美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

参政党・松田プラン(その1)全体像

2022年06月17日 01時04分02秒 | 兵頭新児


目下、参政党が大変な支持を得ています。一日に2000人ずつ党員が増えているそうです。

で、当方が注目するのは、その政策です。参政党は、どういう政策をひっさげて、国政に臨もうとしているのか。

その中核に位置するのが、参政党の発起人のふたりのうちのひとり、松田学氏のいわゆる「松田プラン」です。

「松田プラン」とはいったいどういうものであるのか。

それを知るのにうってつけの動画を見つけました。

それを三回シリーズでアップしてゆこうと思います。

まず、当方がそのあらましを述べます。それをふまえたうえで、末尾の動画を観ていただければ、松田氏の語る内容がけっこう頭に入るのではないかと思われます。

〇松田プランの4つの柱

① 国を守る。
② 国民にとってとても便利な社会を作る。
③ 財務省が積極財政を実現するための現実的な裏付け・しくみを作る。
④ 日銀が実施する金融政策にちゃんとした出口を与えることで、積極財政とタイアップした大胆な金融政策を実現する。

以下、①~④について若干説明を加えます。

① いま世界で、中共のデジタル人民元構想に見られるような、お金の概念の変革が進行している。その動きに乗り遅れると、中共の全体主義的な世界の再編成に取り込まれて、日本国民の個人情報がおびやかされ、政府の通貨主権を守ることが危うくなりかねない。だから「松田プラン」によって、日本政府が国産のブロック・チェーン上で「デジタル円」を可及的速やかに発行して個人情報や通貨主権を守る必要がある。

② もうすぐスマホにマイナンバーアプリが入る時代が到来する。そこに「デジタル円」をインプットし、「支払い機能」と「情報機能」を兼ね備えたお金が広まることによって、国民生活の利便性がぐんと高まることになる。お金の「情報機能」とは、契約や手続きなどのことである(このあたり、あまり理解できておりません)。

③ 2013年以来の日銀による異次元緩和によって、政府発行の約半分に達した日銀保有の国債を、「松田プラン」によって、政府が元本返済義務を負わない永久国債に転換し、それを国民の求めに応じて「デジタル円」に転換する。そのことによって、国債がお金に変わる。つまり、債務が消滅する。それゆえ、一般国民が税金で国債金利の支払いをしなくてよくなる。このように仕組みを変えることによって、財務省は、やっと積極財政に転換することができるようになる。

④ いわゆる出口政略において、日銀が国債を売ろうとすると金利が上昇して、経済に悪影響を与えかねない。だから、国債を減らすことはけっこうむずかしい。しかし、日銀保有の国債を永久国債に変え、それを国民の求めに応じて「デジタル円」に変える仕組みを整えるなら、日銀にとって国債の「出口」ができることになり、大胆な金融政策の実施が可能になる。

おおむね、今回は以上のような流れになっています。

では、ごらんください。

【政策解説シリーズ】松田プラン徹底解説 その1 ~全体像~


***

いろいろと疑問が湧いてきますね。とくに、MMTに賛同してきた方にとっては、そうでしょう。それは、当方にとっても他人事ではありません。シリーズの「その2」「その3」で、それらが解消されるのかどうか。続編もごらんください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ、全米ユダヤ人の34%がニューヨークに住んでいるのか:茂木誠動画「近現代史とユダヤ人」①

2022年06月12日 23時22分35秒 | 兵頭新児


18世紀後半、産業革命はイギリスで始まり、19世紀にほかの国々に広がりました。茂木誠氏によれば、産業革命以後の近現代史は、国家を超えた大きな力、つまり「マネーの動き」が決定的な役割を果たしてきたし、いまでも果たしています。私自身、2020年の米国大統領選挙で展開された不正選挙によって、国際金融資本のマネー・パワーの圧倒的な影響力・組織力を思い知らされました。

「マネーの動き」を語るうえで、ユダヤ勢力の存在への言及は避けて通ることができません。というのは、ざっくりといえば、世界のユダヤ人の約半数はイスラエルに、残りの半数弱はアメリカにそれぞれ住んでいて、アメリカ在住のユダヤ人の約34%の175万人がニューヨークという特定の地域に住んでいるからです。

ニューヨークが、世界のマネーと情報の中心であることは言を俟たないでしょう。そのなかで、ニューヨークをがっちりとつかんでいるユダヤ人たちは決定的な役割を果たしています。これは「陰謀論」以前の単なる事実です。この事実から目をそらすことは、それこそ単なる現実逃避のふるまいにほかなりません。

では、なにゆえ全米ユダヤ人の34%がニューヨークに住んでいるのか。あるいは住むことになったのか。当動画は、その歴史的な背景を解き明かしてくれます。考えてみれば、いまでは「ニューヨーク」と呼ばれる地域に、もともとユダヤ人はひとりもいなかったのですから、不思議といえば不思議な現象ですね。

茂木誠氏は、その謎解きをしながら、例によって、とても興味深い歴史的な事実のあれこれを次々に私たちに提示してくれます。

20分をちょっと超えますが、歴史好きなら、あっという間に時間が過ぎることを保証いたします。ごらんください。


ユダヤ人の避難所 ニューヨークのはじまり|茂木誠
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件 (兵頭新児)

