美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

しばらくお休みします (美津島明)

2015年02月23日 07時54分39秒 | ブログ主人より
しばらくお休みします



しばらくブログをお休みします。中国四川省の妻の実家に行ってくるからです。一週間前に先に行った妻の後を追う形で、今日出発します。帰ってくるのは今月末。帰りは妻と一緒です。約20年ぶりの中国四川省がどうなっているか、興味があります。また、妻の妹の子どもたちに会うのも楽しみです。写真で見る限りふたりともなかなかの美少女ですからね。

中国については昨今、「バブルがはじけた」「もうすぐ、リーマン・ショック以上のチャイナ・ショックが押し寄せる」「中共は、もう終わりだ」という刺激的な論調が耳に入ってきます。本当のところ、中国はいったいどうなっているのか。先入観をなるべく排して、裸眼で見て来たいと思っています。

友人から借りていた藤沢周平の文庫本四冊だけを持っていこうと思っています。やれピケティだ、ケインズだ、アダム・スミスだ、と読書会や勉強会やブログ・アップがらみの本を読むことに時間を取られて、こういった類の本を読む時間的・精神的余裕がない、という状況がずっと続いていました。生徒は少ないのですが、完全個別指導で教えているので、仕事にけっこう手間がかかるというのもあったりします。定期試験の国語の漢字書き取りの予想問題を作ったり、なんてことをやっているのですからね。そこまで細かいことをやらないと、零細塾はすぐにつぶれてしまうのが現状です。死ぬまで、こんなことをやっているのでしょうね。

太宰治ではありませんが、このごろつくづく奉仕の心、と言って抵抗があるのならば、サービス精神の大切さを痛感しております。これが根本にない人柄や文章を拒絶する気持ちが強まっているのですね。自分自身、ひとさまから、そういうものが欠如していると思われないようにしたいものであります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKピケティ講座・第1回~第4回放映分が、再アップされました

2015年02月19日 18時30分24秒 | 経済
NHKピケティ講座・第1回~第4回放映分が、再アップされました

you tube で削除されていたピケティ講座・第1回~4回が再びアップされたので、私も早速ブログ上で再アップしました。残念な思いをなさっていた方は、いまのうちにごらんください。

NHKの削除に関する抜け目のなさには定評があります。少しづつ減少しつつある既得権益を守り抜こうとする敏感さを感じますね。you tube でピケティを学ぼうとする奇特な人は日本広しといえども、数千人いるかいないかではないかと思われるので、別に、そこまで必死に削除しなくても、NHKの利益にあまり影響しないような気もするのですけれどね。

いずれにしても、またすぐに削除されるはずなので、観られるうちに早めにごらんください。私としては、ピケティが世界に向けて発信している内容が、今後の資本主義の行く末に関わる重大なものであると思っていますので、NHKのハードな削除攻勢にめげずに、しぶとく再々アップ、再々々アップをしようと思っています。

・第1回http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/b8a7334f4757820364e5c72fccf068f7
・第2回http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/aa9559b23c0686f64be1ce7a3ada1e23
・第3回http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/fe87f102b8e4019f62abaf8560bff864
・第4回http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/2919586df4a97878b5882f2710908b01



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偏愛的文学談義(その4) (後藤隆浩・上田仁志)

2015年02月17日 21時08分30秒 | 後藤隆浩・上田仁志
偏愛的文学談義(その4) (後藤隆浩・上田仁志)


[まえおき]

昨年末〈偏愛的文学談義〉なる往復書簡形式のブログ記事を始めたのですが、3回で頓挫してしまいました。再開するにあたって、心機一転というほどでもありませんが、今回は、タイトルの通り、後藤と上田のあいだで交わされた談義(じつは携帯メールによるやりとり)をそのまま載せていただこうと思います。今回のテーマも哲学者・木田元ですが、今回はその最終回といたします。

[木田先生の謦咳に接して]

上田 はじめに、今回のブログ記事の一応のねらいを申します。木田元氏の表看板はむろん「哲学」ですが、木田さんには、じつに幅広い関心領域があって、それについては、おりにふれエッセイなどに書かれています。木田さんのエッセイは、自伝的な文章、交友関係、文学や読書に関するもの、音楽や映画の話題などさまざまですが、今回はそうした木田さんの「哲学以外」の側面に目を向けたいと思います。
 ところで、私は著作を通してしか木田さんのことは知りません。そこで、木田さんの謦咳に接したことのある後藤さんに、こぼれ話などを伺えればと思います。木田さんの人となりは、文章から受ける印象と比べていかがですか。

後藤 木田先生にお会いする機会を得たのは、最初のエッセイ集『哲学以外』(1997年)が出版された頃です。文章から受ける印象の通りの人柄で、身体と思考を鍛え上げてきた力強さを感じました。『哲学以外』に収録されているエッセイ「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」の精神を実感し、以来「追思考」という概念が自分の思考の基層に定着したと思います。2008年にNHKで、爆笑問題コンビが木田先生宅を訪問して哲学の教えを受けるという内容の番組が放送されました。木田先生の語り口、人柄を知ることのできる貴重な映像の記録になったと思います。
『週刊読書人』(2014年9月12日)に掲載された教え子による追悼対談(加賀野井秀一氏と村岡晋一氏)においては、様々なエピソードが紹介されており、木田先生の人柄を知ることのできる貴重なテキストと言えましょう。授業の後のカラオケで同じ歌を繰り返して歌うと、「進歩がない」と木田先生に野次られたとのこと。丸山圭三郎氏、生松敬三氏も木田先生にカラオケの世界に引っ張りこまれ、その結果丸山氏は、『人はなぜ歌うのか』を出版するに至ったということです。この対談で語られている重要な情報として、木田先生が構想していたハイデガー論の決定版のことに留意しておきたいと思います。『存在と時間』のまとめとして「時間と存在」「時間と運命」を書くことが予定されていたとのことです。今後この課題がどのように継承されていくのか、関心を寄せていきたいと思います。

