まさおレポート

カラマーゾフの兄弟と小説作法2

イワンが発狂するまでの実に周到な準備。

イワンは最後に発狂しおそらく狂死する。高度の知能を持った無神論者、読者にもある種の説得性を持った無神論者の悲惨な死を描くために実に周到に話を紡ぐ。

「明日はいろんな人に頼んでお金を手に入れる。だが、若し、誰からも借りられなかったら、君に約束する。イワンが家を出ていきしだい、親父の家に出かけて行ってやつの頭をぶち割り、枕の下の金を手に入れてみせる。…ぼくの金を盗んだ泥棒を殺してやる!…あの女も忘れる。なにしろ、おれを苦しめているのは君ひとりじゃない、あの女もそうなのだから。さらばだ!」…この文書を読み終えたイワンは、確信して立ち上がった。つまり、殺したのは兄で、スメルジャコフではなかった。…スメルジャコフでないという事は、つまり自分でないという事だ。彼の目ににわかに「数学的」な意味を帯びた。p306

一旦はスメルジャコフだと思ったが、再び、この手紙を読んでミーチャだと「確信」する。そして、又、再びスメルジャコフだと。この変化がイワンの頭を蝕むことになる。作者はイワンが狂う根拠を周到に準備する。

「心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?」そう自問した。すると、なにか遠い、しかし、焼けつくような感覚に、ちくりと心を刺されたような気がした。要するにこのまるひと月、彼の誇り高さは恐ろしいほどの苦しみをなめていたのである。p309

イワンの葛藤がひと月間、繰り返される。イワンのような人間にとってこのような葛藤が最大の弱点になる。理性で「賢い人は何をやっても、許される」と自己を説得するが、説得しきれない自己がいる。

「さあ、ぜんぶ吐け、この毒虫、ぜんぶ吐くんだよ!」…「それなら、申しますが、殺したのは、ほら、そこにいる、あなたですよ」…「ぼくはただ、あなたの手足をつとめたのにすぎません」…「実行しただと? じゃあ、ほんとうにおまえが殺したのか?」イワンは思わずぞっとなった。脳みその何かが、まるでぴくりとしたかのようで、彼は小きざみに全身を震わせはじめた。…「それじゃあ、ほんとうに、何もご存じなかったんで?」p318

イワンとスメルジャコフの会話。イワンの言動がスメルジャコフに影響を与え、それが、イワンの罪として認識される瞬間を描く。理性はイワンの深い良心に勝てないことを作者は言いたいのだろうか。

「あのころは、いつも大胆でいらしたのに。(すべては許されている)とかおっしゃって。なのに、今はもうすっかり怯えきって!」p322

 とスメルジャコフはイワンをじりじりと追いつめていく。このじりじり感がイワンにはたまらない。

あの話し合いのあと、ご出発なさることも、ここに残られることもおできになったわけですからね。もしもここに残られたなら、そのときは何ごとも起こらなかったでしょうよ、あなたが事件を望んでおられないことがわかっているわけですから、何ひとつ実行には移しませんでした。p330

イワンの一切の自己弁護を封じるスメルジャコフの凄みよ。

ぼくはそこで、旦那さまのテーブルに置いてあった例の鋳物の文鎮、覚えておいででしょうが、1キロ以上もありそうなやつです。あれをつかみまして、振りかぶり、後ろから後頭部のてっぺんめがけて、打ち下ろしました。p335

スメルジャコフの犯行自白で知的なイワンはスメルジャコフの犯行を自己のものと認識する。

「じゃあ、どうして返したがる?」「もう、たくさんです……なんでもありません!」…「イワンさま!」「なんだい?」「さようなら」p345

イワンが良心に勝てないことがスメルジャコフに判ると、スメルジャコフ自身も良心に勝てないことになり、絶望にとらわれる。あるいはスメルジャコフには良心の呵責はないが、イワンがその良心にとって代わる働きをしており、イワンの理性の崩壊とともにスメルジャコフの「代替理性」も崩壊し絶望に陥る。グルに絶望した信者、あるいは宗教的帰依が崩壊すると同時にグルも崩壊するという仕掛けは凄い。

