美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「島木健作再評価(1)」 (後藤隆浩・上田仁志)

2015年07月05日 01時50分07秒 | 後藤隆浩・上田仁志
*〔編集部記〕以下は、後藤隆浩、上田仁志両氏による、島木健作をめぐる対談です。話題の核心は、どのように読み替えれば、『黒猫』の魅力が、さらには、その作家としての存在が今日において蘇るか、ということです。島木健作を知る若い世代の方は、あまりいないのではないかと思われます。しかし、その名をあまり知らないからと言って、さらには、彼の小説を一篇も読んだことがないからといって、当論考を素通りしないでいただきたいのです。当対談は、とても面白いのです。島木健作の小説をまともに読んだことのない私が言うのですから間違いありません。どうして面白いのか。それは、本文をお読みになれば分かります。そういうことが言いたくて、つい、でしゃばってしまいました。相済みません。

「島木健作再評価(1)」 (後藤隆浩・上田仁志)
テキスト:島木健作『黒猫』
サブテキスト:磯田光一『比較転向論序説』



【まえおき】
後藤: 今回の〈偏愛的文学談義〉においては、磯田光一の『比較転向論序説』を手引として、島木健作の再評価を試みます。戦後の文芸評論の分野において多くの業績を残した磯田氏は、昭和62年2月、56歳で急逝いたしました。よく知られているように、磯田氏には、『昭和文学史』執筆の構想があったとのことです。磯田光一氏のテキストは、我々読者に考えてみるべき多くの問題点、問題の本質理解への視点を、現在も提示し続けているように思われます。この文学談義において我々は、作品の精読に基づいて昭和期の文芸を再検討していきたいと考えております。

【『黒猫』について】
上田: 後藤さん、島木健作は昭和20年、終戦の二日後に死去しました。現在、あまり読まれなくなった作家ですが、知識青年の帰農を描いた長編小説『生活の探求』(昭和12年)は当時のベストセラーでしたし、最晩年の短編「赤蛙」は、教科書に載るなどして長く親しまれました。精神史の文脈では、島木は、昭和八年頃の、左翼知識人の(マルクス主義からの)転向問題の関連で取り上げられる作家、いわゆる転向作家の一人です。昔よく出た日本文学全集のたぐいでは、同時期の別作家との抱き合わせで一巻にまとめられているケースが 多いようですが、収録作はやはり上記の二作が最も多く、他には、処女作にして出世作の「癩」や、最晩年の「黒猫」などが収められていたりします。このあたりが一般に島木の代表作でしょう。
島木健作を知らない読者に何かひとつ読んでもらうとしたら、やはり「赤蛙」でしょうか。短編なので読みやすいということもありますが、小動物の姿に作家自身の運命を重ね合わせたかのような、一種の感慨をもよおさせる作品です。

川の流れに逆らって向こう岸へ泳ぎわたろうと何度も試みてはそのつどそのつど押し返されて来るちっぽけな赤蛙。それは明確な意志をもって行動しているかのようです。赤蛙はとうとう力尽き、裏返った腹を見せ渦に呑まれて消えて行きます。赤蛙の運命が何を象徴しているにせよ、その最期の一瞬の映像は、作者と同様、読者の記憶の中にもあざやかに刻まれるにちがいない。
もうひとつの短編「黒猫」もまた一種の象徴ないしは寓意と解されることの多い作品です。あるとき、作者の家の近辺に、ふてぶてしくも、一種の風格をそなえた野良猫が現れる。その猫は夜な夜などこからともなく家中に侵入しては食い物をかっさらっていくのです。業を煮やした母親はついに猫を捕まえて殺すのですが、そのとき猫は鳴き声ひとつたてずに堂々と死んでいく。転向論の視点でいうと、黒猫とは、国家権力の弾圧(官憲による拷問を含む)に最後まで屈せずに虐殺された非転向左翼知識人、具体的には小林多喜二の象徴だと解されています(亀井勝一郎)。島木健作が、非転向者に対するあこがれ、ないしは敬意の念を持っていたことは、処女作「癩」などからも窺えますので、黒猫=小林多喜二という理解はうなずけます。しかしながら、この作品の象徴性は、必ずしもそうした一義的な解釈に収まらないのではないか。

 作品を読んでの個人的な感想を言えば、殺された黒猫のカリスマ的存在感もさることながら、殺した側、すなわち母親の側の存在感に注目せずにはいられません。この作品では、黒猫に焦点をしぼっているため、母親はあくまでも脇役にすぎませんが、長患いでふせっている作者(私)の状況を考えるとき、生活全般を支えているのは母親であり、母親はいわば生活をおびやかす脅威を取り除いたにすぎません。猫殺しのディテールは語られない、というか、そもそも作者はその現場を目撃しているわけでもないのですが、もし母親に焦点を当てたなら、物語の別の局面が立ち上がってくることは充分に察せられます。いったい、野良猫とはいえ、かなりの大きさのものを、易々と、かどうかはわかりませんが、自分一人で始末してしまう母親とはどんな女性でしょうか。そういう女丈夫のたくましさはどこから来るのでしょうか。現代の女性(男性も)、都会育ちの女性(男性も)からはちょっと想像が及ばない生活体験がそこにはある気がするのです。

後藤: 上田さん、現在、島木健作の作品のテキストは、入手が困難な状況となっておりますね。『第一義の道・赤蛙』(講談社文芸文庫、2006年)に掲載されている著書目録を参照してみますと、昭和20年代に文庫本、全集が出揃っていることがわかります。また、昭和30年代から40年代を中心に盛んに企画された各出版社の日本文学全集においては、主要作家として位置付けられて、代表的作品が収録されているようです。今回私は、居住地の市立図書館から数種類の日本文学全集(島木健作収録の巻)を借り出してみました。島木の作品は、たいへん面白く、非常に読み応えがありました。そして、各巻に収録されている解説文を読む機会が得られたことも、大きな収穫となりました。これらの解説は、川端康成、田宮虎彦、中村光夫、平野謙といった昭和期に活躍した作家、文芸評論家の文章です。昭和期の日本文学の熱気が伝わってくる思いがいたします。

鼎談「磯田光一、理解する中心」(『現代詩手帳 臨時増刊 磯田光一 モダンというパラドクス』1987年12月)における桶谷秀昭氏の回想によれば、初期の磯田光一は、島木健作のことを大変評価していたとのことです。昭和37年に磯田氏は、「転向文学試論-島木健作の場合」を発表しております。その後、昭和39年から『試行』誌上において「比較転向論序説」の連載が始まりました。今回作品を精読してみて、島木健作は昭和精神史の文脈において、極めて重要な位置にいる文学者であることを実感いたしました。磯田光一は、初期の段階から既に昭和精神史の構築を意識して同時代としての昭和の意識化、対象化、相対化を試みていたように思われます。

島木健作の最晩年の短編「黒猫」は、現代の読者にとっても問題作であると言えますね。上田さんが提示されたように、作中の母親の行為と心情に焦点を当ててみるならば、新たな〈読み〉の可能性が出てくると思います。現代日本社会においては、一般に核家族化、個人化が進行しており、住宅は猫などの小動物が外部から入り込む余地のない造りとなってきております。黒猫という〈他者性〉が物理的および心理的レベルにおいて〈家〉に侵入する物語は、現代の読者の意識に強い刺激を与えるものと思われます。

さて磯田光一は、初期の評論「転向文学試論-島木健作の場合-」および『比較転向論序説』において、島木の「黒猫」に着目し、この作品の新しい解釈を提示していますね。亀井勝一郎の見解に代表されるところの、黒猫を小林多喜二、非転向者の象徴とみなす一般的解釈に対して、磯田氏は、黒猫を捕虜とならずに死んでいった日本の農民兵の象徴とみなす解釈を提示しました。このような磯田氏の作品解釈の更新の提示により、〈島木健作〉という〈人と作品の世界〉は、昭和初期の文芸における時代の制約を受けた、特殊な条件下における限定的な現象ではなく、昭和精神史における普遍性を有する問題として位置を与えられたのではないでしょうか。「転向文学試論-島木健作の場合-」は単行本未収録の評論ですが、磯田氏の島木観が率直に表出されているテキストです。磯田氏の見解を確認しておく必要がありますね。