上田 木田さんが〈歌う人〉だという観点はなかなか興味深いです。鑑賞するだけでは満足できず、自ら実践するのを旨としている。徳永恂氏も、「木田元君を偲んで」という追悼文で、「東京で[勉強会を]やった後は、必ずといっていいほど、行きつけの新宿のカラオケバーに寄って、木田、生松、丸山といった名手たちの自慢の咽喉を聞かせてもらうのが常だった」と書いています。木田さんによれば「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」だということになりますが、カラオケで歌うことも、ただの気晴らしというより、何かしら精進すべきもの、競い合うもの、修業に近いものだったのかもしれませんね。凝り性な性格といったものも感じられます。

[歌謡曲マニア]

上田 ところで、私としては、木田さんがカラオケでいったいどんな曲を歌ったのか、そこらあたりを知りたいところです。というのも、先般刊行された『KAWADE道の手帖 木田元 軽妙洒脱な反哲学』(2014年)を読んだとき、意外な気がして最も印象に残った文章が、加國尚志氏による「反-哲学者の足跡」という解説文の、冒頭の一節ならびに末尾の一節だったからです。冒頭の一節はこうです。

《その人は、小雨のなか、茶色のスーツを着て立っていた。/もんたよしのりの唄う「赤いアンブレラ」が流れる葬儀場の遺影の前にたたずんで、喪服の私は、二〇年以上前にはじめて木田元にあった日のことを思い出していた。/まだ大学院生だった私の目の前に立っていた木田元は、実際の身長よりずっと大きく、とても力が強そうに、見えた。》

もんたよしのりといえば、個性的なハスキーヴォイスで、デビュー曲「ダンシング・オールナイト」(1980年)を軽快に歌い、一世を風靡したヴォーカリストですね。「赤いアンブレラ」は、かれの二番目のシングル曲で、アップテンポだった前曲とは打って変って、哀愁をおびたスローバラードでした。たしかに葬儀場に流れていてもあまり違和感はないかもしれません。ですが、なんといってもメルロ=ポンティ哲学やハイデガー哲学の泰斗の告別式ですからね、ふつうだったら、穏やかなクラシック音楽(たとえば木田さんの好きだったモーツァルト)でも流すのではないでしょうか。ところが、実際は、日本の歌謡曲。じつに意外です。もっとも、木田さんを親しく知る人には、意外でもなんでもないのかもしれませんが。「赤いアンブレラ」は、カラオケ好きだった木田さんの十八番だったのかもしれませんね。
というような次第で、木田さんは日本の歌謡曲のかなりのファンだったらしいのですが、後藤さんは、そのあたりのこぼれ話は耳にしたことがないでしょうか?

後藤 『哲学以外』のはしがきに書いてあるように、木田先生は「日常生活と哲学を勉強することとのはざま」を意識していたようですね。文学書、ミステリー、モーツァルト、はやりの歌、映画、テレビドラマ等を深く楽しんでいたようですね。人間の精神活動全般に対する感度の優れた人だったと思います。『哲学以外』に収録されている「大塚博堂ファンクラブ始末記」は印象に残りますね。「ホサカのこと」では保坂和志氏との交流について書かれています。保坂氏の友人タダ君(小説の登場人物のモデル)のカラオケでの芸は、ただごとではないとのこと。歌が木田先生の幅広い交流の推進力の一つであったと言えそうですね。

上田 なるほど。「大塚博堂ファンクラブ始末記」(1996年)というのは、知る人ぞ知るシンガー・ソングライター大塚博堂の熱心なファンとの交流を楽しげに綴った文章ですが、木田さんはこうしたファンの集いにも、まめに足を運んで楽しんだのですね。その大塚博堂について木田さんはこう記しています。

《大塚博堂、といっても、ご存じの方はほとんどいないと思うが、一九七六年に三十二歳でデビューし、五年後の八一年に急逝した薄幸のシンガー・ソングライターである。心に沁みる叙情的な曲をいくつも作り、それを表情豊かな声で歌ういい歌手だったが、アルバムを八枚残してひっそりと去っていった。》

じつのところ、私自身、大塚博堂(1944~1981年)という歌い手の印象はほとんどありませんでした。木田さんは「過ぎ去りし想い出は」(1977年)という曲を聴いたのがきっかけで熱心な博堂ファンになったそうです。私は「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976年)という彼のデビュー曲が、記憶の片隅にあった気がするくらいです。先日、『大塚博堂・ゴールデンベスト・シングルス』というアルバムを聴いてみましたが、とりわけ印象的だったのは、その声の魅力です、たいへんな美声の持ち主といってもいいでしょう。もちろんたんに美しいというだけでなく、声に表情がある、繊細さと奥行きがあるのです。声の感じや歌いぶりはいくぶん「青葉城恋唄」(1978年)のさとう宗幸(1949年~)を連想させます。二人とも「心に沁みる叙情」派シンガーだといえます。余談ですが、この二人には他にも共通点があります。二人ともフランスのシンガー・ソングライター、ジョルジュ・ムスタキをこの上なく敬愛していたそうです。面白いです。
 ところで、さきほどふれた加國氏の文章ですが、末尾の一節はこうです。