臭いによる描写 味による描写。

「嗅覚」を形成する脳の部位は、直感的判断に深い関係があるようだ。臭いあるいは匂いで過去の記憶が鮮明にたちのぼることがあるのはその何よりの証拠と思われる。ドストエフスキーはそのことを十分に知っていて、この大事な場面に死臭、腐臭を詳述している。この腐臭の詳述でロシア土着のキリスト教がもつどろどろした「奇跡」待望とそれに対する失望を見事に描いている。つまり、教会のもつ堕落を一瞬にして理解させることに成功している。

これほど性急かつ露骨に示された信者たちの大きな期待が、もはや忍耐の緒も切れ、ほとんど催促に近いものを帯びてきたのを目にして、パイーシー神父にはそれがまぎれもない罪への誘惑のように思えた。…ただし神父自身、…心のうち、いや魂の奥底でひそかに、彼ら興奮しきった連中とほぼ同じ何かを待ち受けていたのであり、そのことは自分なりに認めざるを得なかった。p12

聖人は腐臭を発しないという奇跡を期待する。イワンが悪魔の提案だとする「奇跡」はロシアの教会組織にも深く浸透していることがわかる。すでに「あれ」の影響が色濃いということか。

棺から少しずつ洩れだした腐臭は、時がたつほどにはっきりと鼻につくようになって、午後の三時近くにはそれがもうあまりに明白なものとなり、その度合いがますます激しくなっていったのである。p18

たいまつが水に投げこまれて水がにがくなったとプロテスタントに対して批判的に語らせている。

奇妙な視線やゆがんだ含み笑い

信仰心の揺れを顔の表情で端的に表現している。

さっき庵室の入り口につめかけた群衆の中に、動揺する他の人々にまじってアリョーシャの姿があったことに気づいたのだが、・・・アリョーシャは奇妙な、非常に奇妙な視線を投げた。p37

ぼくはべつに、自分の神さまに反乱をおこしているわけじゃない、ただ「神が創った世界を認めない」だけさ」…ゆがんだ含み笑いを浮かべた。p48

彼は、無言のままに老審問官にちかづき、血の気の失せた九十歳の人間の唇に、しずかにキスをするんだ。・・・そこで老審問官は、ぎくりとみじろぎをする。p296

アリョーシャは去っていくイワンの後姿の右肩が下がっていることに気がつく。

第二部を期待させる手法。

わたしは、善良であり、かつ才能豊かなこの青年に幸多かれと願うものであり、彼のナイーブな理想主義と、民衆の原理に向けたそのひたむきさとが、世間でよく起きることですが、後々、精神的な面では陰気な神秘主義とか、社会的な面では排他的な民族主義とかに変わることのないよう、こころから願うばかりです。p521

アリョーシャに対する検事イッポリートの見解だが、このイッポリートもこの裁判の9か月後に結核で死亡する。作者ドストエフスキーも数十日後に死亡する。イッポリートとドストエフスキーが重なる。

アリョーシャはこの後の書かれざる第二部で、「精神的な面では陰気な神秘主義」とか、あるいは「社会的な面では排他的な民族主義」の人生あるいは双方を一度に経験するのではないか。書かれなかった第二部という手法は実はこの文章で結実している。ドストエフスキー最後のジョークと言えるのではないか。

この作品は未完であり第二部が構想されていたとは作者自身が序文でも書いている。このことはこの第一部だけでは結構が保たれていない点も多く、第二部で解決するつもりの謎も多いのですよと言っていると受け止められるが、小説手法として意図的にいくつかの謎を残したとも考えられる。

カテリーナがスメルジャコフを訪問して、何ごとかを話し合ったことを知ったイワンはスメルジャコフを(三度目の)訪問をする。 しかし作品中では何が話されたかは一切触れられていない。なにかスメルジャコフが自殺を決意するほどの言葉が発せられたのではないかとの推測の思いがよぎるだけだ。

カテリーナとイワンの関係も謎に満ちている。アリョーシャがカテリーナがイワンに「あんた」 と呼びかけることで二人は出来ていると気がつく記述があるが、その関係は相当深いと思わせながら、明確には描かれてはいない。作者はこの二人の関係だけで長編小説ができると作中に書いている。