2016年06月22日 14時52分19秒 | 兵頭新児


http://www.nicovideo.jp/watch/sm1680289

 まずは、上の動画を見ていただけるでしょうか。
 十五分ほどのモノですので、お忙しいようでしたら本稿を読みながらでもご覧いただけると幸いです。
 ――と言いつつも、この動画についてはさておき……。

 目下、「サブカルvsオタクの争い」というものがあったか否かに関して、ツイッター界隈で話題になっております。

町山智浩・告知用?@TomoMachi
オタク対サブカルという本来はなかった対立項を無理やりデッチ上げたのはまったくロック的感性のないオタクアミーゴスの連中ですよ


竹熊健太郎《一直線》?@kentaro666
@makotoaida サブカルの短縮語を流行らせた中森明夫氏はアイドルオタクで、『漫画ブリッコ』と言うロリコン漫画誌で「おたく」の差別用語を提唱し、オタク読者の総スカンを食らって連載を辞めた後、朝日ジャーナルの「新人類の旗手たち」に登場して「新人類」として文化人になりました。


「新人類」はアイドルや漫画・アニメ・特撮と言ったサブカルを現代思想用語でインテリ的かつオシャレに語るというスタンスでブームを起こし、実際にオタク活動を行っていた岡田斗司夫氏らはブームに乗れなかったのでひがんでいたのです。

しかし90年代になって新人類の退潮とともに岡田氏らがマスコミに躍り出た途端、中森氏らサブカルを攻撃し始めたのです。私は両方と面識がありましたから様子を間近に見ています。サブカルとオタクは同根で、全共闘の内ゲバ同様、サブカルオタク世代の内ゲバに過ぎません。


 以上のように、この話題は町山智浩さんと竹熊健太郎さんが「本来、そうした争いがなかったにも関わらず、岡田斗司夫が私怨でそうした対立構造を捏造したのだ」といった主張をしたことがきっかけだったようです(町山さんの発言にある「オタクアミーゴス」というのは95年に結成された岡田さん、唐沢俊一さん、眠田直さんの三人によるオタク芸人ユニットです)。
 しかし……一読して竹熊さんの発言ってわけがわかりませんよね。
 呆れたように、以下のような突っ込みをする人も見られました。

つまり中森明夫がオタク差別を作り出して自分らだけオシャレサブカルやろうとしてたのを岡田斗司夫がキレて攻撃して対立が深まったと。いやまあそれはそうなるわな……。

 ぼく自身、竹熊さんのファンであり、町山さんにも必ずしも悪い感情を持ってはいないのですが、それにしても本件については非道いとしか言いようがない。「サブカル」陣営の発言がそのまま、彼らの誤りの実証になっているという「自爆芸」の様相すら呈しています。
 この、「サブカル」陣営の「オタク」陣営に対するナチュラルで頑迷な「ウエメセ(上から目線)」は一体、何に端を発するものなのでしょう?

 ――いえ、しかしその前に、こうした界隈に疎い方にしてみれば、「そもそもオタクとサブカルってどう違うんだ?」といった感想を抱かれるかも知れません。まずはそれについて、簡単にお答えしてみましょう。
 いささか乱暴ですが、以下のようなカテゴライズが、一つには可能であるかと思います。

 オタク:ノンポリ
 サブカル:左派


 即ち、「サブカルvsオタクの争い」というものは、「左派vsノンポリの争い」であると換言できるのではないか……ということです。
 ――いえ、関心を持っていただきたくていささか乱暴な結論を、先に書いてしまいました。もちろんこれは極論です。以下、多少詳しくご説明して参りましょう。
 そもそもこの「サブカル」という言葉ですが、もしこれを「サブカルチャー」と呼ぶとするならば、そこには「下位文化」といった意味しかありません。しかし「サブカル」と略された言葉を使う時、そこには何とはなしに独特のニュアンスが生じます。具体的にはロック文化であったりドラッグ文化であったり、ニューエイジ、ヒッピー文化であったり。まとめてしまえば、左派的と言っていい、70年代的なカウンターカルチャーをベースにした文化が「サブカル」であると、まず考えて間違いがいないように思います。
 翻って「オタク」となるとアニメ、漫画などの「児童文化」の中から突然変異的に生まれ、近年の新しい文化であるところのゲームやネットコンテンツなどを産み出し、「萌え」に代表されるような独自の進化を遂げた文化の一群、とでもいうことになりそうです。
 つまり、「サブカル」も「オタク」も「(価値中立的な言葉としての)サブカルチャー」の一カテゴリーであり、だから竹熊さんの「内ゲバ」という表現も一面の真理ではある。しかし、それぞれが独特のニュアンスを持ち、それぞれの独自性を持っているのもまた事実である、というわけですね。
 その意味でオタクの王、「オタキング」である岡田さんを、映画評論家である町山さん、漫画編集者である竹熊さんが批判しているのは象徴的です。町山さんは明らかにサブカル陣営、竹熊さんはサブカルとオタクのボーダー上に位置している人であると言っていいように思えますから。
 とはいえ、もう一つ基準を提示するならば、サブカルは70年代的感性、オタクは80年代以降の感性をベースにした文化である、と言ってもいいかも知れません。
 町山さん、竹熊さん、岡田さんはそれぞれ62年、60年、58年と近い生まれであり、彼らの青年期である80年代に「オタク文化」が生まれ、「サブカル」との世代交代があったのだと言えます。
 さて、それにしても、先に「サブカルはウエメセだ」と書きましたが、町山さんの「岡田にはロックの素養がない」発言しかり、彼らはどうにも、自分たちこそが正しい位置にいるのだ、と揺らぎない確信を抱いているように思われます。ツイッター界隈でも「マスに流されやすい」「大衆消費型のオタク」に対し、「サブカル=『兄貴世代への憧れ』。良識的大人に反抗するアウトサイダーへの賛美。」である、「その境界に、思春期の割礼があったかどうかという、モラトリアムの問題がある」といった主張をなさっていた方がいました。この方は「まんがのレコードを捨てたエピソード」を「割礼」に喩えていて、オタクは児童文化を愛する、子供のままのヤツらだ、とおっしゃりたいようです(いえ、それはその通りなのですが)。
 一方的に自分たちの方が優れているのだと放言を続け、「しかし争いはなかった」とぬけぬけ言う傲慢さと鈍感さには、苦笑を禁じ得ません。
 彼らの姿は、ぼくには「元・いじめられっ子が都会でそれなりに成功した折にふと現れた、高校時代のいじめっ子」に見えてしまいます。彼らはぼくたちの肩をバンバン叩いて「懐かしいなあ、昔よく遊んだよなあ、ところで羽振りよさそうだな」とこちらの身なりをじろじろと値踏みします。どうもぼくたちオタクが都会で商業的成功を得たことを、噂で聞き出したご様子です。
「サブカルvsオタクの争いはなかった」論はそんな彼らの「あれは可愛がりであり指導であり、いじめの事実はなかった」発言であると言えそうです。

