自身は国家反逆罪で死刑宣告を受ける。セミョーノフスキイ練兵場に引き出され、銃殺刑執行寸前のところで、皇帝による恩赦の知らせが届き、死刑にかえて、4年間の懲役刑に処せられる。
ミーチャの冤罪による有罪判決に織り込まれている。
ゾシマの決闘場面にもその経験が織り込まれている。
ミーチャにドストエフスキー自身を投影
「常日頃あまりに分別臭い青年というのは、さして頼りにならず、そもそも人間として安っぽい」
てんかん者特有の粘着性と賭博者の耽溺傾向をもつドストエフスキー自身をミーチャに投影している。ゾシマが打たれミーチャに拝跪する場面などは一読意味がわからなかったがミーチャつまりドストエフスキー自身の純粋さに打たれている場面なのだ。
ミーチャがカテリーナに抱く不思議な矛盾にみちた恍惚「そのためには全生涯を投げ打ってもいいと思うほどの美と調和に満ちた瞬間」はてんかん者特有の感覚をミーチャに投影したとすると納得できる。
ドストエフスキー自身の幼児体験のなかで他者との接触に失敗している体験が内面を成熟させない要素になる。異常者は人のよさ、善良さ、幼児性が精神病者類別の非常に大きな部分を占めている根底的な部分を占めている。
兄弟のそれぞれのある幼児性が幼児体験によるものであり、ドストエフスキー自身の幼児性を三人にあるいはスメルジャコフもいれた4人に分散させている。
アリョーシャは女性をエロス的幼児性でみており母親のようにあるいは自分が幼児であるようにしか女性に対してたいすることができない。小児麻痺の女性リズやグルーシェニカにたいする態度にそれが表現されている。
ドストエフスキーはロシア大地思想に真理があると考えていた。アリョーシャが大地にひれ伏す場面やキリスト教と相反すると否定されるべきゾシマの超能力(信者である母の質問に答えて息子の帰還を予知する)もそこから来ている。
ドストエフスキーはキリスト教と相反する来世観を持っていたが、ゾシマやフョードルを通してそのことを語らせている。
だがもしその目的[自身のごとく隣人を愛するというキリストの教え]が人類の最終的な目的だとしたら(それを達成したらもはや発展する必要がなく、つまり堕落のさなかで理想を追求し、戦い、洞察を試み、永遠にそれめがけて進むという必要がなくなり、だからもはや生きていく必要がなくなるとしたら)、結局は、人類は目的達成と同時に、自分の地上的存在も終えることになる。つまり地上の人間はただ発展途上の存在であり、従って完成されえない、過渡的な存在なのだ。
だが私の考えでは、もしも目標の達成によって全てが消えてなくなってしまうなら、つまり目的達成の後には人類の生がなくなってしまうのだとすれば、そのような大目的を達成することはまったく意味がない。従って、未来の、楽園の生が存在するのだ。(永世の必然性についての背理法的説明 最初の妻の死に際してつづられた)
フョードルは、死後に鬼たちによって鉤で地獄に引き込まれるという伝説を心配している。
ドストエフスキーは16歳のときペテルブルグの工兵士官学校に入り,卒業して工兵局に勤めるが1年で退職する。この体験がゾシマの回想に埋め込まれている。
ドストエフスキーは空想的社会主義者シェフスキーのサークルに接近し1849年逮捕され,死刑執行の直前に特赦と称してシベリア送りになっている。空想的社会主義者を匂わせる修道僧が登場する。 ソ連のドストエフスキー学者グロスマンは「アリョーシャはアレクサンドル二世の暗殺計画に加わり、断頭台に登る」と推理している。
イワンの「大審問官」で 無神論者イワンの「自分は神は認めるが、神の作ったこの世界は認めない」「神がいなければすべては許される」
叙事詩「大審問官」16世紀スペインの異端審問の時代を舞台に、大審問官と復活したキリストが対峙する。大審問官は「人間は自由の重荷に耐えられない生き物であり、自由と引き換えにパンを与えてくれる者に従うのだ」と主張する。大審問官は空想的社会主義でありドストエフスキーを投影しているのだろうか。キリストの無言のキスはドストエフスキーに与えられた慰藉のキスと思われる。
ドストエフスキーはペテロ=パウロ要塞監獄での拘置、裁判と擬似処刑、懲役と兵役で 8 年をシベリアで過ごし空想的社会主義の思想から神、霊魂の不死、自由に関心を持つ思想家になっていた。
アリョーシャはこの時間軸を逆行することでドストエフスキーを投影する。
イワン・カラマーゾフは、大審問官であり、かつて空想的社会主義者であった頃のドストエフスキーを投影する。
持ち金、家にある金目のすべてを失い、「愛してる、金貸せ、急いで送金しろ」とドストエフスキーは妻への手紙に書く。ミーチャのカテリーナへの恥辱、愛と憎しみに投影されている。淫蕩はグリーシェニカとの関係に。
ドストエフスキーは至高の天上世界と現実界がかけ離れたものだとの感覚をもっていた。
「現実をありのままに描かなくてはいけない」といわれるが、そのような現実というのはまったく存在しないし、この地上に一度としてあったためしがない。なぜなら物事の本質は人間には捉えがたいものであり、人間は自然を、それが自分のイデ アに反映する姿において、自分の感覚を介して知覚するだけだからである。したがって もっとイデアを自由に活動させ、観念的なものを怖れないようにしなくては ならない。『作家の日記』
ゾシマに投影して述懐させている。
この世の多くの事柄は、私たちから隠されている。だがその代わりに私たちには別の、至高の世界との生きたつながりの感覚が与えられている。私たちの思想と感情の根も、そうした異世界にあるのだ。だからこそ哲学者たちは、事物の本質を地上において捉えることはできないと解くのだ。神が別の世界の種子を摘んでこの世界に蒔き、自らの作物を育て、その結果生えるべきものが全て生え出した。だがこのように栽培されたものは全て、神秘なる異世界との接触の感覚によってのみ、生き生きと育っていけるのだ。
次の「作家の日記」の文はスメルジャコフとイワンの関係を説明しているように読める。いや一粒の麦のエピローグに示されるようにすべての登場人物との関係を説明しているように読める。
イデアは空中を飛び回っている。しかも必ずや何かの法則にしたがって。イデアはわれわれにはあまりに捉えがたい法則によって生き、かつ伝播していく。イデアは伝染性を持つ。そして、ご存知だろうか、生活に共通の気分が瀰漫しているところでは、高い教養を持った発達した知性にしか理解し得ないある種のイデアや気がかりや希求が、にわかにほとんど無教養で粗野で、今までろくにものを考えたこともないような人間に伝わり、その影響力で相手の心を感染させてしまうことがあるのだ。『作家の日記』
非ユークリッド幾何学が理解できないと世界が理解できないと嘆くイワンは哲学というものを、自然を未知数とする単なる数学とみなしていた人物として描いている。ある時期までドストエフスキーはそのように思っていたのではないか。つまりイワンはある時期までのドストエフスキーの投影であると読める。
哲学というものを、自然を未知数とする単なる数学とみなすべきではありません…。いいですか、詩人は霊感のきわみにおいて神を洞察する、つまり哲学の役割を果たすのです。つまり詩的な喜びとは哲学の喜びなのです…。つまり哲学も同じ詩なのですが、ただし最高度の詩だということです!「兄への手紙」