カテリーナがスメルジャコフになにかを言い、それが自殺へと向かわせた。イワンの裁判直前になっての発狂もカテリーナが一枚噛んでいるのではないかとも。そして裁判でのドミトリー有罪にとって決定的となる殺人計画書の提示だけでも冤罪に追いやるには有力だが、さらに決定だとなる上記の出来事もこれまたカテリーナが関与していたのではないかとも思える謎を残す。

小林秀雄も完結していると言ったと言うが作者の思わせぶりのテクニックとみたい。

冗長性も大作家ならではのテクニックか。

キャラを入念に描写すると後の展開が理解しやすくなるが一面退屈にもなる。
ドストエフスキーという大家ならではのテクニックで半端に使うと飽きられるかも。
現代の小説や映画なら殺人の緊張が生まれるあたりまでの筋は割愛してしまい、あるいは回想風に仕立てあげてその事件の背景を説明するかもしれない。現代の読者は我慢してくれない気がするからだ。

しかしドストエフスキーは最初からゆっくりゆっくりとヒョードルや三人の息子、私生児の可能性のあるスメルジャコフの生い立ちを語り始める。特に三男アレクセイの事は力を入れて描いている。ゾシマ長老の事は主としてアレクセイにかかわるのだが、しかしドミトリーの人生を予言したことではドミトリーの運命論的必然性をサポートする役割を担うことになる。

ドストエフスキーはプロローグで自らも書いているように読者の冗長感は予期していたようだ。しかし第二部のためにはどうしても書いておかなければならないと自己弁護している。

村上春樹が「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」で書いていたが現代と比較してのんびりした時代である19世紀の小説のもつ特権かもしれない。現在の読者は途中でギブアップしてしまうと言われるとそうかなとも思う。しかし大作家ならこの反面テクニックも使えるのだ。

女を実に多面的に描く。

アリョーシャやドミトリーの一辺倒な視点ではなく世知にたけた作者の目で悪女と聖女のはざまに女を描くことでリアルな描出に成功している。

ドミトリーを巡るカテリーナとグルーシェニカ、二人の女で、ある種の女の本質を描く。カテリーナが正統美女ならこちらは典型悪女だがどっこいすんなりとは類型化しない。グルーシェニカも同様に悪女に描かれているが、マクシーホフ老人の世話をしたりして優しいところをみせる。

二人の女で嫉妬、プライド、憎しみ、ヒステリーの渾然一体となった愛の本質を描く。不思議な少女リズやイワンとアレクセイの母は神がかりだ。バディ達の描写を並べてみるとドストエフスキーの女性観(偏見だが卓見)もかいま見える気がする。

(カテリーナは)自分がミーチャのところにいったこともすべて話した。…自分から激情にまかせてお金を借りるために何かを期待し、当時、若い将校のもとに駆け付けたことを、恥じることなく明らかにしたのだ。…「カーチャ、どうしてぼくを破滅させたんだ」…あのエピソードさえなかったら、被告にはすくなくとも情状酌量の処置が下されていたに違いないのである。…p479

「あのエピソード」つまり、「自分がミーチャのところにいったこともすべて話した」ことさえなかったら、「被告にはすくなくとも情状酌量の処置が下されていたに違いないのである」

そして今、彼女はまた同じように自分を犠牲にしたのだが、それはもう別の男のためであり、ことによると、彼女は今になって、この瞬間にいたって、そのもう一人の別の男が自分にとってどれほど大切な存在であるかをはじめて感じ、まるごとそれを理解したのかもしれない!p504

ドミトリーからイワンへ心変わりするカテリーナの説明だが、読者にはその過程が今一つよくわからない。だからこそ、作者はもうひとつの長編作品が必要だと考えたのだろう。カテリーナという女は、あっさりドミトリーからイワンに心変わりする不可解な女だと読者は読み飛ばすしかないが、作者はもうひとつの長編作品が必要だと説明を加えることで、この心変わりの説明不足を自覚していたのだろう。

そしてあの時、彼女が、ヒステリックで発作的な愛で自分からミーチャにのめりこんでいったのは、ひとえにプライド、傷ついたプライドのためであって、その愛は、愛と言うよりも、むしろ復讐心に似ていた。…ミーチャが裏切りによって心の奥まで彼女を傷つけたため、その心がもはや許そうとしなかったのである。彼女はミーチャを裏切ったが、自分をも裏切ったのだ。p506