 さて、ここで先にご覧いただいた『愛國戰隊大日本』が意味を持ってきます。
 北の大地から攻めてきた「レッドベアー団」が洗脳五ヶ年計画で日本侵略を企むのに対し、敢然と立ち向かう五人の若者、「愛國戰隊大日本」。レッドベアーが送り出してくる「ミンスク仮面」という怪人に、大日本は変身して、或いは巨大ロボ「大日本ロボ」を繰り出して対抗します。
 要するに『ゴレンジャー』などの戦隊物のパロディーであり、そもそも本作の着想が「もし、右翼が戦隊作品を作ったらどうなるか」というところに端を発しています。
 画質の悪い映像から想像がつくかと思いますが、本作は1982年に制作されたもの。脚本は岡田さん、また特撮、デザインを担当したのは庵野秀明さん(ナレーターを務めたのも庵野さんで、実は『風立ちぬ』に先駆けての声の出演をしているのです)。制作はダイコンフィルムですが、これは『エヴァンゲリオン』を作ったGAINAXのアマチュア時代の姿なのです。
 つまり本作は、オタク界の第一人者の、若かりし頃の習作と言えるものだったわけです。いささかおふざけの過ぎるもので、あまり表には出てこない作品ですが、いずれにせよ右も左も笑い飛ばした快作には違いがありません。
 当時、このようなものが出て来た背景にはやはり、学生運動後の政治に対するニヒリズムがあったことでしょう。ですが、やはり彼らの上の世代の人物たちはこうした作品を好ましく思わないらしく、当時、ソ連SFを好む当時のロートルSFクラブ・イスカーチェリから激しく論難されたと言います*1。
 そう、当時のオタクには上の世代の生硬さに対する嫌悪感が、少なからずあったわけです。そうしたニヒリズムは、手放しで全面的に素晴らしいと言えるものではないかも知れませんが、それなりに時代の必然ではありました*2。当時のオタクたちは特撮ヒーロー作品を熱心に視聴しつつ、同時にヒーローたちの「正義」の空虚さをさかんにからかうポーズを取っていました。『大日本』は、まさにそうした当時のオタクたちのメンタリティを体現したものだったと言えます。本作と同時に制作、上映された『快傑のーてんき』が、『快傑ズバット』*3というキザでスタイリッシュなヒーロー作品のパロディをデブ男が演じたものであったこともまた、同じ文脈から解読が可能です。
 岡田さんは以前、何かの番組で以下のようなことを言っていました。

「自分にしてみれば、上の世代が体制へのカウンターとして不良物のドラマなど(これは想像するに、アメリカン・ニューシネマなどをも指しているのしょう)を好んでいた様(さま)が、どうにもウザかった。そこでそれへの更なるカウンターとして、敢えて(高校生などいい年齢になってまで)子供番組を見ていたのだ。」

 記憶に依る要約で、正確さには欠けるかも知れませんが、これはオタク文化の特徴を的確に捉えた表現のように思います。
 この意見が、「サブカル」陣営の傲慢な自意識と対になっていることは、もう言うまでもないでしょう。
 そしてまた、体制へのカウンターとして始まったはずが、極めて抑圧的高圧的な性格を持つに至った現代の反ヘイトや反原発に対するぼくたちの違和感をも、岡田さんの視点は上手く説明しているように思います。

