まさおレポート

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人生で経験した偶然 量子力学 薔薇の名前

2018-06-02 | 小説 幼年期の終わり(UFO含む)薔薇の名前

身の回りに起きる偶然という事象に意識的に関心を向けだしたのは20代の頃で、ユングの共時性に関する本を読みふけり、易経もその影響で読んだとき以来だから随分と以前になる。もっと記憶を探ると幼い時分から自らの存在と環境に不思議なめぐり合わせ、奇遇という感を漠然と持っていたことにも気がつく。

私の人生で出会った小さな偶然を書き記してみたい。70年生きてきて意外に少ないかなと思う。しかし奇遇の確率計算をしたら宝くじに当たるよりも小さいに違いないとも思う。プールに米をいっぱい詰めてその中に小豆を50粒ぱらぱら放り込みよく混ぜてから一掬いしたらその中に小豆が入っていたような感じといったら近いだろうか。

商品に街で出会う

娘が海外で日本向けに製造販売ビジネスをしている。そしてあるときトートバッグを限定販売した。日本全国で50枚ほど販売したらしい。ある日に自宅から一駅の街でそのバッグを肩にかけているご婦人を見かけた。特徴のあるバッグだからすぐにわかった。これだけでも既に千歳一隅的出会いだろう。

日を置いて再びその街に出かける。蕎麦を食べて市立博物館に向かうためにバスに乗った。初めてのバスだ。座席に座って出発を待っていたらなんとそのトートバッグをかけたご婦人がバスに乗り込んできた。そしてすぐ前の座席に座った。この市立博物館は街の中心から離れた所にある。街でポスターを見てふとその気になって訪れたのだ。そうでなければ絶対にといってよいほど訪れないところだ。

同じような話だが連れ合いはカメラケースとスタラップをデザインしてネット販売している。地下鉄で上野に向かった時のこと、途中の駅に乗り込んできた女性が目の前の席に座った。肩にはなんと見覚えのある柄のカメラストラップとカメラケースが。

旅先での奇遇

林さんはかつての会社の先輩だ。ある日曜日に新宿紀伊国屋の前で見かけた。そのあと成城学園から川沿いに桜を見に行ったら再び林さんに出会った。こんな話を会社の飲み会で若い藤村さんに話したらもっと不思議な出会いをしたと話してくれた。卒業旅行でパリにいき、名もない場末のカフェに入ったら彼女のいとこに出会ったという。向かいの席にいた田中さんは彼女を連れて台湾に行ってマッサージ店に入ったら上司の倉内さんが隣でマッサージを受けていたという。こういう不思議は割合にあるものらしい。

話を聞いていた徳永さんはさらに興味深い話をしてくれた。徳永さんは20代のはじめのある日に寮の2段ベッドのなかでリアルな感覚に襲われたという。その後に出会い結婚することになる女性の特徴がリアルに感じられたという、その1年後その特徴通りの女性と出会い、結婚してそれが現在の妻だと話した。周りは「なんだおノロケか」と混ぜ返すなかで私には印象に残る話であり、今でも記憶している。

地縁

その1 子供のころに大阪大学病院で足を手術したことがある。足の骨を削る感触と誤診で医療費を払うことがなかったことなどを覚えているがどう誤診したのか、なぜ麻酔なしで手術したのかなどの詳細は知らない。しかし漠然と嫌悪感を持っていた。厚生年金病院で再手術した。

30代に東京から大阪に転勤になって堂島電電ビルに赴任した。目の前にある老朽化した病院が大阪大学病院だった。そして少し離れた場所は厚生年金病院だ。そういうこともあるよねとさらりと言う人も多いが私には地縁を感じたものだ。

その2 電電公社の世田谷区中町社宅に8年と割合長く住んでいた。環八の騒音がうるさかったがソフトボールができる敷地があり専用庭で野菜などを作れるなどなかなか楽しい社宅だった。

後年娘が会社の事務所を用賀に設けることになった。近所を散策すると見覚えのある公園があった。中町社宅からよく散歩に出かけた公園だった。用賀と中町が近いとは全く念頭になかったという。

「薔薇の名前」ウンベルト・エーコにみる偶然賛歌

すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、  「薔薇の名前」ウンベルト・エーコP40

これの一体どこが偶然賛歌なのかと思われるかもしれないので次の引用も附しておく。

「偉大な一巻の書物にも似て、この世界が私たちに語りかけてくる痕跡を読み抜くこと P40

「・・・長い因果の鎖を遡るのは、天にも届く塔を建てようとするのにも似て、愚かな業だと思えてなりません」

ロジャー・ベーコンの知識への渇きは、欲望ではなかった。彼はあくまでも神の民を幸せにするために学問を利用したいと願ったから。それゆえ知のための知は追及しなかった。p225

量子力学はあるところまで追求するとその先は確率論となるという、同じことをロジャー・ベーコンが言っていると読んだ。

究極の偶然のメタファ

上記の体験は究極の偶然のメタファであり、生を受け親子や夫婦、知り合いになるということが偶然の極みではないかと思えてくる。盲亀浮木の譬えは古臭い抹香臭い説教話だと聞き流していたが実によくできている話だと思う。 

釈迦が阿難に説く。海の底に、目の見えない亀、盲亀がいる。その盲亀は、百年に一度、海面に顔を出す。海には、一本の浮木が浮いている。浮木には小さな穴がある。浮木は漂っている。盲亀が浮木の穴に頭を入れることはきわめて難しい。私がこの私に生まれる事は亀が浮木の穴に首を入れるよりも難しい。

宇宙的な偶然

宇宙ができた直後には水素原子しか無くそれが徐々に大きな原子を生成して、超新星爆発を経て金やダイヤモンドが生まれ、その破片が地球の成分に存在することも奇遇としかいえない。かつての物理学者や天文学者は必然性を追い求めてきたが今や量子力学の知見で量子の存在位置は確率でしか知ることができないことが定説になっている。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と量子力学の不確定性を批判したが、実は神はサイコロを振るらしいことがベルの不等式を否定する実験を積み重ねることで明らかになってきた。

進化論も批判に晒されている。「ゴミ置き場に猛烈な竜巻がやってきて去るとキャデラックが出来上がっていた」ほどの偶然でホモ・サピエンスがこの宇宙に存在するとの話は進化論に反対する立場のたとえ話として有名だ。極めて確率の低い事象が何重にも重なってホモ・サピエンスが出来あがる、その中でこの時代のこの土地に私という存在が生じている。偶然という不思議は単なる思いから真実に近づいている。会うことが非常に難しいこと、めったにないことのたとえである盲亀浮木の喩えは2000年ほど前のものだがなかなかの先見性なのだ。

 

2017-03-11初稿

 



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