上田: 作品解釈は、時代によって変わるものです。亀井勝一郎のような〈転向〉世代と戦後の磯田光一の世代では、黒猫に込められた暗喩の読み解きに違いがあって当然です。しかし磯田のいうように、「黒猫は捕虜とならずに死んでいった日本の農民兵」という解釈は、小説『黒猫』の読解としては、強引すぎるのではないかと感じます。島木健作が「農民の平常心」に共感し、また農本主義的理想を抱いていたのは紛れもない事実ですが、黒猫に「生きて捕われの身となるよりは進んで自決した日本兵の映像」を重ねるのははたしてどうなのでしょうか。

磯田は、黒猫=小林多喜二という見方が「亀井をはじめ旧左翼インテリの日共コンプレックスの所産」と適切に指摘したうえで、自らの解釈を示していますが、両者を二律背反とは見なしていないようで、結局のところ、「黒猫が小林多喜二であると共に農民兵であるという二重性こそ、わが国の転向の、そしてまた攘夷論的心性の根強さ」であると述べています。

磯田は、『黒猫』を論じるに際して、〈攘夷〉すなわち〈反米〉と、〈農民兵〉とを等置しています。磯田は無造作に同一視しているわけではありませんが、島木のなかで両者がどういう関係にあったかは、さらなる探究を要する問題でしょう。

後藤: なるほど。それでは磯田氏の島木健作論を精読して、彼の評論のモチーフを確認してみましょう。昭和37年に発表された「転向文学試論-島木健作の場合-」において磯田光一は、島木健作の文学的、精神史的救出を試みています。この評論における磯田氏の言説の構えからは、当時の文学界において島木に対して吹き付けていたであろうと思われる逆風の強さが推察されます。磯田氏は、次のように宣言して島木を論じ始めています。《私はここで、一人の二流作家-「思想の科学研究会」の「転向」研究では後向きだと批判され、今日では高校生の健全読物くらいにしか考えられていない、古い、馬鹿な、日本的、土着的なドン・キホーテ・島木健作の真実を、今日的な観点から救い出してみたいと思う》。島木は古い人間であった。このことが、島木の生涯を決定づけたように思います。磯田氏は島木の心情構造に内在する〈古さ〉に着目して次のように語ります。《島木をして、近代資本主義の人間疎外の様相を認識させたものが彼の内部にある農本主義的、閉鎖的、家庭的な生活感情であったとすれば、マルクス主義運動における理論信仰の盲点を誰よりも強く意識せしめたものも、やはり彼の内部にある「或る古い生活感情」だったのである。》昭和前期の転向の季節がかなり遠い過去の時代となってしまった現在、我々はいわゆる〈転向文学〉というものをどのようにとらえたらよいのでしょうか。磯田氏の次の見解は、我々に昭和精神史の追思考としての〈転向文学〉再読の可能性を示唆しているように思います。《党の正しささえも庶民の前に羞恥し、正義と現実との断層に戦慄し、現実から目を離せなくなった者だけが、ともかくも、私なりの考えている転向文学の本道につながり得たのである。そして彼らは戦争が終っても再び左翼に戻ろうとはしなかった。戦時中に右傾して戦後に左傾した知識人は、どう弁明しても、時局便乗者のそしりを免れうるものではない。文学が人間の内面にかかわるものであり、また思想が衣のように勝手に脱ぎ換えることのできないものである限り、転向文学の真実は、彼らが戦後再び左翼に戻ることのない地点にまで絶望を深化しえたか否かによって判定されるほかはない。私はそうした転向者のケースとして、太宰治、島木健作、それに現存作家では高見順を考えているのである》。〈転向〉という経験の意味を精神の根源のレベルにまで掘り下げて思考したであろうと思われる島木にとって〈黒猫〉は、非転向者というレベルを超えた基層的、共同的存在の象徴だったのではないでしょうか。磯田氏は、島木の心情を次のように推測します。《黒猫の原始的なエネルギーに感動する作者は、「赤蛙」の交尾に感動する生命主義者としての作家であり、彼にとって生命の根源は、近代の理智に染まらぬ伝統を生きる素朴な農民の心情と不可分のものであった。自分を信じ切れず、またインテリの擬態に業を煮やしていた島木にとって、素朴な逞しい農民兵士の姿こそ、人間の到達しうる最高の境地に見えていたと思われる》。

偶然のこととはいえ、敗戦の翌々日、8月17日の島木の病没は、何らかの象徴的な死に思えてなりません。磯田氏の「黒猫」解釈は、島木の〈殉死〉という物語を生成し、昭和精神史の地下水として静かに流れ始めたのではないでしょうか。磯田氏は、次のように語っています。《私は島木の死を「殉死」と見たい。それは、悲しく散った農民兵士の心の真実への、そしてまた、日本的、土着的、農村的エトスへの殉死であった。生きてアメリカ民主主義の便乗者になるよりは「黒猫」と共に死のうというひそかな願いを、幾分か運命的な偶然の助けをかりて、彼なりに果たしたと見てよいのではなかろうか。彼は古かった。滑稽なほど古い人間であった。だが私は、その古さのゆえに、島木を捨て切れないのである。》現代の読者にとって昭和50年代以降の後期磯田光一のイメージからは想像しにくいかもしれませんが、初期の磯田光一は、右翼的、反動的批評家というレッテルを貼られてきたということです。それに対して磯田氏は「私の文学的モチーフとしては、戦後の進歩主義の素通りしてきた領域を、自分の感性に従って掘り起こしてきたにすぎない」と述べております。(『殉教の美学』増補版あとがき参照) 昭和30年代後半の政治的、イデオロギー的言論環境において、磯田光一が島木健作を論じた意義は、非常に大きかったのではないでしょうか。我々にとって島木健作は、再検討するべき重要作家の一人であると言えそうです。

上田: 磯田光一は、島木健作の中にある〈古さ〉に注目し、世のインテリは、島木は古いからダメだと言っているが、逆に、自分はその古さゆえに島木を評価したいと言っているわけですね。このときの磯田のモチベーションといったものを考えてみると、磯田の中には、戦後的な〈新しさ〉に対する疑問というか、違和感のような気持ちが働いていたものと思われます。その線に沿っていえば、島木の死を〈殉死〉とみる磯田光一は、島木健作の死を通して、〈己の夢を語っている〉ということができます。終戦の二日後に死んだため、島木が戦後の新しい風潮に対してどのような態度をとったかは、実際のところは想像するしかありません。戦後を生き延びたとしたら、はたして島木は再転向をしたでしょうか。島木の立場は、たとえば、中野重治と小林秀雄という両極を想定した場合、どのあたりに位置づけられるでしょうか。戦後の島木は、文筆家よりも、活動家としての道を歩んだという可能性はありそうです。生活が第一、言論は第二という島木の中の順序は、まず動かないでしょうから。新しさ、古さという捉え方よりも、理想と現実という観点のほうが、島木の活動を見るには適当であろうと思われます。磯田も気づいているように、島木は理論信仰の限界というものを、農民の生活感情を通して実感していました。島木が生活から遊離した理想を信じたことは一度もなかったでしょう。陥穽があったとすれば、生活を理想化もしくは美化しすぎたことのほうかもしれません。

『黒猫』を読み返して見ましたが、〈黒猫はいったい何の寓意であるか?〉という問いから始めるのは、読み方を不自由にすると思いました。黒猫は黒猫です。個性を備えた一匹の動物です。何かの寓意ではありません。黒猫には、不如意な境遇に陥っても、決して人間にこびへつらわない、持ち前の姿勢があり、そこに作者は打たれているのです。黒猫の中にひとつの動じない生き方を見いだしているのです。それが人生の暗喩として受け取れるのは事実ですが、それ以上の何らかの具体的なことがらを暗示するものではありません。〈転向論〉という文脈があってこそ、寓意的解釈が成立するにすぎません。
はじめの方で申し上げた通り、私は〈黒猫〉と並んで〈母〉の重要性に着目します。この母もまた何かの寓意ではありません。母は作者の生活を支える基盤であり、現実そのものです。それとの対比で、黒猫は現実に反する〈もうひとつの生き方〉を意味しています。作者は、黒猫のように生きたいのですが、現在の現実(戦時下の社会の貧困)は、黒猫のような生き方を許さないということを知っているので母を否定することもできないのです。〈黒猫〉が〈理想〉を意味しているのはたしかですが、〈マルクス主義〉や〈農本主義〉といった特定の思想や価値観に結びつけることはできないと考えます。〈黒猫〉について言えるとしたら、〈独立独歩〉という理想ではないでしょうか。そして、それがいつの時代も最も困難なことだと思うのです。