カテリーナとグルーシェニカはいずれも突然変身して相手を裏切る。又ともにヒステリーだ。二人はドミトリーを愛しているのかどうかさえよくわからない。グルーシェニカは当初からかっただけと言い、後にドミトリーが逮捕される場所で初めて彼に愛を感じているが、一時の激情でそう言っているという疑いが読んでいて付きまとう。複数の男を競わせることに喜びを感じる女、もてあそぶことに快楽を覚える女、ライバルであるカテリーナからドミトリーを奪う事で喜びを感じる女、アリョーシャを誘惑して喜ぶ性悪がグルーシェニカなのだが、同時に初恋のポーランド人やパトロンの老人には純情だ。ある種の女の典型を見事に描いている。

カテリーナはドミトリーから受けた借金の屈辱の報復が変形してドミトリーを愛するという極めて屈折した、簡単には理解できない愛の形を見せる。ドミトリーに借金を申込みに行くときはしっかりとした理由に支えられてカモフラージュされているある種の性的期待が潜在していたとみたい。この期待が見事に裏切られて自らの女が傷つけられた。それがドミトリーへの執着となり、愛と錯覚するようになると読める。

ドミトリーの側から見るとカテリーナが部屋にやってきたときには性的な期待が大いにあったのだが、持ち前の高潔さも頭をもたげる。期待と高潔さの微妙なバランスの上に高潔さがほんの少し勝つ。そしてドアを開けて送りだす。性的魅力もあるのだがドミトリーの高潔さをしのぐほどではなかったということに彼女は女としての屈辱を感じる。このあたり女の描き方がうまいではないか。

カテリーナはイワンの愛にこたえるように愛し合うようになる。ドミトリー拘留後はなにかとしっくりしない二人の愛だ。作者はこの二人の関係だけで長編小説ができあがると書いている。この作品のなかだけでは二人の間にどのような魅力的なストーリーが展開されているのかはよくわからない。

カテリーナはドミトリーに対しては自らの屈辱をはらすかのように能動的な愛を示し、イワンに対しては彼の愛にこたえるというエクスキューズで愛する。いずれにしても素直な愛の欠けた女性を描きだす。その彼女が裁判でドミトリーを決定的に追い込むのは納得できる筋書きだ。いずれにしても聖性だけで生きる女はいないということを見抜いての描写であり、実にリアルな表現だ。作者は聖俗合わせて女性を愛しているのだということが伝わってくる。

ホフラコーワ夫人は奇跡や他人の腐敗を好むゴシップの大好きな空気を読めない上流階級の女として描かれている。性的欲求不満を抱えた女としても描かれている。ドミトリーが決死の覚悟で借金を申し込みに来るが、それに対して天然ぼけでドミトリーをはぐらかし、ドミトリーが青筋をたてんばかりにますます必死に借金を申し込み、最後まですれ違う描写はドミトリーにしてみれば恋いに狂って命がけの場面なのだが、その必死さと天然ボケの絶妙の描写に思わず腹を抱えて大笑いしたくなる。作者はさりげなく女性の残酷さをも喜劇としてさしはさんだ。

その娘のリーザはイワンにちょっかいを出してみたり、残虐な話を好んでしたり、アリョーシャをわざと翻弄してみたりと歪んだ性格の小悪魔ぶりを発揮する。このリーザはすぐにヒステリーを起こし、熱を出す。異常な母娘の存在を描いてアリョーシャの女性に対する嗜好を、さらにアリョーシャの善良ぶりの裏にあるものを描きだす。

リーザが部屋の隅にいる悪魔の夢をみるとアリョーシャに言うと、アリョーシャも同じく部屋の隅にいる悪魔の夢を見ると返す。いびつな家庭環境から生まれたそれぞれ性格の異なる男女だが、表向きの性格とは別に心のなかにそれぞれ悪魔がひそみ共鳴しあう。要するに単純な聖女は決して描かないのだ。

イワンとアリョーシャの母親は神がかりであり、スメルジャコフの母も神がかりで精神状態の極めて不安定な女たちだ。ドミトリーの母親は腕力に優れてフョードルを力では圧倒し、父を捨てて若い男と駆け落ちし、餓死する。

(村上春樹の1Q84では天吾の母が男と駆け落ちする)

