詩123篇
単数形「わたし」の祈り(1節)から複数形「わたしたち」(2、4節)へと移行している公的礼拝での讃歌である。
1~2節 希望の日
「天に座す方よ、あなたに向かってわたしは両目を上げます」(1節)。「天にいます方よ」 新改訳「天の御座に着いておられる方よ」。神の超越性と普遍性を表し、捕囚以降の呼び掛け。エズラ5章12節、6章9節、ネヘミヤ1章4~5節see
「見よ、しもべ達が主人の手に目を向けるように、下女が女主人の手に目を向けるように、わたしたちの目は主なる神に向けます」(2節)。男女の奴隷が良き物を享受するため、もっぱら主人の手に期待している同じ思いを、主なる神に向けている。岩波訳「われらの目はわれらの神に向う」。神の御手が伸ばされことを待望する。これはSingle heartのこと。
3~4節 憐れみの嘆願
「わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。なぜならわたし達は多くの侮りで満腹です」(3節直訳)。2節から「憐み」が三回繰り返される。
「長い間、わたしたちの魂は、勝手気侭な者らの嘲笑と、奢った圧制者らの侮りで満腹の有り様です」(4節直訳)。「満腹する」サヴェアーは、新共同訳「飽かされています」口語訳「満ち溢れています」新改訳「もう一杯です」。腹は食欲や感情の座を表す。ここでは嘲りで一杯であるという意味。新共同訳「平然と生きる」ハシャアナニームは、「安全な~」「勝手気侭な~」「安心した~」で、口語訳「思い煩いのない者」岩波訳「憂い無き者」としている。
本篇は「オクルス・スペランス(希望の目)」と呼ばれてきた。
神への謙虚な信頼の眼差しのもとで「主よ、憐れみたまえ」と祈るだけが、軽蔑や嘲りの暗さを照らす唯一の光である。このSingle heart、心の集中性を持つ者となりたい。
【写真 東京駅前・丸ビル】
単数形「わたし」の祈り(1節)から複数形「わたしたち」(2、4節)へと移行している公的礼拝での讃歌である。
1~2節 希望の日
「天に座す方よ、あなたに向かってわたしは両目を上げます」(1節)。「天にいます方よ」 新改訳「天の御座に着いておられる方よ」。神の超越性と普遍性を表し、捕囚以降の呼び掛け。エズラ5章12節、6章9節、ネヘミヤ1章4~5節see
「見よ、しもべ達が主人の手に目を向けるように、下女が女主人の手に目を向けるように、わたしたちの目は主なる神に向けます」(2節)。男女の奴隷が良き物を享受するため、もっぱら主人の手に期待している同じ思いを、主なる神に向けている。岩波訳「われらの目はわれらの神に向う」。神の御手が伸ばされことを待望する。これはSingle heartのこと。
3~4節 憐れみの嘆願
「わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。なぜならわたし達は多くの侮りで満腹です」(3節直訳)。2節から「憐み」が三回繰り返される。
「長い間、わたしたちの魂は、勝手気侭な者らの嘲笑と、奢った圧制者らの侮りで満腹の有り様です」(4節直訳)。「満腹する」サヴェアーは、新共同訳「飽かされています」口語訳「満ち溢れています」新改訳「もう一杯です」。腹は食欲や感情の座を表す。ここでは嘲りで一杯であるという意味。新共同訳「平然と生きる」ハシャアナニームは、「安全な~」「勝手気侭な~」「安心した~」で、口語訳「思い煩いのない者」岩波訳「憂い無き者」としている。
本篇は「オクルス・スペランス(希望の目)」と呼ばれてきた。
神への謙虚な信頼の眼差しのもとで「主よ、憐れみたまえ」と祈るだけが、軽蔑や嘲りの暗さを照らす唯一の光である。このSingle heart、心の集中性を持つ者となりたい。
【写真 東京駅前・丸ビル】