《出棺の見送りが終わって、私は、八月真夏の暑い道を北習志野の駅に向かって歩きながら、昔、木田元にモーツァルトについてたずねたときのことを思い出していた。/木田元が小林秀雄の『モーツァルト』が大好きで、モーツァルトについてもエッセイを書いていたことを知っていた私は、モーツァルトならどんな作品がお好きですか? などと、およそまじめくさったことをたずねたのだった。/木田元は、「え、モーツァルト? うん、まあねえ・・・・・・」と言葉をにごし、それからぎらりとメガネの奥の目をかがやかせ、メフィストフェレスのようにニヤリと口角を上げたアイロニカルな笑みをうかべると、「エヘッ、ちあきなおみ、なんかが、ね・・・・・・」/私は、虚をつかれて、ぽかんとした顔をしていたにちがいない。あのときの、いたずらっぽい反哲学者木田元の笑顔が、夏の昼下がりの商店街に長い影を落としてフェイドアウトしていくようだった。》

いきいきと想像力を駆り立てる、味のある文章です。木田さんに、世間向きの顔ではない、別の顔があることを示してくれます。木田さんのモーツァルト好きがマユツバ物だとはいいませんが、ある程度、カムフラージュの役割をしているのはたしかでしょう。本当に好きなのは、ちあきなおみ。これは秘話でもなんでもなくて、たまたま表明する機会が少なかったというだけの話かもしれません。読者は(というか私は)公式イメージのほうに気をとられがちなので、意外に感じてしまうにすぎないのかもしれません。私は、以前、小林秀雄についても、これに近い感じを懐いたことを思い出します。小林秀雄が好んだ音楽といえば、クラシック音楽、とりわけモーツァルトの器楽曲ということになっていますが、そのかれが、めずらしく「江利チエミの声」という短い文章を残しています。

《私は、江利チエミさんのファンである。無精者だから聞きに出向いた事はないが、テレビでは、よく聞くし、レコードも持っている。そんな事を云ったら、新聞の方が、では、何故ファンなのか書けと云う。それは無理な話で、ファンはファンであってたくさんだと思うのだが。私は、江利チエミさんの歌で、一番感心しているのは、言葉の発音の正確である。この正確な発音から、正確な旋律が流れ出すのが、聞いていてまことに気持ちがいい。》 (朝日新聞に掲載、1962年)

江利チエミはジャズ歌手ですから、「言葉の発音の正確」というのは、おもに英語の発音の正確さをいっているのでしょうか。あるいは、日本語も含めての発音の正確さでしょうか。おそらく両方とも、という意味なのでしょう。曲目など、具体例があげられていないので、そのへんはさだかではありません。しかし、一説によると、小林秀雄は、江利チエミのレコードはすべて持っていたそうですから、本当に理屈抜きに好きだったのはたしかなようです。小林秀雄が、カラオケで「テネシー・ワルツ」を熱唱する姿は想像を絶しますが、酔っ払った勢いで、ワンフレーズ口ずさむくらいのことはあったにちがいありません。ついでにいえば、小林の戦後の代表作が、モオツァルト論であって、江利チエミ論でなかったというのは、当時の文壇の常識からいっても無理はありませんが、なんだかさびしい気がします。
 さて、ちあきなおみに話を戻しましょう。木田さんに「アゲイン」(2001年発表)というタイトルの文章があります。映画『時代屋の女房』(1983年)の挿入歌に使われていたのが妙に印象に残ったという一曲「Again」。これを歌っているのがちあきなおみだと知り、木田さんは、フルコーラスを聴きたいばかりにさんざん苦労して収録アルバムを探し回ったということが述べられています。

《昔からちあきなおみという歌手は好きだった。なにしろ歌がうまい。歌に情感がこもっている。「さだめ川」や「矢切の渡し」など泣きたいくらいいい。この二曲、どうしてかその後細川たかしが唄うようになったが、ちあきなおみのほうがずっと味があった。》《歌のうまい下手は他人の歌を唄わせてみるとよく分かる。この子くらい、ほかの歌手の歌を唄わせてうまい唄い手はいない。》《ちあきなおみさん、世紀の替わったところで心機一転、それこそもう一度[アゲイン]、あのあでやかな姿を見せ、あのうまい歌を聴かせてくれないだろうか。》

一読して明らかなように、これはちあきなおみに捧げた熱烈なオマージュです。また、木田さんの歌謡曲好きの一端がしのばれる好エッセイだと思います。しかし残念なことに、好きだった歌謡曲について、文章のかたちで、木田さんが残したものは数少ないのです。私としては、そのへんの話をもっと書いてもらいたかったという気がします。

[木田さんの交友関係]

上田 さて、このあたりで木田さんの交友関係に話題を移しましょうか。後藤さん、そのあたりについてはいかがですか。

後藤 戦後の混乱期を経て、木田先生は新設された山形県立農林専門学校に入学します。ここで哲学者阿部次郎の甥にあたる阿部襄先生と出会います。『闇屋になりそこねた哲学者』において、阿部先生には本当に親身に世話をしてもらったと回想しておられます。この農林専門学校の設置という出来事は、当時の社会状況の一面を知る手がかりになります。木田先生の回想の語りによれば、終戦直後には「農業立国」ということがさかんに言われていたとのことです。また、この農林専門学校は満州や台湾から引き揚げてきた教育者の救済機関のような役割もはたしていたとのことです。哲学者斎藤信治氏が講演のために来校したことにより、この学校は、哲学者木田元誕生の源とも言える重要な場所となりました。恩師の阿部襄氏は、唯一の小説作品『柿の実』を執筆しております。昭和30年1月から地元新聞に130回に渡って連載されたものです。逝去後に一冊の本の形にまとめられました。
この作品は、終戦により吉林から帰郷した阿部襄氏の経験が素材となっております。農林専門学校の開校準備および開校後の様子についても丁寧に描かれております。地方における戦後復興の雰囲気を伝える貴重な記録であると言えましょう。若き日の木田先生は、学生木下君として登場しております。結果的に教授と学生の両者がそれぞれの視点から回想のテキストを書いたことになりますね。両テキストには、共通するエピソードもあります。視点、認識、記憶、印象といった人間の精神の働きについて改めて考えてみたいと思います。

