「今一番救済されるべきなのは、さんざんひどい目にあってきた福島県の人々である」という当論考の結語が、胸に残りました。ここには、原発の政治的是非論のみに現を抜かす多言居士が傾聴すべき厳粛な響きがあります。原発をめぐる諸言説の茨を丁寧にかき分けた末にこの結語にたどり着くのは、並大抵のことではありません。冒頭に「明けましておめでとうございます」とあるのは、私が当論考を受け取ってから約四ヶ月間が経ったからです。この場を借りて、筆者にお詫びいたします。すみませんでした。(編集長 記)
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明けましておめでとうございます。
なんですが、どうも困ったことに、昨年報道された、福島からの避難民の子弟が学校でいじめを受けた話題のおかげで、どうもいやな気分が抜けません。
いじめにそのものについては、まず、それこそ基本的に、全く根拠がないことは何度でも強調されるべきです。もちろん多くのいじめにこれといった根拠・理由などないですし、たとえあったところで、いじめが正当化されるわけはありません。しかし、この場合は特にそれが言われなくてはならないでしょう。
今回いじめ被害にあった子どもたちは、「放射能がうつる」と言われたり、「~菌」と呼ばれたりしたそうです。もちろん「放射能」が「うつる」なんてことはありません。放射性物質が衣服や身体に付着することはあっても、そんなものは洗濯したり入浴したりすれば除去できます。本当に危ない内部被曝についても、それを惹き起こした放射性物質も、甲状腺癌や白血病などの疾患も、他に感染するようなものではありません。
と言っただけでは、どうもことがすみそうにない。
何かの参考にはなるかもしれませんので、私のささやかな放射能関連体験を紹介しておきます。
私は以前には、放射能汚染のことなど、頭の片隅にもありませんでした。今でも似たようなもんです。自分の迂闊さを弁解するわけではないですが、日本中でそういう人は、決して少なくないでしょう。
それでも、学校に奉職しているおかげで、これまで全く無縁だったということではありません。
茨城県の南部にある以前の勤務校に、福島からの避難民が転校して来たのに会いました。この時県教育委員会からの通達で、いじめには充分注意するように、というのがありましたが、特に問題なく、すぐに学校に溶け込んで、楽しくやっていたようです。
それより以前に、息子が通っている小学校、こっちは千葉県で、なんでも排水溝が詰まっていて、雨水が溜まったところの放射能濃度が、国の基準値よりずっと高い、というのがTVのニュース番組で取り上げられてしまいまして。調べてみると、校庭の土もけっこう高濃度だったそうです。
善後策の説明のために学校で緊急集会があり、市の教育委員も出席するということでした。行ってみると、取り敢えず排水溝付近は立ち入り禁止、校庭は、表土を削って除染する、と。でも、その削った土はどうするのか? それは行政の仕事だからどうたらこうたらで、教育委員は不得要領な答え。学校にできることは、これから当分の間毎日放射能濃度を量ること、それはもちろん、教職員の仕事です。それだけか、教育委員会は無責任じゃないか、って言った保護者もいましたが、私は、教育委員会の権能は、現場の教職員をいじったり使ったりすることしかないんだから、しょうがないじゃないかな、と思って聞いておりました。
でもともかく、土削りまで先生方にだけやらせるのはどう考えても無理だろう、ということで、PTAでボランティアを募りましたんで、私も半日だけ、スコップで校庭の表面をごりごり剃る作業に従事しました。
久しぶりの肉体労働でちょっと筋肉痛になった、なんてことはどうでもいいとして、あの作業には意味があったのかどうか、そもそも放射能の、児童たちへの影響はどうだったのか、誰もなんとも言わない。私よりは近所づきあいも、同じ学校のママ友の知り合いも多い女房に訊いても、放射能のほの字も、その後聞いたことはないようでした。
まあ、茨城の学校でも年に何回かは放射能の測定をやりましたから、こっちでもやってるんだろうな、とは思いましたが、確認する気にもなれないうちに、すっかり忘れてしまった次第です。
