美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

従軍慰安婦についてのオバマ発言の確認

2014年04月28日 15時16分45秒 | 政治
従軍慰安婦についてのオバマ発言の確認

美津島明


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26日の共同記者会見での、従軍慰安婦についてのオバマ発言の「衝撃」の余波が、まだ冷めやらぬ感じである。頭を整理するために、オバマは、実際のところどういう発言をしたのか、確認してみよう。まず問題発言とされる箇所の原文を掲げ、次に政治学者・櫻田淳氏の訳をつけよう。彼の訳を選んだのは、過不足のない正確な訳であると思ったからである。

Finally, with respect to(~を顧慮すると) the historical tensions (緊張)between South Korea and Japan, I think that any of us who look back on the history of what happened to the comfort women(慰安婦) here in South Korea, for example, have to recognize that this was a terrible, egregious(とんでもない, とてもひどい)violation (侵害)of human rights. Those women were violated in ways that, even in the midst of war, was shocking. And they deserve to be heard; they deserve to be respected; and there should be an accurate(正確な) and clear account of what happened.

 「最後に、韓国と日本の歴史軋轢に関していえば、私が思うところでは、たとえば此処、韓国の慰安婦に何が起こったかの歴史を振り返るわれわれの誰もが、これが甚だしくも酷い人権侵害の一つであったことを認識しなければらない。これらの女性たちは、戦争の最中であるとはいえ、ショッキングな仕方で陵辱されたのである。そして、彼女たちの声は耳を傾けるに足るものだし、彼女たちは尊重されるに相応しい。何が起こったかについて精確にして明快な説明があるべきだ」。


左派系のメディアは、「甚だしくも酷い人権侵害」という発言の部分を、「おそましい人権侵害」と「意訳」して鬼の首でも取ったように報道しつづけ、保守系の論客は、同じ箇所が、オバマの慰安婦問題についての不勉強ぶりを示す発言であると怒るか、あるいは、オバマの慰安婦発言そのものが事実無根であり、反日メディアの捏造記事にほかならないと断定している。

いずれも、バランスを失した受けとめ方であると私は考える。国益の観点からすれば、上記アンダーラインの箇所を重視し、河野談話の見直し作業を是とする言質がとれた好機としてオバマ発言をとらえ、粛々と同作業を進めることが妥当であると考えるからである。それには、従軍慰安婦問題を捏造した朝日新聞の報道姿勢を根底から問い直す作業が伴うことはいうまでもない。国益をいちじるしく損なってまでも守らなければならない報道の自由などというものはないのであるから。いうまでもないことだが、国際政治において、事実無根の情報に基づいて国家のマイナス・イメージを流布することは、著しく国益を害する。

話を戻そう。

むろん、政治家の発言のうち突出した部分が、文脈とは関係なくそれ自体が流布してしまうことには、やむをえない側面がある。政治的発言とは、そういうものなのである。その意味では、オバマ発言は軽率・不用意のそしりを免れない。しかし、そのことをいくらあげつらってみても、国益に資するところはあまりない。

参考までに、その続きを見ておこう。適当な訳が見つからなかったので私訳で勘弁していただきたい。

I think Prime Minister Abe recognizes, and certainly the Japanese people recognize, that the past is something that has to be recognized honestly and fairly(公正に). But I also think that it is in the interest of both Japan and the Korean people to look forward as well as backwards and to find ways in which the heartache and the pain of the past can be resolved, because, as has been said before, the interests today of the Korean and Japanese people so clearly converge.(一点に集まる) They’re both democracies. You both have thriving (繁栄する)free markets. Both are cornerstones(肝要なもの) of a booming(急速に発展する)economic region(地域). Both are strong allies (同盟国)and friends of the United States. And so when you think about the young people of the Republic of Korea and Japan, my hope would be that we can honestly resolve some of these past tensions, but also keep our eye on the future and the possibilities of peace and prosperity for all people.

安倍首相と日本国民は、その過去は、正直にまた公正に認識されねばならないと思っていることを、私は確信している。しかしながら、過去の心痛と苦痛を解決しうる方法を探し出すために後ろを振り返るのと同じくらいに前を見ることが、日本と韓国の国益にかなっているとも、私は考える。なぜなら今日、韓国と日本の国益は、明らかに一致しているからである。すなわち、両国ともに民主主義国家である。両国ともに繁栄する自由市場を持っている。ともに、急速に発展する経済地域の主要国である。ともに、合衆国の強力な同盟国であり、友好国である。そうであるがゆえに、韓国と日本の若者たちについて考えるとき、われわれはこれらの過去の緊張を心から解決しうるし、われわれの目を未来とすべての人びとの平和と繁栄の可能性に差し向け続けうると、私は思っている。


全体の文脈は、「韓国の言い分もわかる。しかし、あまり過去ばかりに目を向けていないで、未来にもっと目を向ける方がいい。その方が国益にかなっているし、平和と繁栄をもたらす」となっていることがこれで分かるだろう。別にオバマの肩を持つわけではないが、彼は彼なりに方々に気を配りながら慎重に言葉を選んでいるのが分かる。彼は、彼の力量の範囲内で覇権国家のトップとして当然の振る舞い方をしているに過ぎないのである。

むろん、「だったら、慰安婦に関しては、もう少し穏当な言葉を選んでほしかった。日本にとって、はた迷惑である」という声が上がるのはやむをえない側面もある。しかし、先ほどの国益最優先の構えを尊重するのならば、その声は最小限にとどめておくのが、功利の側面から妥当であると私は考える。オバマなどしょせんは、市民運動あがりの政治家の通弊であるバカ・サヨクのDNA保持者であって、その意味で二流の政治家に過ぎないのだから、部分的に突出発言があったからと言って過剰にいきり立つ必要などない。われわれは、冷静に、何か国益にかなっているのか、見極めればいいのである。

その意味では、一部報道機関が報じているように、TPP交渉に関して、公式発表とはうらはらに、日本政府が安易な妥協をし、アメリカ側と実質合意をしていたのならば、日本政府は、愚かにも、もはやレームダックにすぎないオバマに対する意味のない過剰濃厚サービスを提供したと評するよりほかはない。
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明治初年の反乱氏族増田宋太郎(その3)・宮里立士

2014年04月26日 15時39分10秒 | 宮里立士
明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その3)

宮里立士


目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(その2)
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成(今回)