上田 その阿部襄先生に関連して、木田さんは、農林専門学校時代の自分自身についてちょっと面白いことをいっています。『なにもかも小林秀雄に教わった』から引用します。

《この新設校[農林専門学校]の先生たちにはいわゆる海外からの引揚者が多かったが、そのなかに満州で父と付き合いのあった先生がいらしたのだ。応用動物学の阿部襄先生である/父は敗戦前、満州国のいわば高級官僚で、日本の文部省にあたる教育司の長官や、日本の人事院にあたる人事処の長官などをしていた。その教育司長時代、吉林市にあった教員養成のための吉林師導大学の先生たちとも交流があったようで、そこにいらした阿部先生には同郷ということもあって親しくしていただいていたらしい。阿部先生の方では、入学願書などで旧知の木田清の長男が入ってくることを知っておられたらしく、最初の授業のあとに声をかけてくださった。/ところが、私の方はそのころすでにワルで名を売っていたのでややこしいことになった。阿部先生や知性派の友人の前ではいい子ぶっていたが、ほかの先生や同級生たちの前ではワルぶってみせなければならない。複雑な二重人格を演じ分けることになった。》

若き日の木田さんは、敗戦後の混乱の中で、家族を養う必要があり、闇屋家業に手を染めていた。そうしたことは、今となってはなかなか想像できませんが、多分にアウトローな生活を余儀なくされていたのでしょう。学生生活においても、いわゆるバンカラとはちがうかもしれませんが、ある種の粗野さを振りまきながら、そのじつ、不安や充ち足りない心をもてあましていたのです。そうした気分を忘れようとして、手当たり次第に本を読みあさりもしたといいます。イイコとワルとの二極分裂。相当深刻な精神的危機をくぐりぬけたのだと思います。
 もう一つ留意しておきたい点があります。木田さんは、こうした自己成型を率直に書き記していますが、どちらかというと、ワルだったと見られることを好んだらしい、否、そうではなく、ワルを強調することで、結果的に、イイコだった自分をカムフラージュしていたふしがある、ということなのです。三浦雅士氏は、「出発点としての木田元」というエッセイで、こんなことを述べています。

 《少なくとも私の印象では、木田さんは生松さんに、自分は戦後、闇屋をやっていたということは強調しても、父が満州の高級官僚でシベリア抑留から帰ってからも新庄市長を何期かつとめた政治家であったということは話していなかったと思う。生松さんの口ぶりでは、木田さんはそもそも哲学をやるような境遇にはなかった、なぜなら闇屋あがりの農林専門学校出なのだから、というわけで、これは何も生松さんが木田さんを貶めているのではなく、木田さんが生松さんに語ったことを、おそらく感心しながらそのまま私に話してくれただけなのである。先祖が山形の素封家――なにしろ芭蕉を泊めた庄屋なのだ――で、父は新庄市長――地元でいまも尊敬されている――だということは、あえていうが、おくびにも出さなかったのだとしか思えない。》

三浦氏のこうした印象が事実だとすれば、木田さんは、盟友といわれる生松さんにも、ワルの面だけ見せて、イイコの面は明かさなかったことになります。そのことにはたして特別の意味があったかどうかはわからないのですが、気になっています。つねに穿った意見を述べる癖のある三浦氏は、木田さんには、十代の頃の自分が抱えていた「不安と疑惑」が正当なものだという確信があったのだといいます。さらに、その確信は、木田さんが江田島海兵学校の一年生のときに、原爆を目撃した体験から来ているのだというのです。

《不安と疑惑に苛まれるのは自分が劣っているからではない。むしろ苛まれないほうがおかしい。原爆を生んだ理性に対しては根源的な不安と疑惑をもって当然なのだ、という確信があったのだと思う。》

ヨーロッパ中心主義、理性中心主義に対する批判ということなら、たしかに、後年の木田さんの反哲学構想につながっています。しかし、かりに木田さんが「不安と疑惑」の正当性を確信していたからといって、イイコの自分を見せたがらなかった理由にはなりません。むしろ、そこには恥じらいの意識というか、独得のこだわりがあるような気がします。しかし、今のところ、材料もないのでこの話はやめにします。些末なことにこだわりすぎたかもしれません。失礼しました。
 木田さんの交友関係がテーマでした。後藤さんが他に注目する人はいますか。

後藤 『哲学以外』収録の「佐伯先生のこと」は、佐伯彰一氏との交流についてのエッセイです。中央大学内の遠距離通勤教職員用宿泊設備に偶然同じ曜日に宿泊していたことから朝食を御一緒するようになったとのことです。この「朝餉の会」と名付けられた朝食会においてどのような話が展開されたのか、我々読者としても知りたいところです。幸いなことに雑誌『大航海』第38号(2001年4月)に、佐伯彰一氏と木田元氏の対話「思想の力・文学の力」が掲載されております。この対話を「朝餉の会」の拡大版テキストとして読んでみると楽しいと思います。この対話において、木田先生は保田與重郎に関して次のように発言されています。

