まさおレポート

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法然の哀しみ上巻 一日6万遍の念仏で神秘的体験

2007-12-13 | 紀野一義 仏教研究含む

梅原猛の「法然の哀しみ」は上下で900ページ近くある。しかも原文の引用が多く経文の名前も覚えにくいのでなかなか読み進めることができない。付き添いで行った病院の待ち時間や電車の中などで細切れ時間を積み重ねやっと上巻を読み終えた。

浄土宗の開祖法然が専修念仏に至るまでの過程が克明に描かれている。梅原猛は法然を現代に生きる日本仏教のすべてに影響を与えた人物、西洋の宗教改革者ルターのような人物として分析を試みている。

上巻では法然の生い立ち特に父が殺害されたことと母の出自が克明に記述される。下巻の内容の伏線になるのだろうと我慢して読んだがなかなか根気を必要とする。
法然はどのような考えで口称念仏にたどり着いたのかを知りたくて読み進んだのだが結局それは上巻では明かされることはない。

中国の善導は観想念仏を中心とした修行で浄土にいくことを考えた。観相とは浄土の仏をありありと観ることだが見えないものを観る修行は想像するだに大変そうだ。特別な能力を必要とし少数の選ばれし人しか観相に達することができない。つまり浄土にいくことができない。善導は口称念仏も勧めるがあくまでも補助の行としての位置づけでしかない。

この善導の考えを180度転換して口称念仏を唯一最高の修行に転換したのが法然でこの転換の過程がこの本の上巻の主軸だろう。この転換の過程はまず直感ありきだ。

つまり法然の直感でだれでも浄土に行けるべきだとの思いがあり、そのためには修行はきわめてシンプルでなければならず、それを善導の教えから抽出すると難度が極めて高い観想念仏ではなく誰でもが唱えることのできる口称念仏でなければならない。

しかし善導の観想念仏説から法然の口唱念仏へと導くためには牽強付会ともいえる展開が必要であり、こうなると宗教的天才の直感を証明するために後づけで根拠となる経文を見つけ出すという作業を行ったように理解できる。

だれでもが特別な修行をしなくても浄土にいけるべきとの宗教的悲願がなぜ法然にあったのか。その分析は上巻の最初で父の殺害や母の出自を詳しく述べている。これらが伏線になり下巻でなにかしらの展開を見せるのだろう。

口唱念仏だけで、いや口唱念仏のみが浄土にいける唯一の方法だというのは法然が実践して一日6万遍の念仏を唱えて得た神秘的体験がまずありきで、その神秘的体験があればこそ善導の著作や浄土三部経から必要な部分のみを引用しても自らのなかでは自然な理論展開であったのだろう。

現代の思想家が同じことをやったらきっと都合のよい引用だといわれるに違いない。しかし宗教は理論もあるがそれはむしろ従であり補助で、直感と神秘的体験の方が主であり中心なのだろう。

それにしても一日6万遍の念仏とは一体何時間かかるのだ。秒で一遍として10時間で3万6千遍だ、秒でニ遍としても8時間以上かかるのだ、おそらく毎日8時間程度の称名を実践したのだろう。

京都に百万遍という地名があるが、これだと半年で達成できる手の届く数字目標で、当時は数が目標とされたシンプルな修行が人々にうけたに違いない。


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