・・いつか「死」を迎えねばならない人間は、自分を越えたものを信じることができなければ、その生を全うすることも難しい存在である・・


ヘンリク・シェミラツキ「ローマの牧歌的風景(釣り)」

近代社会とは、伝統社会の束縛から個々の人間の活動を解放したところに成立したとは、第一節で指摘した。しかしそれは伝統社会のなかで生きる人びとが、近代の成立を、諸手を上げて、喜んで受入れたことを意味するものではない。近代社会とは、「個」としての人間のあり方を価値あるものとして認知し、積極的に擁護しようとするものである。だがその反面、近代社会とは、「個」の集積によって成り立ち、「個」に生活の基盤を与える、社会そのものに独自の価値が存在することを認めない意識、あるいはその価値を軽んずる意識の確立によって成り立つ社会である。しかしいつか「死」を迎えねばならない人間は、自分を越えたものを信じることができなければ、あるいはそこに価値あるものを置かねば、その生を全うすることも難しい存在である。伝統社会とは、たとえイデオロギーであったとしても、自分を越えたもの、人間を越えた価値が確かに存在することを、その社会のなかに生きる人びとに、説得力を以て示しえた社会であった。それは現代のわれわれが社会に託するイメージ、個人の自立と連帯によって成り立つ社会とは、異なる意識構造によって捉えられた社会認識によって可能となった。(注18)

つまり伝統社会とは、そのなかに生きる人びとにとっては、かけがえのない「世界」、そこに棲家を定めるしかない「ねぐら」として存在したのである。それはかれらにとって、人間存在すべてを覆い尽くす全体なのであって、社会と名づけて対象化し、分析できる存在ではなかった。(注19)

近世日本に引きつけてこのことを考えてみよう。鎖国に基づく江戸幕藩体制の確立は、日本列島全体に、自足的なひとつの政治経済圏を創出した。それは、閉鎖的で流動性は乏しくとも安定性の高い、ささやかながらゆとりと落ち着きのある社会であった。(注20)現在の視点からすれば、数々の問題点が見えないわけではない。しかしそれでもそこに住む人間たちにとっては、己が所を与えてくれる社会であった。その社会、「世界」が、黒船来航によって終焉を余儀なくされたのである。当時の日本人たちにとって、それはまさしく、われらの「世界」の存亡の危機として認識されたのではなかったか。

当時の、幕末明治の日本人にとって、その「世界」を万国に対峙しうる近代国家に造り変えることは、迫られて選んだ道であった。そしてそれは結局のところ、自らの住む社会、われらの「世界」を守るために為された、歴史的転換と言いかえることも可能なできごとであったのだ。

このことを第二節の最後で指摘した国権と民権の問題と関連させて考えてみよう。「国権を確立して、いかに民権の充実におよぶか」は、明治期全体において考えられた問題であると先に指摘した。それは反乱士族たちも共有する問題意識であったとも述べた。国権の確立と民権の充実とは、端的に言って、近代国家建設の意図を明らかにした表現である。すなわち、自生的に近代を生み出し得なかった日本が、対外的危機に触発されて近代国家を日本に建設しようとする意思の表明であった。しかしわれらの「世界」を守るために選んだ近代国家の建設は、当時において、西欧化以外のなにものでもなかった。そうしてそれは、それまでの自足的な社会の組換えを目指すものであった。とすれば、これは矛盾ではないか。

明治国家はこの矛盾を強いられながらも、近代化に邁進した。そしてこの明治日本の抱える矛盾ゆえに多くのきしみと混乱を引き起こした。その矛盾は、反乱士族たちにも無縁なものではなかったはずである。いやむしろ、この矛盾の存在ゆえに、かれらは決起したというべきではないだろうか。

なぜ明治日本は、維新によって、伝統「世界」に引導を渡し、この日本に近代国家を建設しようとしたのか。

国権論者の前身ともいえる攘夷家から「民権論者」へと変貌し、士族反乱の総決算としての西南戦争で斃れた反乱士族増田宋太郎を取り上げる所以は、実にこの明治日本に内在する矛盾を考えることにある。この論考は、そのためのひとつの試みを為すものである。


原注
・注18:デュモンは、前掲書(『個人主義論考――近代イデオロギーについての人類学的展望』のこと――筆写人注)のなかで西欧近代社会に成立した個人主義も、ひとつのイデオロギーであるという。そしてそれと伝統社会における全体論と比較し、検討している。

・注19:ピーター・ラスレットはイギリスにおける工業化以前の社会を「われら失いし世界」と呼び、その特徴を「愛情で結ばれた親しい人びとのあいだで、馴れ親しんだモノにとりかこまれて進行した時代、何もかも人間的なサイズであった時代」と述べている。しかし工業化によって、「そのような時代は過ぎ去」ったという。(『われら失いし世界』三一ページ 川北稔・指昭博・山本正訳 三嶺書房 一九八六年 原著 Peter Laslett, THE WORLD WE HAVE LOST 1983)

・注20:『朝日百科 日本の歴史7 近世Ⅰ』(一九八九年)「泰平の世」(朝尾直弘執筆)及び『朝日百科 日本の歴史8 近世Ⅱ』(吉田光邦・樺山紘一・横山俊夫)参照。

(以上で、序章終了)
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明治初年の反乱氏族増田宋太郎(その2)・宮里立士

2014年04月24日 23時35分14秒 | 宮里立士
明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その2)

宮里立士


目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(今回)



・・歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか・・

研究史においては、明治初年に続発した士族反乱とは、征韓論争という「十六世紀的絶対主義と十九世紀的絶対主義との対立」の、十六世紀的絶対主義の側が起こした反乱であり、「当時の国民的課題とは全く相反する」、「一片の近代化の志向性をもみいだすことはできない」(注7)、「歴史に逆行する反革命運動であり、それが敗退するのは歴史的必然」(注8)であった、と位置づけられている(注9)。つまり士族反乱は、維新変革と自由民権運動の間にあって、後二者が歴史の進歩をあらわしているのに対し、ひとり歴史の進歩を阻害する反動であり、後二者とは対蹠的存在なのである。故に両者の関係とは、水と油の関係であるべきであって、もし双方に何らかの関連があるとしても、それは無視してしかるべきもの、その関連がどうしても無視することができないほどに強い場合にのみ、それは維新変化の、自由民権運動の、進歩の度合いの不徹底さを示す要素として歴史的進歩の負の側面と理解されてきた。だが、歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか。

なぜ士族反乱が反動なのか。それはかれらが明治初年、なによりも優先されるべき近代的国家機構の整備、資本主義の確立、といったことには一顧だにせず、征韓という対外的膨張の即時断行に狂奔し、士族独裁体制の確立を国内的には目指して、明治政府が行った武士の特権の剥奪を、旧に復することを目的としているのみであったからなのである。

そこには、すでに明治政府の主流派指導者すら構想していた民撰議員開設への展望、江戸時代と変わらぬ重い地租負担に喘いでいた農民層への眼差、そして当時最大の外交懸案であった条約改正問題への対処、という近代初頭の日本が真に受け止めねばならない諸問題に対する配慮がひとつもなされておらず、士族中心の侵略主義的発想のみあって、近代日本の歩みについて全く思念が行き届いていないというのだ。氏族反乱は故に、直接生産者たる農民層を排除して行われ、しかも旧藩以来の割拠主義と藩家臣団意識すら克服できず、時期的にも地域的にも極めて近接して決起されていながら、各反乱は連繋することもなく、明治政府によって各個撃滅されてしまった。(注10)

