まさおレポート

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AIは大乗の中観思想を理解するか

2017-02-26 | AIの先にあるもの

大乗仏教の中観思想は今一つわかったようでわからない。

大乗仏教の中観思想は「一切の存在が無自性・空である。」としツォンカパは「一切の存在は、縁起しているが故に空である」、またダライラマは空について「私という言葉の対象である私というものを探してもどこにも見つからない。しかし私は存在している」という。

中観思想の「自性」とは、言語外に、その言葉に対応する実体があると考えている、その実体のことであり、そのような言語外の存在がないということが、空であるという。「自性」が存在しないのは、その言語行為の中で有意義に存在している諸存在が、言語的意識によって作り出されたという意味で「縁起している」からである。「一切の存在」は言葉によって立ち現れただけの虚構であり、従って真実なものではない。世界は真実には存在しないのである。それを空性という。仏陀になるためには、諸々の存在に実体がないと分かるだけではなく、そもそも虚構する働きを本質としている言語的意識も消し去らなければならない。

果たしてこれで自生や空そして私なるものが納得できるだろうか。すくなくとも私には今一つわかったようでわからない。

私とはに対する答・・・どうもすっきりしない。

私とは、そのような部分や断片の総体に対して「私」という名前を付けたものであるから、確かに「私」に対応するものはなくても、総体としての私は存在する。無意識に言葉を使っている我々は、それが言語的意識によって作り出されたものであることを忘れ、始めからその対象がそのまま存在していると思っているのである。それこそが対象を自性のあるものと捉えている誤った思い込みに他ならないと切り捨てることも可能だがそれではどうもすっきりしない。

世界外存在としての私

「私は存在している」は単なる言語行為であるがそれが単なる言語行為としてではなく、言語の外に出て、私というものがどんなものかを考えようとしている。言語外に、私という存在があるかのように考え「自性」を考えている。世界外存在としてこの世界との関係を断ち切って考えるのも一つの整理だ。しかしこれもよく考えると答えは無限鏡面のかなたに消えていくようだ。

AIは自生や空を理解する領域に達することができるのか

が技術的特異点を突破したとされるAIは自生や空を理解する領域に達することができるのだろうかと空想してみるのも楽しい。

「私」を確定的にこれだ言えるようなもの「私」という言葉以外にその根拠となるものを考えるにあたってはジュリア・トノーニのΦ(ファイ)理論が有効らしい。脳は意識を生み出すが、コンピューターは意識を生み出さない、その両者の違いを「統合情報理論」で説明するという。皮相的な理解しかしていないが何かありそうな予感もする。

絵にしてから文にする⇔文から絵にすることが意味を理解した翻訳。

言語翻訳はAIの最重要課題だが現段階では統計的機械翻訳で、かつてのように文法的に理解して訳すのではなく、元から対訳のデータを大量に入れておくことによって処理する。しかしこれではAIが意味を理解して翻訳していることにはならない。英語からAIが絵を作りそれを日本語に変換するということで意味を理解した翻訳となる。下記のレベル4の先にある翻訳方式だという。

松尾豊 人工知能のレベルを4段階

 レベル1「単純な制御プログラム」
  エアコン、掃除機、電動シェーバーなどの制御工学あるいは
  システム工学が装填されているもの。実際には人工知能とは言えない。
 レベル2「古典的な人工知能」
  将棋やチェスのプログラムふるまいのパ
  ターンが多彩なものに対応した人工知能。
 レベル3「機械学習ができる人工知識」
ビッグデータをもとに自動的
  な判断をするような人工知能。機械学習のアルゴリズムが使
  われる。機械学習とはサンプルとなるデータ群をもとにルー
  ルと知識を自分で学習できることをさす。
 レベル4「ディープラーニングを採り入れた人工知識」
  機械学習をするときのデータをあらわす変数(特徴量)自体
  を自己学習する人工知能。松尾はディープラーニングを「特徴表現
  学習」と名付けている。

AIは自生や空に対してどのような絵を作り出すのだろうか。

言葉、知識、情報、データ、メッセージを人工知能では関連リンクをふやして対処しようとする。第五世代コンピュータはこのリンクの多さで挫折した。フェルディナン・ド・ソシュールの「記号のシステム」「シニフィエ」(概念)と「シニフィアン」(名前)を先ほどの絵にするAIに適用すれば第五世代コンピュータの挫折は新たな方向性を見出しそうだ。

しかしながら概念に絵つまりシンボルを割り当てることは、事物に絵を割り当てるよりも困難が伴うだろう。エリアーデは神の発生にまで立ち戻らないとわからないものといいカール・ユングは集合的無意識、フロイトはコンプレッックスの中に畳み込まれたもの、ホワイトヘッドは認識作用のプロセスまるごとの中に作用しているもの、チャールズ・サンダース・パースは記号そのものの本質が受けもつもの、ジャック・ラカンはシンボルは「自己」の内部の鏡像過程に生じているなどとしている。(いずれも松岡正剛の千夜千冊より) 

AIは空や縁起に果たしてどのようなシンボルを描くのだろうか。曼荼羅風のものになるのかあるいは???か。



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