要するに主な登場人物がすべて風変わりな女で、それでいて、あるいはそれだからこそ普遍的な女を描き出している。これも作者の作法と言える。

作中作品の魅力。イワンの存在意義は創作の挿話でしか描けない。

イワンを単なる無神論者と描いてはこの小説は深みにかけたものになる。この「大審問官」というイワンの創作を挿入することで普遍的な世界的小説に昇華する。この作法を使ったことがこの小説の最高のテクニックだろう。

「大審問官」はイワンがアリョーシャに語って聞かせる彼の創作になる物語だ。舞台は15世紀、スペインに降臨したキリストに対して大審問官は捕えて火あぶりの刑を宣告する。地下牢に一人で現れた大審問官はキリストに向かって、いまだ自由を扱いきれない人間に対し自由を与えることでパンを奪い合い、返って人類を不幸にしたと批判する。

無言で聞いていたキリストは最後に否定も肯定もせずに大審問官にキスをする。自由にすると互いにパンを奪い合って結局は破滅する人間は、奇跡と権威と神秘つまり悪魔の力を借りてコントロールしないと破滅するとキリストにいいつのる大審問官の心のなかに深い苦悩を感じ取り、憐みと共感のキスをする。彼の思想と行為はキリストの思いを否定したものであり、許すことはできないはずであるが、今そこにある大審問官の苦悩を感じ取ることで憐みと癒しのキスと与えると解釈したい。この話が無神論者イワンの口から語られることで深い説得性をもつ。

大審問官を聞き終えたアリョーシャもイワンにキスを与える。つまりアリョーシャさえ説得したのだ。読者は大いに説得される。

イワンは大審問官の苦悩と信念を体現する。イワンはキリスト教が(社会)科学に対して無力となりつつある時代にヨーロッパの人々が持つ神への不信を一身に具現する。それを感じ取ったアリョーシャの憐みとともに大いなる共感のキスでもある。

後にイワンが自らを心のなかでは父殺しだと苦しんでいるのに対してアリョーシャが「あなたではない」と宣言するのはイワンの苦しみに良心の存在を見たからだ。あなたは神の作った世界を認めないというが、物語の中でこの矛盾にみちた世界を超えてなお、神も認めているではないか。だから作中のキリストをして大審問官にキスをさせたのだ。そんな良心つまり隠し持った信仰心をもつあなたには父を殺せるはずがないといいたかったのだ。実に複雑だが実にリアルだ。

作者は神はただ純粋な憐み、良心の中にのみ存在すると言いたげだ。

人間世界の仕組みの矛盾を解決できないキリストをイワンは物語を借りて批判しているのだが、その創作物語のなかで無意識のうちにキリストの憐みのキスのシーンを挿入する。これを聞いたアリョーシャは、イワンが実は信じていることと、大審問官とキリストの間を揺れ動く深い苦悩をしり、共感する。

現実的な効果を信仰に求めても無駄で、ただ他者に対する憐れみと愛があるのみだとするシンプルな原点回帰である。アリョーシャが満点の星と大地に感動する素朴なアニミズム的信仰とも共振する。

クリスチャンではない私にも、ただ憐みが存在すると言うだけで救われるというのは深く理解できる。仏教の慈悲やヒンドゥー、イスラムと置き換えても同じ普遍的感動が得られるに違いない。現世利益には直接結びつかないが、慈悲が遍満していると確信するだけでどれだけの救いがあるか。

小説は人間社会をどうすればよいかに答えを用意しない。「場違いな会合」で神を信ずる社会主義者がその答えであるかのようなつぎの描写もある。

教会が国家になるのか、国家が教会になるのか。ミーソフがかつて聞いたロシア警察幹部からの伝聞として「もっとも恐れなければならないのはキリスト教を信ずる社会主義者」と言わせている。

ロシアの民衆とキリスト信仰に根差さない社会主義は科学で肉が造られ、人々が飢えなくなってもどこか満足が得られないもので、一方、信仰を土台にした社会主義は民衆の支持を得るゆえに恐れなければならないとの考え方が示される。当時の社会情勢から作者が辿りついた考え方なのだろう。

現代に生きる私にはこの考え方には全くついていけないが説得の手法にはうなる。反論が難しいからだ。

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