*1 これについては今世紀に入ってまだなお、『網状言論F改』の中で、岡田さん側を批判するネタとして蒸し返している人がいました。同書を編んだのが東浩紀さんであることが象徴するように、目下「オタクのスポークスマン」をもって任ずる人々はサブカル陣営か、オタクであってもそちらのスタンスに親和的な人たちばかりです。
*2 非常にマニアックな余談ですが、この図式は当時に描かれた漫画作品、『風の戦士ダン』と近しいものを感じます。これは『美味しんぼ』で有名な漫画原作者、雁屋哲さんの書いた「日本政府が世界征服を企み、政府直属の忍者集団がそれに反旗を翻す」という作品だったのですが、作画を担当したのが当時新人であったオタク世代の漫画家、島本和彦さんだったため、随所にギャグの入った快作として仕上がってしまいました。
*3『快傑ズバット』は「日本一のヒーロー役者」の誉れも高い宮内洋さん主演の、「渡り鳥シリーズ」を材に取った変身ヒーロー作品です。『快傑のーてんき』はそのイケメン主人公を世にも格好の悪いデブが演じて見せたところに面白さがあるわけです。


 ――さて、ちょっとここで町山さん、竹熊さんの物言いに立ち返ってみたいと思います。
「岡田が私怨でそうした対立構造を捏造したのだ」といった言い分は、しかし、「サブカル」側の主観に立てば、実に率直な実感なのだと思います。
 上に述べた「世代交代論」をここに導入してみると、彼らの言い分はサブカル世代のオタク世代に対する、「よくも俺たちの事務所から独立しやがったな」とでもいったぼやきとして解釈することが可能になります。
 そう考えてみれば、オタクにとってのバイブルとも言える『機動戦士ガンダム』は「地球連邦政府」の圧政に耐え兼ねた宇宙基地(スペースコロニーと呼ばれる、宇宙の植民地)が「ジオン公国」として独立戦争を仕掛ける物語でした。それと同様、或いはイギリスとアメリカの関係同様、オタクは独立戦争を起こしただけだったのではないか。
 いえ、むろん、逆に例えばですが、実は「地球の圧政」などなかったのに「ジオン公国」のトップが「独立」の口実としてそれを捏造したのだ――といったシナリオもあり得ます*4。そうなるとサブカル陣営の主張も正当性を帯びてきますし、恐らく町山さんや竹熊さんの言い分はそういったものなのではと思いますが、しかし、上の竹熊さんの発言自体が「連邦政府の圧政はあったよなあ……」という印象を、まずいことに裏づけてしまっています。竹熊さんが言及している中森さんは、「コミケに集う気持ちの悪い若者」を見下し、蔑んで「オタク」との呼称を提唱していたのです。ここ二十年、商業性と文化的な独立性を持つことで「しょうことなしに」世間に受け容れてもらえるようになっただけで、オタクは本来、「棄民」だったのです。
 それが、『エヴァ』の文化的商業的成功を見るや、今までオタクをバカにしていたサブカルが、どやどやと入ってきて弁当を広げ出した……それを今回の彼ら自身の発言こそが、裏づけてしまっています。
 2006年にはサブカル陣営による『嫌オタク流』という本が出されました。タイトルからもわかるようにこれは『嫌韓流』に影響を受けた本で、著者たちが何の根拠もなくオタクを韓国人差別者であり、女性差別者であり、黒人差別者であり、障害者差別者であるとただひたすら罵詈雑言を並べ立てる、まさにウルトラ級のトンデモ本。同書の帯には

本書を、
「オタクこそが優生種族である」
「市場原理によってオタクはオタク以外のものを淘汰した、我々の勝利だ!」と無邪気に信じている人々へ捧げる―――。


 などと書かれているのですが、そうした主張をしているオタクなど少数派でしょうし、言っているとしてもそれはむしろ、自らの地位が低いがために一種の逆説としての主張であることが大前提でしょう。もっとも、オタク文化に完全な敗北を喫しているサブカル側の主観では、世界がこのように見えてしまうというのは、わからない話ではないのですが。
 ここには、「反ヘイト」と自称している人々こそが非常に往々にして「ヘイト」的な振る舞いに出る現象と、全く構造が立ち現れています。
 もちろん、本書についてはさすがにあまりにも病的で、サブカル陣営の代表とすることは憚られるかも知れません。しかし、本書の著者たちの名前――中原昌也、高橋ヨシキ、海猫沢めろん、更科修一郎――を並べてみるとどうでしょう。前者二名は町山さんが創刊した『映画秘宝』に非常に縁深い人々です(翻って海猫沢さんはオタク側にも親和的で、本書の中でも一応、オタクの味方というスタンスです)。町山さんが彼らのこうした言動を知らないとは、考えにくい。にもかかわらず、まるでオタク側が一方的にサブカルにケンカを売っているかのように語るのは、アンフェア極まりありません。

*4 考えると『機動戦士クロスボーン・ガンダム』はそういう図式でした。革命家側に共感的な『ガンダム』ですが、若い世代によって作られたその派生作品がオリジナルとは異なり、「被害者を称する側の被害妄想」という「自己責任史観」を取っているのは示唆的です。