明治維新の絶対主義的部分でも最も救い難い部分が結集して、起こした騒動のように指弾されてきた士族反乱であるが、当時においてかれらが、呉下の阿蒙(いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉――筆写人注)のように、飛び抜けて蒙昧な手合いであったのか。もしそうであるならば、たとえば明治政府の掲げた市民平等の改革に対して、幕藩体制期そのままの身分差別の温存を訴え、あるいは時代錯誤も甚だしい要求を掲げて起こった農民一揆はどう考えればよいのだろう。(注11)自由民権運動の中でも、最も急進的な大井憲太郎一派が武力を以って朝鮮半島に乗り込み、騒乱事件を起こして、それを梃子にして日本における自由民権運動の前進を期した大阪事件はどう捉えればよいのであろうか。(注12)

もちろんこれらの事例は明治前半期における農民闘争の、自由民権運動の、歴史的限界として否定的に評価されている。しかし同じように歴史的限界を背負った士族反乱だけ、なぜ中身に立ち入った検証もなされずに、全否定の対象とされねばならないのか。それは士族反乱が歴史的進歩の方向を向いておらず、どう考えても旧時代の復権を目指した動きにみえるからであろうか。

だが、たとえば佐賀の乱の首謀者江藤新平が、明治政府きっての開明指導者のひとりであり、その決起文が「夫(それ)、国権行はるれば、則、民権随て全し」と書き出されているのは、どう考えればよいのか。(注13)廃刀令に抗議して何ら成算なく立ち上がった神風連の面々には、まず最初から征韓の断行やら士族独裁体制の確立などといった発想すらなかったことをどう説明するのか。(注14)西南戦争に至るまでの西郷隆盛の去就がなぜ朝野を問わず、日本全土注目の的であったのか。士族反乱が士族中心の国家体制を目指したとして、現実的にいって武士勢力の武力闘争の中から生まれて日の浅い新国家を、とりあえず担うことのできたのは、その後身たる士族たちではなかったか。そもそも既得権を何の異議申し立てもできずに奪われた士族が、武力行使というかたちであれ、抗議の意思を表わすことに全く否定的であってもいいのであろうか。

士族反乱を全否定し、黙殺する態度とは、無意識ではあれ、明治政府の敷いた近代化コースのみを日本近代黎明期、唯一の、あるいは至当の、道として追認する発想によってのみ可能となるのではなかろうか。(注15)

もちろん士族反乱に否定的な論者は同時に、明治政府の上からの近代化が、いかに民情を無視した国家優先の強引なものであったかを強調する論者でもある。しかし政府首脳の専制性はひとまずおいて、明治政府の目指した西欧流近代に即した近代化の方向性は、問題点が多々あったとしても、歴史的進歩の当然な流れであると、このような論者にも是認され、むしろ一層の前進、進歩の継承こそが正しい道であると論じられてきたのではないか。だから、明治政府の専制性が露骨に現れてきたとき、民衆はみずから立ち上がり歴史の前進を期し、そのなかから日本における市民革命の実現を展望すべきであったと考えたがゆえに、士族反乱のあとに盛り上がる自由民権運動に対して、極めて高い評価を与えてきたのではないか。そのため自由民権運動の末期、武装蜂起となって現れた激化事件を、人民の、専制政府に対する当然の抵抗運動であったと、先のような論を展開する者は、称えてきたのではないか。同じ明治政府への反対者といっても士族反乱の一派とはわけが違うのである。(注16)

反乱士族たちがどれだけ歴史的進歩の展望を持っていたか、確かに疑わしい。だが、かれらとて明治初年の現実の中で、自らの主張を貫くために立ち挙がったはずである。そこには明らかにかれらなりの国家展望があった。征韓といい、士族独裁制といい、それらが本当に反乱士族らの目指したものかどうか検討の余地はあると思うが、それは幕末からひき続く問題、端的にいって対外的危機、とのかねあいのなかで考えてみる必要があるのではなかろうか。(注17)

本格的士族反乱の端緒となった佐賀の乱の、先に引用した決起文「夫、国権行はるれば、則、民権随て全し」の国権と民権。士族反乱の徒ですら掲げねばならない題目としてあったこの二つ。国権の確立あって、そののちに民権が整えられる、という発想は、当時、そんなに突飛な発想ではなかったはずである。いかにして国権を確立して、民権の充実に及ぶか。この問題は明治期全体においてあらゆる識者を巻き込んで、考えられた問題であったはずである。反乱士族たちの念頭にあった問題意識も新時代に孤立したものではなかったわけである。


*筆写人より:参考までに、明治初年の士族反乱と農民一揆を年代順に列挙しておきます。(オレンジが士族反乱、紫が農民一揆)

・1874.1 赤坂喰違(くいちがい)の変 右大臣岩倉具視が征韓派の高知県士族武市熊吉らに襲撃された事件。
・1874.2 征韓を主張する征韓党が下野した前参議・江藤新平を擁して起こした士族反乱。

・1874.6 わっぱ騒動 酒田市の過納租税の返還を求めた一揆。県令三島通庸によって弾圧される。わっぱ(木でできた弁当箱)で配分できるほど過納租税があるという意味からついた名称。
・1876.2 伊勢騒動 三重県からおこった地租改正反対一揆で、愛知・堺・岐阜の三県にも波及。
・1876.10 神風連(敬神党)の乱 大田黒伴雄を中心に、熊本士族が廃刀令に反対して挙兵。
・1876.10 秋月の乱 宮崎車之助(しゃのすけ)を中心とする福岡県旧秋月藩士族による反乱。征韓と国権拡張を主張。
・1876.10 萩の乱 前参議前原一誠を中心に山口県士族らがおこした士族反乱。広島鎮台兵により鎮圧。

・1876.11 真壁騒動 茨城県真壁一帯におこった地租改正反対一揆。
・1877.2~9 西南戦争 西郷隆盛を擁しておこした最大の士族反乱。
・1878.5 紀尾井坂の変 内務卿・大久保利通が石川県士族島田一郎らに暗殺された事件。

                                           (『詳説 日本史図録 第6版』山川出版社 より)