《桶谷秀昭の『昭和精神史』は、戦前・戦後篇を通して昭和の初めから二・二六事件、さらに三島の自決までを一つの歴史として描いています。その歴史を貫いているのが、「情」としての日本、という概念だという。ただね、その「情」としての日本、というのがぼくにはわからないんです。どうも桶谷さんはその概念を保田與重郎から学んだ、ということらしい。保田がその「情」としての日本なるものを、生まれ育った大和の地から感得したのだとすると、満州育ちのぼくに分からなくても当然ということになるのですが。》

このような保田に関するする問題は持続的に考察されたようで、2008年出版の『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)の最終章「小林秀雄と保田與重郎」において詳しく論じられております。保田與重郎問題は我々が個人のレベルでクリアしなければならない課題ですね。昭和文学史、昭和精神史の領域に、木田先生は、独自の見解を示してくださったように思います。

上田 佐伯彰一氏については、ぜひともこの文学談義でもとりあげたいですね。「佐伯先生のこと」の中で、木田さんは「私は先生のご本のなかでも、特に『物語芸術論』が好きで、かれこれ三、四回は読み返している」といっています。コンラッド、フォークナー、谷崎・芥川論争などをとりあげたこの評論は、出色の出来です。保田與重郎については、木田さんが私淑した小林秀雄の対極にあるような、もう一人の大きな存在として、徐々に意識せざるをえなくなったのだと思います。木田さんは満州育ちなので、日本的な「情」ということがわからない、という発言は、どのような思想史的文脈でとらえるのがいいのか、よく考えてみる必要があります。たとえば、木田さんには、左翼体験はなかったらしい。したがっていわゆる転向問題も生じなかったようです。このことも、はたして満州育ちと関係があるのかないのか、といったことですね。
(おわり)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喫茶店、いまむかし (美津島明)

2015年02月11日 13時39分33秒 | 文学

「珈琲専門店 TOM」のカウンター席
http://blog.livedoor.jp/tabearuki_tokyo/archives/4434325.html(三十路サラリーマンが食ったり飲んだりするブログ)より引用させていただきました。

喫茶店、いまむかし

先日、若い人と飲んだ。彼とは、久しぶりといえば久しぶりだった。彼は二十五歳である。私の年齢のちょうど半分だ。そういう歳の差を気にしないで楽しくお酒が飲める、私にとって貴重な存在である。飲み友達の定義が「いっしょに飲むと酒がおいしくなる人」であるならば、彼は間違いなく飲み友達だ。

いつものように文学ばなしを肴に酒を(われわれは日本酒党だ)酌み交していたところ、彼がいうには、最近村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んでいるとのこと。以前、『ノルウェイの森』と『ダークサイド』を読んでちっとも面白くなかったので村上春樹には興味がないという彼に、では初期のものを読んでみてはどうか、特に『羊をめぐる冒険』はいいよ、と私が勧めたのを覚えていて読んでみたというのである。だまされたつもりで読みはじめてみると、これがなかなか面白くて、村上春樹の良さが初めてわかったという。「ところで」と彼がいう。「喫茶店に入って本を読んで、などというシーンには違和感を抱いてしまう。そういう行動パターンが自分らにはないので、どうもピンとこない。」彼の率直な言葉に、私は、いささか不意打ちをくらったような思いを抱きかけた。でも、思い返してみると、それは時代の流れからすれば自然な成り行きなのだった。

 大学生のころ、私は近代文学会(略して近文会)という文芸サークルに入っていた。年に四・五回メンバーが創作した詩と小説の、それぞれの謄写版の機関紙を発行していた。そして、発行するたびに合評会を開いた。夏合宿もやった。思えば、けっこう真面目に活動していたのだった。
近文会には部室がなかった。では、毎日どうやって集まったのか。大学のラウンジの片隅に設置された木製の粗末な棚を板で細かく平べったい直方体の形に区切ったスペースのそれぞれに、各サークルの連絡ノートが置かれていた。近文会のノートもそのなかの一角にあった。それをめくって、今、他のメンバーがどこにいるのか確認した。たいてい、大学の西門を出て数分のところにある『檸檬屋』という喫茶店にいた。そこが、わが近文会のメンバーたちの事実上の「部室」だった。

私の場合、たいてい後ろの一コマか二コマか授業を残して(さぼって)、『檸檬屋』に向かった。

木材でたてながの格子状に細工され、長方形の小さなガラスがそれらのグリッドにはめ込まれたドアを引く。すると、ウナギの寝床のような薄暗い空間の右側に木製の四人がけテーブルが四つ続いているのが見える。左側はカウンターで、椅子が四、五脚あった。カウンターのなかには、サイトウさんという二〇代後半の色白で華奢なカーリーヘアの美人ウェイトレスがいつもいて、われわれが店のドアを開けて顔をのぞかせるたびに、にこっとほほ笑みながら「いらっしゃい」と声をかけてくれるのだった。店のいちばん奥に、壁掛けライトでぼんやりと照らし出された、詰めれば八人ぐらい座れる長方形のテーブルがあった。そこが、近文会の事実上の「指定席」だった。というより、そこをわれわれが傍若無人に「占拠」することを店が寛大にも許してくれ続けたというべきだ。

