村上春樹といえばランナーが思い浮かぶ。一体祈りとランナーなんの関係があるのだろうか。実はランニングも村上春樹の祈りなのだと気が付いた。神仏に祈るばかりが祈りではない。ランニング行為によって頭を空白にしてニュートラルを保つ。これも今風の大いなる祈りなのだ。そしてこの祈りの形態も村上春樹の文学的成功でその効果は著しいことが覗える。
村上春樹は地下二階(精神の)に下りて行って小説を書く。そしてこれは相当危険な行為だと述べている。ニュートラルを保つしっかりとした方法論がないと真似をしてはいけないと彼の著作で注意していた。
だからこそ数十年間毎日朝2時過ぎに起きて仕事をしてそのあとはランニングに向かう。あたかも修行僧の生活だ。彼に千日回峰は似合わない、ランニングを祈りに変えることで現代の祈りを実行しているとみている。
彼の作品「海辺のカフカ」にも大嵐にあう少年が描かれる。精神の大嵐をおそらく村上春樹自身が経験しているのだろう。そして克服した、そんな見方をしている。
これはランナーズハイを超えたものだ。ランナーズハイはβエンドルフィンの増大が麻薬作用と同様の効果を人体にもたらすことで起こるとされてきたが、2015年頃より内在性カンナビノイド説が浮上している。
唱題や念仏もチャンティングハイとも呼び得る状態になる。ランナーズハイと同質のものだろう。
「走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ。」がランニングで浄化の果てに見えてくるものを希求している。
マラソンは万人に向いたスポーツではない。小説家が万人に向いた職業ではないのと同じように。僕は誰かに勧められたり、求められたりして小説家になったわけではない(止められこそすれ)。思うところあって勝手に小説家になった。それと同じように、人は誰かに勧められてランナーにはならない。人は基本的には、なるべくしてランナーになるのだ。(走ることについて語るときに僕の語ること 66〜67頁)
僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。とはいえ、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ。(走ることについて語るときに僕の語ること 32頁)