原注
・注7:後藤靖「士族反乱と民衆騒擾」(青木書店 一九六七年)、第一章「士族反乱の構造」参照。かぎかっこ内。第一は二六ページ。第二、第三は七四ページ。

・注8:同上「士族反乱と民衆騒擾」(岩波講座『日本史一四 近代Ⅰ』所収 一九七五年)、三〇三ページ。

・注9:小池ウルスラは研究史における士族反乱の位置づけを整理して次の四つの傾向を指摘している。(1)中央集権的統一国家形成途上における藩閥・独裁主義への反対運動(2)維新に貢献した尊王攘夷主義者を主とした封建支配階層の、権力統一過程から脱落しようとする不安、不満の爆発。(3)封建的特権の維持や回復を目指して近代国家の成立に抵抗する保守的運動。これは多くの研究者がとる立場である。(4)直前の(3)の立場に対して士族反乱のなかに進歩性を見いだし、このなかから民権運動の萌芽である「有司専制」への抵抗をみようとする視点。しかし士族反乱については本文で述べた位置づけ、即ち先の整理に従えば(3)に該当する位置づけが研究史において一般的のように見受けられる。小池も多くの研究者がこの立場にたつと指摘している。そして(4)は長年、研究史上主流を占めてきた(3)の立場に対する再検討を促す姿勢から近年、提起された視点である。(1)についていえばこれは強引な中央集権化に対する抵抗運動という、明治初期の政治対立を指摘しているのであって、士族反乱そのものの位置づけを明確化したものとはいえないと思われる。なお(3)の代表者として小池は、井上清とともに後藤を揚げている(「士族解体と士族反乱」 伊藤隆編『日本近代史の再構築』所収 山川出版社 一九九三年)。

・注10:後藤前掲書、同じ章の論述に基づく。本節における士族反乱の研究史上の位置づけは、主として後藤の見解に基づいて、記述している。

・注11:鶴巻孝雄「民衆騒擾と社会意識」(岩波講座『日本通史 第十六巻 近代1』所収
一九九四年)参照

・注12:大阪事件については、松尾章一『増補・改訂 自由民権思想の研究』(日本経済評論社 一九九〇年)、第五章「大阪事件の思想史的位置」を参照。かれらのなかには日清戦争後、朝鮮半島における日本の「国権」保持のため、韓国王宮に乗り込んで王妃を惨殺した閔妃事件の関与者もいるという(上村希美雄『民権と国権のあいだ 明治草莽思想史覚書』葦書房 昭和五一年 三二二ページ)。

・注13:黒龍会編『西南記伝』上巻二(明治四一年)、四二四ページ。正式には「決戦之議」と題されている。

・注14:神風連という、当時にあっても特異な一党についての内実は、渡辺京二『神風連とその時代』(葦書房 昭和五一年)を参照した。

・注15:戦後の代表的な進歩的歴史家羽仁五郎は、その著『明治維新』(岩波新書 昭和三一年)で明治政府の進歩性を高く評価している。また羽仁の教えを受けた井上清も『西郷隆盛』(中公新書 一九七〇年)のなかで、維新以後の日本の開明ぶりを同じく高く評価している。

・注16:激化事件中、等しく論者がその革命性を高く評価している事件は、秩父事件である。しかし近年の研究動向において、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」とみることに疑問が投げかけられているという(森山軍治郎「秩父事件とフランス革命」 前掲 岩波講座『日本通史 第十六巻 近代Ⅰ』月報)。

・注17:たとえば先に名をあげた自由民権運動きっての急進派馬場辰猪の演説にも、ヨーロッパ帝国主義に対抗するためには、武力を背景としてでも清国に日本との提携を迫る必要性を訴えるものがあるという(萩原前掲書二四六ページ)。
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明治初年の反乱氏族増田宋太郎 ・宮里立士 (その1)

2014年04月23日 18時07分47秒 | 宮里立士
当ブログの常連執筆者のひとり、宮里立士氏が、先月の三月二六日午後八時半、那覇市赤十字病院にて逝去なさいました。直接の死因は静脈瘤破裂による大量出血。享年四八歳。志半ばでこの世を去らざるをえなかった当人の胸中を思うと、なにをどう言ったらよいのやら、言葉が見つかりません。だれよりも当人がそうでしょう。せめて、手元にある彼の遺稿をアップし、ひとりでも多くのひとびとの目にふれることを願うばかりです。その死を美化する気など毛頭ないのではありますが、その陽気な笑い声と地黒の、クリクリと目のよく動く丸顔とを思い浮かべると、宮里氏はいま極楽浄土にいるに違いないと信じられてならないのです。彼は、この世に残るわたしたちに嫌な後味をなにひとつ残さずに、たったひとつ沖縄の海のような透明な記憶だけを残して、あの世へ旅立って行った人であります。

美津島明


***


明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その1)

宮里立士




目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年
第二節 研究史における士族反乱の位置
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成

第一章 西南戦争に呼応するまで
第一節 生い立ちと維新に至るまでの活動
第二節 道生館について――増田宋太郎の人間形成
第三節 東奔西走の日々
第四節 皇学校・共憂社・田舎新聞

第二章 反乱士族への道――西南戦争前後
第一節 「討薩」から親西郷党への転身
第二節 征韓論について
第三節 西南戦争への呼応

第三章 決起の理由・檄文の検討を通して
第一節 檄文について
第二節 方今我神州ノ勢ヲ熟視スル二
第三節 此時二際シ宜シク外勢ヲ張リ
第四節 曩日前参議江藤前原氏ノ如キ、国権ノ不立ヲ憂慮シ、
第五節 以テ内ハ一国ノ元気ヲ振起シ、
第六節 今聞西郷公闕下二イタラントス

終章 日本近代のなかにおける反乱士族増田宋太郎
第一節 「国権」と「民権」の関係について
第二節 「一日接すれば・・・・・」――逸話をめぐる考察から
第四節 「情死」をめぐって

*本文中の原注( )は、節ごとにその末尾にまとめてあります。筆記者注は、本文中で( )内にその都度つけます。

序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年

″・・・だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった・・・″

まず、増田宋太郎についてのひとつの逸話から始めよう。

嘉永二年(一八四九)豊前(いまの大分県――筆記者注)中津藩に生まれたかれは、幕末維新期、当時の青年としてはめずらしくはないが、熱烈な尊皇攘夷家であった。しかし、だからといって幕末、尊攘運動において特に奔走したというわけではない。維新回天の年かぞえ年わずかに二十歳で、しかも徳川譜代の中津藩士であってみれば、幕末維新の風雲には馳せ参じ切れなかったのであろうか。ただ藩内で気勢を上げる程度であった。

ところで、中津藩出身者の内、幕末いち早く世に現れた人物に福沢諭吉がいる。三度の洋行を経て、著した『西洋事情』は好評嘖嘖(「さくさく」と読む――筆記者注)とし、東京で慶應義塾を開いていた福沢は、既に洋学の大家であり、新知識人の筆頭ともいうべき存在であった。この福沢は、増田には又従兄にあたるひとでもあった。