そこで、私はサークルのメンバーとともに、はたから見ればガキのたわごととしか思われないような「言葉の宴」をほぼ四年間飽きもせずに繰り広げた。話しの相手の言葉の背後に見え隠れするあれこれの書物をこちらが読んでいなくて、たわいなく言い負かされてしまったときの悔しさを噛み締めて、家に帰ってその書物を読む。大学の授業で習ったことは今ではすっかり忘れてしまったけれど、そうやって読んだ書物の中身は、今でも覚えている。
そんな学生時代を過ごしたせいなのだろう。私は、家でよりも喫茶店でのほうが読書に集中できる。
そういう習慣が身についてしまったのだ。

 異変を感じ出したのは、1980年代末のバブル崩壊から数年たったころだろうか。

 落ち着いて本を読める喫茶店がひとつまたひとつとその姿を消しはじめたのだ。そして、それと入れ替わるようにして、百数十円で「おいしい」コーヒーが飲める格安の喫茶店が跋扈しはじめた。(『檸檬屋』は私が大学を卒業した二年後に店じまいした)私だって、そういう類の喫茶店をたびたび利用するし、そこで本を読むことだってある。でも、自分が慣れ親しんできた喫茶店の雰囲気と、跋扈しはじめたそれらの店のそれとはどこかが決定的に違うのだ。神経に障るなにかをどこかで我慢しながら、あるいは敏感なところに部分麻酔をかけながら、その場にいるような感じがつきまとう、といえばいいのだろうか。

 考えてみれば、ぽつんとひとりで本を読んでいるような「ぜいたく」を許容しない、客の回転効率的な発想を露骨に全面に押し出したような空間で、まともな若者が本を読もうとしないのは、当たり前である。そういうところであえて本を読もうとするのは、私の悲しい習い性なのだろう。

 若い友の話を聞いて、そういう記憶と想念が私の脳裏をかけめぐった。私は、ちょっと言葉をさがしあぐねながら、「そういう経験はないかもしれないけれど、そういう描写に接するとどこかしらなつかしい感じがするんじゃないの?ジュークボックスとか」と言ってみた。彼は、「それはそうですね」といってくれた。「だったら、それでね、村上の作品を味わううえでは問題ないんじゃないの」

 その二、三日後だっただろうか。午前中仕事で代々木に立ち寄った。先方との待ち合わせの時刻までには、まだ間があった。なんだかコーヒーが飲みたくなってきた。そういえば、まだ朝飯も食べていなかった。それで、手ごろな喫茶店を探すことにした。真っ先に、『ドトール』の黄色い看板が目に飛び込んできた。どうしようかと迷ったがほかを探すことにした。ここは学生街だろう。『ドトール』以外に喫茶店の一軒や二軒くらいあるだろう。そういえば、予備校生だった昔、何軒もあったような気がするのだが。と心のなかでぶつぶついいながら新宿駅南口方面に向かって歩きながら探してみるが、どうも昔と勝手が違う。やはりないのか、とあきらめかけたとき、『珈琲専門店 TOM』という白抜きの文字の浮かぶ茶色い木製の看板が左手に見えた。一度来たことがあるような気がすると思いながら、ドアを開けてみた。

店内は薄暗かった。カウンターの席に着いてしばらくすると身体の芯がほぐれていくような感じがした。店員は三名いたが、マスターらしき人をふくめて皆物静かである。店内には、外とは明らかに異なる空気が漂っていた。一時代前の空気、そう、そこには「昭和の空気」とでも形容するほかはないものが流れていた。丹精をこめてつくられたコーヒーとトーストを、私はゆっくりと味わった。よくこんな店が、バブル以降のハードな高速資本主義の荒波に呑みこまれないで生き残ったものだと思った。手元のレシートの裏側にあったお店のメッセージが印象的だったので、メモをしておいた。

毎度ありがとうございます。
携帯電話での通話はご遠願います。

コーヒーの何と美味しいことよ
千のキスより尚甘く
ムスカート酒より尚柔らかい
コーヒーはやめられない
私に何か下さるというのなら
どうかコーヒーを贈って下さいな

 1732 コーヒーカンタータ より
作詞 ビカンダー
 曲  J.S.バッハ


私は、レトロで都会的な気取りを好む。今度気心の知れた仲間と再訪したいものだと思っている。

(埼玉県私塾協同組合機関紙『SSK REPORT』掲載 掲載号未詳)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK放映「トマ・ピケティ講義」第4回・強まる資産集中~所得データが語る格差の実態~(美津島明)

2015年02月07日 16時38分49秒 | 経済
NHK放映「トマ・ピケティ講義」第4回・強まる資産集中~所得データが語る格差の実態~(美津島明)

今回の講義は、まず『20世紀の資本』の立論の土台になっているデータの収集に関する話題に触れています。その次に、欧米先進諸国の資産集中や資本(資産)所得についての議論が展開され、最後に、有名な《r(資本収益率)>g(経済成長率)》に話が及びます。そのなかで、資産格差を読み解く4つのモデルとして「予備的貯蓄モデル」「ライフサイクルモデル」「王朝モデル」「ランダムショックモデル」が提示されていますが、原典では、それらが明示的に列挙されたくだりは見当たりません。おそらくピケティは、集まった意欲的な聴講生のために「本に書いてあることばかりしゃべっては申し訳ない」と思い、サービス精神を発揮したのではないでしょうか。


*資本所得についての概観

米国とフランスにおいて、富とそこからの所得(すなわち資本所得)の格差が減ったことこそが、20世紀前半に総所得格差が減少した唯一の理由です。労働所得格差は、構造的な意味では1900年-1910年から1950年-1960年までの間、減少していません。それでも総所得格差が急減したのは、基本的に高額な資本所有が崩壊したおかげなのです。このことは、他の先進国にもあてはまります。いまや、資本/所得比率(β)、すなわち国民所得に対する資本(資産)の比率が高まり、経済成長が低下している中で、資本集中が顕著になりつつあります。富の格差拡大(その帰結としての総所得格差拡大)の可能性が高まっているのです。

