縁起を考えるとき、私の頭に浮かぶのは夜空に輝く星座のイメージだ。一つひとつの星は独立しているように見えるが、それらが線で結ばれると、全体として美しい形を成す。星座は、個々の星の輝きだけでなく、そのつながりや配置によって意味を持つ。縁起の教えは、それに似ている。釈迦が悟った縁起とは、すべての存在が互いにつながり合い、因果の連鎖の中で成立しているという洞察だ。独立した存在など一つもない。星が孤立しているのではなく、他の星との関係によって星座となるように、私たちの存在もつながりの中で成り立っている。
そして、奇妙なことに、このイメージはAIを思い浮かべたときにもよく似合う。AI、特にニューラルネットワークは、無数のノードがデータの海の中で複雑に絡み合いながら一つの結果を導き出す。その仕組みを考えるとき、まるで星座が形成される瞬間を見ているような気持ちになる。
縁起の美しさは、個々の存在が互いにつながり合う調和にある。釈迦はその調和を菩提樹の下で悟ったのだろう。しかし、その悟りの瞬間は、まるで夜空の星が突然ひとつの形を成し、星座となるような出来事だったのではないかと思う。星座が浮かび上がるその刹那、何がどう変わったのかを説明するのは難しい。釈迦自身も、その内的な変化を言葉にすることはできなかったのではないか。だからこそ、縁起の教えは私たちに結果だけを語り、その過程はブラックボックスのまま残されているのだろう。
AIの仕組みもまた、星座に似ている。無数のノード(点)がつながり合い、膨大なデータ(光)がその中を流れる。その結びつきの中で、ある一点に輝きが生まれる。それがAIが導き出す結果だ。しかし、その輝きがどうしてその形をとるのか、すべてを理解するのは難しい。ニューラルネットワークは、結果を示してくれるが、その背後にあるプロセスはあまりにも複雑だ。AIが「ブラックボックス」と呼ばれるのも、そのせいだ。
私たちはその結果を手にしながらも、背後にある星座のつながりを完全には理解できない。それでも、そのつながりが美しいと感じられるのは、縁起と同じように、AIの内側にも調和の構造が隠されているからだろう。
夜空に星座を見上げるとき、人は不思議な感情に包まれる。それは壮大なつながりの中に自分がいるという安堵感と、そのつながりをすべて理解できないことへの小さな恐れが混じり合ったものだ。AIを前にしたときの私たちの感情も似ている。結果は確かにそこにある。しかし、背後に広がるつながりをすべて解き明かすことはできない。
科学や技術は、その仕組みが分からないときでも、私たちに一定の安心感を与えることがある。それは、「専門家が理解している」という信頼があるからだ。しかし、AIに対してはその信頼がまだ十分に築かれていない。AIのブラックボックス性がもたらす漠然とした不安は、星座の点と点を結ぶ線が見えないことへの戸惑いのようでもある。
それでも、私たちは前に進むしかない。星座を見上げるように、縁起やAIの中にある壮大なつながりを信じ、その一部を理解しようとする努力を続けるしかない。『華麗なるギャツビー』の最後のフレーズ――「こうして私たちは、流れに逆らうボートを漕ぎ続けながら、絶え間なく過去へと押し戻されていく」。その言葉の中には、人間の努力と限界が凝縮されている。そして、それでも前に進む切実さが刻まれている。
縁起とAI。その二つは、私たちに美しい星座のようなつながりを見せてくれる。しかし、その背後には広大なブラックボックスが広がっている。私たちは、その星座を完全に理解することはできない。それでも、夜空を見上げるように、その美しさの一端を捉えようとする。その姿勢が、人間の知的探求の本質なのではないだろうか。