逸話とは明治三年(一八七〇)(注1)、福沢が老母を東京へ呼び寄せるため中津へ帰省したとき増田が、この又従兄を暗殺しようとしたというものである。

福沢からすれば、十五歳程年下の「子供のやうに思ひ、かつ住居も近所で朝夕往来」し、「宗(ママ)さん、宗さんといつて親しく」思っていた増田が、「なんぞはからん、この宗さんが胸に一物、恐ろしいことをたくらんでゐて、そのニコニコやさしい顔をして私方に出入りし」ていたその理由が暗殺のための偵察であったとは、よもや思いもしなかった。「いよいよ今夜は福沢を片づけるといふ」晩、福沢宅に客が来た。主客は酒を夜更るまで飲み明かした。増田はその間、外の垣根で中を伺って立っていた。夜遅くまで待っていたのである。しかし、どうしても客の帰る素振りのみえないのに業を煮やし、暗殺を「余儀なくおやめになつたといふ」。

『福翁自伝』に出てくる逸話である。(注2)この逸話は、後の西南戦争(明治十年〔一八七七〕――筆記者注)にあって西郷軍に加担し斃れた士族反乱の徒、増田宋太郎にいかにも似つかわしい話である。が、しかしその一方で増田は中津にあって自由民権運動の先駆けと目された人物でもある。そして西郷軍中、宮崎八郎(宮崎滔天の兄――筆記者注)の熊本協同隊と共に最も民権派的といわれた中津隊を率いて戦っている。となると、これは先の攘夷家増田のイメージとは若干のずれが生じてくる。

明治の民権家の大半が、元をただせば攘夷家であったという事実に鑑みれば、増田の変身も驚くに足らないかもしれない。福沢暗殺未遂事件から西南戦争まで六年半。増田も熱烈な尊王攘夷家から民権家へ転身したのであろうか。が、それではなぜ不平士族の復古的反抗といわれる士族反乱に呼応して立ち上がったのか。

増田は一体、なにを考えていたのだろうか。

明治維新とは、尊王攘夷家たちの開国和親政策への集団的転向により成り立ったものであった。つまり増田の歩んだ道も固陋家から開明家へという、広い意味においては時流に沿った歩みであったわけである。とするならば、増田はなにか勘違いをして士族反乱に呼応したのだろうか。本来明治政府に出仕してもいいようなもの。だが、何分明治政府と繋がり薄い中津藩出身者であったために、つてなくして一旗上げるべく西郷軍に加わったのか。それとも
反政府の気概に偽りはなく、ただ西南日本に生まれた故に士族反乱の徒と共闘しただけで、真実にはその後に盛り上がる自由民権の中に活路を見いだすべき人間であったのか。増田は歴史という舞台で、出どころを間違えて飛び出し、足早に退場しただけの存在なのであろうか。

明治という時代、多くの青年が用意された大舞台に飛び出しそれぞれ、稽古の暇もないながら、それでもみずからの役割を演じ抜いた。増田宋太郎とてその中のひとりといえる。増田のみに限らない。幕末から明治期にかけて、実に多くの奔走家が現れた。“草莽”という言葉に相応しいひとたちであった。(注3)その奔走家たちがわずかなときの差によって、尊王攘夷、倒幕維新、自由民権と、唱える題目を変えて、何かに取り憑かれたように駆けずり廻り、斃れていった。かれらを突き動かしていたものは何だったのか。

それを歴史的概念の中で説明することもできる。対外的危機の克服、近代国家確立のための模索、変革期における政治闘争の熾烈、と、だがたとえば、いまからたどる増田宋太郎の生涯をこれらの概念の枠内で考察するとどうなるか。

確かに増田宋太郎の意識、行動を歴史課程の中に位置づけ分析することは可能であろう。だがこれから論じていくが、それらの概念で考察し、歴史過程の中で位置づけて評価してみたのなら、増田という人物はあまりにオリジナリティに乏しく、ありふれた人物である。明治文明開化を領導した福沢諭吉のように、あるいは明治新社会を拒絶し、己が国学を固守して、旧時代さながらの神国思想を確立した増田の師渡辺重石丸(いかりまろ)のようには、増田は自立した思想をもって時代に臨んだ人物ではなかった。幕末から明治初年の時代精神と、あるときは寄り添い、またあるときはおくれ、新思潮に飲み込まれそうになりながらも、かろうじて己が本然の性を持して生きたひとであった。そこにはもちろん時代との誠実な格闘はあった。が、その格闘の中からみずからの思想的営為を大成させることなく、かれは歴史から消えていった。

増田宋太郎という人間は、時代精神の借り着を着て、ついに自前の思想を持たずに斃れたひとであった。しかしそれを以って増田を単なる歴史の端役として見過ごしていいのであろうか。

幕末から明治の新時代へという、急速に変転する社会の中で、生きることの難しさを「恰も一身にして二生を経(ふ)るが如し」と、『文明論之概略』緒言中に福沢は書きしるしている。(注4)そのことばの噛みしめかたはひとそれぞれであろうけれど、それは維新の変革に際会したひとすべての胸に沁みとおることばであったはずだ。

だが、ひとはたとえ二生を生きねばならないとしても、やはり己れ一身を以って生きて行かねばならず、この一身が、ふたつに裂けてしまうのでもない限り、世の中がいかに変わろうが、その生き方に断絶があるわけはない。

よしんば、生き方に大きな変化があろうとも、それは断絶による変化なのではない。積み重ねられた体験による変化なのだ。そしてその生き方とは、己れ一身の、生きた連続性によって裏打ちされたものなのである。増田は己れ一身で確立した思想というものを持ち合わせていなかったかも知れない。単に借り着を着て奔走しただけかもしれない。しかしながら、かれにはかれにしかできない生き方があった。その生き方を、現在の視点から、無知蒙昧な思考の所産と否定し去ることはたやすい。だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった。

近代社会とは、伝統社会の束縛から個々の人間の自由奔放な活動が社会に絶え間ない変革を促すところに、その特徴がある。(注5)ならばそして、日本にかろうじて近代が成立したというのなら、それは幕末から明治にかけての奔走家たちの活動に拠るところが大きいとはいえないだろうか。個人の活動の中から社会の変革が起こるのだ、という意識は、かれら幕末から明治にかけての奔走家たちの共有する認識であった。追い求める理想の実現のためのひとつひとつの実践こそが世の中を変えて行くのだ、という確信こそが大きな変革を引き起こす誘因たりえた。たとえその中に、西欧流近代の範疇に収まりきらない理想を追い求めた奔走があったとしても、われわれはその理想を、というよりもそれを追い求めた人間を、嗤(わら)うことなどできはしない。なぜならわれわれは、たとえ西欧流近代からみていかに歪んでいようとも、宋太郎のような人間の生き方によって、新たに扉が開かれた近代社会の中で生きているのだから。そして明治の近代国家とは、つまりそのような生き方の、無数の集積によって形づくられた国家であったのだ。