*ピケティの立論の土台としてのデータの出所について

ピケティは、格差の問題をはじめて実証的に提示したサイモン・クズネッツを高く評価しています。クズネッツの立論は、1913年から1948年までの米国連邦所得税申告と、クズネッツ自身が推計した米国国民所得に立脚しています。クズネッツは、それらの自分が集めたデータによって、米国の総国民所得のなかで、さまざまな階層のシェアがどう変わっていったか、あるいは、トップ1パーセントがどう推移したのかを計算できるようにしたのです。

ピケティは、自身の研究の相当部分が、「クズネッツによる1913年~1948年の米国における所得格差推移をめぐる革新的で先駆的な研究を、時間的にも空間的にも拡大したもの」であると言っています。ピケティは、スタッフや志を同じくする学者たちと手分けして、各国の税金データからトップ10パーセントやトップ1パーセントの所得を推計し、国民経済計算から各国の国民所得と平均所得を導きました。対象となった国を列挙すると、アメリカ・フランス・イギリス・カナダ・日本・アルゼンチン・スペイン・ポルトガル・ドイツ・スイス・インド・中国など二〇カ国に及びます。ピケティが、次のように胸を張るのもむべなるかな、ですね。

最終的には、世界の30名ほどの研究者による共同作業である世界トップ所得データベース(WTID)が、所得格差の推移に関する最大の歴史的データ源となっており、本書の主要なデータ源となっている。

また、次のようにも言っています。

これまでの研究と比べて本書が突出しているのは、私ができるかぎり完全で一貫性ある歴史的情報源を集め、長期的な所得と富の分配をめぐる動きを研究しようとしたことだ。

このような、膨大な量の歴史データの収集と整理ができるようになった背景には、コンピュータ技術のめざましい進歩があります。ピケティ自身、「本書は近年の研究技術改善に大きく負っている」と言っています。


*アメリカの「格差」へのまなざしの変質

DVDで、スタインベック原作の『怒りの葡萄』を観たときに感じたことがあります。それは、かつてのアメリカは、自助努力にナイーブなほどに重きを置いた社会であった、ということです。強欲金融資本の無理筋を押し通し、その果てに世界中に大迷惑をかけてもまったく恥じようとせず、また、TPPをゴリ押ししてでも自国に有利な交易条件を相手国に呑ませようとする、今日のアメリカの自分勝手で醜悪ともいえる振る舞いは、スタインベックが描いた、汗水たらして働いて生きる道を自力で切り開いていこうとする姿のシンプルな美しさとは似ても似つかぬものがあるのです。

そういう感想を漠然と抱いていた私にとって、ピケティの次の発言は、ぽんと膝を打ちたくなるようなものです。

私たちはここ数十年で、米国はヨーロッパに比べより不平等だという事実にはもう慣れっこになったし、多くの米国人がそれを誇りにさえ思っているのも知っている(格差は起業家的ダイナミズムの必要条件であるとしばしば主張され、ヨーロッパはソヴィエト式平等主義の聖域と化していると非難されるのだ)。でも一世紀前には、認識と現実の両方が正反対だった。誰の目にも、新世界は旧世界ヨーロッパに比べて不平等でないのが当然だったし、このちがいは誇るべきこととされていた

アメリカは、機会の平等の実現と本腰になって取り組むべき時期にさしかかっているのかもしれません。そうしないとこのままでは、歴史的な意味での共同記憶を見失い、図体がでかいがゆえにひたすら周りに迷惑をかけるだけの、国民意識のボート・ピープルになってしまうのかもしれません。

しかし、ピケティの、アメリカのそういう「回心」の可能性についての見通しは、次の引用に見られるとおり、かなり悲観的です。

米国では、20世紀とは社会正義の大躍進と同義ではない。実は、米国における富の格差は19世紀初めよりも現在のほうが大きい。だから失われた幸福な米国は、国の起源と結びついている。ボストン茶会事件の時代へのノスタルジアはあっても、「栄光の30年」や、資本主義の行き過ぎに歯止めをかけるための国家干渉の絶頂期に対するノスタルジアはない。

「栄光の30年」とは、ふたつの世界大戦を通じて著しく小さくなった所得格差が安定的に推移した戦後30年間を指しています。ちなみに、1773年の「ボストン茶会事件」とは、イギリス本国と茶の販売権をめぐって対立し、インディアンに変装した北米植民地人がボストン入港中の東インド会社の船をおそって茶箱を海中に投げ込んだ事件で、アメリカ独立革命のきかっけとされています。


*格差拡大の力としての《r(資本収益率)>g(経済成長率)》

「ピケティって、どういう人?」と聞かれたとき、新聞や雑誌でピケティ関連の記事を読んだことのある方ならば、とりあえず「r>gの人」と答えることでしょう。それくらいに、《r>g》という不等式は有名です。

では、《r>g》とはどういう意味なのか、それが格差の拡大とどういう関係があるのか、について、ピケティの講義内容との重複を恐れずに述べてみようと思います。というのはピケティ自身が、『21世紀の資本』のなかで、

これ(r>gのこと――引用者注)は本書できわめて重要な役割を果たす。ある意味で、この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ。