もう一つあります。去年の夏、私と同年配のご婦人との雑談中に、熊本地震に関連した、川内(せんだい)原発再稼働についての話になりました。私は、そのときたまたま、当ブログに、「由紀草一の、これ基本でしょ その2」を寄稿したばっかりでしたんで、にわか勉強した内容を覚えており、『朝日新聞』に基づいて、「川内原発内で記録されているガル数(揺れの勢いを示す加速度の単位)は、4月16日のマグニチュード7.3の本震時で8.6ガル。福島原発事故以後の原発耐震設計の基準値は620ガル、さらに川内原発では緊急停止させる設定値を160ガルとしていて、それをはるかに下回っている」から大丈夫なんだ、と申しました。
しかしそのご婦人は納得しません。「そういう数字を挙げられても、現に絶対安全だと言われていた原発があんな事になったんだから、信用できない。知り合いの奥さんたちも、たいていそう言っている」とおっしゃいます。それは仕方のないことだ、と私もあきらめました。
でも、いろいろ話しているうちに、向こうが、「被災地ではいろんな病気がどんどん出てきているのよ」とおっしゃったときには、びっくりして、そのとたんに年甲斐もなくキレてしまって、「そんなことはない!」と大きな声を出しました。
だってそうでしょう、そんな噂だけでも、福島の人たちが、将来にわたってどんな目で見られ、どんな扱いを受けるか。原発には反対でもいい、そういう考え方があることは理解できる、しかし、なんの罪も責任もない人たちに対する差別感情が広まること、さらに、そういうことに全く無頓着な人がどうやら大勢いそうなことには、ごく平凡な庶民の一人としても、ショックを受けざるを得ません。
しかも、「将来」の話ではなく、差別感情は、子どもたちの間にもしっかり忍び込んでいて、もうとっくに、いじめの種になっていた。年末にそれが明らかになったので、とてもいやな気持ちになったのです。
これに対抗するためには、私のようなド素人ではなく、専門的な研鑽を積んだ人たちが、きちんとしたデータと論理で、実情を伝えるべきでしょう。しかし、そういう報告や論文はすでにたくさんあります。それがさほど効果を上げていないようなのは、なぜなのでしょうか。
放射能が危険ではない、とは誰も言いません。原発事故によって放射能がばらまかれた時の福島県のある地域も、危険ではあった。そうでなければ、避難勧告を出す必要もなかったはずです。【1月9日の新聞報道によると、福島医大放射線健康管理学講座の宮崎真助手らの研究グループが、ガラスバッジ(個人線量計)による外部被爆線量測定の実測値と、市民が住む場所の空間線量との関係を4年に渡って調べた結果、除染や避難の基準となった政府の推計値は高すぎるのではないかとの結論を得たそうです。つまり、不必要な除染や避難があったかも知れないということです。】
一方、放射能は、目にも見えず匂いもしないので、不気味さが増す、ということ以上に、20世紀半ばになってから初めて一般人にも知られるようになった問題で、実際はどの程度に危険なものか、厳密にはまだよくわかっていません。どれほどの放射線量で、どういう害がどれほどあるか、専門家にもよくわかっていない。だから、「この程度なら心配はない」とも簡単には言い切れないのです(言っている人もいますが)。
もともと、専門的な詳しい説明ほど、ミリシーベルトたらなんたら、世間の多数を占める私の如き文系人間には全く馴染のない言葉が飛び交う上に、危険―安全の境は結局曖昧なまま、となれば、そこは頭に残りづらい、それ以前に、入りづらくなります。残るのは一番プリミティブな、「放射能は危険」の観念だけになるのです。
私は別に、放射能汚染に対して、できるだけの防備策を講じようとした人々を、嗤うつもりはありません。そういう人は、個人としては私の身近にはおりませんけれど、間接的な知り合いの中にはいます。福島県民ではないですよ。放射能汚染の危険は、福島に限った話ではありませんからね。放射性物質は風に乗って運ばれるので、関東全域が危ない、ひょっとするともっと広範囲に及ぶかも、という話もありました。現に、東葛(とうかつ)地区にある息子の学校でも、除染をしたのです。
これが正しい、としたら、関東に住む我々はみんな、1300万の東京都民を含めて、「放射能に汚染された同士」なんです。何も福島県の人を特別視する理由はないわけです。
