*上の写真は、サイト「濃昼山道」https://www.onitoge.org/kodo/gokibiru.html から転載させていただきました。
*とある学習塾関係の機関誌に掲載する予定だった原稿です。
今朝の夢に、詩人の萩原朔太郎が現れた。夢の中の私は、夭折したある詩人の才能を惜しみ朔太郎氏に切々と話しかけているのだった。いま生きていれば名を成しただろうに、と。どうやら、その詩人は私と朔太郎氏との共通の知人であるらしい。
目覚めた私は、横で寝ている妻に声をかけ、ぼそぼそと夢のあらましを伝えた。目が覚める直前に見た夢なので、そこに流れている基本感情のようなものの手応えが残っている。私は若いころ物書きになる夢を抱いていた。その思いのかけらのようなものがいまでも残っていて、それが私にそういう夢を見させたのだろうと。そうしているうち、なぜか3年半ほど前に亡くなった父のことが浮かんできた。父のありのままの人間像がうまくまわりの人たちに伝わらなかったのを残念に思う感情も重なっているような気もすると言い添えた。生前の父はおおむね物静かでおおらかだったのだけれど、数年に一度躁状態になる。そうなると、人柄が一変し、まわりの人びととの間で培ってきた信頼関係を損なうことになる。まわりの人びとは「Nさんは実はこういう人だったのか」と思い、父に対する評価が一気に下がることになるのだ。私は、息子としてそのことをとても残念に思うのだった。その痛切な感情は、いまでも如実に残っている。その思いもまた反映されたのだろうと。
私は、あらためて妻という存在に深く感謝している。人はそれぞれの生きざまから、否応なく、ある基本感情を有することになる。ほかの人からすれば、いかにも不格好なものに見えようとも、だ。それにまつわる「もやもや」を、素直に格好つけずに表出できる相手が存在することは、人がまともに生きていくうえでとても大切であると思う。妻がそういう存在であってくれていることに、私は感謝するほかない。
思えば、私たち塾人は、よそ様のお子さんやその親御さんの心に深く関わらざるをえない仕事をしている。人の心がよく分かることが必要な仕事なのだ。もっと視野を広げて考えれば、第3次産業の従事者が50%を超えた高度資本主義社会においては「人の心がよく分かることが必要な仕事」だらけであると言っても過言ではないだろう。
人の心が分かるためには、自分の心がよく分かっていなければならない。自分の心がよく分かるうえでとても大切なのは、先ほどのべたような「もやもや」をはっきりと言葉にして表出する話し相手が存在することであると私は考える。そういう存在が、自分の心をできるだけくもりなく見ることを可能にする、と。そういう裸眼の獲得が人の心がよく分かるようになるうえで欠かせないことなのではないか。近頃の私は、そう考えている。