 もう一つ、彼らの発言を見ていて気づくのは、彼らが異常なまでに岡田さんを過大評価している点です。この傾向は町山さん、竹熊さん*5のみならず、往々にして見られるものです。これは、安倍さんさえやっつければ外交問題もエネルギー政策も全てが驚くほど簡単にクリアできるのだと考える人々のメンタリティに、何だか近い感じがします。
 しかし……ここまで見てくると、サブカルが若者たちの支持を失った原因は、別に岡田さんのせいではなく彼らの中にこそあるのでは、ということもわかってきたのではないでしょうか。
 上に、オタクとサブカルの違いを「思春期の割礼」に求めた意見を引用しました。
 それからちょっと、連想したことがあります。
『オバケのQ太郎』の正ちゃんには、伸ちゃんという中学生のお兄さんがいます。
『ドラえもん』ののび太は一人っ子です。
 何故でしょう。
『オバQ』は60年代から70年代にかけて描かれ、『ドラえもん』は70年代に始まり80年代にブレイクした作品。現実の世界でも一人っ子が増えて行ったという状況もあったでしょうが、『オバQ』の頃には青年文化に勢いがあったからということも、理由の一つでしょう。伸ちゃんはステレオでビートルズを聴いていたのです。
 80年代には青年文化に翳りが見られ、代わって子供文化が大人を巻き込むまでの勢いを持つに至りました。
 サブカルとは、そうした流れを理解することができず、オタクを弟分だと信じ続け、SEALDsのメンバーに加えようとし続ける、し続けつつ、それが叶わない人たちであったのです。

*5 ただし、竹熊さんは個人的に岡田さんとの確執があり、彼の立場はまた、独自のものかも知れません。両者のファンであるぼくとしては、見ていて心が痛むのですが。

■付記■
 もう十年前にも『ユリイカ』で「オタクvsサブカル』特集号が編まれたそうですが、さすがに入手して読むだけの余裕がありませんでした。
 同書も「オタクvsサブカルはなかった」的な論調になっていたようですが、これの責任編集は加野瀬未友。そう、以前にも「「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち」という記事で書かせていただきましたが、以前、デマを流してぼくを攻撃してきた御仁です。「オタク史はオタク修正主義の歴史そのもの」であることがわかりますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち (兵頭新児)

2015年11月27日 20時02分13秒 | 兵頭新児
「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち (兵頭新児)
*兵頭新児氏は、(正真正銘の?)オタクの立場から、フェミニズム批判を展開し続けているユニークな論客です。また日々、ツイッターでフェミニズム勢力と丁々発止のやりとりをしていらっしゃい...



兵頭新児氏の、斬新な切り口でのフェミニズム批判が展開された論考を再掲載します。当論考は、当ブログ人気ベスト10にしょっちゅう登場します。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち (兵頭新児)

2014年11月27日 17時17分55秒 | 兵頭新児
*兵頭新児氏は、(正真正銘の?)オタクの立場から、フェミニズム批判を展開し続けているユニークな論客です。また日々、ツイッターでフェミニズム勢力と丁々発止のやりとりをしていらっしゃいます。現場感覚にあふれた、その論の展開をお楽しみください。(編集者より)



 お久し振りです、以前も幾度か、こちらにお邪魔させていただきました兵頭新児です。
 一般的な教養というものが欠落しているため、いつもいつも話題がオタク関連ばかりで申し訳ないのですが、今回もまた、オタクネタです。
 と言っても……『仮面ライダー』なら子供の頃好きだった、という方も多いのではないでしょうか。
 目下、togetterで以下のようなまとめが話題になっています。

竹熊健太郎「女性が見る特撮は私にとって特撮ではない。特撮魂が曇る。」 (http://togetter.com/li/749752

 上のまとめは目下で六万view近くを達成し、「注目のまとめ」に挙げられています。
 さて、確かに『仮面ライダー』と言えば、藤岡弘の男らしい演技が印象的です。
 何しろスポ根ブームの折でしたから強敵に敗れても特訓で必殺技を身につけ、己の身体だけを頼りに悪と戦っていました。
 翻って今時の平成『ライダー』は軟弱なイケメンどもばかりが幅を利かせ、特訓一つせず、オモチャ会社の要望もあって重火器で敵を倒すヤツらばかり……全くもって、許せん!
 そう、実のところ現時点でも最新作『仮面ライダードライブ』が放映されており、『ライダー』は現行のコンテンツなのですが、しかし近年では変身前を演じるイケメン俳優に主婦を中心に女性ファンの目が集まる傾向にあり、男性ファンにとってはいささか複雑な心境であるのもまた、事実なのです。
 が、見ていくとこの意見は、むしろオタク勢から集中砲火を食らっているようです。
 このような狭量な見方は女性蔑視でありけしからぬ、というわけですね。
 いかが思われたでしょうか。

 1.いや、そうは言っても『ライダー』は男の子向けであり、竹熊氏は正論を言っているのでは。
 2.いや、そうは言っても平成『ライダー』は主婦向けのイケメン俳優を使っているし、男性向けとばかりも言えないのでは。
 3.いや、心の底からどうでもいいっス。


 いろんな意見が聞こえてきそうです。
 まあ、それぞれもっともな意見ではあるし、3.が一番多い気がしますが……。
 しかしオタク界ではどういうわけか、

 4.イケメン目当て以外の女性ファンも大勢いるのだ。

 という意見が多くを占めているように思われます。
 上のまとめでも、そうしたスタンスが目立っていますよね。
 これは一体、どういうことなのでしょうか?
 いや、心の底からどうでもいいとお思いかも知れませんが、もう少しおつきあいください。