ところで一方、私ほどには呑気ではなくても、誰しも大なり小なり生活上の問題や悩みを抱えています。放射能のことばかり、ずっと心配しているわけにはいかないのです。それで、前に申し上げたような状態、つまりいつの間にか忘れた状態、にたいていなります。
すっからかんに忘れることができるなら、それはそれでいいんではないですかね。放射線による健康被害が事実あるとしても、その害を被るのは自分だけなんですから。でも、プリミティブな「放射能は危険」の感情、それに密接に関連しそうな「原発―危険」「福島―危険」の観念連合は、心の底に残ってしまうのです。原子力発電所や福島県という言葉や事物が目の前に現れたとたんに、警戒心が首をもたげる場合もある、ということです。
さらにやっかいなことに、ふだんの生活からは切り離された恐怖や不安の念は、スリリングで面白い、と感ずる心も人間にはあります。
幽霊が存在するかどうかなんて、ふだん考えもしない人が、暗闇で怪しいものを見聞きすると、恐怖といっしょにこの言葉が自然に頭に浮かぶ。さらに、疑似体験中での恐怖を「楽しむ」ために、わざわざ金をはらってお化け屋敷へ行ったりもする、ということを思い浮かべたら、私の言いたいことがわかっていただけるでしょうか。
かくして、目の前に「福島―危険」の性格を帯びていると思しき人が現れたら、ちょっとだけ不安になり、その不安をとっかかりとして、楽しい遊びである、それだけに遊ばれるほうにしてみれば残酷である、「いじめ」が始まる、というわけです。
で、どうしましょうか、ということになりますと、とりあえず、無関心はやめて、自分でできる限り具体的に、この問題を考えてみるしかないな、とまことに平凡なことしか思いつきません。そうでなければ不快感が募るばかりだから、という、どこまでも個人的な動機からではありますが、最高にうまくいけば、ヒョウタンからコマ式に、何かしらの突破口の、ヒントぐらいは見つかるかもわかりませんし。
するとやっぱり、この話を無視するわけにはいかんでしょうね。少しでも放射能の問題に関心がある人なら、とうにご存知なんですが。
チェルノブイリの原発事故後、主に放射性沃(よう)素に汚染されたミルクを飲んだ子どもに、甲状腺癌の多発が見られた、その経験を踏まえて、福島県では甲状腺検査が実施されているのです。その結果については、(福島)県民健康調査検討委員会の甲状腺検査評価部会に提出された「甲状腺検査に関する中間取りまとめ」http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/174220.pdfにこうあります。
平成23年10月に開始した先行検査(一巡目の検査)においては、震災時福島県にお住まいで概ね18歳以下であった全県民を対象に実施し約30万人が受診、これまでに112人が甲状腺がんの「悪性ないし悪性疑い」と判定、このうち、99人が手術を受け、乳頭がん95人、低分化がん3人、良性結節1人という確定診断が得られている。[平成27年3月31日現在] 【由紀注。その後4月までの検査で、最終的には「悪性ないし悪性疑い」であるC判定は、115人にまで増えた。】
こうした検査結果に関しては、わが国の地域がん登録で把握されている甲状腺がんの罹患統計などから推定される有病数に比べて数十倍のオーダーで多い。この解釈については、被ばくによる過剰発生か過剰診断(生命予後を脅かしたり症状をもたらしたりしないようながんの診断)のいずれかが考えられ、これ までの科学的知見からは、前者の可能性を完全に否定するものではないが、後者の可能性が高いとの意見があった。
用語解説はしておきましょう。チェルノブイリの場合、この症状が発見されたのが事故後おおよそ四年後だったので、平成23~25(2011~13)の三年間は「先行検査(一巡目の検査)」として、原発事故以前の甲状腺異常はどれくらいあったのか、いわば基準値を得るための検査がなされたのです。その段階の罹患率が一般(100万人中多くても3人程度と言われている)より遥かに高かったのが、さまざまな意味で、問題とされています。
この後の「本格検査(二巡目の検査)」は平成26年に始まり、この年で51人、27年に17人が「悪性(癌だということ)ないし悪性疑い」となりました(第25回県民健康調査検討委員会配布資料http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/194773.pdf)。28年度を加えると、もっと増えるでしょう。