【もし島木が戦後生き延びたとしたら】
後藤: 磯田光一は、「転向文学試論-島木健作の場合-」において、「島木が今日まで生きていたとするならば彼はどうなっていたかという想像は、文芸批評にたずさわる者にとっては魅力的な主題にちがいない」と述べて、戦後の島木の運命を推測しています。《再びマルクス主義運動に帰ったと考える人もあるかも知れぬ。しかし私は、どんな時代が来ても「もとの思想へ還るとは思えない」という河上徹太郎の結論に全面的に賛成である》。島木にとってマルクス主義的世界は、最終到達目標ではなかったということですね。磯田氏は、次のように指摘します。《コミュニズムは資本主義による人間疎外を克服するものに見えたが、コミュニズムのかなたに島木の夢みていたものは、ゲゼルシャフトとしての近代社会ではなく、古代的、自然的、有機的なゲマインシャフトであったのだ》。しかしながら、戦後日本社会の精神過程は、島木の理想とする社会像の側から見れば、そのエトスの消滅過程であったといえるでしょう。戦後日本社会において島木が行なったであろうと思われる活動を磯田氏は具体的に次のように想像します。戦後消滅していく黒猫的なものを求めて「不遇な中小炭鉱の労働者や、僻地の零細農民」の中に入って行ったのではないか。そして黒猫的なものが、そこにおいても消滅してしまった場合、島木は満州へ行ったのではないか。磯田氏の苛烈な想像によれば、満州は島木の最期の場所となるのです。《そうだ、私はなおも想像する。病苦にやつれた老残の身をひきずり、農民兵の英霊を慰めるために満州の荒野をさまよいながら、やがて狂死して行く島木健作の姿を》。もし島木が生き延びたとしたら、戦後社会に対してどのような批評の言葉を残したでしょうか。

上田: まず、島木健作が戦後を生き延びたとしたら、再転向をしたかについて。

島木が日本の現実から遊離したマルクス主義理論を奉ずるとは考えにくいですが、農民の生活改善に尽力したのではなかったかと想像します。

農本主義的ゲマインシャフトが島木の夢みた理想の社会だったか?
そういう面はたしかにあったと思いますが、戦後の現実がそこからますます遠ざかるのを目の当たりにしたとき、島木はどうしたでしょうか?

磯田光一は、農民兵の亡霊をもとめて満州をさまよい狂死する島木の姿を想像していますが、浪漫的すぎて荒唐無稽のきらいがあります。島木は夢に殉じる作家ではなかった、と思います。島木は、三島由紀夫とは違います。

島木の作風は、しばしば〈観念的〉だと評されたようです。しかしこれは、小説表現の特質というより、話の内容が理屈っぽいとか、生真面目で説教くさい、ということではないかと思います。

三島由紀夫を引き合いに出すのが適当かどうかわかりませんが、三島は、筋書きにしろ、人物造型にしろ、頭で作っているという感じがするという意味で〈観念的〉です。それに比べて、島木のほうは〈経験的〉です。(これは小説にモデルがいるかいないかということとは次元が異なる問題です。)
三島は、美学的に自律した作品を創造しようするのですが、島木にそうした芸術意識は希薄です。三島は小説(芸術)に〈絶対性〉を求めたのに対して、島木は小説が相対的で不完全なものだと認識していた気がします。

島木の『再建』や『生活の探求』は、生産活動にたずさわるとともに、生産現場の現実を肌身で知っている当事者の目線で描かれています。これらの表現は、実学的な知識や経験抜きには成り立ちません。

島木健作が、『黒猫』の作者であると同時に、『再建』や『生活の探求』の作者であることを考えると、浪漫的にすぎる想像には、違和感をおぼえるのです。

【島木健作と三島由紀夫】                       後藤: 私も島木が戦後生き延びたとしたら農民兵の慰霊のために満州へ行ったであろうという磯田氏の想像には違和感を覚えます。磯田氏は、自分の図式に論ずる対象を引き寄せる傾向がありますね。島木はあくまでも日本国内にとどまり、社会問題解決のために粘り強く地道な活動を続けたのではないでしょうか。そしてその活動は、政党や組織の方針や思惑に規制されない島木個人の良心を出発点とする宗教的色彩を帯びたものになったように思います。このような島木像の土台は、上田さんが先に「黒猫」解釈で示された〈独立独歩〉の精神ですね。また私も戦後生き延びたかもしれない島木を想像するにあたって、三島由紀夫のことを思い出しました。両者の戦後社会に対する認識は、かなり近いものとなったことでしょう。しかし、島木は戦後社会の虚妄、ニヒリズムといった観念にとらわれることなく社会活動にエネルギーを注いだのではないかと思います。もし島木が戦後生き延びたとしたら、昭和45年、60歳代後半の文学者として三島事件を目撃した可能性は充分にありますね。そのとき島木は、戦前の〈転向の季節〉を経験した文学者としてどのような批評を語ったでしょうか。

上田: 『黒猫』解釈の可能性がまだありそうな気がします。後藤さんは、以下のようにコメントをされましたが、追加の議論はないでしょうか。

《島木健作の最晩年の短編「黒猫」は、現代の読者にとっても問題作であると言えますね。(中略)現代日本社会においては、一般に核家族化、個人化が進行しており、住宅は猫などの小動物が外部から入り込む余地のない造りとなってきております。黒猫という〈他者性〉が物理的および心理的レベルにおいて〈家〉に侵入する物語は、現代の読者の意識に強い刺激を与えるものと思われます》。

〈侵入者としての黒猫〉の問題ですね。黒猫が屋内に侵入する経路については、一応説明があったと思います。よくはわかりませんが、外部から台所へ通じる穴か何かを、漬け物石か何かで塞いでおいても、黒猫は頭の力でどかして入ってきてしまうといったような。なみなみならぬ怪力という気がします。       

後藤: 「黒猫」のテキストの語り手は病人であるということに私達読者は留意する必要がありますね。病人の視点、感覚による猫たちの分類、描写であり家族関係の認識です。ポイントとなるのは、黒猫の毛の色彩感覚ということになるでしょうか。生活の場における人間と小動物との関係性の雰囲気も時代の空気によって変容すると言えそうですね。強調しておきたいことは、黒猫=小林多喜二として解釈を固定してしまうと、昭和初期のプロレタリア文学運動の枠組み内部に読者の思考が限定されてしまうのではないかということです。

上田: 大久保典夫は、〈黒猫〉とは「一種狷介な島木自身の性格にほかならぬ」という説を提出しています。
《〈黒猫〉は、狷介孤独な彼自身の性格の対象化であり、一種グロテスクなその姿を、作家的な眼でゆとりをもって捉えている。島木に珍しい〈有情滑稽物〉といえよう》。

島木は、成果をどう見積もるかはともかく、日本の私小説的風土にあって、「観念」や「思想」の表現としての長編小説を志向した先駆的作家の一人です。処女作「癩」から『再建』『生活の探求』を経て、未完の『土地』にいたる作品群がそうした野心を物語っています。

一方、島木にあっては、文学はしょせん第二義的なものという面も無視できません。島木の長編の主人公が、おしなべて理想化された、生まじめ人間になっていて、文学的魅力の点で不満を残す結果になったのは、現実生活における誠実さの希求と作家的営為における自己省察とはまったく別物だということに、島木自身気づいていないわけでないにしても、ほとんど意に介することがなかったからではないかと思います。端的に言って、自己戯画化ができないのです。太宰治が文学的天才だとすれば、島木は非文学的だといわざるをえません。

