財務省は、国税庁を通じて、税金=財政支出の財源という間違った税金観を学校教育にも広めています。
*税金論をさらに深堀しています。
次のことは、心にとどめておいてください。すなわち、徴税をめぐって政府がするすべての背後にある公的な目的は、公的インフラを供給することである、ということを。公的インフラには、軍事・法制・議会・政府の行政部門などが含まれます。だから、公的インフラには、最も保守的な投票者でさえもが政府にさせようとすることがらがたくさんあります。
それゆえ私は、税金を次のように見ます。すなわち、私たちが推定するところの財政支出の“正しい”額は、私たちができればそうあってほしいと思っているやり方で国家を運営するのに必要なのだから、税額はどれくらいであるべきなのか、と。私が税金をこのように見るのは、“財政支出の正しい額”なるものは、適切に理解するならば、政府財政とは何の関係のない経済政策の意思決定によるものであるからです。
*「政府財政とは何の関係のない経済政策の意思決定」という文言のなかの「政府財政」(government finance)とは、おそらく、経済政策の実施に伴う財政支出の補填のための徴税、いいかえれば、財政支出の財源としての税金という考え方を指しているものと思われます。
政府が政策を実行するうえでの本当の“コスト”とは、政府が消費する現実の財やサービス、すなわち、労働時間の総体や燃料や電気や鉄鋼やハードディスクなどです。これらは、政府が消費しなければ、民間部門に役立てられたはずのものです。だから政府が、政府自身の目的のために、それらの現実の経済的諸資源を動員するとき、民間部門には、より少なくなった経済的諸資源が残されることになります。
*「経済的諸資源」は、resources の訳です。先日来日したステファニー・ケルトン教授がしきりに「resource」と言っているのが印象的でした。MMTの重要な概念のひとつと見て間違いないでしょう。
たとえば、防衛のために十分な数の兵士を備えた“正しい規模の”軍隊の現実のコストは、食物を育てたり、車を作ったり、医療部門や看護部門に従事したり、会社経営をしたり、私たちに株や不動産などを売ったり、私たちの家に色を塗ったり、芝生を刈ったり、なんたり、かんたりする労働力がその分少なくなるということです。
それゆえ、私の見方によれば、私たちは、“財政支出の補填”への慮(おもんぱか)りではなくて、現実の便益と現実のコストに基づいて、公的インフラの“正しい”水準で政府の大きさを最初に設定します。通貨システムは、私たちが自分たちの現実の経済的政治的目標を達成するために使う道具であって、経済的政治的な目標が何なのかという疑問についての情報の源泉なのではありません。正しい大きさの政府を持つために私たちが何を支出する必要があるのかを決めた後、私たちみんなは政府がそれ自身の買い物をしてから例の“デパート”で売っているものを買うのに十分な購買力を持つように課税額を調整するのです。
ざっくりと言えば、私は、税金は財政支出よりかなり少ないほうが良いと思っています。その理由はこれまでもいくつか述べましたが、後でもっと踏み込んで述べましょう。事実として、GDPの5%を占める財政赤字は、ノルマであることが判明しました。そうしてその年額は、約7兆5千万ドルです。しかしながら、その数字自体は、経済的に大したことではありません。それは、経済環境次第で、額が増えたり減ったりしうるのです。徴税の目的は、経済全体の均衡を図り、経済状況が過熱気味になったり冷え込んだりしないことを確かめることである、という点が重要なのです。私たちが望む政府の大きさと範囲を与えられたうえで、連邦政府の財政支出は、この正しい額に設定されます。
そのことは、経済を下降状況から救い出すために、私たちは政府の規模を大きくすべきでは“ない”ことを意味します。私たちは、すでに政府の正しい規模を決めているのですから、経済が下降気味になるたびに、その規模を大きくする必要がありません。だから、景気の下降局面で財政支出をすることは、実際には、数字を増やすことになり、不景気を終わらせるのでしょうが、私にしてみれば、それよりも、十分に効果的なところまで適正な減税をして、望ましいところまで民間部門の支出の回復を図るほうが望ましいと思っています。
*このあたり、自説をケインズ政策的な「大きな政府」と一線を画す意図が感じられます。