拠ってたつ立場のちがいなどこの場合関係ない。たとえば自由民権運動の代表的理論家でありながら、明治十九年(一八八六)三十九歳の若さでアメリカ、フィラデルフィアで窮乏のうちに死んだ馬場辰猪のことを萩原延壽(のぶとし)は「性急な歩行者」といった。(注6)それは明治の藩閥政権打倒を夢見るあまり、自らの思想を大成することなく、遂に亡命同然の姿でアメリカへ渡りかの地で永眠した馬場に対する愛惜の言葉である。幕末から明治変革の時代、「性急な歩行者」は数多くいたのである。われわれは増田とてそのなかのひとりに算え入れてもいいのではなかろうか。

原注
・注1:以後、本論は当時の慣行に従って、年表記は元号を主とし、西暦はかっこ書きとする。ただしひとつの節に同年、あるいは二、三年の近接した年表記が出てくる場合、基本的に最初の年表記のみ西暦をかっこ書きし、以下西暦は略している。また同じ年をくりかえし述べるときも略すこととする。なお明治五年(一八七二)を以って、暦は太陰暦から太陽暦に切り替えられている。よって、本論もこの年を以って年月日は太陽暦に拠って表記している。なおこれらか頻繁に用いることになる明治初年の期間であるが、本論では、明治一〇年(一八七七)、西南戦争終結までの期間を指して使うことにする。

・注2:福沢選集第十巻(岩波書店 一九八一年)所収、二二二~三ページ。前段落かぎかっこ内すべて、同ページからの引用。増田はこの前後にも二度にわたって、福沢暗殺を企てたという。第一回目は福沢が東京から中津へ帰省の途中立ち寄った大阪において、増田に兄事する朝吹英二をして(この人は後に慶應義塾に学び経済界の重鎮的存在となる)福沢を刺さしめようとしたもの。第二回は本文中で述べたもの。第三回は福沢が中津出発のとき。同志数人で福沢暗殺を議しているうち紛糾し、気を逸したというもの。『増田宋太郎伝』、『疾風のひと――ある草莽伝』などに記述されている。しかしこれらの暗殺計画がどれだけ本気で計画されたことか、これは後者の著者松下竜一も指摘するように疑問である。本文でみた通り、客が帰らないというだけで暗殺を簡単に止めているのである。松下は中津における反洋学熱を高めることが目的の暗殺計画であって、同志の気勢さえ上がれば、『もはや一福沢を斃すことは無用』と増田は判断していたのではないかと推測している(「福沢諭吉暗殺者としての増田宋太郎」『福沢手帖』第十五号所収 昭和五三年)。なお前記二著については、第一章注1で改めて詳しく紹介する。以後、注に掲げる文献の発行年はすべてすべてその文献の奥付けによって記す。

・注3:草莽とは、「特定の階級をさす階級概念ではなく、むしろ一つの意識または階層をこえて受容された、意識概念・政治的概念であった」との指摘がある(高木俊輔『幕末の志士』中公新書 昭和五一年七ページ)

・注4:福沢選集第四巻所収(岩波書店 一九八一年)、九ページ。つづけて福沢はいう、「一人(いちにん)にして両身あるが如し」と。

・注5:近代社会と伝統社会における人間存在のあり方の違い、近代における「個人主義」の誕生についてはルイ・デュモン『個人主義論考――近代イデオロギーについての人類学的展望』(渡辺公三・浅野房一訳 言叢社 一九九三年)、第一部「近代イデオロギーについて」参照。原書 Louis Dumont, Essais sur l`individualism 1983

・注6:萩原延壽『馬場辰猪』(中央公論社 昭和四二年)
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『古事記』に登場する神々について(その7)スサノオ・アマテラス神話③

2014年04月15日 23時09分26秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その7)スサノオ・アマテラス神話③

当『古事記』シリーズの最新アップから二週間あまりが経ちました。その間に『古事記』関連の著書を新たに二冊読みました。三浦佑之氏の『古事記講義』(文春文庫)と『口語訳 古事記[神代篇]』(同文庫)です。そこには、説得力のある議論がいくつかありました。ド素人なりに書き進めていくうちに、『古事記』解釈をめぐる、それなりの方向性がおのずと生じてきたような気がしていたのですけれど、三浦氏の著書を読み進めるうちに、それにかなり影響されてしまいまして、なんというか、かなりの軌道修正が必要かもしれないと思い始めています。

私のような『古事記』の若葉マーク・ホルダーにとって、同書を読み進めることには、未知の大洋を航海するときのような茫洋としたものがつきまとわざるをえません。だから、より性能の高い羅針盤を見つけたと思ったならば、ためらわずに、それまでの羅針盤を捨て去るべきなのでしょう(万巻の書を読み抜いてから書き始めることなど、浅学非才の私には到底不可能ですし)。ただしその場合、それまでの(あるかなきかの)航路を、なぜ、どのように変更するのかを、なるべく明瞭に述べることが必要となるでしょう。でなければ、自分の愚かしい迷走に、読み手のみなさまを付き合わせるというはた迷惑な振る舞いをしているだけのことになるでしょうから。そのマナーをしっかりと守ることができれば、いささかなりとも、未知の世界を探求する冒険のような楽しさを、みなさまと分かち合うことができるのかもしれない、などと思っております。

今回は、アマテラスとスサノオがウケヒ(宇気比)をする場面です。イザナキによって豊葦原の中つ国からの追放を申し渡されたスサノオは次のように言います。

「分かりました。そういうことであれば、姉の天照大御神にご挨拶にうかがうことにしましょう」。

そう言って、スサノオは高天原に昇っていきました。そのとき、国土が激しく振動したというのですから、すさまじいエネルギーです。そこでアマテラスは、こうつぶやきます。「弟が昇ってくるのは、絶対に良い心からではあるまい。私の国を奪おうと思っているにちがにない」と。そこでアマテラスは、スサノオに対する戦闘姿勢を誇示するかのように、女らしく結っていた髪を解き、みずらに編み上げて男の姿になり、その左のみずらにも右のみずらにも、あたまにかぶったかずらにも、左の手にも右の手にも、それぞれに大きな勾玉(まがたま)をたくさん緒につないだものを巻きつけて、肩には千本もの矢が入る武具である靫(ゆき)を背負い、脇腹から腹部にかけては五百本の矢が入る靫を付け、また、弓を射るとき相手を威圧する音を立てる竹鞆(たかとも)を左の臂(ひじ)に巻きつけ、弓の中ほどを握りしめて振り立て、固い地面を両股で踏みつけ続け、土を淡雪のように蹴散らして、おそろしい雄叫びをあげるのでした。



みずら結

ここで気になるのは、アマテラスのスサノオに対する過剰なまでの警戒心です。どうしてこうまでもアマテラスがスサノオを疑うのか、私を含むふつうの読み手には分かり兼ねるところがありますね。とりあえずは、それを指摘するにとどめて、本文に戻りましょう。

