時給850円のアルバイトから気がつけば取締役になった僕が伝えたいこと

アルバイトから出発し正社員、管理職、取締役と昇ってしまい、ついには代表取締役まで。そんな僕の思考、想いを綴る

沼津のコンビナート反対運動について

2011-08-05 | 日記(~2013年)
昨年秋から僕の会社で、社内報を発行し始めた。3ヶ月に1回程度の発行間隔で、
先週第4号を発行した。社内報といっても実の目的は社外へのPR活動なのだが。
WEBではなく、あえて紙媒体にしている。
今回の僕の原稿をここに掲載してみる。僕の郷里の沼津の
石油コンビナート反対運動について書いた。

「生まれてから最初の記憶と石油コンビナート反対運動」

 先日ふと思った。僕が生まれてから憶えている最初の 記憶について。それは「石油化学コンビナート建設反対のデモ行進に祖母と参加した」という思い出。調べてみたら1964年9月13日のことで、僕は2歳4ヶ月。そんな小さい時の記憶が残っているのか自分でも疑問であるのだが、実際のところ、断片ではあるがハッキリ憶 えているのだ。
  今も両親が住む、僕の郷里は静岡県沼津市。以前、皇室の御用邸があり(今は記念公園として残っている)奥駿河湾に位置する海岸と松林の風 景が今でも広がっている。

  日本初の石油化学コンビナートが三重県四日市で稼動した2年後の1963年に、国と静岡県がコンビナート建設計画案を突如発表した。この時、既に四日市での大気汚染、喘息被害は公害とし て問題になっていた。
  計画案は四日市の規模を上回る石油精製施設および火力発電所の建設であった。
この計画に対し、近隣市町村の住民も立ち上がっての反対運動がわきあがった。
そして、結果として住民による反対運動が実を結び建設計画が中止となったのだ。

  僕は今、資料によってしかこの闘争を知らないが、隣の三島市にある国立遺伝学研究所の研究者、地元県立高校の理科の先生や医師達が中心と なって科学的根拠を調査、提示したことが大きな役割を果たしたようだ。
  あらためて、僕はこの住民反対運動を「スゴイ」と思う。もう50年近く前の話ではあるが、この事実を誇りに思う。