大久保典夫の島木健作論は調べも行き届き、よく考え抜かれたものだと思います。大久保は、島木の作家的行程全般を見渡した上で、〈赤蛙〉と〈黒猫〉とはおなじ楯の両面のようなものだといいます。〈赤蛙〉が〈理想化された主人公の象徴〉だとすれば、〈黒猫〉は〈一種狷介な島木自身の性格の対象化〉だというのです。『黒猫』において、島木は初めて自己の対象化に成功し、これが新たな転換点となった。このあと最後に書かれた長編『土地』では、作中人物は類型化をまぬがれ、個性的な厚みと幅をもって描かれている。こうした大久保の議論の当否については、『土地』を未読のため判断保留しますが、〈赤蛙〉と〈黒猫〉を合わせて考えることで、作者像が浮き彫りになってくるのは間違いありません。

大久保典夫は、島木の最晩年に〈転換〉があったと見て、島木の新たな展開の可能性を考察したものと思います。島木はいわばまじめ人間で、趣味や遊びの世界を知らない人だったようです。体が弱かったわりには各地を旅していて、旅行好きだったのはたしかですが、島木にとって旅行は見聞を広める意味が大きかったのでしょう。酒もタバコも一切やらなかった島木ですが、唯一骨董(瀬戸物)にだけは興味を示したということを小林秀雄が『作家の顔』で書いています。また中村光夫は、島木の葬式のとき、島木の母親があの子は貧乏性でして、といったのが記憶に残ったと書き記しています。まじめ人間、貧乏性。島木の人となりを表す言葉ですが、こうした性格は、島木の小説にも読み取れます。晩年の島木の小説が〈マジメ〉から〈ユーモア〉へ転換したとは言えないのですが、『黒猫』のなかに、自己を〈グロテスク〉と捉える想像力の進化を見るのはまんざら間違いではなさそうです

(次回に続く)
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偏愛的文学談義(その4) (後藤隆浩・上田仁志)

2015年02月17日 21時08分30秒 | 後藤隆浩・上田仁志
偏愛的文学談義(その4) (後藤隆浩・上田仁志)


[まえおき]

昨年末〈偏愛的文学談義〉なる往復書簡形式のブログ記事を始めたのですが、3回で頓挫してしまいました。再開するにあたって、心機一転というほどでもありませんが、今回は、タイトルの通り、後藤と上田のあいだで交わされた談義(じつは携帯メールによるやりとり)をそのまま載せていただこうと思います。今回のテーマも哲学者・木田元ですが、今回はその最終回といたします。

[木田先生の謦咳に接して]

上田 はじめに、今回のブログ記事の一応のねらいを申します。木田元氏の表看板はむろん「哲学」ですが、木田さんには、じつに幅広い関心領域があって、それについては、おりにふれエッセイなどに書かれています。木田さんのエッセイは、自伝的な文章、交友関係、文学や読書に関するもの、音楽や映画の話題などさまざまですが、今回はそうした木田さんの「哲学以外」の側面に目を向けたいと思います。
 ところで、私は著作を通してしか木田さんのことは知りません。そこで、木田さんの謦咳に接したことのある後藤さんに、こぼれ話などを伺えればと思います。木田さんの人となりは、文章から受ける印象と比べていかがですか。

後藤 木田先生にお会いする機会を得たのは、最初のエッセイ集『哲学以外』(1997年)が出版された頃です。文章から受ける印象の通りの人柄で、身体と思考を鍛え上げてきた力強さを感じました。『哲学以外』に収録されているエッセイ「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」の精神を実感し、以来「追思考」という概念が自分の思考の基層に定着したと思います。2008年にNHKで、爆笑問題コンビが木田先生宅を訪問して哲学の教えを受けるという内容の番組が放送されました。木田先生の語り口、人柄を知ることのできる貴重な映像の記録になったと思います。
『週刊読書人』(2014年9月12日)に掲載された教え子による追悼対談(加賀野井秀一氏と村岡晋一氏)においては、様々なエピソードが紹介されており、木田先生の人柄を知ることのできる貴重なテキストと言えましょう。授業の後のカラオケで同じ歌を繰り返して歌うと、「進歩がない」と木田先生に野次られたとのこと。丸山圭三郎氏、生松敬三氏も木田先生にカラオケの世界に引っ張りこまれ、その結果丸山氏は、『人はなぜ歌うのか』を出版するに至ったということです。この対談で語られている重要な情報として、木田先生が構想していたハイデガー論の決定版のことに留意しておきたいと思います。『存在と時間』のまとめとして「時間と存在」「時間と運命」を書くことが予定されていたとのことです。今後この課題がどのように継承されていくのか、関心を寄せていきたいと思います。

上田 木田さんが〈歌う人〉だという観点はなかなか興味深いです。鑑賞するだけでは満足できず、自ら実践するのを旨としている。徳永恂氏も、「木田元君を偲んで」という追悼文で、「東京で[勉強会を]やった後は、必ずといっていいほど、行きつけの新宿のカラオケバーに寄って、木田、生松、丸山といった名手たちの自慢の咽喉を聞かせてもらうのが常だった」と書いています。木田さんによれば「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」だということになりますが、カラオケで歌うことも、ただの気晴らしというより、何かしら精進すべきもの、競い合うもの、修業に近いものだったのかもしれませんね。凝り性な性格といったものも感じられます。

[歌謡曲マニア]

上田 ところで、私としては、木田さんがカラオケでいったいどんな曲を歌ったのか、そこらあたりを知りたいところです。というのも、先般刊行された『KAWADE道の手帖 木田元 軽妙洒脱な反哲学』(2014年)を読んだとき、意外な気がして最も印象に残った文章が、加國尚志氏による「反-哲学者の足跡」という解説文の、冒頭の一節ならびに末尾の一節だったからです。冒頭の一節はこうです。

《その人は、小雨のなか、茶色のスーツを着て立っていた。/もんたよしのりの唄う「赤いアンブレラ」が流れる葬儀場の遺影の前にたたずんで、喪服の私は、二〇年以上前にはじめて木田元にあった日のことを思い出していた。/まだ大学院生だった私の目の前に立っていた木田元は、実際の身長よりずっと大きく、とても力が強そうに、見えた。》

もんたよしのりといえば、個性的なハスキーヴォイスで、デビュー曲「ダンシング・オールナイト」(1980年)を軽快に歌い、一世を風靡したヴォーカリストですね。「赤いアンブレラ」は、かれの二番目のシングル曲で、アップテンポだった前曲とは打って変って、哀愁をおびたスローバラードでした。たしかに葬儀場に流れていてもあまり違和感はないかもしれません。ですが、なんといってもメルロ=ポンティ哲学やハイデガー哲学の泰斗の告別式ですからね、ふつうだったら、穏やかなクラシック音楽(たとえば木田さんの好きだったモーツァルト)でも流すのではないでしょうか。ところが、実際は、日本の歌謡曲。じつに意外です。もっとも、木田さんを親しく知る人には、意外でもなんでもないのかもしれませんが。「赤いアンブレラ」は、カラオケ好きだった木田さんの十八番だったのかもしれませんね。
というような次第で、木田さんは日本の歌謡曲のかなりのファンだったらしいのですが、後藤さんは、そのあたりのこぼれ話は耳にしたことがないでしょうか?

後藤 『哲学以外』のはしがきに書いてあるように、木田先生は「日常生活と哲学を勉強することとのはざま」を意識していたようですね。文学書、ミステリー、モーツァルト、はやりの歌、映画、テレビドラマ等を深く楽しんでいたようですね。人間の精神活動全般に対する感度の優れた人だったと思います。『哲学以外』に収録されている「大塚博堂ファンクラブ始末記」は印象に残りますね。「ホサカのこと」では保坂和志氏との交流について書かれています。保坂氏の友人タダ君(小説の登場人物のモデル)のカラオケでの芸は、ただごとではないとのこと。歌が木田先生の幅広い交流の推進力の一つであったと言えそうですね。

上田 なるほど。「大塚博堂ファンクラブ始末記」(1996年)というのは、知る人ぞ知るシンガー・ソングライター大塚博堂の熱心なファンとの交流を楽しげに綴った文章ですが、木田さんはこうしたファンの集いにも、まめに足を運んで楽しんだのですね。その大塚博堂について木田さんはこう記しています。

《大塚博堂、といっても、ご存じの方はほとんどいないと思うが、一九七六年に三十二歳でデビューし、五年後の八一年に急逝した薄幸のシンガー・ソングライターである。心に沁みる叙情的な曲をいくつも作り、それを表情豊かな声で歌ういい歌手だったが、アルバムを八枚残してひっそりと去っていった。》