アマテラスは、スサノオに問いかけます。「お前は、どうして私が治めている高天原に昇ってきたのだ」と。するとスサノオは、「自分には邪な心などありません」と言って、高天原に昇ってくるまでの経緯を述べます。そうして重ねて「異(け)しき心無し」と謀反心などないことを強調します。すると、アマテラスは「だったら、お前の心が清くて晴れ晴れとしていることを、どうやって証し立てしようというのだ」と言います。それに対してスサノオは、「あなたと私とふたりともにウケヒをして子どもを生み成そうではありませんか」と答えます。

ここから有名なウケヒの場面に入っていくのではありますが、ここでちょっと不思議なことに気づきます。

ウケヒをすると言っているのに、どちらからも、「男の子を産んだら、あるいは、女の子を産んだら、スサノオには謀反心がない」という条件提示がなされていないのです。条件提示がないままに占ってみても、事態が混乱するだけなのは火を見るより明らかです。事態を混乱させるために、同書の編者・執筆者は、まるでワザと条件提示を省いたかのようであります。これでは、この占いはウケヒにはなりえません。

ウケヒというのは、まず前提となる条件を定めておいて、ある行為をすることによって神の判断を仰ぐことです。だから、前提条件を定めておかないことには、ウケヒのしようがないのです。こんな簡単な理屈は、ちょっとかしこい小学生でも分かることでしょう。

のんびり屋の太安万侶さんは、そのことをうっかり忘れてしまったのでしょうか。残念ながらというかなんというか、その可能性は、限りなくゼロに近いと言わざるをえません。

『古事記』のちょっと後のところになりますが、葦原中国平定のために遣わされたアメノワカヒコに与えられた矢が、高天原に飛んで来たのを見て、それが蘆原中国を平定するために射られた矢なのかどうかを判断するために、高木神は、「もしそうならアメノワカヒコに当たるな、そうでないならアメノワカヒコに当たれ」と宣言しているのです。そのうえで、矢を下界に投げ返しました。ちなみに、矢はアメノワカヒコの胸に当たり、その濁った心が災いして死んでしまいました。

ここから察するに、太安万侶は、ウケヒがいかなるものであるのかをよく分かっていたのです。にもかかわらず、アマテラスとスサノオのウケヒの場面には、ウケヒを成り立たせるための前提条件がない。ということは、太安万侶は、意図的に前提条件を設定しなかった、となります。この話は、後ほど再び取り上げることにして、とりあえず本文に戻りましょう。

天(あま)の安河(やすのかわ)を間にはさんで、まずアマテラスが、スサノオの刷(は)いていた十拳(とつか)の釼(つるぎ)を受け取って、これを三つに折り、それに神聖な井戸の水をふりかけて、噛みに噛みます。そうして、吐き出す息の霧から生まれた神は、次の三柱です。

・多紀理毘売命(タキリビメノミコト) 別名・奥津島比売命(おきつしまひめのみこと) 霧にちなんだ女神だそうです。福岡県宗像市大島沖ノ島に鎮座の由。沖ノ島は、海の正倉院と呼ばれています。
・市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト) 別名・狭依毘売命(さよりびめのみこと)「いちき島」は「斎き島」の意で、神を祀った神聖な島のこと。同宗像市大島に鎮座の由。
・多岐都比売命(タキツヒメノミコト) 「たきつ」は、水が激しく流れること。水神であると思われます。同宗像市田島に鎮座の由。

『古事記』によれば、三柱いずれも宗像氏の祭祀する宗像神社の祭神です。宗像氏は、福岡県宗像郡を本拠とした海人(あま)系の豪族で、宗像神社の神主を務めました。九州北部の沿岸部と玄界灘の島々に勢力を持っていて、航海や漁労などにとどまらず、荒々しい外洋を乗り越えることのできる操船術や航海術に長けていたようです。

次はスサノオの番です。彼は、アマテラスが身体のいろいろな部分に巻いていた玉の緒を受け取って、アマテラスと同じような所作によって、それらから次の五柱の男の神々を生み出しました。

・正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト) 左のみずらに巻いていた玉の緒から生まれた神。「正勝吾勝」は、正しく吾勝ちぬの意。「勝速日」は、速やかに勝つ神霊の意。「忍穂」は、多くの稲穂の意。この神は、皇室の祖神として天孫降臨の段にも現れます。「勝」の字が三つもあることに注意したいものです。このことには、後にふたたび触れましょう。
・天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)右のみずらに巻いていた玉の緒から生まれた神。「天穂日命」とも記す。稲穂の神霊の意。出雲系諸氏族の祖神。後に、地上平定に差し向けられるが失敗します。
・天津日子根命(アマツヒコネノミコト)かずらに巻かれていた玉の緒から生まれた神。「日子根」は、日神の子の意。アマテラスの子どもということでしょう。
・活津日子根命(イクツヒコネノミコト)左手に巻かれていた玉の緒から生まれた神。所伝未詳とされています。
・熊野久須毘命(クマノクスビコノミコト)右手に巻かれていた玉の緒から生まれた神。同じく所伝未詳とされています。

ウケイで生まれた神が出揃ったところで、アマテラスが言います。「後に生まれた五柱の男の子は私の玉を物実(ものざね・種あるいは因子)として生まれて来た神であるから、当然私の子ですよ。先に生まれた三柱の女の子は、お前の釼を物実として生まれて来たのだから、お前の子です。」と。

これ、いかがでしょうか。ちょっと唐突というか、取って付けた感じというか、なんだか変な印象ですね。私たちがそういう印象を抱いてしまう根本の原因は、ウケヒ成立のための前提条件の提示抜きに、事が進行してしまったことであります。言いかえれば、あらかじめ提示されるべきものが、後付で提示されてしまったので、私たちは、それを素直に受け入れることができないのです。

その後の展開は、ハチャメチャといえばハチャメチャです。というのは、スサノオは、一方的に自分が勝ったと言い張って、乱暴狼藉を働きはじめるのですから。そうなると、アマテラスの言葉がますます奇妙なものに思えてきます。事態を収拾するために発した言葉が、かえって、事態を混乱させてしまったように感じられるからですね。神様に向かって礼を失した言い方になってしまいますが、アマテラスは、頭の弱い神様なのでしょうか。読み手にそんな印象を抱かせるために、安万侶さんは、わざわざ、前提条件の提示を提示しないウケイを描写したのでしょうか。

こうやってつらつら考えてくると、次のことが浮びあがってくるように思われます。すなわち、スサノオとアマテラスとでは、この「ウケヒ」をする上での思惑が異なっているのではなかろうか、あるいは、ふたりの思惑はすれ違ってしまっているのではなかろうか、ということが、です。

スサノオの考えはいたって単純です。自分には「きたなき心」や「異なる心」などまったくないことを証し立てしたい思いでいっぱいなのです。

それに対して、アマテラスの思いはけっこう複雑です。アマテラスがいちばん気にしているのは、自分が治めている高天原をスサノオから奪われることでは、実はありません。それはかりそめの話であって、豊葦原の中つ国がスサノオのものになってしまうことをこそ、アマテラスは心底恐れているのです。

豊葦原の中つ国を治めるためにこそ、アマテラスは、高天原を治めていなければなりません。というのは、アマテラスが高天原を治めているからこそ、後の天孫降臨神話が威光を放ちえるのであり、天孫降臨神話が威光を放ちえているからこそ、オオクニヌシの国譲り神話が説得力を持ち得るからです。

ざっくりと言ってしまえば、要するに『古事記』の神代篇全体は、天皇家が豊葦原の中つ国を治めることのオーソドキシィ(正統性)をゆるぎなく確立するという大和朝廷のミッションを遂行するための壮大なフィクションなのです。

ところが、もともと豊葦原の中つ国がスサノオのシロシめすべき国であることがはっきりしてしまえば、せっかくの壮大な神話の体系が無駄になることを超えて、その存在自体が崩壊してしまいかねないことになるでしょう。そうなれば、一巻の終わりです。

スサノオに対する、アマテラスの、過剰なまでの警戒心と武装には、そういう不安やさらには怯えのようなものが影を落としているように、私には感じられてならないのです。

そのこととの関連で、生々しく思い出されるのは、当論考シリーズ「その5」で、次田真幸氏の『古事記(上)全訳注』(講談社学術文庫)から引いた次のふたつの文章です。

建速須佐之男命 「建速」は勇猛迅速の意で、この神の荒々しい性格を表わす称辞。「須佐」は、元来出雲国(島根県)飯石郡の地名で、この神は本来、出雲地方で祖神として信仰されていた神である。
      
スサノオノ命が天照大御神と姉弟の関係で結ばれているのは、注目すべき点である。日神と月神が、天父神の左右の目から生まれたとする神話は、日本神話以外にも例があるが、鼻からスサオノ命が生まれたとするのは異例である。スサオノ命は、元来出雲神話の祖神であって、皇室神話の祖神である天照大御神との間には、血縁的関係はなかったはずである。それが共にイザナキノ命の子として結合されたのは、皇室神話と出雲系神話とを統合するために採られた方法であったと思われる。

編者にして執筆者の太安万侶にとって、豊葦原の中つ国の中心的な存在は、出雲です。それは、『古事記』をふつうに読めば、だれでも分かることです。そうして、スサノオは、出雲地方で祖神として信仰されていた神であるというのですから、スサノオの末裔こそは、豊葦原の中つ国を治めるにふさわしい存在である、となるでしょう。むろん、太安万侶にとって、ということです。

その当然の理をふまえながら、なおもアマテラスの末裔こそが、豊葦原の中つ国を治めるにふさわしい存在であるとするには、アマテラスとスサノオとの間に血のつながりがある、つまり、両者は姉と弟の関係である、とするフィクションを設定する必要が生じます。また、ウケイは、子産みをめぐっての両者のつながりを暗示しつつも(ウケイの場面には神話の話型としての姉弟婚の痕跡があります)、アマテラスが優位に立つことが絶対条件となるはずです。

大和朝廷の正統性を確立するための、そういうさまざまな要請やその圧力が、ウケヒの場面をめぐってのさきほど指摘したいくつかの不自然さをもたらしている、という印象を、私は抱かざるをえないのです。

この問題を、ちょっと違った角度から考えてみましょう。取り上げたいのは、オシホミミの名前です。彼は、スサノオがウケヒで生み出した一番目の神で、その名前の冒頭が「正勝吾勝勝速」となっていて、勝の字が三つもあります。ここを素直に読めば、男の子が生まれて、スサノオが心の中で放った「オレは勝った」という躍りだしたいような喜びの快哉がおのずから反映されていると感じられます。アマテラスの勝利の喜びの声が反映されていると解するのは、不自然に過ぎると思われます。

ここで、スサノオが勝ったと思ったと解すれば、その後の展開がすとんと腑に落ちるのです。つまり、スサノオのウケヒが終わったところで、アマテラスが取って付けたように、男の神は自分の物実(ものざね)から生まれたので自分のものだと宣言したことの収まりの悪さ・不自然さは、スサノオがオシホミミを生み出したことに彼女が狼狽したがゆえに生じていると考えればごくすんなりと分かることになります。

また、ウケヒが終わった後に、スサノオが一方的に勝ちを宣言したことも、その直後に、勝ったと言いながら突然乱暴狼藉を働き始めたことも、アマテラスの、自然なことの成り行きを捻じ曲げるかのような不自然な言動によって、スサノオが、どこかはぐらかされたような腑に落ちない思いを抱いて憤懣やるかたない烈しい情動が惹起してきたのだと考えれば、これまたすんなりと分かるようになるのです。

ここまで論を進めてくれば、太安万侶がウケヒの前提条件をあえて提示しなかった理由が、おぼろげながらも浮かんでくるのではないでしょうか。安万侶は、スサノオの神としての出自と、そのことの重さとを知悉していたからこそ、それを提示しようにも提示しえなかったのではないか。私には、そういうふうに感じられます。とりあえずの答えは、これくらいにしておいて、これからさらに『古事記』を読み進めるうちに、その理由がおのずとより鮮明になるのを待ちましょう。

以上述べてきた、ウケヒをめぐる一筋縄ではいかない機微を、当論の冒頭でその名前を出した三浦佑之氏は、次のような口語訳で上手にすくい取っているように感じられます。三浦氏の『口語訳 古事記』は、村の古老の語りという設定で訳されていて、ときおり、述懐という形で、三浦氏の見解が織り込まれています。以下に引くのは、述懐の部分です。

それにしてものう、スサノヲの心はいかばかりじゃったろうの。オシホミミを吹き出したのはスサノヲじゃったのに、アマテラスはおのれの子じゃと言うて、詔(の)り別けてしもうたでのう。それに、ウケヒの答えをいかに取ればいいものか。マサカツアカツという名をもつ神は(お)の子のオシホミミじゃて、男の子を生んだ神が正しいというのは間違いなかろうがのう。それにしても、男の子を生み成したのはどちらじゃろうのう。やはり、物実を持っておったアマテラスなのかのう。なにせ、遠い遠い神の振る舞いじゃで、この老いぼれにも、しかとわからぬのじゃ。それでものう、この老いぼれは、スサノヲがいとしうてのう、いくたびも異(け)しき心は持たぬと言うてござったじゃろうが・・・・・。あの言葉にいつわりはなかったと思いたいのじゃ。そもそも、ウケヒ生みの前に、なんの取り決めもなさらなかったというのは、なぜじゃろうのう。それがないとウケヒは成りたたんのじゃが・・・・・。いや、どうにも、この老いぼれにはわからんわい。神の代のことじゃでのう。

いかがでしょうか。なかなか味わい深い口語訳であるとは思われませんか。
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