まさおレポート

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カラマーゾフの兄弟と小説作法1

2020-05-23 | 小説 カラマーゾフの兄弟

バディ小説は人物を多面的に描くから面白い。

私生児であるかもしれないスメルジャコフを合わせると4人の兄弟の関係を描く。これは4人のバディ小説だ。バディ小説の面白さがふんだんに盛り込まれている。しかしバディ小説であるだけではない、以下のようなキリスト教圏では引き付けざるを得ないテーマが見事なテクニックで描かれている。だから面白いのだ。

そして登場人物を対のバディとして表現する。

アリョーシャ、わたしがどんなに激しくて凶暴な女かがね。あなたには洗いざらい話したことになるわ!ミーチャと気晴らしに遊んだのも、あの人のところに行かないためだった。…わたしね、アリョーシャ、この五年間の自分の涙が、ものすごく好きになっていたの…私が愛しているのは、ひょっとするとこの屈辱だけで、あの人のことじゃ、ぜんぜんないかもしれない。p90

グルーシェニカもカテリーナと同様、非常に屈折した愛しかもてない。屈辱を受けることが愛のようなものを生み出す。

ゾシマ長老の決闘と紳士をはさんでの前半生と後半生の対立。ゾシマへの告白をはさんで紳士の殺人事件とその後の心穏やかな死。紳士のふるまいの意外性で語りたいことが浮かび上がる。

厳格な修行方法を巡るゾシマとフェラポイントの対立で作者は原理主義的なものを排したいのかと思うったがどうもそうではない。判断を作者が一切示さない。神は存在するのかしないのか。カテリーナとグルーシェニカどちらがいい女なのか。父フョードルと息子のアリョーシャはどちらが魅力的と作者は考えているのか。単に両論併記が作者の特徴だ。ポリフォニーとは両論併記の別名だ。

バディのマイナスを描くことで一方の聖性を際立てる。

好色でどん欲でどうしようもないフョードルを一見マイナスの人格として描きながら、この男がいなければアリョーシャやゾシマの高潔さが浮かび上がらない。もっと言えばなんの存在感も無いと言うことか。フョードルあってのアリョーシャ、ゾシマといえる。
さらに言えばフョードルは引き立て役などという脇役の存在ではない。人間が生きていくということをあからさまに示すとこういう男になるということか。
ゾシマ長老も若いときは放蕩無頼で後年改心して聖者的になった。これもマイナス時代があってこそ。

キリスト教の後期の聖職者たちの代表者とおぼしき「大審問官」はこともなげに「キリストの再来」を論破する。要約すると「言葉のみでは人類に実際に役に立たないぞ」ということか。大審問官はマイナスの人格の代表格。

バディの一員であるスメルジャコフも単なる邪悪なものではない。

「だれにも罪を着せないため、自分の意思と希望によってみずからを滅ぼす」p399

スメルジャコフは病気ではなく、絶望によって自殺する。三度目の訪問でイワンに盗んだ現金を渡し、その夜に首をくくる。後悔と懺悔?「自分の意思と希望」の「希望」とはなんだろう。この作品最大の謎を残すように見えるが実はうまく言葉にだせないだけで深い理解を読者はしている。

スメルジャコフが言うイワンとフョードルの相似性とは無神論者ということがわかる。つまりこの3人のバディは無神論者なのだ。

こうして見てくると、アリョーシャ=ゾシマ長老による子供時代の思い出、記憶の教育的意義の強調の根底には、家族の絆ばかりではなく、仲間同士の連帯、共有感情、引いては小鳥や植物など自然との交感、他者との関係性における経験的自我の克服を通しての世界の神秘的領域の認識への志向といった複合的なイデーが含まれていて、これが小説の統括的な大主題であると、考えられる。このポジチヴな大主題を、逆説的にネガの形で浮き上がらせるのが、フョードルの主題(カラマーゾフ的淫蕩)であり、イワンの主題(理論的知性のアンチノミー)であり、ドミトリーの主題(ソドムの理想とマドンナの理想の同時受容)であり、スメルジャコフの主題(自己否定+去勢派的禁欲+イワンのアンチテーゼの戯画化)であって、『カラマーゾフの兄弟』というこの長編小説はこれらのネガチブな主題を複合的に構成して、ポジチブな大主題を逆説的論証のスタイルで浮かび上がらせようとするところに成立していると見ることができるだろう。 椎名麟三「ドストエフスキーの作品構成についての瞥見」

(20世紀の哲学者)ウイットゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を50回は通読したらしいが、読み返す毎にアリョーシャはフェードアウトしていったのに、スメルジャコフは違ったという。

「彼は深い。このキャラクターの事を作者は熟知していたのだ」とウイットゲンシュタインは書いている。

スメルジャコフは悪である。しかし長老ゾシマの説くように、なんと悲しい悪であることか 山城むつみ「ドストエフスキー」(講談社、2010)

神と無神論の葛藤を描く。

キリスト教と無神論者、悪あるいは悪魔との葛藤はキリスト教圏では極め付きの面白さだ。

ロシア正教会のゾシマ長老も西洋キリスト教と異なる考えをもち、ロシア正教に対してすら異端的だ。
アリョーシャも一見正統派に描かれているが、ゾシマの死後の腐臭で動揺するほど異端的だ。

なかには、すべては初め、恐ろしい自然現象に対する恐怖の念から生まれたもので、来世も何もないって主張する人もいます。(カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー 亀山訳)

アレクセイの宗教体験、それもゾシマ長老との濃密な関係の中で語られる神との関係を巡る話は最も語りたかった事柄だろうと思う。

ゾシマの腐臭とアレクセイの疑問、大審問官みずから”あれ”の手先であることを明らかにしながら、”あれ”は奇跡を武器にすることを明かす。聖職者や信者が既に奇跡を待ち望んでいることから”あれ”の手に落ちていることを示しているという。”あれ”とは神ではなく悪魔である。

ローマ教会に対する大審問官のもっともな言葉は強烈で説得性をもつが、これに対する反論は、ゾシマ長老の体験に基づく素朴とも言える神信仰のみであるが、作者自身はどちらにくみしているのかよくわからない。これもそれぞれの読者に委ねられているとも思える。

死んだら無があるのみで神の存在も来世もない、完全な終わりだ、だからこそはかない一瞬の大事さが理解されるという無神論が登場する。そしてこの真理を理解した人間はかりそめの法を超越するから「何をしても許される」とのイワンのような考えに至る。

「神が無ければ作り出さなければならない」との説を受け入れ、その前提で神の存在を肯定するが、神の作り出した世界は拒否するという、ひねった神の存在論と底部でつながっている考え方だろう。

つまり自らが「作り出された神」になるといっているように見える。その後イワンは狂うので人は自らが神になると狂うということで帳尻を合わせている。

悪が無くなると世界は終わりを迎えるといった話、あるいは「大審問官」では悪魔の方が人々にとって必要な存在だとする大審問官の声明がでてくる。ゾシマ長老の棺の置かれた部屋にも老修行僧がやってきて悪魔が部屋に一杯いることを告げる。悪魔は甘いものが好きだとして、ゾシマ長老もジャムなどに目がないと責めるところがある。作者はどちらに軍配を上げるといった判断は行っていないようだ。

僕はひょっとして神様を信じていないのかもしれない。p177

神は欠かせないといった考えが、人間のような野蛮で獰猛な生き物のあたまに忍び込んだという点が、実に驚くべきところなのさ。その考えは、どれほど神聖で、それほど感動的で、どれほど賢明で、それほどまで人間に名誉をもたらすものなんだよ。p216

仮に神が存在し、この地球を実際に創造したとしてもだ、おれたちが完全に知りつくしているとおり、神はこの地球をユークリッド幾何学にしたがって創造し、人間の知恵にしても三次元の空間しか理解できないように創造したってことさ・・・そもそも俺の持っているのは、ユークリッド的、地上的頭であって、だからこの世界とかかわりのない問題は解けるはずもない、とな・・・つまり神はあるかないかという問題はな、・・・三次元だけの概念しか与えられずに創られた頭脳には全く似つかわしくないんだ。だからこそ俺は神を受け入れるのさ。p218

俺が受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神によって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで、こいつをうけいれることに同意できないんだ。

世界のフィナーレ、永久調和の瞬間にはすばらしく価値ある何かが起こり、現れてすべての人間の心を満たし、すべての怒りを鎮め、人間の罪や、彼らによって流されたすべての血をあがなう、しかもたんに人間に生じたすべてを許すばかりか、正当化までしてくれる、とな。・・・やがて平行線も交わり、おれ自身がそれをこの目で見て、たしかに交わったと口にしたところで、やはり受け入れない。

別の分では入場券を返すといっている。予定調和的な運命論、宿命論に対する痛烈な批判。この小説の主要テーマのひとつ。

世界のフィナーレ、永久調和の瞬間にはすばらしく価値ある何かが起こり、現れてすべての人間の心を満たし、すべての怒りを鎮め、人間の罪や、彼らによって流されたすべての血をあがなう、しかもたんに人間に生じたすべてを許すばかりか、正当化までしてくれる、とな。・・・やがて平行線も交わり、おれ自身がそれをこの目で見て、たしかに交わったと口にしたところで、やはり受け入れない。

人類は最終的に形が整う。だが、人間のぬきがたい愚かさを考えれば、おそらく今後1千年間は整わないだろうから、すでにもう真理を認識している人間はだれも、新しい原則にしたがって、完全に自分のすきなように身の振り方をきめることが許される。この意味で彼には「すべてがゆるされている」ってわけ。…神の立つところ、そこがすでに神の席ってことだ!p395

イワンの説である「賢い人はすべてがゆるされている」の説明。すべてがゆるされているのも今後1千年間と期間限定、暫定的であることが強調されている。

苦しみは現に存在する,罪人はいない、万物はしごく単純素朴に原因から結果が生まれ、流転し、均衡を保っている。・・・おれに必要なのは復讐なんだよ。・・・無限のかなたじゃなくてこの地上で実現してほしい。・・・おれが苦しんできたのは、自分自身や、自分の悪や苦悩で持って、誰かの未来の調和に肥やしをくれてやるためじゃないんだ。おれは自分の目で見たいんだよ。鹿がライオンのとなりに寝そべったり、切り殺された人間が起き上がって自分を殺した相手とだきあうところをな。・・・調和なんていらない、人類を愛しているから、いらないんだ。それよりか、復讐できない苦しみとともに残っていたい。・・・おれは神を受け付けないんじゃない。・・・その入場券をつつしんで神にお返しするだけなんだ。p243

おまえはすべてを法王にゆだねた。・・・おまえはもうまったくきてくれなくていい、すくなくとも、しかるべきときが来るまでわれわれの邪魔はするな・・・おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。・・・人間というのはもともと反逆者として作られている。だが反逆者ははたして幸せになれるとでもいうのか? p263

大審問官のセリフだが深い深いところでは存在し得ると思わせる。無神論者の光輝ある大演説が聞こえてくる。これがドストエフスキーの凄みだろう。さらに無神論者の大演説は続く。ここまで無神論者を恐れもなく賛美するキリスト信仰者は凄い。だから面白いのだ。

第一の問いを思い出してみろ。・・・おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!p267

こうしてついに自分から悟るのだ。自由と、地上に十分にゆきわたるパンは、両立しがたいものだということを。なぜなら、彼らはたとえ何があろうと、お互い同士わけあうということをしらないからだ!そしてそこで、自分たちがけっして自由たり得ないことも納得するのだ。なぜなら、彼らは非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者なのだから。p269

いっしょにひざまづける相手を見つけるという事が有史以来、各個人のみならず、人類全体のもっとも大きな苦しみだった。普遍的にひざまづける相手を探し求めようとして、彼らはたがいを剣で滅ぼしあってきた。・・・そうなのだ。彼らはどの道、偶像の前にひれ伏さずにはおれない連中なのだ。p271