 ――上に「最近のライダーは許せぬ」と書きました。
 しかし、これもぼくのホンネの部分もなくはありませんが、むしろ「政治的に正しくない特撮オタク」として仮想され、糾弾される「ロートル特撮オタク」像をやや大げさに演じみたものです。
 どこの世界にも「政治的な正義」というものがあり、意識の高い人たちが「それに反する者」を場合によっては勇み足で仮構して糾弾する、という傾向はありますよね。例えばですが「ネトウヨはどうせ○○なんだろ!?」「サヨどもはどうせ○○なんだろ!?」と決めつけての批判など。
 本件の竹熊氏は、確かに「仮構」というにはいささか自業自得、というよりは「ネットでつぶやけば炎上することは目に見えているのに、ガードが甘いな」との印象は拭えません(竹熊氏はオタク界では有名な編集者、ライターであり注目を集めている人ですから)。
 が、必死になって「ワルモノ」を探し出して叩いている人が正しいのかとなると、それも疑問です。
 竹熊氏は

>女性が見る特撮は、私にとっては特撮とは呼べないのですよ。若手イケメン俳優が出る特撮は、その時点でイケメンドラマであって、「似て非なる何か」なのです。特撮ドラマの「主役」はあくまでミニチュアであり着ぐるみであり、光線やメカ、破壊と爆発でなければならんのです。漢の世界なのです。

 とおっしゃっていて「いや、メカや爆発が好きな女性もいるぞ」との批判を浴びているのですが、それにしたってそうした女性は少数派であることは、間違いないでしょうから。
 さて、実はこれに類したことは、オタク界では定期的に起こっており、今までにも映画評論家の町山智浩氏、特撮映画監督の樋口真嗣氏、ゲームクリエイターの安田朗氏、そしてぼくなどもやり玉に挙がりました。
 意外なことに上のまとめでは「ホモソーシャル」という言葉を見つけ出すことはできませんでしたが、こうした場合、やり玉に挙がった人物は「ホモソーシャル」だからけしからぬ、と批判されることがお決まりであるように思います。
 これは、近年リベラル界隈で多用されるようになったフェミニズム用語です。ウィキペディアを見ると、

>ホモソーシャル (Homosocial) とは、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基本的な特徴とする、男性同士の強い連帯関係のこと。それ自体同性愛的なものでありながら、男性同性愛者を排除し、異性愛者同士で閉鎖的な関係を築く。

 とあり、何だかわかったようなわからないような概念ですが、とにかく「男ばかりで女を排除するのは差別的である」程度の意味として、理解しておけばいいように思います。
 しかし、上にもある「ミソジニー」という言葉が出てきた時もそうだったのですが、何というか、「言いも言ったり」との言葉が脳裏に浮かびます。
 ミソジニーも何も、フェミニストこそ男性嫌悪の塊だし、女性一般を考えても、男性一般よりも異性を嫌う傾向は強いでしょう。
 ホモソーシャルだってそうで、フェミニストこそ異性を排除しようとする心理の塊だし、女性一般を考えても、やはり男性一般よりその傾向は強いはずです。
 ある時、リベラル寄りと思しき男性がツイッターでケッサクなことを言っていました。

女性の方がホモソーシャリティが強いなどと主張する者がいるが、とんでもない。女性は男性に対してリソースを独占しているわけではないのだから(大意)」

 今度は「語るに落ちる」との言葉が脳裏に浮かんできます。
 果たして男性集団が女性集団に対して、リソースを独占しているかどうか、疑問です。殊に日本では大体、男性は稼ぎを妻に預けるのが普通なのですから。
 しかしそれを置くとしても、もし本当に男性がリソースを独占している事実があるなら、わざわざ「ホモソーシャル」などという造語をでっち上げる必要などなく、その事実を指摘してはっきりと「女性差別だ」と批判すればよいのです。
 これは、昨今のフェミニズムが「ジェンダーフリー」などを説き始めたことと、同根であるように思われます。
 均等法が施行されてかなり経つのに彼女らの思うように女性の社会進出が進まない。そこで彼女らは男社会には女性を阻む見えない壁が、「ガラスの天井」があるのだと強弁し始めました。
 いえ、どんな共同体でも新参者を阻む壁はあり、それはそれで批判されるべき点もあろうかとは思いますが、そこを「女性差別」であるとする短絡はやはり「強弁」と言っていいように思います。
 一方、このホモソーシャルという概念自体はイギリスの社会学者イヴ・K・セジウィック『男同士の絆』で唱えられたものですが、これはあくまでイギリス文学の分析であり、作者自身が世界的に普遍的かどうかについて留保をつけている概念なのです。
 いえ、そもそもこの『男同士の絆』は、恋愛小説に出て来る恋敵であるはずの男性同士にこそ絆があるように感じられると説く、何だか腐女子の同人誌みたいなものでした。セジウィックはそれをもって、「即ち女を男の共有財産と考えているのだ云々」といった苦しい論理を展開しているだけであり、それを企業社会批判に持ち出すのは後づけというヤツです。
 そして、その時点でも相当に疑問符がつくこの概念が、とうとうオタク社会での「異端尋問」のツールに使われるようになってしまったのです。

 とは言っても(他の人たちの件も多かれ少なかれそうなのですが)ぼくの場合は完全に、100%冤罪だったのですが……。
 問題は『機動戦士ガンダム』について、ぼくが何の気なしに「女性ファンが少ない」とつぶやいたことから起きました
『ガンダム』はロボットアニメに戦争映画的なドラマツルギーを持ち込んだ、言わば「アニメが子供向け文化から、青年文化へと成長しようとしていた」時期の作品でした。今まで正義のスーパーロボットが悪の秘密結社と戦う活劇であった「ロボットアニメ」は本作以降、二つの国家がロボットという兵器で武力衝突をする戦争ドラマとなったのです。
 オタクにとって『ガンダム』は聖書にも近しい存在であり、「ガンダムに女性ファンが少ない」との発言は、ある意味ではキリストの人種論争に近い、厄介さを孕んだものなのです。
 ――が、ここからが重要なのですが、実のところぼくは「ガンダムに女性ファンが少ない」などと言ってはいないのです。
 最初からご説明しますと、ぼくはあくまで「ガンダムの女性ファンは、ロマンロボに比べると少ない気がする」と言っただけだったのです。ところがこの「ロマンロボ」と「気がする」との言葉を削った表題でtogetterにまとめられ、そのために炎上してしまったわけです。

1stガンダムに女性ファンは少なかったと主張する兵頭新児氏とそれに対する反応(http://togetter.com/li/657745)」

 また、相手側のまとめだけではこちらが不利なので、ぼくがまとめたブログも挙げておきましょう。

「『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar516165)」

 まず、「気がする」と言っただけのことを断言したかのようにまとめるだけでも卑劣極まりないことですが、「ロマンロボ」との比較である点についてカットしたことは、それに輪をかけて何重にも下劣です。
 マニアックな話題になって恐縮ですが、この「ロマンロボ」とは『超電磁ロボ コン・バトラーV』、『超電磁マシーン ボルテスV』などのシリーズを指す言葉なのです。いずれも敵役として人気声優の市川治氏が演ずる悲運の美形キャラが配され、多くの女性ファンを獲得していました。ぼくのつぶやきは『ガンダム』の敵役シャア・アズナブルが明らかに上の美形キャラの影響下にあるが、にしてはそれほど女性ファンが多いように思えない(いずれにせよ『ガンダム』は超メジャー作品ですから、数からすれば多いかも知れないが、比率的にそこまで多いとも思えない)との意味だったのですが、そこをねじ曲げて広められてしまったのです。
 ちなみに、上のまとめを作ったのは加野瀬未友
 オタク界ではかなり古株のライターであったように思うのですが、彼はまとめを作ると共にフォロワーたちに「兵頭は『ぼくたちの女災社会』という本の作者だから、上の発言も宜なるかな」などと触れ回っていました。聞くところによれば、このような愚劣なやり方は、彼の常套手段だと言うことです。徒党を組んで他人をバッシングするとは、さすがにホモソーシャルの批判者はやることが違いますね
 わけがわからないのは、加野瀬は上に挙げたぼくのつぶやきの直後、ぼくに対して

>その市川治氏が演じたハイネルに女性ファンがいっぱいいたという話はもちろんご存じですよね

 と質問をしてきたことです。ぼくはそれをまず前提にしているのだから、彼は最初っからぼくの発言をまともに読んでもいなかったのです。ここまでマヌケな発言をしてしまったら普通、尻尾を巻いて逃げ出し、相手に関わるのはやめそうなものですが、加野瀬は実に邪気なく上のやり取りをもまとめにも掲載しています。
 これはつまり、加野瀬は表題でミスリードを誘っているとは言え、まとめ自体はことさらにこちらの発言を恣意的に削ってはいないということでもあります。
 しかし、それでもそこをまともに読もうとする者は少なく、極めて多くの人間が兵頭を「ホモソーシャルなワルモノ」として罵ってきました。ぼくも、仮にどれだけ攻撃的であろうと話せそうな相手に対しては対話を持つよう努めたつもりなのですが、ついぞ話が通じることはありませんでした。
 その中にはオタク界では著名な人物もおり、いささか意気消沈させられました。 
 一例を挙げれば、上のまとめなどに直接関わってはいませんでしたが、原田実氏。彼がまとめを見て加野瀬に軍配を上げるつぶやきをしていたのがどうにも納得しがたく、事情を説明するメールを差し上げたのですが、反応はありませんでした。この方、「と学会」のメンバーで(またかよ!)いわゆる「偽史」を批判する本を何冊も出していらっしゃるのですが……ここまで読解力を欠いた方に、そうした研究ができるものなのでしょうか……?
 ちなみにこの件自体は半年ほど前のことだったのですが、実は数日前にも、蒸し返してきた者がいました。

兵頭新児 hyodoshinji さんに「チンポ騎士団」と言われて粘着されたのでまとめました(http://togetter.com/li/747135)」

 粘着も何も、一方的に蒸し返し、また上の「ロマンロボ」の件について「そんなものは後付けだ」と(こちらの反論を少しでも聞いていればあり得ない)思い込みでこちらを罵ってきたのは相手の方なのですが、こちらの反論に言い返せなくなるといきなり「チンポ騎士団*1とはどういう意味だ説明しろ説明しろ」と大騒ぎするというおよそ理解に苦しむメチャクチャさで、こうした人たちにとっては『朝日新聞』同様、「人工事実*2」を捏造してイデオロギーの異なる者を貶めることだけが正義であり、「客観的事実などケシ粒ほどの価値も持っていない」と信じているようです。

*1 ツイッターなどで「女性に下心があるため、女性の味方を演じる連中」を指す言葉です。彼らは当初から、この言葉で揶揄されておりました。
*2「ARTIFACT ―人工事実―」というのは加野瀬のブログ名です。

 さて、ここでもう一つ、根本的なことを説明しておかなければなりません。
 オタクという存在が、かつては世間ではあまり好ましいものとしては捉えられず、しかしここ十年ばかり、商業的な成功もあって比較的市民権を得だした――といったことは、何とはなしに皮膚感覚でおわかりいただけるかと思います。
 が、それは逆にぼくを含めた古株のオタクは、オタクが全く市民権を得ていない時期に青年期を過ごし、極めて強いルサンチマンを抱えている、ということでもあります(いえ、今の若い人たちも主観としてはさほど変わりはないとも思いますが……)。
 いい歳をして子供向けのアニメ(いかに『ガンダム』は違う、といったところでそれを補強してくれる論理やマスコミの援護射撃は、当時はありませんでした)を見ている、場合によっては女児向けアニメのキャラに「萌え」ているオタク少年は、クラスメートの少女にモテる存在では、どう考えてもありませんでした。
 それは本件で炎上してよりの、竹熊氏の発言が象徴しています。 

>本当は私、女性と特撮映画を見て、盛り上がりたいのです。世の女性と私では同じ特撮でも見てる部分が違いすぎるのです。「モスラ」の頭に乗っている紙粘土製のピーナツ人形や、『サンダ対ガイラ』でサンダが柿ピーのように人間を食べるシーンについて熱く語り合える女性に、私は会った事がないのです。

 これに対しても「お前がそんなだから女性にモテないのだ」とのツッコミが入っており、まあ、それはその通りなのですが、見ていて胸が苦しくなるようなツイートです。
 マニアに絶大な支持を受けている唐沢なをき氏という漫画家さんの、漫画界の舞台裏を描いた傑作、『まんが極道』(第一巻「センス オブ ワンダーくん)には「俺のことをわかってくれるSF好きの女性を彼女にしたいが、そんな女、いるはずがない!」と嘆くSF漫画家志望の青年が登場しますが、それを思い起こさせる話です。
 さて、上に書いた、ぼくを一斉に攻撃してきた人々は(これも印象論になってしまいますが)どうも男性が多いように感じられました*3。
 では、彼らは「オタク」でありながら「リア充」であった、つまり女性にモテる青春期を送り、ルサンチマンを抱いていないがために上のような主張をしているのでしょうか。
 いえ……ぼくにはそうではない気がしてなりません。彼らにも「非モテ」としてのルサンチマンがあり、しかしそれを発露することは彼らのグルに厳重に禁じられている。そこで、そうしたルサンチマンを露わにした(と、彼らが思い込んだ)者に対して一斉に正義の刃を向けることで、不満を逸らしている――そんな図式にぼくには見えます。
 それはまた、フェミニストたちの言いつけを守り「ジェンダーフリー」思想にひれ伏すリベラル男性よりも、どう考えても「男らしい男」の方が女性にモテるだろうになあ、という無常観とも、つながるように思います。
 魔女狩りにあって宗教裁判で処刑された者も、そして教会の覚えめでたくなるために密告をした者も結局はモテない……神も仏もないとは、このことです。
 これはまた、前回にお話しした、東浩紀氏がオタクに対し「ホモソーシャル」、「ミソジニー」、「マッチョ」、「ネトウヨ」といったレッテル貼りを実に熱心に、極めて薄弱な根拠で行っていた件をも連想させます。
 結局、彼らは

「女性を排除するホモソーシャリティという絶対悪が厳然と存在している、していなければならないのだ」→
「だから女性のファンを排除する者を見つけ出し、抹殺しなければならないのだ」


 という幼稚な政治性に取り憑かれているのです。
 しかしオタク界が全体として、女性に排他的かとなると、それは非常に考えにくい。
 現にアダルト物含め、「萌え」系の漫画家さん、イラストレーターさんに女性は大勢いるし、女性作家が(女性であるからとの理由で)叩かれる傾向がないとは言いませんが、同時に女性であることが売りになる局面だって多いのですから。
 繰り返しになりますが、(竹熊氏の件は彼にも非がなかったとは言えないとはいえ)本件は自らのルサンチマンを見透かされたくないが故に、隣人を密告して魔女裁判にかけるといった抑圧的な不健康さを感じる事例でした。
 しかしこうした抑圧的な「教義」を、事実を捏造してまで守ることに、どこまでの意義があるのか、それは極めて疑わしいと言わざるを得ません。
 ぼくたちは、「女性が男性性を身につけることは絶対的に好ましいこと」という、政治的正義をもう少し、疑ってみるべきではないでしょうか
 ぼくには、アファーマティブアクションなどによって女性の管理職を増やさねばならないのだとの感受性の主こそが、一面では主婦や女性性を差別しているように、そのような論者こそが、どこかで女性を見下しているように思えてなりません。

*3 一方、とある腐女子ライターさんが本件について言及していたので、上の「ロマンロボ」についてなど事情を説明したところ一発でご理解いただき、またこちらが恐縮するような丁寧な謝罪の返事をいただいた、との一幕もありました。
「女性の理解者」たらねばと必死の形相で勇み足を踏んでいる彼らに比べ、こと本件については女性の方が常識的であったように思われます。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする