日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

敗戦

2008-03-16 | Weblog
   サムエル記上4章  これは6章まで続く神の箱の物語りで、サムエルの名は出てこない。
  1節「サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ」ということは、神の箱の出来事を通して、預言がなされたといえよう。つまり2章34節、3章11節に示されたことが実現するのである。

 対ペリシテ戦で敗北したイスラエルは、神の箱をシロから戦場に持ち運んで再度戦いに挑むが、その様子を聞いたペリシテ軍の方が逆に一層士気があがり、歩兵三万人と箱の側にいたエリの二人の息子も殺された(3~11節)。
   「ぺリシテ人よ、雄々しく男らしくあれ。…男らしく戦え」(9節)の台詞はまるでイスラエルの神が告げているようだ。
   神の箱が奪われたという敗戦の知らせ(bad news)はエリ一族の悲劇となった(18~21節)。

  敗北と悲劇の原因は戦力の相違ではない。ペリシテ側には確かにペリシテの職業軍人と強固な戦力を保持していたが、神の箱が奪われるという宗教的信仰的な事柄であることを思い知らされる出来事である。
  「栄光はイスラエルを去った」との言葉がそれを示す(21節)。

   神の箱を担ぎ出すのではなく(3節)、「主の御声に聞き従う」ことこそ求められているのである(15章22節)。
 かつて日本も天皇を神に祭り上げて戦勝祈願をした。敗戦の教訓を知るべきだ。

神の召命

2008-03-15 | Weblog
   サムエル上3章 主の呼び掛けに応える少年サムエルである。
   サムエルは祭司エリのもとで主に仕えていたという(1節)。その生活の一場面が2~3節である。エリは自分の家だが、サムエルは神の箱のある神殿で休んでいた。二人は対照的でる。
   しかし「主の言葉が臨むことは少ない」中での生活だが、神の灯火は消えていなかったという(直接は夜明け前の意味だが)。イスラエル共同体に新しい預言者の時代がくるのを予想させる。それが3章の中心命題である。

  三度の呼び掛ける声でエリとサムエルは「主の言葉」であることを知る(4~10節)。口語訳では「サムエルよ、サムエルよ」と訳す。強調する呼び掛けで、パウロが聞いた時も「サウロ、サウロ」(使徒言行録9章4節)。
  神の言葉の啓示は、人の呼び掛けと異なることを知りたい。

  彼は「しもべは聞きます。お話しください」(口語訳)と応える。この時の少年サムエルの聖画がある。
  教会教育の原点がここに示される。12歳はユダヤ教では現代でもバル・ミツワー(成人式)が行われ、律法の義務を負うという。
  ミッション・スクールでは、中高生の教育の見直しが求められている。今日のキリスト教会の盲点かもしれない。

   

環境に支配されない

2008-03-14 | Weblog
   サムエル記上2章 前半ハンナの祈り(1~10節)と、祭司エリの許で成長する幼児サムエル(11~36節)。
   ハンナの祈りは神への賛歌である。それは「わたしの心は喜び…御救いを喜び祝う」ものである。マリア賛歌(ルカ1章47~56節)の下敷きになっていると言われるが、それは2節、4~5節、7~8節が似ているからだ。
  この祈りはハンナ個人でなく、イスラエル全体を視野にしている。
  3節「主は何事も知っておられる神」で公平だという。
  そこで、人間の判断を逆転させることが起きる。力(4節)、食料と出産(5節)、死と命(6節)、貧富と誉れ(7節)、主の慈しみと審判(9~10節)。

  11節から幼児サムエルは祭司エリの下で成長する。祭司職の幼少教育を受けることになる。しかしその環境は甚だしく悪い。
  祭司の下働きは規定を破る違反行為をする(13~17節)。二人の息子の不倫の罪は噂になって老いたエリの耳にまで広まり、諭しを聞かない(22~24節)。神の人がエリに警告し、神の審判を告げる(27~36節)。これはハンナの祈りに示された、神による逆転である(4~10節see)。
  この劣悪な環境にも関わらず、21節、26節からサムエルが守られていることが判る。
  またやがて彼は主の忠実な祭司となり、イスラエル王任職で油を注ぐことが約束されている(10節、35~36節)。

  環境に支配されない人間形成は容易ではない(ローマ12章2節)。
  




  

ハンナの祈り

2008-03-13 | Weblog
  サムエル記上1章 サムエル誕生の記事
  夫エルカナに二人の妻があり(2節)、愛されているハンナが不妊だったのは、ヤコブ物語を思い起こさせる(創世記29章31節以下see)。
  「彼女を敵と見るベナニは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた」(6節)とある。ベナニの自負とハンナに対する敵意と軽蔑の心情が伺える。
  ハンナの心は夫の慰めの言葉でも癒されなかった(8節)。
  彼女の切なる涙の祈り(10節)、身を焦がし続ける程の黙祷(12-13節)、心を注ぎ出す願い(15節)が示される。
  ハンナの誓願はわが子を捧げる(ナジル人=民数記6章)ことで、これを神が受入れると祭司エリは告げ、確信を得た(17~18節)。

  その確信は平安を与え、夫との信頼関係は回復し、願いは聴かれ、そして生まれた子をサムエル(その名は神)と名付けた(18~20節)。
  三年後、乳離れしたサムエルをシロの神殿に連れて行き、誓願の通り主にゆだねた(28節)。

  ここから詩62篇2-3、8-9節が示され、キリスト者にとっては祈りの模範となる。
  


神の計画

2008-03-12 | Weblog
   ルツ記4章 物語りの終盤である。12節以下のダビダの系図はエピローグ。
   1節「折りよく」は、人間の計画の背後に神の手が働いている言葉。 
  ボアズは町の門の広場で、10人の長老を呼んできて親族で第1にゴーエールとなるべきこの人物と法的責任の説明をする(3~4節)。名前は伏せられている。
  土地を買い取るという責任は果たせるが、そこで未亡人ナオミの嗣業地を絶やさない義務(レビラート婚=ここではルツを娶る)は負い切れないと拒んだ(4~6節)。
 不動産譲渡の認証方法は履物を脱いで手渡すというものだったことが記される(7~9節)。
 公の手続き終了し、ボアズはゴーエールの責任を果たし、ルツとの約束(3章13節)通り妻に迎えた(10~12節)。
  12節「主が身ごもらせたのでルツは男の子を産んだ」。
  神の計画の実現である。

  ここでナオミはルツの産んだ乳児を自分のふところに抱き上げて、我が子として扱っているが、そこにはモアブの娘の子ではないと人々に示そうとしたのかも知れない。然し、事実は消されない。

 ダビデの家系に組み込まれ、イエスの系図でその名は記される(マタイ5章)。
   

 写真(台湾新幹線 台北桃園~高尾左営)

    

責任を負う

2008-03-11 | Weblog
 ルツ記3章 既に2章20節でボアズがゴーエール(家を絶やさないようにする責任ある人物)でることを、姑ナオミはルツに示していた。
 そこで「わたしの娘」(1、18節)と呼んで、いささか強引に性的関係を結んで婚約することを求めている(1~4節)。
 この様な方法や行動が日常生活で是認されていたかどうか判らないが、旧約時代には血統を絶やさない思想は、創世記38章ユダとタマル物語、申命記25章5~10節など、他にも出ている。
 ルツは、姑の要求を受け入れた。それはモアブの女(民数記25章以下see)だからではない。
 麦打ち場で食事をし、酔って寝込んだボアズの処にルツは忍び込み、目覚めた時に「家を絶やさぬ責任」を訴えた(9節)。
ボアズはルツをふしだらな女とは見ないで、姑に示した「真心」を評価し(10節)、そのゴーエールの責任に応える約束をした(12~13節)。
彼がルツに対して、夜明け前人目につかない内に姑の家に 肩掛け一杯に麦を持たせて帰らせたことも温情が感じられる(14~15節)。

ルツの真心は1章16~17節で既に示されていた。これは鳩のような素直さといえるであろう(マタイ10章16節)。

神による出会い

2008-03-10 | Weblog
    ルツ記2章 ナオミとルツがベツレヘムに帰国したのは、大麦の収穫時(1章32節)だった。
  ルツは自発的に落穂拾いを申し出ている(2節)。そしてその麦畑がナオミの亡夫エリメレクの一族ボアズの所有する畑地だったとある(3節)。それは「たまたま」(口語訳「はからずも」)とあるが、そうではない。
  そこでボアズとの出会いが起きたのであり、そこに神の奇しき御手が働いた。神は時と場所と人物を備えられた。

  ボアズはルツのベツレヘムに来たことを主がその御翼のもとに逃れてきたと告げている(12節)。彼はルツに厚意を示し夕方、彼女が家に持ち帰った大麦は1エファ(二三リットル)という大量だった。
 ナオミは詳細を聞いて、ボアズが「家を絶やさない責任のある人」(ヘブライ語ゴーエール=買い戻す、贖い)だと告げている(20節)。この規定はレビ記25章23~25節にある。

 この時から「モアブの娘ルツ」(2、6、21節)は、「ナオミの嫁ルツ」と呼ばれることになる(22節)。
  このことから3章以下の大きな展開になっていく。

  ルツとボアズとの結婚(ゴーエール婚)は、神が結び合わせた出会いである(マタイ19章5~6節)。

あなたの神はわたしの神

2008-03-09 | Weblog
   ルツ記1章 1-7節はルツ物語のプロローグである。
   登場する人物名の意味が調べて判る。エリメレク(わが神は王)、ナオミ(快い)、マロン(病)、キルヨン(衰弱)、オルパ(雌鹿)、ルツ(友情)。
   飢饉を逃れてモアブに避難したが(1節)、夫と二人の息子に死別したナオミは郷里ベツレヘムが主の顧みで飢饉が去ったことを聞き帰国することになる(7節)。
   死海の東モアブはかつて性的邪悪と偶像礼拝(民数記25章)の異邦の地で、士師記3章12-14節では18年敵対関係であった。然し時代が変わり交通の往来があったようだ。

  ナオミはベツレヘム帰途、二人の嫁にモアブに残るよう説得するが、ルツは姑に縋って同行を願っている(8-15節)。それはナオミやオルパとは反対で、ルツは自国での平穏な生活を願わなかった。
  人生の再出発にどう決断するか、岐路に立っている。まるでアブラハムが召命を受けた時のようだ(創世記12章)。

 ルツの態度表明(16-17節)によって、神の救済史の要に置かれる女性となる。
 「わたしは、あなたの行かれる所に行き
  お泊まりになる所に泊まります。
  あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。
  あなたの亡くなる所でわたしも死に
  そこに葬られたいのです。
  死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
これは神への誓約であり、ナオミの家系に加入すること。これは2章以下に展開する物語の伏線になる。
  特に「あなたの神はわたしの神」とはイスラエル共同体に帰属する信仰告白である。

  ルツ記から神の選びを読み取ることが出来る(ヨハネ15章16節)。


  
   

戦いの報い

2008-03-08 | Weblog
   士師記21章 対ベニアミン戦に勝利した結果が出ている。
   ここで問題の発端はミズパの誓いである(1節)。これは5節の内容をも持つものだった。
   イスラエル各部族はベテルに帰り祭壇に犠牲を献げて神に訴えたが、これは本末転倒。その要因は20章48節の殲滅という軽率な判断であり、戦いの報いである。
   苦肉の策は、ミズパの誓いに加わらなかった民を調べることで、ギレアドのヤベシュの住民が浮び上がり、この町を攻撃し処女400人を虜にしてシロに連れて
来た。ここでも非戦闘員を殲滅するという非情な方法をとる(6-12節)。
 シロでベニアミンと和睦し、12部族の存続が一応実現するが、尚不足している200人は、祭で踊りに出て来た娘たちの略奪結婚によって解決した。ここにも非信仰的判断がなされる。

  シロにはヨシュア時代に契約の箱が置かれ祭壇があり、軍事的にも中心地になっていた場所である(18章8-10、19章51、22章9.12)。しかし既にこの時代は宗教的な堕落があったことが、サムエル記上2章12-17節から伺える。

 25節は自分勝手な判断でなされたイスラエル共同体の罪を表す結語ちいえよう。
 ローマ3章9-20節を改めて示される。
 


武力解決

2008-03-07 | Weblog
      士師記20章 19章からの続き(19章記事の訂正あり)。
    19章29-30節は、12部族に訴状を送ったこと。
    ベニアミン族にも届いた筈。
    各部族は一団となってミズパに集り、殺された女の夫は原告としてギブアで起きた蛮行を訴えた(1-7節)。被告ベニアミン族は欠席裁判で、裁定がなされた。制裁処置として、ギブアにいるならず者を引き渡せと伝えた(8-13節)。
    ベニアミン族はこれに承服しない。受諾すれば解決する事だった。
  然し彼らは自らの非を認めず、武力解決に鋭く反応した(14-17節)。道義では敗れても戦力では勝つと判断した。士師不在の混乱がここに見られる。

  戦闘態勢に入り、第一日目は数では優っていたが、イスラエル側は劣勢となり多くの犠牲を出した(18-23節)。
  第二日目もベニアミン側が優勢で、イスラエルは二日間で4万人の戦死者を出した。これでは態勢は決定したようなもの(10節see)。
  その日イスラエルは初めて、信仰の建て直しを計りベテルに集って、夕方まで断食をし燔祭と酬恩祭を献げて神の加護を求めた(26節)。
  第三日目は神の約束とその指示によってベニアミンを攻撃し、戦闘方法はヨシュア記8章アイの攻撃と同じで伏兵を潜めませ、戦闘の途中で後退して誘き寄せ挿み撃ちでベニヤミン2万5千人の兵士を倒し、ギブアの町だけでなく、ベニアミンの町々を滅ぼした(29-48節)。敗残兵は600人だった(15節see)。