この地上には三つの力がある。ひとえにこの三つの力だけが、こういう非力な反逆者たちの良心を、彼らの幸せのために打ち負かし、虜にすることができるのだ。そしてこれら三つの力とは、奇跡、神秘、権威なのだ。・・・おまえはしらなかった。人間が奇跡を退けるや、ただちに神おも退けてしまう事をな。・・・そもそも人間は奇跡なしには生きることができないから、自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。例え、自分がどれほど反逆者であり、異端者であり、無神論者であっても。・・・おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。・・・誓ってもいいが、人間というのは、お前が考えているよりもかよわく、卑しく創られているのだ!・・・人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな。p277

奇跡、神秘、権威。ルルドの奇跡とか日本でもさまざまな奇跡と神秘で信者をひきつける宗教団体が山のように。村上春樹が1Q84で描いた麻原風の男を思い描くと当てはまる。

彼らはついに自覚する。自分たちを反逆者に仕立て上げた神は、まぎれもなく自分たちを笑いものにしたかっただけだ、とな。・・・自由というあれほど恐ろしい贈り物を受けいれることができなかったからといって、このか弱い魂のどこが悪いと言うのか?p278

大事なのは、心の自由な決断でも愛でもなく、自分たちの良心にどれだけもとろうと、やみくもに従わなくてはならない神秘だとな。われわれはおまえの偉業を修正し、それを奇跡と神秘と権威の上に築き上げた。・・・われわれはおまえとではなく、あれとともにいるのだ。p281

人類は総じて、いつの世も例外なく、全世界的にまとまることをめざしてきた。偉大な歴史をもつ偉大な民族はいろいろあったが、それらの民族は、偉大になればなるほど不幸せになった。というのも全世界的な人間の統合に対する欲求を、ほかのどの民族よりもつよく意識していたからだ。・・・自由な知恵と、科学と、人肉食という暴虐の時代がこれからも続く。・・・しかしそのとき、われわれのもとに一匹の獣が這いより、われわれの足を舐め、その目から血の涙をしたたらせるのだ。そこでわれわれはその獣にまたがり、高々と杯をさしあげる。そしてその杯にはこう書かれるのだ。「神秘!」と。p283

彼は、無言のままに老審問官にちかづき、血の気の失せた九十歳の人間の唇に、しずかにキスをするんだ。・・・そこで老審問官は、ぎくりとみじろぎをする。p296

ここまで無神論を見事に展開しながら一方でゾシマの次の言葉でバランスをとる。これが凄い。

 わたしは自分のこの地上での人生が、新しい、無限の、知られていない、しかし間近にせまった来世での人生とひとつに触れ合おうとしているのを感じ、その来世の予感から魂は歓喜にふるえ、知恵はかがやき、心は喜びに泣いているのだ。・・・p377

この地上では、多くのものがわたしたちの目から隠されているが、そのかわりに異界との、天上の至高の世界との生きたつながりという、神秘的で密やかな感覚を授かっているのだ。それに、わたしたちの思考と感情の根はここではなく、異界にあるのである。だからこそ哲学者たちも、事物の本質はこの地上では理解できないと語っているのだ。

だれもが、人はいずれ死ぬ身であって、復活はないことを知るので、死を神のように誇り高く、平然と受け入れることになる。人間はその誇り高さゆえに、人生が瞬間であることになんら不満をこぼすことはないし、自分の兄弟を、もはやいっさいの報いなしで愛するようになる。愛が満たすことができるのは人生の刹那でしかないが、愛が刹那にすぎないという自覚ひとつで、その炎は、かつて死後の永遠の愛にたいする期待のなかで広がっていったのと同じくらい、つよく燃え盛るのだ。p393

大事なことは作者がどちらの意見にも判断を差しはさんでいない点で、これが大きな特徴、作法に思える。

子どもの世界を描くことで神と無神論の両極を描く。

子どもの世界を描くことで人の多面性と聖と俗の深淵を描く。これも手法として特筆すべきだ。

ドミトリーの餓鬼子の夢、イワンがアリョーシャに語る幼児虐待の記録(トルコ人の幼児虐待やロシア貴族が犬に子供を食い殺させる話など)子供好きのアリョーシャとコーリャ(線路に寝るなどのエピソード、ガチョウの首を車輪にカットさせるエピソード、ジューチカをベレズボンとして飼いならして死の床にあるイリューシャにようやく再見させる残酷さを持ちながら、社会主義の理想に燃える矛盾した心根をもつ子供)との関係、アリョーシャはリズ(足が悪くあるけない)を慈しむがどこやら屈折した性を感じさせる。それと子供好きが同根のものかと勘繰れないこともない。ゾシマの兄の子供時代(ゾシマの宗教的人生を決定づける人物)、スメルジャコフの子供時代(猫を縛り首にして葬式遊びをする)など多くの子供に関する話が語られる。

ドミトリー、イワン、アリョーシャもそれぞれ生母と早々に死に別れて特殊な子供時代を過ごす。一筋縄ではとらえられない子供の存在と、その子供時代に受けた誤った教育のせいか、あるいはカラマーゾフ的と称する血のせいか判然とさせないままにそれぞれの人格が形成されていく。何が原因と決めつけることをせずに、可能性のあるような素材を矛盾していても平気でそのままに並べるところにドストエフスキーらしさがあるようである。ポリフォニー的と呼ばれるゆえんだろう。

俺にはよくわかるんだ。鞭をくれるたびに性的な快楽、そう、文字通り性的な快楽を覚えるくらい熱くなっていく連中がいることをね。・・・ この場合、迫害者の心をかきたてるのはなんといっても子供という存在の持つ無防備さだし、どこにも逃げ場がない、だれにも頼れない子供の天使みたいな信じやすさだ。そいつがまさに、虐待者の呪われた血を熱くする正体というわけさ。 p236

この子が犬に石をなげ、足にケガをさせたとのことですという報告がなされる。・・・仕置き小屋から子供が連れ出される。・・・「追え!」将軍が命令する。・・・犬どもは、子どものずたずたに食いちぎってしまう!・・・こいつをどうすればいい?・・・銃殺にすべきか?・・・「銃殺にすべきです」・・・「おまえの心のなかにも悪魔のヒヨコがひそんでいるってわけだ、アリョーシャ! ・・・この世には、そのばかなことがあまりに必要なのさ。世界はこのばかなことのうえに立っているし、もしもこのばかなことがなかったら、世界にはきっとなにも起こらないかもしれないんだ。おれたちが知っていることなんて、たかがしれているんだよ!・・・おれは理解しないって決めたんだよ。・・・事実に寄り添っていることに決めたのさ p241

海辺のカフカもカラスという子供を描く。テクニックは受け継がれているのだ。

マイナスを描くことで聖性を際立てる

好色でどん欲でどうしようもないフョードルを一見マイナスの人格として描きながら、この男がいなければアリョーシャやゾシマの高潔さが浮かび上がらない。もっと言えばなんの存在感も無いと言うことか。フョードルあってのアリョーシャ、ゾシマといえる。
さらに言えばフョードルは引き立て役などという脇役の存在ではない。人間が生きていくということをあからさまに示すとこういう男になるということか。
ゾシマ長老も若いときは放蕩無頼で後年改心して聖者的になった。これもマイナス時代があってこそ。

キリスト教の後期の聖職者たちの代表者とおぼしき「大審問官」はこともなげに「キリストの再来」を論破する。要約すると「言葉のみでは人類に実際に役に立たないぞ」ということか。大審問官はマイナスの人格の代表格。

意外なキリスト像の創出

ドストエフスキーは最晩年にそれまで描いたことのないドミートリーを創出した。高潔で直情の人との説明がある。アリョーシャがいい子ちゃんで、イワンは知的な無神論者だがそれに対してドミートリーはワイルドで素直で高潔な男を描いている。ドミートリーはシベリアに島流しに合うが抗らわない。キリストをドミートリーにかぶせる意外性があるので小説が面白くなる。キリスト教圏の人々には無類の面白さだろう。ドストエフスキーの神はドストエフスキーなのだ。

彼の頭上には、静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と、果てしなく広がっていた。天頂から地平線にかけて、いまだいおぼろげな銀河がふたつに分かれていた。

微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝までの眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた。…彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。…あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりした信念をこめて、話したものだった…p109

この作品の中で最も感動的な文章の一つだと思う。

「ドーミトリーを乗せた馬車は、街道をまっしぐらに突き進んで行った。…アリョーシャが地面につっぷし、「有頂天になって永遠に大地を愛すると誓った」のと同じ夜、ことによると同じ時間だったのかもしれない。」

ドーミトリーの聖性に触れたアリョーシャは「確固とした戦士に生まれ変わっていた。…あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と述懐する。

「人間としての嫌悪が耐えがたいほどにつのっていた。ミーチャは我を忘れて、ポケットからやにわに銅の杵を取り出した…。後日ミーチャが自分から語ったように、「あのときは神さまがおれを守ってくれた」p190

今夜ぼくはいろんなことを知ったのです!卑怯者のまま生きることが不可能なだけじゃなく、卑怯者のまま死ぬことも不可能なんだってことを…いいえ、みなさん、死ぬときは誠実でなくちゃいけない。p462

ドミトリーの裁判と冤罪に至る過程をかなりのボリュームを費やして描いている。しかもフィナーレの直前に書きこまれている。作者はこの冤罪を何故そんなに紙数を費やして描きたかったのだろうか。

作者はドミトリーが疑われてもしかたがない状況を執拗に描く。冤罪が自然ななりゆきであるかのようにストーリーを運ぶ。読者は途中までドミトリーがやったのではと思い始める。スメルジャコフのイワンにたいする告白で読者だけは真実をしるが、スメルジャコフはあいまいな遺書を残して不可解な自殺を遂げる。しかもイワンは気が狂ったと周囲にみなされ、彼の証言は疑わしいものとなる。イワンの発狂はそれまでにも周到に準備されているので流れは自然であるが、スメルジャコフがこのタイミングで自殺するというのはドミトリーを冤罪に向かわせる流れとしてかなり強引で不自然な気がしてならない。それまでどこにも自殺をするような人間には描かれていないのだから。

もしもスメルジャコフが自殺しなかったらドミトリーは冤罪とはならなかっただろう。作者はそこまで無理をしてドミトリーの冤罪に説得性を持たせようとする。そうまでして冤罪を語りたかったのはひとえにドミトリーにキリストを見ているからだ。

社会主義的な人物を置くことで逆に神を描く。

ドストエフスキーの時代、無神論者と社会主義は一体と考えられていたようだ。ドストエフスキーは神と社会主義の一体化を理想としていたのか?

コーリャやラキーチン、いずれも癖のある頭でっかちの人物が社会主義を賛美する。

イワンの病気の正体がわかってきた。…彼が信じようとしなかった神と真実が、いまなお屈服をのぞまない彼の心を征服しようとしているのだ。p411

これは作者はかつて社会主義に傾倒していたが、そのご転向した。作者自身の転向に向かう際の苦悩の説明でもある。

「教会が国家になるのではなく、国家が教会になる」との会話がどこかにあった。教会が国家になっても社会的には無力だが、国家つまり社会制度をうまく考えだす信仰をもった人々が国家を運営することが理想につながるのではないかと控えめに述べている。これは作者のたどり着いた究極の考え方だろう。

ドストエフスキーは空想的社会主義者シェフスキーのサークルに接近し1849年逮捕され,死刑執行の直前に特赦と称してシベリア送りになっている。空想的社会主義者を匂わせる修道僧が登場する。 ソ連のドストエフスキー学者グロスマンは「アリョーシャはアレクサンドル二世の暗殺計画に加わり、断頭台に登る」と推理している。

イワンの「大審問官」で 無神論者イワンの「自分は神は認めるが、神の作ったこの世界は認めない」「神がいなければすべては許される」

叙事詩「大審問官」16世紀スペインの異端審問の時代を舞台に、大審問官と復活したキリストが対峙する。大審問官は「人間は自由の重荷に耐えられない生き物であり、自由と引き換えにパンを与えてくれる者に従うのだ」と主張する。大審問官は空想的社会主義でありドストエフスキーを投影しているのだろうか。キリストの無言のキスはドストエフスキーに与えられた慰藉のキスと思われる。

ドストエフスキーはペテロ=パウロ要塞監獄での拘置、裁判と擬似処刑、懲役と兵役で 8 年をシベリアで過ごし空想的社会主義の思想から神、霊魂の不死、自由に関心を持つ思想家になっていた。

アリョーシャはこの時間軸を逆行することでドストエフスキーを投影する。

自由の状態におかれた人間にとって、跪拝の対象を手っ取り早く見つけることほど、わずらわしく厄介な問題はない。しかも人間は、絶対の跪拝対象を、つまり絶対万全で万人がそろってその前に跪拝することに躊躇なく同意するような、そんな相手を探し出そうとする。なんとなればそうした哀れな存在の願うのは、ただ単に自分や他人が跪拝すべき対象を見出すことにとどまらず、万人が信じて跪拝できる対象、なかんずく万人がそろって跪拝できる対象を探し出すことだからだ。この跪拝行為の共通性に対する要求こそ、世の初めから人間が個人としても人類としても、主たる悩みの種としてきたことだ。まさに万民共通の跪拝行為を求めて、人間たちは剣によって互いを滅ぼしてきた。彼らは神々を打ち立てては、互いに宣戦布告したのだ――「お前たちの神々を捨ててわれわれの神々に跪拝せよ。さもなければお前らもお前らの神々ももろともに滅ぼしてやる!」 そしてこの状態が世の終わりまで続くであろう。たとえこの世に神々がなくなろうとも、人間どもは所詮偶像の前に跪くだろうから。人間本性のこうした根本的な神秘をお前は知っていた、いや知らなかったはずはない。しかるにお前は、すべての人間を無条件で自分の前に跪かせるためにお前に進呈された唯一絶対的な旗を、つまり地上のパンという旗印を、自由と天上のパンの名において拒絶してしまった。
見てみろ、その先お前が何をしたか。しかもすべて自由の名においてだ。断っておくが、人間という不幸な存在にとって、持って生まれた自由という賜物を一刻も早くゆだねることができるような、そんな相手を見つけることほどつらい仕事はない。だが人々の自由を支配できる者とは、彼らの良心を安らげてやる者だけだ。パンを手にしさえすれば、お前は絶対の錦の御旗を得るだろう。

イワン・カラマーゾフは、大審問官であり、かつて空想的社会主義者であった頃のドストエフスキーを投影する。

非現実と狂気あるいは予知を描く面白さ。

次男イワンが気持ちの上では「父親殺し」を行ったとスメルジャコフに指摘されて動揺し、精神的におかしくなったときに彼の自宅で幻覚をみる。それの描き方が面白い。何の説明もなく見知らぬ男が部屋に現れて彼と会話を始める。会話と言うより審問といった方がふさわしい。私も含めて読者は一体何か超常現象でも起きたのかと思いながら読むことになる。

非現実を描くことで小説に深みがでる。読者を小説世界に引っ張り込む力を持つ。その後彼は幻覚症を煩っていることになる。

幻覚の中でスメルジャコフの縊死を知る。神秘現象を描いているようにもとれるが医師の診断では幻覚症と診断される。非現実と現実どちらともとれる巧妙な描き方だ。このあたり、村上春樹の小説作法におおいに影響を与えている。「海辺のカフカ」に登場するサンダースが非現実として登場する。

ゾシマは予知能力をもっている。一種の奇跡だがゾシマを謎めいた信仰者に仕立て上げて読者の興味をそそる。

彼女の息子のワーシャはまちがいなく無事生きていますし、間もなく彼女の許に戻ってくるか、手紙を書いてよこします・・・予言は文字通りと言ってよいくらいに的中したのです。p16

ゾシマ長老の予知能力をホフラコーワ夫人が賛美するくだり。

院長の部屋から出ようとしてふとみると、・・・これがなかなかでかい悪魔でな。・・・聖霊の時もあるし、精霊のときもある。・・・ツバメだったり・・・のときもあるな。p27

ゾシマと敵対するフェラポイント神父の述懐。悪魔が見えるというオカルトの世界。

兄を苦しめているのは、一種の錯乱でドミトリーを愛しているからです。・・・間違って愛しているからです。・・・なぜって、自分でそう信じ込ませているからなんです。p90

カテリーナが「一種の錯乱でドミトリーを愛している」という。一種の錯乱の意味が今一つ理解できないが、ゆがんだ愛の形とでも理解しておこうか。次の④が「錯乱」の意味なのだろうか。

カテリーナさん あなたが本当に愛していらっしゃるのは兄貴だけです。それも、屈辱が深くなればなるほどますますね。そこがあなたの錯乱でもあるんです。・・・もしも兄貴がまともな男になったりしたら、あなたはたちまち兄貴を棄て、気持ちもすっかりさめておしまいになるでしょうね。p91

カテリーナ、イワンとアリョーシャの母親、イワンとアリョーシャもヒステリー体質あるいは「つきもの」体質として描かれている。

シベリアに行ったままの息子が帰ってくることを母親に予知するゾシマ長老の予知能力。イワンが部屋で悪魔の化身の紳士と対話するところ。極めつけはゾシマ長老の遺体の腐臭。

イワン、スメルジャコフ、修行僧、コーリャの母親と狂気あるいはそう見える人々が大勢登場する。

「ぼくは、あらゆる終わりと始まりを失くした人生のまぼろしみたいなもの」。

これは村上春樹作品にしばしば登場する「影」と同種の存在。

印象に残るさりげない挿話を描く。

長男ミーシャがカテリーナから借りた金の一部を襟に縫い付けていたことが彼の美学の表れとして重要なポイントになっている。襟に縫い付けるとは現代の感覚からすると異様だ。

俺に言わせると、身近な人間なんてとうてい好きになれない。好きになれるのは遠くにいる人間だけ、ってことになる。・・・人間の顔というのはしばしば、まだ愛することに不慣れな人々にとって妨げになるものだとね。亀山訳p221

ユニバーサルスタジオジャパンで昼食をとったときのこと、近くに若い女性の3人組が座り、それぞれが一言も話すことなくスマホを操作しはじめ、休憩の間、最後までお互いに口を聞かない、これはありふれた光景のひとつになっている。ふとカラマーゾフの兄弟の次のフレーズを思い出した。

「その人はこう言うんです。自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代りいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。と、その人は言うんですな」原卓也訳


「俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。いつか、どこかで『情け深いヨアン』という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人がやってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務感に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信してるよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」原卓也訳

席についた相手よりもスマホで繋がった相手の方が話しやすいし、楽しい、そんな気持ちを正直に表していて、互いにそれを不思議とも失礼とも思っていない。「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」が現実となって眼前に展開している。

 

司馬遼太郎とドストエフスキー、あまりに異なる作風だが作品中には互いに交信しあっているように感じられる一文があった。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では竜馬は以蔵に辻斬りされるがその理由を尋ねると、老父が死んだために江戸から一人で急遽戻ってきたという。竜馬はそれを聞き、

「ぜんぶで五十両ある。おれは幸い、金に不自由のない家に育った。これは天の運だ。天運は人に返さねばならぬという。おれのほうはあとで国もとに頼みさえすればいくらなりとも送ってくれる。このうち半分をもっていけ。」

以蔵は固辞して受け取ろうとしないが辻斬りをやり直そうと言い出すと以蔵が金を受け取る。

以蔵が不快なのではなく、ああいう金の出しかたをした自分が愉快でなかった。(いい気なものだ)あれでは、まるで恵んでやったようなものではないか。こちらがああいう与えかたをすれば、以蔵でなくても、当然、犬が食物を恵まれたような態度をとるしかない。(金とは、むずかしいものだ)正直なところ、うまれてこのかた金に不自由したことのない竜馬にとって、これは強烈な経験だった。あれだけの金で大の男が犬のように平つくばるとは、はじめ考えてもいなかった。(1巻P60)

司馬遼太郎は「金とは、むずかしいものだ」と竜馬に自らの行為に不快感を覚えさせ反省をさせている。

「カラマゾフの兄弟」でドストエフスキーはアリョーシャが困窮するスネギリョフに金を施そうとして拒絶される場面を描く。

「もしわたくしがこの金を受け取りましたら卑屈な人間にならないでございましょうか?」「自分の名誉を金で売りません」米川正夫訳p124とスネギリョフは金を拒絶する。

以下はアリョーシャとリズの会話だがなんとよく似通っていることか。

「あたし達の考えの中に・・・あの不仕合せな人を見下げたようなところはないかしら・・・だって、あの人の心をまるで高い所から見おろすような工合いにして、いろいろ解剖したじゃなくって、え?

この場合、どうして見下げたような所なんかあり得るでしょう。僕ら自身あの人と同じような人間じゃありませんか。世間の人はみんなあの人と同じような人間じゃありませんか。ええ、僕等だってあの人と同じことです、決して優れたところはありません。よし仮りに優れたところがあるとしても、あの人の境遇に立ったら、あの人と同じようになってしまいます。・・・僕自身はいろんな点で、浅薄な心をもっていると思います。ところが、あの人の心は決して浅薄などころじゃない、かえってとても優しいところがあります・・・いいえ、リーズ、あの人を見下げるなんてことは少しもありません!実はね、リーズ、長老さまが一度こうおっしゃったことがあります、人間てものは子供のように、しじゅう気をつけて世話をしてやらなければならない。またある者にいたっては、病院に寝ている患者のように看護してやる必要があるって・・・」米川正夫訳p126

アリョーシャは自分の心にやましいところはないので反省はしない。しかし「あの人の境遇に立ったら、あの人と同じようになってしまいます。」と拒絶に共感を覚えている。

数学的な証明が作者はお好き。

数学的な証明が作者は好きなようで、ドミトリーが居酒屋で書いた父親殺しの声明文をさして、ドミトリー犯行説の「数学的な証明」だという。平行線が交わらないとするユークリッド幾何学の話が、人間の理解力の限界の例として使われる。「この程度の理解力しか与えられていない人間は神の存在論など元来理解できない、だから俺は神の存在を認める」とするこれまたひねりのある神の存在論を主張するイワンの説明の中に出てくる。

「不定方程式」、「ユークリッド幾何学」を作品にしばしば登場させる。

⑨きみはやっぱり、ぼくらのいまの地球の事ばかり考えているんですね!だって、もしかしたら、いまの地球自体、もう十億回も繰り返されているのかもしれないんですよ。…この発展過程が、ひょっとしたらすでに無限回繰り返されてきたかもしれないんです。なにもかも、寸分たがわず、まるきり同じかたちでですよ。こいつはちょっとやりきれないぐらい、退屈きわまる話じゃないですか p380

なにやらビッグバン理論に通じる風な考え方。 20世紀初頭では天文学者も宇宙は定常的なものだと考えていたので驚くべき直感力。

パラレル手法で引き込む。

パラレル手法が時間進行を担う。この小説を読みながらテレビ映画「24」を思い起こした。米国テレビドラマ「24」は一話を24時間に限り、その中でのパラレルな出来事をスリリングに描くが、この長大な1000ページに及ぶ物語はエピローグは例外として、3日の間の出来事だという。そのために時間的展開が濃密で、必然的に同時刻に別の人物が別の物語を進める。その間に今で言うところの共時性を描きたかったのだろうか。いずれにしても緊張感がおのずから高まる仕組みになっている。

呪われた一族の物語は人の興味を引く。

カラマーゾフ家の父フョードルは殺され、三兄弟の二人までが不幸な結末を迎え、三男アリョーシャのみが未来に向かって人生を歩みだす雰囲気をかもし出して物語りは終わる。長男ミーチャは父殺しの冤罪でシベリア送りに、次男イワンは頭が狂ってしまう。ひょっとして兄弟かもしれないスメルジャコフは首をくくって自殺する。まさに呪われた一族の物語なのだ。

作者ドストエフスキーはこの後編小説を準備していたのだが、果たせずに亡くなった。作者は無事に残ったアリョーシャにどんな役割を担わせる構想であったのか。どうも神を信じる革命家としてアリョーシャが皇帝暗殺を企て失敗して牢獄に繋がれるというのが大方の推理らしい。するとアリョーシャのみが未来に向かって人生を歩みだす雰囲気をかもし出しながら、実は悲惨な結末を迎えたかもしれない。

しかしそれでは作者ドストエフスキーがこの物語の最初で、アリョーシャを主人公にした理由が追々わかってくると読者に宣言していることと結びつかない気がする。神を信じる革命家としてアリョーシャが皇帝暗殺を企て失敗し、その後で再びゾシマのように教会に復帰し、人々を導くという筋がしっくりとくる気がする。

そして俗物の権化であると同時に俗物の魅力にも溢れた父フョードルはアリョーシャの思い出の中で復権するかもしれないと妄想してみるのも楽しい。うまいものと酒、甘いものが大好きでおまけにどんな女でも愛する(セックスする)ことができるという超がつく女好きの無神論者フョードルが一人もいない社会、棲息を許されない世の中なんてつまらないと思うからだ。

こんなことを思うのは実は具体的な記憶と結びつくからだ。今から35年ほど前にシンガポールを訪れたが、ホテルで見たテレビ放送の印象が忘れられない、修道院向けの放送かと錯覚するほど面白みに欠けたクソマジメな番組ばかりで、こりゃかなわんなと思った。つまりフョードルがいない社会はこの当時のクソマジメな番組ばかりの放送のようなもので、面白くないことを通り越して恐怖さえ感じた。(もちろん最近のシンガポールはそのころから大いに変貌しているが)

カラマーゾフ家の父フョードルは実はこの作品の全体を艶やかにする触媒であり、三兄弟を輝かせる光であり、大審問官に匹敵するなくてはならない人物なのだ。そして作家フョードル・ドストエフスキーの内面の分身なのだ。これがカラマゾフ家の父をフョードルと名付けた理由でもあるのではないか。

絶望の中で救済者に出会う物語は面白い。

夏目漱石の「坑夫」は青年が絶望の中で安さんという救済者に出会う。

「自分がその時この坑夫の言葉を聞いて、第一に驚いたのは、彼の教育である。教育から生ずる、上品な感情である。見識である。熱誠である。最後に彼の使った漢語である。――彼れは坑夫などの夢にも知りようはずがない漢語を安々と、あたかも家庭の間で昨日まで常住坐臥使っていたかのごとく、使った。…おれは山中組にいる。山中組へ来て安さんと聞きゃあすぐ分る。尋ねて来るが好い。旅費はどうでも都合してやる」坑夫

「日本人なら、日本のためになるような職業についたらよかろう。学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ。だから早く帰るがよかろう。東京なら東京へ帰るさ。そうして正当な――君に適当な――日本の損にならないような事をやるさ。何と云ってもここはいけない。旅費がなければ、おれが出してやる。だから帰れ。分ったろう。おれは山中組にいる。山中組へ来て安さんと聞きゃあすぐ分る。尋ねて来るが好い。旅費はどうでも都合してやる」坑夫

これは「坑夫」の最後の文章である。この安さんはゾシマ長老と重なる。

「自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。――自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。」坑夫

ミステリーの手法は読者をひきつける。
一般的な読者がだれでも「ろくでもない父親」、殺されてもしょうがないほどくだらない父親だと感じるヒョードルが殺される。この犯人は作者の書き方では当初あたかもドミトリ―ではないかと思わせるが、ドミトリー本人が否定することで読者は一体だれが殺害したのかと思う。可能性はグリゴリーかスメルジャコフだが、どちらも殺人直後のながれからは読者にはピンとこない。

ドストエフスキーはドミトリーの犯行が疑われるような話をこれでもかと積み上げて世間と検察がドミトリー犯行説を確証するように持っていく。
ドミトリーは容疑者として拘置されるが裁判の前にスメルジャコフが自殺する。これも読者にはよくわからない自殺で、読者はスメルジャコフが自殺の前日にイワンに自らの犯行を自白することでようやく犯人を知ることになる。

しかし何故ここまで巧妙な仕掛けを作ったほどの男が、嫌疑がかかったわけでもないのに自殺するのか、読者には判然としない。「だれにも迷惑をかけないために」との極めてあいまいな解釈の余地がいくらでもある遺書を残して死ぬ。検事が「なぜ、私がやった。今拘置されている容疑者ドミトリーではない」と書かなかったのかとスメルジャコフ犯行を否定するがさもありなんだ。読者は釈然としないまま、スメルジャコフ犯行で一応犯人探しは終わる。

スメルジャコフの母スメルジャチフを腹ましたのはグリゴーリーではないかと読者に示唆を与え、結論は何も言わない。これもミステリーの手法だろう。

スメルジャコフがイワンに述べるように去勢馬のような頑固者グリゴーリーの単なる勘違いと読み取るにしても、作者はなんらかの意図をもって勘違いをさせている。うそをつくにしても勘違いをするにしても作者ははっきりとした意図をもっている。

弁護士フェチコビッチはグリゴーリーが当時西暦何年かもしらぬ無知な男だと証明するが、さりとてそのことが裁判での彼の証言の信憑性に陪審員をして疑問を抱かせることに成功したとしても、グリゴーリーがフョードルの家のドアが開いていたとなぜ証言したかの説明にはならない。

①グリゴーリーがドミトリーを憎むあまり犯人にしたかった、あるいは②スメルジャコフ犯行をなぜか隠したかった、いずれの妥当性も作者は明示していない。①の根拠としてはグリゴーリーはドミトリーの母親を毛嫌いしていたことが作中に示されている。それとてドアがあいていたとしてドミトリーを陥れようと考えることとはちょっと無理がある。

②の根拠としては「女好きな人々」の章でグリゴーリーとスメルジャコフのなれそめ(グリゴーリーの部屋の近くの風呂で産み落とされる)を述べている事で、しかしそこで読者はくそまじめなグリゴーリーが「女好き」だとは非常に違和感を持つと思うが、作者はくそまじめな人間として描いているグリゴーリーの女好きな一面を章題で暗示したかったと考えるのが自然だろう。もしかしてスメルジャコフの母スメルジャチフを腹ましたのはグリゴーリーということを章題で暗示しているのか。そうするとスメルジャコフは世間で言われているようなフョードルの子ではなく彼の子どもという事になる。

作者はあくまで決定的な説明は避けて、フョードルの息子だと世間が噂しているが本人は面白がっていると述べるレベルでとどめている。しかしフョードルがスメルジャコフの父だとの自覚があるのなら、いくらなんでもスメルジャコフを下男やコックにしてみじめな状態にしておくわけはない。フョードルが自らが腹ましたのならその自覚が当然あり、なんらかの気遣いを見せるはずだが、作中ではフョードルはグリゴーリーの折檻をやめさせたとあるだけで、折檻に対して激しく怒ったとかの記述はない。グリゴーリーもフョードルの子かもしれないのであれば激しい折檻は流石にしない。スメルジャコフがグリゴーリーの子であれば折檻を行っても不思議はない。

もうひとつ、どうとでもとれそうな記述がある。グリゴーリーの妻はスメルジャコフを赤ん坊の時から無条件に可愛がってくれたとある。スメルジャコフは猫を殺して葬儀ごっこをやるような可愛げのない子供でだれからも可愛がられそうもない、通常であれば妻も無関心なのが相場であるが、グリゴーリーの妻は彼を親身に可愛がる。なんらかの理由があるはずでスメルジャコフがグリゴーリーの子どもであるとすると納得もできる。いや、かえって憎むのが自然であるとの意見もありで、いずれにしても夫の子であれば無関心だけは有り得ない。

イワンがスメルジャコフの部屋を訪れるとテーブルの上にグリゴーリーが愛読したイサク云々の書物が置いてあったと書かれている。無神論者スメルジャコフがこの書物を読んだというのも謎であるが、グリゴーリーと同じ書物を読んでいたことで作者は二人のただならぬ関係を示したかったに違いない。

そうするとグリゴーリーは実の息子スメルジャコフをかばうためにドアが開いていたと嘘の供述をしたというのが俄然納得できることになるが果たしてどんなもんだろう。

法廷劇はポリフォニーの極致。

裁判の場面は1000 ページにも及ぶ小説原本のほぼ100 ページを占める、つまり10%のページを法廷シーンに当てていることになる。作者は検事の目を借りてこの家族の光景に、ロシアの知識階級に共通するいくつかの基本的な要素「母なるロシア」「唯物論的なヨーロッパ主義」「民衆原理」を抽出してこの作品の主題を束ねにかかる。

ドミトリーの公判が始まり弁護士フェチュコーウィチと検事イッポリートは論戦を展開する。召喚される証人たちの証言は一進一退を繰り返す。裁判は深夜まで続けられ陪審員がドミトリーに有罪判決を下した。

検事イッポリートは「おれはロシアの神を愛しているんだ」というドミトリーを「母なるロシア」の聖の象徴、イワンは「ヨーロッパ伝来のキリスト教、聖とそのアンティテーゼとしての唯物論、俗を併せ持つヨーロッパ主義」の象徴、アリョーシャは「民衆原理」の象徴だと言う。スメルジャコフは俗な「唯物論的なヨーロッパ文明」でフョードルは俗な「母なるロシア」というところか。

スメルジャコフはイワンの「ヨーロッパ伝来のキリスト教」は理解できず「唯物論的なヨーロッパ文明」のみに傾倒する、このため「母なるロシア」の俗の体現者フョードルを殺し、聖の「母なるロシア」体現者ドミトリーを有罪にする。

俗な「唯物論的なヨーロッパ文明」はフョードルを殺し、イワンを狂わせる。この構図はなにやらプーチンとトランプの今日を予言している。

現代の裁判における事実認定は民事でも刑事でも証拠によって行われ、人の話を証拠として用いるには証人尋問が行われる。そして証明したい事実に辿りつくまで証明しようとする側からの主尋問と証明させまいとする側からの反対尋問での弾劾が交差する。ドミートリの弁護人フェチュコーウィチ弁護士と検事イッポリートの論戦は現代日本の裁判でも変わらない。

ドミトリーが容疑者として逮捕されてから20年のシベリア送りという判決が出るまでは冤罪を巡る法廷劇として楽しめる。多くの決定的ではないが陪審員の心証を固めるの十分すぎるほどの例をだされると現代でも冤罪の可能性は極めて高まる。犯人探しについで、現在でも十分通じる冤罪の恐怖を描いて読者の興味をつないでいく。一体判決はどのようにでるのだろうか。優秀な弁護士に対して生涯をかけた法定論争に命をかける検事との対決は読者も陪審員として出席したならば有罪か無罪かの判断に苦しむにちがいない。

この法定での双方の論告や証言は、これまでの筋の異なった視点(検事と弁護士)からの解説にもなっていて、読者の判断次第ではどちらの意見にも組しうるような展開になっている。多面的な見方、ポリフォニー的視線の真骨頂がこの法廷論争と言える。

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