じつのところ、私自身、大塚博堂(1944~1981年)という歌い手の印象はほとんどありませんでした。木田さんは「過ぎ去りし想い出は」(1977年)という曲を聴いたのがきっかけで熱心な博堂ファンになったそうです。私は「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976年)という彼のデビュー曲が、記憶の片隅にあった気がするくらいです。先日、『大塚博堂・ゴールデンベスト・シングルス』というアルバムを聴いてみましたが、とりわけ印象的だったのは、その声の魅力です、たいへんな美声の持ち主といってもいいでしょう。もちろんたんに美しいというだけでなく、声に表情がある、繊細さと奥行きがあるのです。声の感じや歌いぶりはいくぶん「青葉城恋唄」(1978年)のさとう宗幸(1949年~)を連想させます。二人とも「心に沁みる叙情」派シンガーだといえます。余談ですが、この二人には他にも共通点があります。二人ともフランスのシンガー・ソングライター、ジョルジュ・ムスタキをこの上なく敬愛していたそうです。面白いです。
 ところで、さきほどふれた加國氏の文章ですが、末尾の一節はこうです。

《出棺の見送りが終わって、私は、八月真夏の暑い道を北習志野の駅に向かって歩きながら、昔、木田元にモーツァルトについてたずねたときのことを思い出していた。/木田元が小林秀雄の『モーツァルト』が大好きで、モーツァルトについてもエッセイを書いていたことを知っていた私は、モーツァルトならどんな作品がお好きですか? などと、およそまじめくさったことをたずねたのだった。/木田元は、「え、モーツァルト? うん、まあねえ・・・・・・」と言葉をにごし、それからぎらりとメガネの奥の目をかがやかせ、メフィストフェレスのようにニヤリと口角を上げたアイロニカルな笑みをうかべると、「エヘッ、ちあきなおみ、なんかが、ね・・・・・・」/私は、虚をつかれて、ぽかんとした顔をしていたにちがいない。あのときの、いたずらっぽい反哲学者木田元の笑顔が、夏の昼下がりの商店街に長い影を落としてフェイドアウトしていくようだった。》

いきいきと想像力を駆り立てる、味のある文章です。木田さんに、世間向きの顔ではない、別の顔があることを示してくれます。木田さんのモーツァルト好きがマユツバ物だとはいいませんが、ある程度、カムフラージュの役割をしているのはたしかでしょう。本当に好きなのは、ちあきなおみ。これは秘話でもなんでもなくて、たまたま表明する機会が少なかったというだけの話かもしれません。読者は(というか私は)公式イメージのほうに気をとられがちなので、意外に感じてしまうにすぎないのかもしれません。私は、以前、小林秀雄についても、これに近い感じを懐いたことを思い出します。小林秀雄が好んだ音楽といえば、クラシック音楽、とりわけモーツァルトの器楽曲ということになっていますが、そのかれが、めずらしく「江利チエミの声」という短い文章を残しています。

《私は、江利チエミさんのファンである。無精者だから聞きに出向いた事はないが、テレビでは、よく聞くし、レコードも持っている。そんな事を云ったら、新聞の方が、では、何故ファンなのか書けと云う。それは無理な話で、ファンはファンであってたくさんだと思うのだが。私は、江利チエミさんの歌で、一番感心しているのは、言葉の発音の正確である。この正確な発音から、正確な旋律が流れ出すのが、聞いていてまことに気持ちがいい。》 (朝日新聞に掲載、1962年)

江利チエミはジャズ歌手ですから、「言葉の発音の正確」というのは、おもに英語の発音の正確さをいっているのでしょうか。あるいは、日本語も含めての発音の正確さでしょうか。おそらく両方とも、という意味なのでしょう。曲目など、具体例があげられていないので、そのへんはさだかではありません。しかし、一説によると、小林秀雄は、江利チエミのレコードはすべて持っていたそうですから、本当に理屈抜きに好きだったのはたしかなようです。小林秀雄が、カラオケで「テネシー・ワルツ」を熱唱する姿は想像を絶しますが、酔っ払った勢いで、ワンフレーズ口ずさむくらいのことはあったにちがいありません。ついでにいえば、小林の戦後の代表作が、モオツァルト論であって、江利チエミ論でなかったというのは、当時の文壇の常識からいっても無理はありませんが、なんだかさびしい気がします。
 さて、ちあきなおみに話を戻しましょう。木田さんに「アゲイン」(2001年発表)というタイトルの文章があります。映画『時代屋の女房』(1983年)の挿入歌に使われていたのが妙に印象に残ったという一曲「Again」。これを歌っているのがちあきなおみだと知り、木田さんは、フルコーラスを聴きたいばかりにさんざん苦労して収録アルバムを探し回ったということが述べられています。

《昔からちあきなおみという歌手は好きだった。なにしろ歌がうまい。歌に情感がこもっている。「さだめ川」や「矢切の渡し」など泣きたいくらいいい。この二曲、どうしてかその後細川たかしが唄うようになったが、ちあきなおみのほうがずっと味があった。》《歌のうまい下手は他人の歌を唄わせてみるとよく分かる。この子くらい、ほかの歌手の歌を唄わせてうまい唄い手はいない。》《ちあきなおみさん、世紀の替わったところで心機一転、それこそもう一度[アゲイン]、あのあでやかな姿を見せ、あのうまい歌を聴かせてくれないだろうか。》

一読して明らかなように、これはちあきなおみに捧げた熱烈なオマージュです。また、木田さんの歌謡曲好きの一端がしのばれる好エッセイだと思います。しかし残念なことに、好きだった歌謡曲について、文章のかたちで、木田さんが残したものは数少ないのです。私としては、そのへんの話をもっと書いてもらいたかったという気がします。

[木田さんの交友関係]

上田 さて、このあたりで木田さんの交友関係に話題を移しましょうか。後藤さん、そのあたりについてはいかがですか。

後藤 戦後の混乱期を経て、木田先生は新設された山形県立農林専門学校に入学します。ここで哲学者阿部次郎の甥にあたる阿部襄先生と出会います。『闇屋になりそこねた哲学者』において、阿部先生には本当に親身に世話をしてもらったと回想しておられます。この農林専門学校の設置という出来事は、当時の社会状況の一面を知る手がかりになります。木田先生の回想の語りによれば、終戦直後には「農業立国」ということがさかんに言われていたとのことです。また、この農林専門学校は満州や台湾から引き揚げてきた教育者の救済機関のような役割もはたしていたとのことです。哲学者斎藤信治氏が講演のために来校したことにより、この学校は、哲学者木田元誕生の源とも言える重要な場所となりました。恩師の阿部襄氏は、唯一の小説作品『柿の実』を執筆しております。昭和30年1月から地元新聞に130回に渡って連載されたものです。逝去後に一冊の本の形にまとめられました。
この作品は、終戦により吉林から帰郷した阿部襄氏の経験が素材となっております。農林専門学校の開校準備および開校後の様子についても丁寧に描かれております。地方における戦後復興の雰囲気を伝える貴重な記録であると言えましょう。若き日の木田先生は、学生木下君として登場しております。結果的に教授と学生の両者がそれぞれの視点から回想のテキストを書いたことになりますね。両テキストには、共通するエピソードもあります。視点、認識、記憶、印象といった人間の精神の働きについて改めて考えてみたいと思います。

上田 その阿部襄先生に関連して、木田さんは、農林専門学校時代の自分自身についてちょっと面白いことをいっています。『なにもかも小林秀雄に教わった』から引用します。

《この新設校[農林専門学校]の先生たちにはいわゆる海外からの引揚者が多かったが、そのなかに満州で父と付き合いのあった先生がいらしたのだ。応用動物学の阿部襄先生である/父は敗戦前、満州国のいわば高級官僚で、日本の文部省にあたる教育司の長官や、日本の人事院にあたる人事処の長官などをしていた。その教育司長時代、吉林市にあった教員養成のための吉林師導大学の先生たちとも交流があったようで、そこにいらした阿部先生には同郷ということもあって親しくしていただいていたらしい。阿部先生の方では、入学願書などで旧知の木田清の長男が入ってくることを知っておられたらしく、最初の授業のあとに声をかけてくださった。/ところが、私の方はそのころすでにワルで名を売っていたのでややこしいことになった。阿部先生や知性派の友人の前ではいい子ぶっていたが、ほかの先生や同級生たちの前ではワルぶってみせなければならない。複雑な二重人格を演じ分けることになった。》

若き日の木田さんは、敗戦後の混乱の中で、家族を養う必要があり、闇屋家業に手を染めていた。そうしたことは、今となってはなかなか想像できませんが、多分にアウトローな生活を余儀なくされていたのでしょう。学生生活においても、いわゆるバンカラとはちがうかもしれませんが、ある種の粗野さを振りまきながら、そのじつ、不安や充ち足りない心をもてあましていたのです。そうした気分を忘れようとして、手当たり次第に本を読みあさりもしたといいます。イイコとワルとの二極分裂。相当深刻な精神的危機をくぐりぬけたのだと思います。
 もう一つ留意しておきたい点があります。木田さんは、こうした自己成型を率直に書き記していますが、どちらかというと、ワルだったと見られることを好んだらしい、否、そうではなく、ワルを強調することで、結果的に、イイコだった自分をカムフラージュしていたふしがある、ということなのです。三浦雅士氏は、「出発点としての木田元」というエッセイで、こんなことを述べています。

 《少なくとも私の印象では、木田さんは生松さんに、自分は戦後、闇屋をやっていたということは強調しても、父が満州の高級官僚でシベリア抑留から帰ってからも新庄市長を何期かつとめた政治家であったということは話していなかったと思う。生松さんの口ぶりでは、木田さんはそもそも哲学をやるような境遇にはなかった、なぜなら闇屋あがりの農林専門学校出なのだから、というわけで、これは何も生松さんが木田さんを貶めているのではなく、木田さんが生松さんに語ったことを、おそらく感心しながらそのまま私に話してくれただけなのである。先祖が山形の素封家――なにしろ芭蕉を泊めた庄屋なのだ――で、父は新庄市長――地元でいまも尊敬されている――だということは、あえていうが、おくびにも出さなかったのだとしか思えない。》

三浦氏のこうした印象が事実だとすれば、木田さんは、盟友といわれる生松さんにも、ワルの面だけ見せて、イイコの面は明かさなかったことになります。そのことにはたして特別の意味があったかどうかはわからないのですが、気になっています。つねに穿った意見を述べる癖のある三浦氏は、木田さんには、十代の頃の自分が抱えていた「不安と疑惑」が正当なものだという確信があったのだといいます。さらに、その確信は、木田さんが江田島海兵学校の一年生のときに、原爆を目撃した体験から来ているのだというのです。

《不安と疑惑に苛まれるのは自分が劣っているからではない。むしろ苛まれないほうがおかしい。原爆を生んだ理性に対しては根源的な不安と疑惑をもって当然なのだ、という確信があったのだと思う。》

ヨーロッパ中心主義、理性中心主義に対する批判ということなら、たしかに、後年の木田さんの反哲学構想につながっています。しかし、かりに木田さんが「不安と疑惑」の正当性を確信していたからといって、イイコの自分を見せたがらなかった理由にはなりません。むしろ、そこには恥じらいの意識というか、独得のこだわりがあるような気がします。しかし、今のところ、材料もないのでこの話はやめにします。些末なことにこだわりすぎたかもしれません。失礼しました。
 木田さんの交友関係がテーマでした。後藤さんが他に注目する人はいますか。

後藤 『哲学以外』収録の「佐伯先生のこと」は、佐伯彰一氏との交流についてのエッセイです。中央大学内の遠距離通勤教職員用宿泊設備に偶然同じ曜日に宿泊していたことから朝食を御一緒するようになったとのことです。この「朝餉の会」と名付けられた朝食会においてどのような話が展開されたのか、我々読者としても知りたいところです。幸いなことに雑誌『大航海』第38号(2001年4月)に、佐伯彰一氏と木田元氏の対話「思想の力・文学の力」が掲載されております。この対話を「朝餉の会」の拡大版テキストとして読んでみると楽しいと思います。この対話において、木田先生は保田與重郎に関して次のように発言されています。

《桶谷秀昭の『昭和精神史』は、戦前・戦後篇を通して昭和の初めから二・二六事件、さらに三島の自決までを一つの歴史として描いています。その歴史を貫いているのが、「情」としての日本、という概念だという。ただね、その「情」としての日本、というのがぼくにはわからないんです。どうも桶谷さんはその概念を保田與重郎から学んだ、ということらしい。保田がその「情」としての日本なるものを、生まれ育った大和の地から感得したのだとすると、満州育ちのぼくに分からなくても当然ということになるのですが。》

このような保田に関するする問題は持続的に考察されたようで、2008年出版の『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)の最終章「小林秀雄と保田與重郎」において詳しく論じられております。保田與重郎問題は我々が個人のレベルでクリアしなければならない課題ですね。昭和文学史、昭和精神史の領域に、木田先生は、独自の見解を示してくださったように思います。

上田 佐伯彰一氏については、ぜひともこの文学談義でもとりあげたいですね。「佐伯先生のこと」の中で、木田さんは「私は先生のご本のなかでも、特に『物語芸術論』が好きで、かれこれ三、四回は読み返している」といっています。コンラッド、フォークナー、谷崎・芥川論争などをとりあげたこの評論は、出色の出来です。保田與重郎については、木田さんが私淑した小林秀雄の対極にあるような、もう一人の大きな存在として、徐々に意識せざるをえなくなったのだと思います。木田さんは満州育ちなので、日本的な「情」ということがわからない、という発言は、どのような思想史的文脈でとらえるのがいいのか、よく考えてみる必要があります。たとえば、木田さんには、左翼体験はなかったらしい。したがっていわゆる転向問題も生じなかったようです。このことも、はたして満州育ちと関係があるのかないのか、といったことですね。
(おわり)
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「偏愛的文学談義(その3)」 上田→後藤 (後藤隆浩・上田仁志)

2015年01月13日 18時24分46秒 | 後藤隆浩・上田仁志
「偏愛的文学談義(その3)」 上田→後藤 (後藤隆浩・上田仁志)


「現役職人と退役軍人」http://fiorenkiri.cocolog-nifty.com/kirienikki/2010/09/post-47a7.html?cid=113958800#comment-113958800(サイト名・切り絵職人の日記)より

後藤さん、こんにちは。

木田元氏の話題の続きです。
昨年末に出た『KAWADE道の手帖 木田元 軽妙洒脱な反哲学』(河出書房新社 2014年12月刊)はもうお読みになったでしょうか。木田元氏の仕事をふりかえるのに役立ちますね。
たとえば、鷲田清一、高田珠樹両氏による対談「思想史の世界をめぐり続けて――木田元の遺したもの」は、タイトルどおり、哲学者・木田元が日本の哲学・思想界に果たした独自の仕事ぶりを語り合っています。

鷲田 木田さんは、廣松渉さんのように自分の体系を構築するというタイプでもなければ、大森荘蔵さんのように哲学史の文脈を超えてみずからの思考を紡いでゆくというタイプでもなく、むしろ哲学史の流れを自分流に解釈することが中心で、そういう意味ではすごく禁欲的なところがある。
その禁欲的なところが、ハイデガー解釈の仕方の面白さにも繋がっていますね。ハイデガーの体系を評価するというよりも、彼が講義で扱ったアリストテレスから同時代までの哲学者の仕事を独自に脈絡をつけながら解釈することをこそ楽しまれていたように思います。その結果、単なる文献解釈にとどまらない、とてもダイナミックな読みを哲学史とか思想史で展開されることになった。

 たしかに木田さんは、ハイデガーならハイデガーの思想体系を考えるときに、同時代的な思想史の文脈とのかかわりを忘れることはありませんでした。木田さんは、そうした思想史的なアプローチを、生松敬三氏をはじめとする思想史仲間との交流を通じて体得したもののようです。しかし、そのあたり、学会の常識や流儀とはくいちがうところがあったのかもしれません。
ハイデガーは、『存在と時間』の未完に終わった第一部第三編「時間と存在」において、中心主題として「テンポラリテート」という概念を論じるはずでした。ハイデガーの専門家である高田氏はこう述べています。

 高田 ハイデガー研究者の間では、テンポラリテートは、ハイデガーが書くことができなかったすごく奥底にあるもののようなものとして考えられてきました。私もその種のイメージを持っていたので、これまでにこの主題に関わるのは遠慮してきたんですけれども、木田さんはむしろオープンに書いてこられた。
初めて『「存在と時間」の構築』を読んだときは、展開の軸を、ハイデガーの言うテンポタリテートを当時の哲学史の文脈と通じる話だというところに持っていかれている点に戸惑うと同時に少し拍子抜けした記憶がありますが、今回読み直してみて、確かにテンポラリテートというものを、自分たちは何だかわからないままに少しありがたがりすぎているのかもしれない、と感じました。ハイデガーの奥の奥というよりも、要するにテンポラリテートというのは、一種の人間存在の地平の形成作用の最も中核であって、結局のところ、ユクスキュルなどの環境世界論などと繋がるような話だと、ざっくばらんに指摘しておられる。当時の人々の共通の問題意識のなかにある話だという木田さんの指摘にはそれなりに納得しました。


「木を見て山を見ず」とはこのことかもしれませんが、専門家というのは、ややもすると細部にとらわれて大局を見失いがちです。くわえて、「ひいきの引き倒し」ではありませんが、自分の研究対象を崇め奉る専門家は、目がくもって適切な距離をたもてなくなるものです。しかし、木田さんはそうした幣を免れていたといっていいでしょう。なにしろ木田さんは、鷲田氏もいうように、「ハイデガーを論じるにせよ、ニーチェを論じるにせよ、なんか対等の口ぶり」なのです。木田さんのそうした態度は、もとより横柄さとは異なるもので、おそらくは、完全に確信がもてるようになるまで徹底して文献を読みぬいたことからもたらされたものなのです。
木田さんが、まずもって、メルロ=ポンティやフッサールの名翻訳者として知られたこともまた思い出されます。木田さんの翻訳が名訳たるゆえんは、わかりやすいばかりか文章にリズムがあるからだといわれます。木田さんは、単に「意味」を訳すにとどまらず、「文体」そのものを訳した(=創作した)のだといえるでしょう。

 木田元の翻訳の特徴は、その訳文のリズムにある。
 木田元によると、翻訳をおこなうときは、四、五回は書き直し、しかも五、六行書いては書き直し、十行くらい書いては書き直す、という。それは文章のリズムを整えるためだったらしい
。(加國尚志「反‐哲学者の足跡」)

文献講読にしろ、翻訳にしろ、木田さんの仕事ぶりはおよそ徹底しています。こうした作業を納得いくまで積み重ねることこそが、木田さんの哲学にたいする付き合い方だったのでしょう。そして、この根気のいる読みの仕事が、思想史的なアプローチと組み合わされるなかで、木田さんの「反哲学史」の構想も形を成したものと考えられます。
 ところで、前回の便りで、私にとって木田さんは、現象学やハイデガー哲学のすぐれた解説者であるという趣旨のことを書いたのですが、ここで、木田さんの呼称はどうあるべきかについて一言したいと思います。
 鷲田氏は、先の引用中で、廣松渉や大森荘蔵を引き合いに出して、木田さんの特長を説明していましたが、それは、露骨な言い方をすれば、前二者が独自の体系なり構想を提示した「哲学者」であるのに対して、木田さんはあくまでも、哲学史、思想史の解釈を行なった「哲学研究者」もしくは「哲学史家」にすぎないと受けとることもできそうです。
 「大森哲学」や「廣松哲学」という呼称が可能なように、はたして「木田哲学」という言い方は可能なのでしょうか。
 実際的なことをいえば、木田哲学という言い方は使われていますし、木田さん自身「闇屋になりそこねた哲学者」を名のったこともありました。したがって呼び方自体にこだわる意味は薄いのですが、私の観るところでは、木田さんは「哲学者」というよりは「哲学(の歴史)家」であろうと思います。というのも、「歴史(ゲシヒテ)」という言葉は、「生起する(ゲシェーエン)」に由来するのですから、「哲学(の歴)史」とは、ハイデガー風にいえば、「哲学の生起」ということになり、「ある」を「つくられてある」と考えたプラトン=アリストテレス以来の哲学(という)制度をのりこえるものとしての「反哲学」を意味することになるからです。それはまさに木田哲学の精髄にほかなりません。
 言葉遊びのような解釈はさておき、木田元氏の呼称について、もう少々付言します。
 木田さんの盟友の一人、徳永恂氏による追悼文「木田元君を偲んで」は、木田さんの人となりばかりでなく、仲間たちとの交流をも蘇らせて感動的なのですが、以下のくだりは、哲学者・木田元の本質をものの見事にとらえています。

 だが、「哲学者とは何か」、木田元は「どういう意味で哲学者だったか」というのは、むずかしい問題だ。(中略)木田元の哲学者イメージには、先人のテキストをしっかり読み、わかったことだけをハッキリ言葉にする「職人」という趣きがある。彼の夥しい作品は、著作も翻訳も含めて、そういう手仕事の名手が生んだ珠玉の成果だったと言えようか。アカデミックな講壇哲学が陥りがちの権威主義からは、彼は終始頑なに一線を画し、学会主流派への同調や従属、心酔する対象への同一化を斥け、しかるべき距離をとって見るべきものを見、平明な言葉でそれを語ることができた。おそらく彼の文章の平明さは、他人に判りやすく語ろうとする解説者の配慮というよりは、自分で判らないことは語らないという厳しい自己把持に根ざしていたのではなかろうか。そういう生活態度を潔癖に守ることに、彼は一貫してリゴリスティックであり、禁欲的であったと私は思う。メルロ=ポンティを始めとする彼の数十冊に及ぶ翻訳によって、日本の哲学書の文体は一新したと言えよう。それが彼が果たした哲学への寄与の第一だったのではなかろうか。

 書き写しながらも、つくづく木田さんという人を適格にとらえた文章だとあらめて感銘を深くします。木田さんには本当に「職人」という言葉が似合っているようです――「哲学職人」、「翻訳職人」、「エッセイ職人」。職人というのは、〈観念〉ではなく、〈もの〉と向き合う仕事です。哲学はもちろん、〈観念〉とは切り離せませんが、哲学職人のあつかう観念とは、同時に〈もの〉であるような観念――手ごたえもあれば、不透明感もあるような観念のことでしょう。ですから、とりあつかいには慎重を期さなければならず、時間をかけて練りあげる必要があります。そうして、ついに自家薬篭中のものになった〈観念〉=〈もの〉だけが平明な言葉となって語られるのです。木田さんの書いた文章は、形態はともあれそういう性格をもっていたといえそうですが、わけても翻訳の文章は職人芸の結晶であったのです。
 木田さんは、哲学以外にも、詩歌から英米のミステリ小説にわたる大変な読書家であったということが知られています。しかし今回、『KAWADE道の手帖 木田元』に収められた文章を読んで初めて知ったのですが、木田さんが歌謡曲、とりわけ、ちあきなおみの大ファンだったということです。しかしそれについてはまたの機会に書きたいと思います。

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「偏愛的文学談義」(その2)上田→後藤(上田仁志・後藤隆浩)

2014年12月18日 01時49分32秒 | 後藤隆浩・上田仁志

屋久島の森と小川 http://www.pakutaso.com/userpolicy.htmlより転載させていただきました。

「偏愛的文学談義」(その2)上田→後藤(上田仁志・後藤隆浩)

後藤さん、こんにちは。

「偏愛的文学談義」という題名でやりとりをすることに決めてからだいぶ日にちがたちましたが、このたびようやく開始の運びとなりました。〈こだわりのテーマ〉や、〈とっておきの題材〉ばかりでなく、そのときどきの興味ある話題をざっくばらんに語り合えればよいと思います。

さて、最初にとりあげるのが、今年惜しくも亡くなった哲学者・木田元さんというわけですが、なかなか重厚感のあるスタートです。木田さんは、後藤さんが長年にわたって親しんできた著述家のひとりであり、直接その人柄にふれる機会もあったとも聞いていますので、話題は多岐にわたることでしょう。

一方、私にとっての木田さんは、とどのつまり、現象学やハイデガー哲学のすぐれた解説者といったところかもしれません。「解説者」というと、なんとなく独自性がとぼしいように聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。すぐれた解説者の条件とは、「わかりやすい」、「面白い」、「ふところが深い」の3つであろうと思いますが、これらをすべてかねそなえた哲学の専門家はそうめったにいません。哲学のよき解説者たるには、研究者として優秀なだけでは不十分なので、徹底した自前の思索が不可欠です。まして相手が『存在と時間』のような錯綜した思想書であればなおさらでしょう。

木田さんの『ハイデガーの思想』(岩波新書)は、三拍子そろった哲学解説書の名著です。平易かつ明快な言葉で、「存在了解」から「存在の生起」へというハイデガー思想の核心にある〈転回〉を解き明かしているばかりではありません。個別に見ていたのではつながりがよくわからなかった概念同士が、深いところで有機的につながって、西洋形而上学を貫く広大な流れ(ハイデガーの言葉でいえば、「存在史」)が姿を現わしてくるのです。そうしたスケールの大きな思考はもちろんハイデガーの中にあるものですが、木田さんの解説は、それを熟練の腕さばきで、一般読者に伝わるように再構成してくれるのです。

目からうろこの落ちる場面は随所にありますが、〈現前性〉という概念の説明はその一つです。昔流行したジャック・デリダの「現前の形而上学批判」では、〈現前性〉はもっぱら敵役とされていて、そうした観念がハイデガーに由来することも知られていましたが、〈現前性〉のどこがいけないのか正直いってピンときませんでした。木田さんによれば、ハイデガーは、〈現前性〉という概念に、〈制作され終わって、それ自体で自立して存在し、いつでも使用されうる状態で眼前に現前している〉という意味合いをもたせているというのです。ハイデガーは、「古代ギリシアの存在論の了解地平として働いているのが、人間の制作行為だということ」を明らかにしました。〈存在=現前性〉とは、〈存在=被制作性(作られて在るもの)〉にほかならなかったのです。このようにハイデガーは、(ニーチェにならって)プラトン=アリストテレス以来の存在論を相対化し、「ソクラテス以前の哲学者」には、それとは異なる〈存在=生成〉という存在了解が見られることを論じました。

木田さんのハイデガー解説を読むたびに強く感じることは、木田さんはハイデガーという人物の著作に心底付き合ってきた人だなということです。『ハイデガーの思想』が出たのは1993年ですが、そのだいぶ前から木田さんはハイデガーを相対化してとらえるようになっています。「今世紀最大の哲学者」としての圧倒的・持続的影響力は認めざるをえないとしながらも、ハイデガーのナチス加担には根の深い問題があることを認めてもいます。しかし、そんなことは他の誰でもいいそうなことに思えます。

『存在と時間』を読みたい一心で哲学科に入った木田さんですが、はじめの20年間はハイデガーについて1行も書けず、ハイデガーに対するアンビバレントな気持ちを自覚するようになってからようやく適当な距離がとれて論じられるようになったそうです。

木田さんのハイデガー論の妙味は、主著とされる『存在と時間』が実のところ「未完成の失敗作」にすぎないと喝破したところにあります。そういう事実もまた専門家の間では知られていたのかもしれませんが、なにしろ本のオーラが強すぎました。あれだけ強い影響力をもった本が「未完成の失敗作」ではいかにも都合がわるいのでした。

木田さんは、『存在と時間』の初期草稿にあたる「ナトルプ報告」や講義録「現象学の根本問題」をはじめとするさまざまな資料をたんねんに読みぬき、ありうべき『存在と時間』を再構成するという芸当までやってみせています。ハイデガー関連の一連の仕事を通じて実感されることは、賞賛するにせよ、批判するにせよ、木田さんは決して観念的にものをいってはいないということです。ハイデガーを問題とする人たちは往々にして観念的、イデオロギー的です。そして学者たちは新しい解釈を求めることに汲々としています。木田さんのハイデガー論は、そうした思想や学問の流行に関係なく、今後も一般読者に読みつがれていくでしょう。

 後藤さんは、木田さん(ならびに彼の盟友だった生松敬三氏)の著作を昭和精神史としてとらえるべき必要性を示唆していますが、次はそのあたりをぜひ聞きたく思います。私の方は、昭和精神史ということでいえば、木田さんの小林秀雄への関心と、木田さんが考える小林とハイデガーとの類似点についてみていきたいと思います。
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「偏愛的文学談義」(その1)後藤→上田 (後藤隆浩・上田仁志)

2014年12月16日 19時12分19秒 | 後藤隆浩・上田仁志

池永康晟(いけながやすなり)*本文とは直接のつながりはありません。

編集担当より:新企画です。後藤隆浩氏と上田仁志氏による文学談義を無期限連載いたします。おふたりの、文学をめぐるやりとりを身近に見ながら、よくぞ話題が尽きないものだと感心したのは一度や二度ではありません。物静かな雰囲気なのではありますが、そこには文学への尽きることのない情熱と、これまで幾度も議論を重ねてきたことによる言葉の層の厚みのようなものとが感じられるのです。そのライヴ感がうまく出れば、魅力的な読み物になること請け合いです

「偏愛的文学談義」(その1)後藤→上田
上田仁志様

この度、往復書簡形式による「偏愛的文学談義」を始めることになりました。文学を中心に様々な話題を取り上げて、論じ合っていこうという企画です。どうぞよろしくお願いいたします。この企画の原案が固まったのが八月上旬のことでした。その後、具体的な内容についていろいろと案を考えていたところへ、木田元氏の訃報が伝えられました。木田氏の文筆活動は、我々も含めて広範囲の多くの読者に、様々なレベルで影響を与え続けてきたものと思われます。木田氏追悼の意を込めて、最初のテーマは木田元論ということで始めたいと思います。

木田氏は1990年代に入ると、広く一般的な読者を対象とした文筆活動を展開し始めました。初エッセイ集『哲学以外』が出版されたのは、1997年。翌1998年には、1994年からの連載をまとめた『わたしの哲学入門』が出版されています。以後、エッセイ集、対談、新書、自伝の出版が続きます。このような一般読者向けの著作は、多くの読者の関心を、木田氏の哲学的著作へと導いたものと思われます。ここ20年程の間、日本の読書界は、静かなそして確かな読者の意識に支えられた「木田元ブーム」とでも言うべき活況を呈していたような気がいたします。

自伝的作品『闇屋になりそこねた哲学者』は、いわゆる木田哲学入門とでも言うべき一冊ではないでしょうか。この作品においては、回想的語りにより、木田氏がどのような経験、思考を積み重ねて哲学の道を歩むようになったのか、その精神過程が読者に提示されています。もちろんそこで語られている内容は、木田氏個人の経験、生活、思考でありますが、現代の読者にとっては、その内容が単なる一個人の回想というレベルを越えて、昭和精神史というレベルの普遍性に到達しているように思われます。この作品には、木田氏の視点から語られた木田氏の経験と思考を素材としたところの昭和精神史といった趣があるのではないでしょうか。キーワードをいくつか拾ってみましょう。満州、海軍兵学校、原子爆弾、敗戦、引き揚げ、闇米。戦前、戦中、戦後と大きな変化を伴う昭和期を理解するための数々の言葉。これらを木田氏は実際に経験してきました。そして哲学者としての思考訓練を積み重ねてきた現在、木田氏は哲学者の眼でこれらの経験を語り直しているのです。この作品を読み込んでいきますと、昭和の精神史が読者の心の中で生き生きと動き始める思いがいたします。生松敬三、小野二郎といった木田氏の友人達も生き生きと語り始める気がいたします。

このような木田氏の自伝的語りのスタイルの原点は、盟友生松敬三氏との対談に見いだされます。1979年9月臨時増刊『現代思想 総特集ハイデガー』誌上において、二人は「ハイデガーと現代思想」という対談を行っております。この対談において木田氏は、親友の生松氏にも初めて話すこととして、戦後の再出発、ハイデガー『存在と時間』との出会いといった内容から語り始めています。そして『存在と時間』に関する木田氏の見解も、生松氏に詳しく説明しております。残念ながら生松氏は、この対談から五年程後に他界してしまいます。現時点から見てみますと、木田氏はこの対談において、親友の生松氏にその後の文筆活動のプランの原型とでも言うべきものを語っていたように思われます。今後の課題として私達は、木田元氏、生松敬三氏両者の対話的思考線を念頭に置きながら、両氏の著作を追思考していく必要があると考えております。
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