武力解決は聖書本来のメッセージではない。一女性の犠牲という悲劇から数万の命が失われた。これは教訓とすべき出来事。
  罪の支払う報酬は死である(ローマ6章23節)

   


犠牲になった女

2008-03-06 | Weblog
   士師記19章 21章まで続く一連の物語
   1節「イスラエルに王がいなかったそのころ」は18章1節と同じ時代の背景を表す。士師がいないと治安は乱れ神の正義も失われる。倫理的な物指もなく自分勝手に振舞う。
   エフライムの山地に住むレビ人の側女が裏切って父の家に帰ったという。4ヶ月後彼は連れ戻しにベツレヘムに行き父親に会う。引き止められて三日間を過ごした(3-4節)。4日目も引き止められ、5日目夕刻まで飲食で過ごしたのは娘の父が翌日まで日を延ばそうと考えたからだ(8-9節)。
  彼ら一行が家を出て約9キロ先のギブアで日が暮れた(14節)。
  ベニアミン族ではないエフライム山地から寄留していた老人が畑仕事を終えて帰る途中に町の広場で出会った。そして老人は一行を家に迎え入れた。ところが泊まった夜の出来事が17~25節にある。いわゆる男色と呼ばれるもの。ソドムの町で旅人の身に対して起きた同じような事が記される(創世記19章4-11節)。
  「町のならず者」(22節)の要求に対し家の老人は、旅人を保護する手段に側女を犠牲にした(26-28節)。
  この極悪非道な犯行に対する復讐心から、前代未聞の行動になった(29~30節)。これは20章に展開される。
   
  一体5日間の旅は何だったのか。身分の保証されない側女が犠牲にされ、復讐劇が起きる事件である。

  出エジプト記22章20-26節の、神の慈愛はここでは見られない。
   

   

自己正当化の罪

2008-03-05 | Weblog
  士師記18章 17章の続き
  ミカは息子に替えてユダ族のレビ人を祭司として雇っていた(17章10-12節)。  この頃ダン族が定住地を探すため勇士五人をエフライムに遣わし、レビ人の祭司に出会う(3-6節)。ミカの祭壇がある情報を得たと思われる。
  勇士は更に53キロ北上し、ライシュの地を探り歩き、絶好の土地だという情報を持ち帰った(7-10節)。
  ダン一族はこの情報のもとに移住することになる。ヨシュア記19章40-46節の割り当てられた嗣業地がペリシテ人に奪われた結果である。

  彼らが北上する途中ミカの家にある彫像、エフォド、テラフィム、鋳像を略奪する(17節)。そして祭司を懐柔して従わせる(18-20節)。
  これを知ったミカの一族が追ってきたが、武力で威嚇され退散せざるを得なかった。

  ダン族の甚だしい不義は、平和で穏やかな共同体であるライシュを赤子の手をひねるようにして支配し土地を奪ったことである。
  宗教的堕落は倫理的不正を生み出す。彼らが神の名を用いて不義を働くこと(10節)程甚だしい罪はない。ここに自己正当化がある。

  創世記49章17節「ダンは、道端の蛇/小道のほとりに潜む蝮」とある。道に潜んで人の命を脅かす危険な存在である。ダンはこのような汚名を着せられている。

  30節は、ダンにある祭壇が紀元前733年イスラエルが捕囚にあうまで(Ⅱ列王記15章29節see)あったことを示している。

  キリスト者は困難な事態に至っても「やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって」行動すべきである(1ペテロ3章16節)。
   

自分勝手

2008-03-04 | Weblog
   士師記17章 本章から、士師は登場せず、外敵との戦いはない。それは内乱状態を示している。
  6節「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」
  これは18章1、19章121章25節に出ている。
  これは各部族が統一されていない理由である。
  士師に代る指導者=王制政治の時代への過渡期を示す。

  統治者がいないと人は自分勝手な行動をする。その最大の危機は神礼拝であり、エフライムの山地に住むミカが母親と相計り、銀細工人に彫像と鋳像を造らせた。これは十戒に違反し(出エジプト20章4節)、死に値する(同32章30~35節)。
  俄か造りの神殿には、息子の一人を祭司にしエフォドとテラフィムを持たせた。その後ユダ族のレビ人が放浪してきた時ミカはこれ幸いとこの若者を家族として迎え入れた(5~13節)。
  この自己満足は不幸の引き金となる。18章はこの続き。

  偶像礼拝は自己欲望の投影である(出エジプト32章1~6節)。
  フィリピ3章19節(新改訳)
  「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」

  (海外旅行とインフルエンザで投稿をしばらく中断していた)