それでも、公的な見解は、上の引用文にあるような、どちらかといえば、放射線の影響というよりスクリーニング効果(症状が出る以前に甲状腺に特定した診断することで、病気の発見率は高まる)や過剰診療(放置してもよい程度のものまで悪性もしくは悪性の疑いと診断する)の結果ではないか、ということで変わっていません。
確実なところは、わかりません。そのような判断は信用できない、とする専門家もいて、現在論争が継続中です。
私のような素人でも現時点でこれは言えるだろう、と思えるのは、放射線による健康被害が疑われる具体例は、今のところ、これだけだ、ということです。
なぜそう言えるのか。それは政府や東京電力に批判的な人々のうち、ネット上に無記名で、「福島では突然死が多く、また奇形児が多数産まれている」なんてことを書いている人は度外視するとして、多少とも社会的信頼度がある人や機関が問題視しているのが、これだけだからです。
TVではほとんど唯一、らしいですが、テレビ朝日の「報道ステーション」が昨年、3月11日の45分の特集を初めとして、この問題に何回か触れています。そのうちのいくつかは現在もYouTubeで視聴することができます。
例えば、事故後に産まれた0~5歳児には、症状が見られなかったことが、放射能と甲状腺異常の関連が薄いことの論拠の一つにされていたことに対して、本格検査で一人発見されたことが、6月6日に放送されました。
それについては、番組中で紹介された「一例出たからそれで科学的うんぬんを議論する内容ではない」という、星北斗検討委員会座長の言葉のほうが妥当なような気がします。しかしともかく、否定的にではあれ、公的な見解をもこうしてちゃんと映像メディアで伝えている点で、この番組スタッフの労は多としてよいと思います。
政治家では山本太郎参議院議員が、何しろ脱原発をスローガンにして当選した人ですので、最も活発に、この問題に関わっています。上の一見驚くべき発症数については、平成27年7月の行政監視委員会で環境庁に、平成28年10月の参議院予算委員会では安倍首相に対して、問い質しています。
山本議員につきましては、園遊会で天皇陛下に「直訴」するなんぞという、泉下の田中正造が聞いたら顔を顰めるしかないような行いは、是非慎むべきだと思います。また、安倍首相への質問で、「甲状腺がんと診断された子どもの数、もしくは疑いとされた子どもの数を知っているか」と執拗に訊いたのは、この問題に対する首相の無知と無関心ぶりを炙り出そうとする戦略だったとしても、「重箱の隅をつつく」といった印象が持たれますので、逆効果ではなかったのかな、とも。
などなど批判すべき点はありますが、彼はこの分野では頼もしい存在ではあるでしょう。政府のやる重大政策には、これだけ猜疑心をもって監視する人がいたほうがいい。
それくらいですから、山本議員も、「報道ステーション」スタッフも、もし原発事故との関連が疑われる突然死やら奇形児出産があったなら、黙っているはずはないのです。それは国家権力が隠蔽しているのだ、という人もいますが、現在の政府がそれほど有能か、それとも山本議員らがそれほどマヌケなのか、と考えた場合には、やっぱり、素直に、事実それはないんだ、が正解、とするべきでしょう?
ただ、一歩進んで、彼らを尊敬するかとなると、足りないものがある。それは、「もし我々の疑いが杞憂であったとしたら、それに越したことはないんだ」というような言葉や、それに相応しい態度です。寛容さ、と呼んでよいでしょう。
何しろ、今一番救済されるべきなのは、さんざんひどい目にあってきた福島県の人々であることは間違いないのです。山本議員の直訴状は、福島難民の窮乏を訴える内容だったそうですが、それが政治的野心から出たものではないなら、彼らに対する優しさをこそ、前面に出すべきではないのですか。
これは、政府の原発政策を疑い、山本議員らを支持するすべての人々に申し上げたいことです。福島の避難民は異世界の人でもなければ、まして幽霊でもない。人間同士の、同朋としての、当たり前の寛容こそ肝要。やっぱり平凡なことしか言えなかったので、下手なダジャレで終わりますが、意のあるところを汲んでいただけたら幸甚です。