とまで言っているからです。

まずは、定義を確認しておきます。

rは資本の平均年間収益率で、利潤・配当・利子・賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ。

では、資本とは何でしょうか。

私のいう資本は人的資本(奴隷社会以外ではどんな市場でも取引できない)は除いているが、「物理」資本(土地、建物、インフラなどの物質財)だけにかぎられてはいない。「非物質」資本、たとえば特許などの知的財産は含める。これは非金融資産(個人が特許を直接持っている場合)か金融資産(個人がその特許を持っている企業の株を持っている場合。このほうが通例だろう)に分類される。

ここで注意したいのは、ピケティが、「資本」と「富」と「財産」と「資産」という4つの言葉は入れ替え可能で、完全に同義なものとして扱っているという点です。それらは、ストック概念を表すものとしてひとくくりにできる、ということであり、そうした方が、格差拡大の力を鮮明にあぶりだすうえで好都合である、ということではないかと思われます。それゆえ、

「国富」「国民資本」は、ある国でその時に政府や住民が所有しているものすべて(ただしそれが何らかの市場で取引できる場合のみ)の総市場価格として定義しよう。これは非金融資産(土地、住宅、商業在庫、他の建物、機械、インフラ、特許、その他の直接所有されている専門資産)と、金融資産(銀行預金、ミューチュアル・ファンド、債券、株式、各種金融投資、保険、年金基金等々)から金融債務(負債)の総額を引いたものの合計となる。民間個人の資産と負債だけを見ると、結果は民間の富、民間財産または民間資本となる。政府や各種政府的存在(町、社会保障機関など)が保有する資産や負債を考えると、結果は公共の富、公的財産または公的資本となる。定義からして、国富はこの両者の合計だ。

という「国富」「国民資本」の定義は、そのまま「資本」の定義として受けとめることができるでしょう。こちらのほうが、すっきりしますしね。

g(経済成長率)は、前期国民所得に対する当期国民所得の増加率と理解すればよいのではないかと思われます。

では次に、r>gが意味しているものについて触れましょう。まずは、次のグラフをごらんください。

〈世界的な収益率と経済成長率 古代から2100年まで〉
http://cruel.org/books/capital21c/pdf/F10.9.pdf

これまでの人類の2000年以上の歴史を通じて、常に資本収益率(r)が経済成長率を上回っていたことが一目瞭然です。この歴史的事実に関して、ピケティは、

体系的に資本収益率が成長率よりも高くなる大きな理由はあるのか?はっきり言っておくが、私はこれを論理的な必然ではなく、歴史的事実と考えている。

と述べています。ピケティは、われわれにr>gを論理的必然として納得する以前に歴史的事実として受け入れることを求めているのです。しかし、その事実を受け入れてもなお、r>gが格差拡大の原因となる理由については別途考えてみる必要があります。ピケティは、「伝統的農耕社会と、第一次世界大戦以前のほぼすべての社会で富が超集中していた第一の原因は、これらが低成長社会で、資本収益率が経済成長率に比べほぼ常に著しく高かったことだ」として、その因果関係を次のように具体的数値を挙げて説明しています。

たとえば成長率が年約0.5-1パーセントと低い世界を考えよう。

人類は、グラフにあるとおり、19世紀を迎えるまでは、常に1パーセント未満の成長率しか経験したことがなかったのです。超低成長社会がずっと続いたわけです。引用を続けます。

資本収益率(資本所得/総資本――引用者注)は、一般的には年間4、5パーセントほどなので、成長率よりかなり高い。具体的には、たとえ労働所得がまったくなくても、過去に蓄積された富が経済成長よりもずっと早く資本増加をもたらすわけだ。

労働所得は、経済成長率、すなわち国民所得の増分とおおむね歩調をそろえて増えると考えられます。それに対して、資本がその5倍から10倍の率で収益をもたらすとすれば、富が集中する富裕層やさらには超富裕層が所得を増やす点で俄然有利になるのは、けっこう分かりやすいのではないでしょうか。

たとえば、g=1%でr=5%ならば、資本所得の5分の1を貯蓄すれば(残り5分の4は消費しても)、先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ率で成長するのに十分だ。富が大きくて、裕福な暮らしをしても消費が年間レント収入より少なければ、貯蓄分はもっと増え、その人の資産は経済よりもはやく成長し、たとえ労働からの実入りがまったくなくても、富の格差は増大しがちになるだろう。

いささか補足すると、いま国民所得100のうちの資本所得を25とします。その5分の1を貯蓄してほかをすべて使ってしまったとしましょう。また、資本/所得比率(β:総資本/国民所得)を5とすると、総資本100×5=500だったのが、次年度には500+25×5分の4=520となります。その増分は、520×5%=26、26-25=1 となり、次年度の国民所得の増分{100+1(前年度の国民所得の増分)}×1%=1.01とほぼ等しくなります。「先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ率で成長するのに十分だ」とは、おおむねそういうことを指しているものと思われます。

こういう事態が、年を追うごとに累積していくのですから、rとgのはなはだしい差が、富裕層とその他大勢の格差の拡大に与える影響は非常に大きなものであることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

このように、rとgのはなはだしい差は、「相続社会」の繁栄にとって理想的な条件である、とピケティは、フランス人らしいエスプリをこめて言います。ここで「相続社会」とは、「非常に高水準の富の集中と世代から世代へと大きな財産が永続的に引き継がれる社会」のことです。ピケティは、21世紀にそういう社会が再び到来することを、生々しいデータを提示しながら、強く懸念しているわけです。

では、第4回の講義をアップします。


<トマ・ピケティ講義>第4回「強まる資産集中」~所得データが語る格差の実態~


(第5回に続く。全部で6回分あるようですが、第5回・6回はまだ放映されていません)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする