美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

『コーラン』で、イエス・キリストはどのように描かれているか (美津島明)

2015年05月21日 15時40分19秒 | 宗教
『コーラン』で、イエス・キリストはどのように描かれているか (美津島明)


http://manga.world.coocan.jp/quran.html「コーランから見た聖書」から転載させていただきました


*以下、『コーラン』からの引用が相当数ありますが、章のみ明記し、節までは示していません。読む上での煩わしさを軽減するためです。悪しからず。

先日ある読書会で井筒俊彦『「コーラン」を読む』(岩波現代文庫)を読む機会を得ました。ISISをめぐる一連の報道に接して、少しくらいはイスラム社会のことを知っておかなければちょっとまずいだろうという思いが参加者の間で一致した、ということです。

ほかの参加者はどうだか分かりませんが、私はこれまで(恥ずかしながら)イスラム教やイスラム社会についてまともに考えたことがありませんでした。だから、イスラム世界についてほとんど知識がない者でも、抵抗なく読み進めることができて、しかも、中身が充実している本書はとても有難かった。そう思います。

『コーラン』についていくつか興味を抱いた点がありました。特に、イエス・キリストがどのように描かれているのか知りたいという気持ちがとても強くなりました。『新約聖書』については、以前から人並み以上の関心がありましたし、結構がっぷり四つでそれと取り組んだ経験がないわけではなかったからです。井筒氏によれば、『コーラン』は、イエス・キリストにたびたび触れていて、神の子などではもとよりなく、単なる預言者のひとりとして登場しているそうなのです。

それで早速、岩波文庫の『コーラン』(上・中・下三冊。井筒俊彦訳)を手に入れて、インターネットの情報を頼りに、該当箇所に一通り目を通してみたのです。以下は、そのご報告です。

『コーラン』のなかで、いちばんまとまった形でイエス・キリストが取り上げられているもののひとつは、第19章「マルヤム(聖母マリア)」です。まずは、それに触れましょう。

第19章は、ほかの章と同じく「慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において」という決まり文句で始まっています。井筒氏によれば、この決まり文句にはとても深い意味があります。まず、「慈愛あまねき」はラフマーンを訳したもので、「慈悲ふかく」はラヒームです。ラフマーンという名の慈悲心は、無償の慈悲であり、こちらの側に特段のそれに値する事情がないのに、神が慈悲をかけてくださる場合なのです。言いかえれば、存在の広がりが、すなわち神の慈悲の広がりである、という考え方がなされている。神が慈悲を示す、それがすなわち神が世界を創造するということ。この慈悲は、何物をも差別しない。善きものも悪いものも、美しいものも醜いものも、人間も虫けらも、みな等しく創り出される。森羅万象が神の慈悲の現れなのですね。これがラフマーンで、そういう意味合いが「慈愛あまねく」には込められています。井筒氏によれば、菩薩の慈悲心に近いものとイメージして大過がないようです。

それに対して、「慈悲ふかく」と訳されたラヒームは、無償ではなくて、何か慈悲に値することが人間の側にあって、それに対して与えられる慈悲なのです。慈悲をかけられる側は、それに値する状態であることが義務となる。それに対応して、慈悲をかける側は、慈悲をかけられる状態にある人間に対して、当然慈悲をかけるべき義務を負う。人間が神に対して義務を負うのと対応して、神も人間に対して義務を負う。それが、神と人間との間の契約としての信仰という考え方や、イスラム教における商人的性格という特徴につながることになります。もちろん、神と人間との間の契約としての信仰という考え方は、『コーラン』のみならず『旧約聖書』にも見られます。というか、イスラム教は契約という考え方をユダヤ教から引き継いだ、というのが真相ではないかと思われます。また、ラヒームは、終末論的ヴィジョンにおける神の審判によって、信仰篤き者たちに天国行きが約束されることともつながりがあるでしょう。終末論的ヴィジョンについては後ほど触れましょう。

次に、「アッラーの御名において」の文言について。ここは原語では、「ビスミッラー」と発音されます。イスラム教徒は、衿を正して物を言うとき冒頭で「ビスミッラー」と言うそうです。いい加減な言葉のやり取りや行為の世界を離れて、厳粛な宗教的世界にこれから入っていくよ、ということですね。

井筒氏によれば、「アッラー」を、その原義を織りこんだ上で英訳すると「the God」となり、ユダヤ教の「ヤハウェー」に該当します。ユダヤ教徒は、『旧約聖書』を読誦する場合、これを絶対口に出しません。それを発音する代わりに「お名前」という意味に当たる言葉を発します。神の名をダイレクトに口に出すなんて、恐ろしくてとんでもないこと、というわけです。日本にもかつてこういう感性はありましたね。例えば、源義経を「九郎殿」と呼んで、本名を口に出すのをはばかったなどという話が思い出されます。

しかるに、イスラームでは、神の名はタブーではありません。タブーどころか、「アッラー」をはじめとして、九十九の神の名を事あるごとに口に出すことにこそ、深い宗教的意義を認めようとするのです。そこがユダヤ教やキリスト教とは決定的に違いますね。日本の伝統的感性とも違うのかもしれません。

いまイスラム教では神の名が九十九ある、という意味のことを言いました。井筒氏によれば、それらは、ジャマール系統とジャラー系統に大別されます。ジャマール系は、「美しさ」「やさしさ」「愛」「慈悲」など、親しみやすい性質を表します。それに対して、ジャラール系は、「恐ろしさ」「怒り」「復讐」など、神の暗い面を表します。そうして、その名はいわゆる名詞に限られません。だから、先ほど出てきたラフーマン(慈悲あまねき)やラヒーム(慈悲ふかく)も神の名なのです。むろんそれらは、ジャマール系の神の名です。

私は自分が知ったことをすぐに他人様に伝えたがる性分のようですので、まだいろいろと申し上げたいことがありますが、こんなことをいつまでもやっていると、〈『コーラン』で、イエス・キリストはどのように描かれているか〉という当面のテーマになかなかたどり着けなくなってしまいそうなので、これくらいにしておきます。

その次に、「カーフ・ハー・ヤー・アィン・サード」という五つのアラビア文字が並んでいます。注もなにもないので、よく分かりませんが、神秘的なおまじないみたいなものなのでしょうか。

この章の冒頭は、アッラーとザカリーヤーとの問答によって進められます。ザカリーヤーとは、『新約聖書』所収の「ルカ伝」において、ヨハネの父として登場する人物で、そこでは「ザカリヤ」と表記されています。ヨハネはイエス・キリストにヨルダン川で洗礼を授けた預言者。十二人の使徒のなかの一人であるヨハネとは別人物です。

ザカリーヤーは、アッラーに、年老いた自分に世継ぎを授けてくださるよう喚(よ)びかけます。すると、アッラーはそれに「喜べよ、汝に息子が生まれるであろう。その名はヤフヤー(ヨハネ)」と応えます。生まれたヨハネは、アッラーから叡智と無垢の心とを授けられ、敬虔で親孝行な息子として成長します。

そこで話は突然マルヤム(聖母マリア)のことに移ります(もしかしたら、マリアがザカリアの妻と親戚であるという「ルカ伝」の記述を踏まえているのかもしれませんが)。ここからは、物語風に話が進みます。設定はよくわかりませんが、アッラーの独り言と申しあげたらいいのでしょうか。形式的には、聴いているのはモハメットということになるのでしょうが、神がかり的な迫力はあまり感じられません。

マルヤムが家族と別れて東側の場所(聖殿の東側、または、家の東側)に引き籠もり、ベールをつけてみなに顔を見られないようにしたとき(古解釈によれば月経時のもの忌みのこと、だそうです)、聖霊(天使ガブリエル)が、たくましい男の姿になって彼女の前に現れます。彼女に無垢な息子を授けるために主のお使いとして参上したのです。マルヤムは、おそらくびっくりして「なんで私に息子などできましょう。私は男に触れられたことのないからだ。淫らな心も持っていません」と言います。天使ガブリエルは、それを受けて「主は、〈わしにとってはいとやすいこと。それに、その子(マリアの産む子)をぜひ人間への神兆とも、またわが慈悲の現れともしたい。とにかくもうこれは決まったこと〉と言っている」と応えます。こうしてマルヤムは身籠り、人目を避けて引き籠ります。

『コーラン』は、『新約聖書』におけるマリアの処女懐妊神話を引き継いでいるのですね。そういえば聖母マリアは、『コーラン』のなかでただひとりその名が章の題名になっている女性だそうです。内容的にも、彼女ほど大きく取り上げられた女性はほかにいないそうです。では、次に進みます。

やがて陣痛が起こり、マルヤムが、そのあまりの苦しさに耐え兼ねていると、地下から次のような声がしました。「そう悲しまないで。神様が貴女の足もとに小川をおいてくださいました。それからあなたが寄りかかっている椰子の木を揺すぶってごらんなさい。みずみずしい採りごろの実がばらばらと落ちてきます。さあ、食べて飲んで、ご機嫌を直してください。それでもし万が一、誰か人間に遭うようなことがあったら、『私は、お情け深い神様に無言をお誓い申しておりますので、今日はどなたにもお話できませぬ』と断っておきなさい」。

ここで場面は、変わります。マルヤムが産んだ赤子を伴って一族の人々のところにやってきます。イエスはすでに生まれているのです。人々はびっくりして言います。「これ、マルヤム、そなたはなんという大変なことをしでかしたのじゃ。ハールーン(モーセの兄アロン)の姉よ(聖母マリアのことを指しています。どうして聖母マリアが「アロンの姉」なのかわからない、と注でも言われています。普通は、『旧約聖書』に出てくるモーセの姉ミリヤムをマリアと混同したのだろうと言われるそうですが、それも定説というわけではなさそうです)、お前のお父さんは悪い人ではなかったし、母さんだって淫らな女ではなかったのに」。

マルヤムは、子どもを指さして、「この子に直接聞いてください」という身振りを示します。一同は、「まだ揺籃の中にいる赤ん坊とどうして話などできるものか」と言います。もっともなことです。しかし、ここで奇蹟が起こります。

その赤ん坊、すなわちイエス・キリストが口を開くのです。「私はアッラーの僕(しもべ)です。アッラーは私に啓典を授け、私を預言者にして下さいました。そして、どこにいようとも私は祝福された身にしていただいたのです。また命あるかぎり、礼拝と喜捨のつとめをかかさぬように、との御いましめをいただきました。それから、母さんにはよく孝行をつくすように、と。私を生意気な、情けない人間にはなさいませんでした。ああ祝福されたわが身よ、私の生まれた日に、やがて死に逝く日に、そしてまた生きかえって召される日に」。

イエス・キリストは神の子、というキリスト教の主張に対して、『コーラン』は、もともとアッラーにお子ができたりするわけがない、何事でも、こうとお決めになったら、「在れ」と仰るだけでそうなるほどのお方ではないか、と正面から否定します。イエス・キリストは、アブラハムに始まりモハメットに終わる預言者の系列の一人であって、それ以上でもそれ以下でもない、ましてや、神や、神の子であるはずがない、というのが『コーラン』の立場なのです。

ここで気になるのは、『コーラン』において、預言者とはなにかということです。第22章「預言者」には、彼らは啓示を受けただけのことであって、ただの人間にすぎないと明記されています。そこに預言者として名が挙げられているのは、ムハマンド、ムーサー(モーセ)、ハールーン(アロン)、イブラヒーム(アブラハム)、ルート(ロト)、イスハーク(イサク)、ヤアクーブ(ヤコブ)、ヌーフ(ノア)、ダーウド(ダビデ)、スライマーン(ソロモン)、アィユーブ(ヨブ)などで、彼らとともに「陰部(ほと)を堅く防ぎ通したあの女」すなわちマリアの「息子」すなわちイエス・キリストが挙げられています。

ここで、いささか当論考の主題とはずれることになってしまいますけれど、『コーラン』によれば最後にして最大の預言者モハメットとその他の預言者の違いについて触れておきましょう。これは、ユダヤ教・キリスト教とイスラム教における預言者の異同と言いかえることができるでしょう。

井筒氏によれば、『旧約聖書』の預言者と、イスラムの預言者とは、同じセム民族のセム的宗教精神の現象であって、多くの点で同性質、同傾向であると言い得るのですが、根本的に異なるところは、未来の歴史的事件を予言するかしないかという点にあります。『旧約聖書』の預言者たちは、イエス・キリストを含めて、イスラエルという国がこれからどうなるだろうとか、エルサレムの神殿がいつ、誰によって、どうやって、何が原因で破壊されるのかとか、あるいは、ユダヤ人はいつどうやってバビロンに連れていかれるのかとか、そういう歴史的事件を予見し、予言します。それに対して、モハメットの場合、未来に関する予言は一切ありません。アラビアが今後どうなるだろうとか、メッカの神殿は破壊されるだろうとか、そういう歴史的事件を、モハメットは一切予言しないのです。未来に起こるべきことを予言しないし、またしようと思ってもできないとモハメットは公言してもいるのです。未来はただ神のみぞ知り給う、と。そのことと関連して、『旧約聖書』の預言者においては第二次的であった倫理的現実批判が、『コーラン』の預言者においては顕著となります。

では、『コーラン』において顕著に見られる終末論的ヴィジョンは予言ではないのか、という疑問が湧いてきますね。それに対して、井筒氏は、次のように答えます。すなわち、〈世界の終末というのは、現実の歴史的事実の予言ではない。エルサレムが何月何日に陥落して、ユダヤ人がバビロンにいつ連れていかれるかというような歴史的事実の予言とはまったく性質が違う。人間が墓から呼び出されて、審きの庭に引き出され、地獄や天国に行くだろうなどということは、いくらヴィジョンがはっきりしていても、それは歴史的事件の予言ではなくて、超歴史的な事件の描写である〉というふうに。これで納得がいくかと問われれば、いささか小首をかしげるところがないわけではないのですが、では、お前はどう考えるのだと言われれば、いまのところ引き下がるよりほかはないので、井筒氏の見解を紹介するにとどめておきましょう。

話を元に戻します。『コーラン』から、イエス・キリストについて触れている箇所をほかのところからピックアップしてみましょう。

第3章「イスラーン一家」も、イエス・キリストについてけっこうまとめて取り上げています。そこでイエスは、イーサーと呼ばれています。第19章と重なるところはなるべく省きましょう。天使らは、マルヤム(聖母マリア)に次のように告げます。「お前は、神から発する御言葉を産みまつるであろう。その名はメシア。マルヤムの子イーサー。その御方は現世にても来世にても高きほまれを受け、神のお傍近き座につかれるであろう。揺籃の中にあっても、また成人してからも人々に語りかけ、義(ただ)しき人となられるであろう」。また、「神はその子に聖典と聖智と律法と福音とをお教えになり、イスラエルの子らのもとに使徒としてお遣わしになるであろうぞ」とも告げます。人でありながら、「神のお傍近き座につかれる」というのですから、イエスはここではかなり破格の丁重な扱いを受けていると言っていいでしょう。

その次に唐突に、次のようなイエスの言葉が出てきます。「さあ、わしはこうしてお前たちのところへ主のお徴(しるし)を持ってやって来た。お前たちの目の前で、泥で鳥の形を作り、それに息を吹き込めば、アッラーのお許しで、たちまちそれは一羽の鳥になるだろう。また、盲者や癩患者を癒(なお)し、アッラーのお許しがあれば死者を蘇らせもしよう。お前がどんな物を食べているか、また家の中にどんなものを貯めこんでいるのかも言い当てて見せよう。これこそお前らのために下された神の御(み)しるし、もしお前らに信仰があるならば」。

ここから読み取ることができるのは、『新約聖書』に記されたイエスの数々の奇蹟は、人間イエスが神の許しを得て信仰篤き人々に示した神の徴(しるし)なのであって、神の子であるがゆえになしえたことなのではない、という『コーラン』の主張です。イエスの言葉はさらに続きます。「わしはまた、わしの前に下された律法を確証し(「ユダヤ教の律法(トーラー)も福音と同じく唯一なる天地創造の神アッラーの啓示によるものであることを確証し」と注があります)、かつまたこれまでお前たちに宗教上禁じられていたことの一部を解禁してもやろう。わしはほかならぬお前たちの神様の神兆を持ってお前たちのところへ来た者。だからお前たちもアッラーを畏れかしこみ、わしの言いつけに従うがよい。まことにアッラーはわしの神でもあればまたお前たちの神でもあるのだぞ。だからアッラーをあがめまつれ。それこそ正しい道であるぞ」。

イエスが、自分ではなく唯一絶対の神アッラーをひたすらあがめまつるべきであると言っていると、くどいほどに強調しているのです。それに続く言葉は、イエスのみならず十二人の使徒もまたアッラーをひたすらあがめまつると言っているのだ、とされるのは次のとおりです。

イエスが「このわしを助けてアッラーにつかえまつる者はおらぬか」と訊ねると、十二人の使徒たちは、「私どもはアッラーの味方になります。私どもはアッラーを信じます故に、どうか私どもの恭順の証人となってください。主よ、私どもは汝の下し給うたものを信じ、汝の遣わし給うたこの人に従います。なにとぞ私どもを汝の神性の証人たちの列に加え給え」と答えます。イエスのみならず十二人の使徒もアッラーの僕(しもべ)であることを受け入れている、と言っているのです。十二人の使徒がイエスに従うのは、イエスが神の子であるがゆえではなくて、アッラーが遣わした人であるからである、と彼らに言わしめているのですね。

その後に、アッラーはイエスに語りかけます。「これイーサー(イエス)、わしは汝を召し寄せてわがもとまで高く昇らせ、無信仰のやからのけがれから汝を浄(きよ)めてやろうと思う。また汝の後に従って来た者どもは、復活のその日まで無信仰のやからより高いところに置いてやろう。そしていよいよ復活の時が来たら、汝らはみなわしのところに連れて来られるのだぞ。汝らがいまそうして論争している問題についても、その時わしがみんな裁いてやろうぞ。信仰なき者どもは、この世でもまたあの世でも、わしが恐ろしい罰で罰してやろう。誰一人あの者どもを助けてくれるものはあるまいぞ」。

『コーラン』において、終末論的なヴィジョンが鮮やかに描かれていることは先ほど申し上げました。ここで、終末論的なヴィジョンとは、「天地が終わるときの状態」と「死者の復活」と「神の審判」とから成るものです。「天地が終わるときの状態」の描写は、次のようなものです。

どんどんと戸を叩く、何事ぞ、戸を叩く。(迫り来る終末の時の不気味さを象徴しています)
戸を叩く音、その何事ぞとはなんで知る。(〈その何事ぞとはなんで知る〉はシャーマンの決まり文句)
人々あたかも飛び散る蛾のごとく散らされる日。
山々あたかも毟(むし)られた羊毛のごとく成る日。(第101章 戸を叩く音 より)

あるいは、

大空が真二つに割れて、畏れかしこみ主の御言葉に耳傾ける時、
大地が平らに伸び、その中のもの全部吐き出し空(から)になって、
畏れかしこみ主の御言葉に耳傾ける時。  (第84章 真二つ より)

というのもその光景でしょう。とはいうものの「その中のもの全部吐き出し空(から)になって」とあるのは、すでに復活が始まっていることを示しています。実はこのように、「天地が終わるときの状態」と「死者の復活」と「神の審判」とは別々なものではなくて、意味の連関としても、イマージュとしても有機的な統一体を成し、連鎖しているものなのです。そのことを鮮やかに示しているのが、第81章「巻きつける」です。

(1) 太陽が暗黒でぐるぐる巻きにされる時、
(頭にターバンをぐるぐる巻きつけるように太陽に暗黒が巻きつけられて光を失うとき)
(2) 星々が落ちる時、
(3) 山々が飛び散る時、
(4) 産み月近い駱駝を見かえる人もなくなる時、
(「産み月近い駱駝」はアラビア人にとってこの上なく貴重なもの)
(5) 野獣ら続々と集い来る時、
(恐怖のあまり、動物たちが一箇所に集まってくる、という意味)
(6) 海洋(わたつみ)ふつふつと煮えたぎる時、
(7) 魂ことごとく組み合わされる時、
(復活のときに、いままで離れていた魂が肉体とまた組み合うことを指している)
(8) 生埋(いきうめ)の嬰児(みどりご)が、
(古代アラビアでは女の子が生まれるとそのまま生埋めにする風習があった)
(9) なんの罪あって殺された、と訊かれる時、
(10)帳簿がさっと開かれる時、
(「帳簿」とは、各人の行為が詳細に記されている天の帳簿)
(11)天がめりめり剥ぎ取られる時、
(12)地獄がかっと焚かれる時、
(13)天国がぐっと近づく時、
(14)その時こそどの魂も己が所業の結末を知る。

(1) から(6)までが終末の光景。(7)が復活の光景。(8)から(10)までが審判の日の光景。
(11)から(14)までが審判の結果としての賞罰です。このように、それらはひとつながりになっているのです。

「終末」と「復活」と「審判」について長々と述べたのは、『コーラン』において終末論のヴィジョンがいかに重要な位置を占めているのかを、いささかなりとも感じ取っていただきたかったからです。そのことを勘案すれば、先の「汝の後に従って来た者どもは、復活のその日まで無信仰のやからより高いところに置いてやろう」という文言が、『コーラン』において、キリスト教の十二人の使徒がいかに手厚く遇されているかを示しているのだということを、お分かりいただけるのではないでしょうか。つまり、イスラム教は最初からキリスト教に対して敵対的であったわけではないということです。そのことに私はいささかほっとするところがあります。私がほっとしてもしょうがないのでしょうけれど。

次は、第4章「女」から。ここでアッラーは、ユダヤ教徒を激しく非難します。同章によれば、ユダヤ教徒は、アッラーとの契約に違反し、アッラーの神兆を信じようとせず、預言者たちを理由なく殺害し、アッラーの言葉を軽んじ無視し続けました。『コーラン』は、ユダヤ教徒に対して、「実はアッラーがはじめから彼らには無信仰の刻印を捺して置き給うた」という強烈な言葉を投げつけます。その上で、次のように言います。

「『わしらは救世主(メシア)、神の使徒、マルヤム(聖母マリア)の子イーサー(イエス)を殺したぞ』などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと」と。その注に、〈回教ではイエスが十字架にかけられて死んだことをユダヤ人の嘘言として否定する。イエスでなくてイエスに似た男が殺されたにすぎない〉とあります。で、『コーラン』はこう続けます。「もともと啓典の中でこの点について論争している人々はイエスについて、本当に十字架にかけられたのかどうか疑問に思っている。彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけでないし、ただいいかげんに憶測しているだけのこと。いや、彼らは断じてイエスを殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍(そば)に引き上げ給うたのじゃ」。

もう少し続けましょう。「啓典の民(ここではキリスト教徒のこと)の中にはただの一人だに死ぬ前にイエスへの信仰を抱くようにならぬものはないであろう。やがて復活の日が来る時、彼はあの者ども(ユダヤ教徒)に不利な証人となるであろう」。

いかがでしょうか。ここでのアッラーは、ユダヤ教徒を激しく非難し、キリストやキリスト教徒の肩を持っているような印象があります。注には〈ユダヤ教徒、キリスト教徒に対する回教徒の態度は時期によって異なる。最初は両者に対する親愛と信頼。この期待はまずユダヤ教徒に裏切られ、憎悪に転ずるが、キリスト教徒は味方だと思っている。今のこの箇所はちょうどそういう時期に当たる。次にはユダヤ教徒もキリスト教徒もともに不倶戴天の敵となる〉とあります。「そういう時期」というのが具体的にいつのことを指すのかはっきりしませんが、とても参考になる注です。

しかし、イスラム教徒からこの時期に味方だと思われたキリスト教徒は、実のところ困惑していた、というか、はっきり言ってしまえば、迷惑千万と思っていたのではないでしょうか。というのは、キリスト教徒にとって、イエスが十字架に掛けられたことは、彼らの信仰の根幹を成す原罪意識を支える核心であり、また、そこからイエスの復活が導き出される決定的に重要な宗教的契機なのであるから、いくらユダヤ教徒を否定するためだとは言え、それを否定されることは到底甘受しえなかったと思われるからです。だから、キリスト教徒がイスラム教徒と決裂することは、その時期においてすでに決定されていたと申し上げても過言ではなかろうと思われます。先ほど私は「ほっとした」などと申し上げてしまいましたが、それは早計であったのかもしれません。

ではイスラム教が、キリスト教に対して否定的になった時期の文言を見てみましょう。第5章「食卓」からです。「『我々はナザレびと(キリスト教徒)じゃ』と自称する者どもと我ら(アッラー)は契約を結んだが、彼らは神から教えて戴いたものの一部をすっかり忘れてしまったので、我らは彼らの間に敵意と憎悪とをかき立てた。復活(よみがえり)のその日まで続く憎しみを。その日になったらアッラー御自ら、彼らがどんな悪事をはたらいて来たかを一々彼らに説明してきかせ給うであろう」

その注に、〈晩年においてはマホメットはユダヤ教徒ばかりでなくキリスト教徒をも公然の敵として宣言した〉とあるのは見逃せません。この時点で、その後のイスラム教とキリスト教との敵対関係・憎悪関係が決定づけられたと申し上げても過言ではないからです。むろん、その責めをイスラム教のみに帰するつもりはありません。詳しくは知りませんが、マホメットの対キリスト教観の変化をもたらしたそれなりの理由や不可避性があったのかもしれないからです。それを論じることは、いまの私の手に余ります。今後の宿題としましょう。

次の文言は、イスラム教徒のユダヤ教やキリスト教に対する憎悪を直截に表出したものです。第9章「改悛」からです。「『ウザイル(エズラ)は神の子』とユダヤ人は言い、『メシアは神の子』とキリスト教徒は言う。どうせ昔の無信仰者どもの口真似をして、あんなことを口先だけで言っているにすぎぬ。えい、いっそアッラーが彼らを一気に撃ち殺し給えばいいに。まことに、なんと邪曲(よこしま)な人々であることか。」 他宗教に対する憎悪をこれほど剥き出しにした文言は、私が記憶している限り、『旧約聖書』にも『新約聖書』にも見当たらないような気がします。続けましょう。「彼らは、アッラーをさし措いて、仲間のラビや修道士を主とあがめている。それからマルヤム(マリア)の息子メシアも。唯一なる御神をのみあがめよと、あれほど固く言いつけられているのに。アッラーのほかに神はないはず。ああ何たる恐れ多いことか。それをあのようなもの(偶像)と同列に置くとは」。ここには、憎悪の果ての永嘆さえ感じられような気がします。激越さの極北と申しましょうか。

だいぶ長くなりました。これで終わります。
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『不思議なキリスト教』 soichi2011さんからのコメントをめぐって(イザ!ブログ 2012・6・21、23 掲載分) 

2013年11月21日 19時03分22秒 | 宗教
soichi2011 さんから、コメント欄に次のコメントをいただきました。コメント欄には、1000字という制限があるので、それを超える字数はいくつかの欄にまたがってしまいます。こういう形で取り上げる方が読み易いと思われます。

*****

順序が逆になりましたが、『ふしぎなキリスト教』に関連しても言いたいことがありましたので、少し長く述べます。

ツイッター上では橋爪さんの評判が悪いとのこと。それで読んでおりませんが、ここではどちらかと言うと、彼の側に立ってみます。

橋爪さんは、キリスト教と仏教は全く違う、というお立場ですね。表面上似たところがあるとしても、同一視したりするのははなはだ危険である、と。

その違いとは、橋爪説によると、以下です。キリスト教(ユダヤ教も)の神は、この世界を作った。従ってまた、任意に世界を作り直すことも可能。一方、仏教は、本来は、唯一神というより、人格神の概念がない。因果律などの「法」がこの宇宙を支配しているのであって、人間にできることはそれを認識することだけ。仏陀といえども、法を変えることはもちろん、その外へ出ることもできない。

ここからどのような思想的態度が派生してくるか。橋爪さんその他から私が学んだ、と信じることを列挙しますと、

(1)仏教の世界認識は、理屈としては「無常」に極まる。なぜ「無常」なのか、などと頭をめぐらしても、これを変えることができない以上、全くの徒労でしかない。法は、受け入れるしかない。いや受け入れられない、なんてあがくから、余計な苦しみが生じる。

一方、神がこの世界を作ったとすれば、世界内のあらゆることには理由があるはず。究極の理由は人間にはわからないにしても、一歩でもそこに近づくこと ならできるはず。この思いから近代科学が発生する。単に自然を人間のために利用する技術なら、東洋でも日本でも、治水その他、たいへんに高度なものを持つことができた(このへん、『ふしぎなキリスト教』で述べられている説明、はちょっとポイントを外しているように思えます)。

できなかったのは、少なくともあまり得意でなかったのは、仏教的な意味とはまるで違う法則を発見しようとすること。「リンゴは木から落ちるのに、空に ある月はなぜ落ちてこないのか」。この現象を単一の論理で、矛盾なく説明できたとき、それは法則になる。そして、矛盾した現象が発見されないうちは、この法則は非常に広い範囲に応用できるものとなる。結果、科学技術は飛躍的に発展する。

(2)美津島さんが特にこだわっておられるように思える「主権」。これはまた非常に難解なんですが、無理をして言ってみます。妄言も度が過ぎる、と思われた場合には、美津島さんその他のご叱正を願っておきます。

この概念は、キリスト教そのものより、これと関わりながら発展してきた俗界の都合によってできたもののようです。sovereign powerとは「至高の力」ですから、キリスト教内部なら、神に属するのが当たり前。でも、そしたら、地上の権力者の立場はどうなる? ということが、ミラノ勅令(313年)によってキリスト教を公認したローマ帝国で問題になったらしい。まあ普通は、「カエサルのものはカエサルに」というイエスの言葉で、丸く収まるんですが。もうちょっと格好をつけたほうがいい、と考えたローマの法学者たちは、国は俗界の法によって統治される、その法の権威は皇帝から発し、皇帝自身はその外側にいて、自由に改変も出来る、とした。早い話が、それまで禁じていた宗教を認めることもできる。正に、世界を作った神のアナロジーですな。

ご存じのように、ローマ法は、その後、西洋世界の法の基礎と考えられたわけですが、ヨーロッパ各国の王たちは、ローマ皇帝ほどの権力はなかったので、権力基盤を堅固なものにすることに、より気を使わなければならなかった。殊に、教会の介入やら、異なった宗派(セクト)間の争いは、現実的にも頭痛の種だった。それで、国王の力は、声高に叫ばれた。国の中では最高権威であって、何人もこれに逆らうことは許されない、と。そこには、他国の干渉は必ず排除されなければならないことも、当然含まれていた。

やがてルソーらの手で、この至高の力は「人民」に移る。でも、王様にせよ、人民様にせよ、文字通り好き勝手なことをやられたのではかなわないから、主権を制限するもの(本当は語義矛盾ですが)として、憲法が、国と主権者との間の契約として結ばれることにもなった。これまた、神と人間の間の契約という形を取ったキリスト教(むしろユダヤ教か)の真似のようです。

ここには、国もまた、人間の手で作り上げるものだという信念が一番根底にある。これが日本人にはどうも理解しがたい。私たちにとって、国とは、自然にあるものですから。「主権」も、「憲法」も、なんで必要なのか、本当の意味ではわかっていない。

(3)個人。これこそキリスト教からできた最大のものじゃないかと思います。唯一絶対神は、一人の人間に語りかけたりもするんで、個人は神との直取引も、理屈の上では可能なはずです。その場合でも、一人の人間は、ちっぽけなものでしかありませんけれど、家族でも地域共同体でも国でも、神の前では同じぐらいちっぽけであって、個人と同次元だとも考えられる。自分の主権者は自分である。こうして、自由で自律的な個人は当然あることになった。また、こんな独立した個人を束ねなければならないので、国家の主権というのも必要とされた、ということじゃないですかね。

これまた、どうも日本人には馴染みづらい考え方です。もちろん、こういう日本が、西洋に比べてオクレている、なんて考える必要はないです。でも、「日本的なもの」は、今後、世界に何か貢献できるかどうか? 見込みが全くないわけではないが、極めて難しい、とは思えます。まあ、この点で、日本人が何か言ったりやったりする前に、困難さだけは、しっかり腹に入れておく必要はありそうです。

橋爪さんに見せたら、「私はそんなこと一言も言ってないよ」と迷惑がるかも知れない愚見を披瀝しました。こんな考えもある、と知っていただけるだけでも幸甚です。

*****

深い教養に裏打ちされたコメントで大いに勉強になります。私の返事は、次の投稿に掲げましょう。


*****

私、偉そうなことをときに口走ってはみても、当然のことながら、それほどの教養があるわけではありません。

深い教養があるなと思った方のご意見には、素直に耳を傾けるに若くはない、と考えます。貴重なご意見、感謝します。異論と呼べるほどのものはありません。ほんの感想をいくつか。

橋爪さんが「仏教は唯物論である」と言っていましたね。そうして、その唯物論の核は、因果律である、ということだったと記憶しています。それを見透すことが悟りである、と。

ではなぜ、因果律なんてものが宗教になるのか。普通はなりませんよね。ちょっと考えてみたのですが、それが前世・現世・来世を貫くものだから、と気づきました。われわれにとっての因果律は現世にだけ関わるものであって、それは、仏教の因果律(縁起の法)からすれば、実に浅薄なものに過ぎないということになるのでしょう。

では、前世・現世・来世を貫く因果律とはどのようなものなのか。私見によれば、深い瞑想によって浮かんでくる、個人的な認識の限界を超えているとしか思えないような鮮烈なイメージの連なりのようなものなのではないでしょうか。

とするならば、この因果律は、唯物論というより、特殊な観念論の産物と言った方が事実に近いのかもしれません。橋爪さんの「仏教は唯物論である」という言い方は、むしろ混乱を招き易いのではないかと思われます。(あれ、異論になっちゃった)

ここから、因果律を現世に限定した科学的認識が生まれて来にくいのは理解ができます。

一方、神がこの世界を作ったとすれば、世界内のあらゆることには理由があるはず。究極の理由は人間にはわからないにしても、一歩でもそこに近づくことならできるはず。この思いから近代科学が発生する。単に自然を人間のために利用する技術なら、東洋でも日本でも、治水その他、たいへんに高度なものを持つことができた(このへん、『ふしぎなキリスト教』で述べられている説明、はちょっとポイントを外しているように思えます)。

そうですね。これが通常の理解の仕方ですね。分かりやすいですし。分かりやすいほうがいいに決まっています。橋爪さんは、キリスト教社会から近代という一見宗教的認識を否定するパラダイムが生まれてきた逆説を強調しようとして、やや分かりにくい説明になってしまったのかもしれませんね。

次は「主権」について。

私が「主権」にこだわっているのは、「民主主義、民主主義と気安く言うなよ。その核をなす『主権』とかさらには『国民主権』という、よく考えると矛盾に満ちた概念をしっかりと理解し、自分のものにするのはけっこう大変なんだぜ」と、世のいわゆる(朝日新聞などの)安逸な民主主義者に毒づきたい気分が強いからです。戦後民主主義のオプチュミズムに対する違和感が根にあるのだと思います。

そんなわけで、私には、主権概念を突き詰め、それを一般国民が担うことの難しさを承知のうえで「国民主権」や「民主主義」を思想のキーワードとして鍛え上げることができたらな、という思いがあります。その点、soichi2011さんの主権をめぐる洞察は傾聴に値すると心から思います。

ミラノ勅令(313年)によってキリスト教を公認したローマ帝国で、(中略)法学者たちは、国は俗界の法によって統治される、その法の権威は皇帝から発し、皇帝自身はその外側にいて、自由に改変も出来る、とした。早い話が、それまで禁じていた宗教を認めることもできる。正に、世界を作った神のアナロジーですな。

私は特にこの箇所に刺激を受けました。この、神の世界のアナロジーとしての俗界において、神と皇帝をカッコに入れて脇にやりそこに国民を置けば、近代法治国家の姿がうっすらと浮かび上がってきます。ざっくりと言えば、このころすでに近代法治国家の雛形はいわばセットされていた。その後の約1500年間の歴史は、神と皇帝をカッコに入れて脇にやりそこに国民を置く過程であったと言ってしまえなくもない。

ここには、国もまた、人間の手で作り上げるものだという信念が一番根底にある。これが日本人にはどうも理解しがたい。私たちにとって、国とは、自然にあるものですから。「主権」も、「憲法」も、なんで必要なのか、本当の意味ではわかっていない。

ここが、われわれ日本人にとっての主権問題の根底なのではないでしょか。吉本隆明さんではありませんが、ここに差しかかると私はいつも佇立してしまいます。いつまでたっても、ちっとも解決できない事柄なのです。

個人。これこそキリスト教からできた最大のものじゃないかと思います。

これは実は、今述べた主権問題の根底に深く関わっています。いや、主権問題と個人問題とは同じことの表とウラの関係にあると言った方が正確なのかもしれません。

唯一絶対神は、一人の人間に語りかけたりもするんで、個人は神との直取引も、理屈の上では可能なはずです。その場合でも、一人の人間は、ちっぽけなものでしかありませんけれど、家族でも地域共同体でも国でも、神の前では同じぐらいちっぽけであって、個人と同次元だとも考えられる。自分の主権者は自分である。こうして、自由で自律的な個人は当然あることになった。また、こんな独立した個人を束ねなければならないので、国家の主権というのも必要とされた、ということじゃないですかね。

これを言い切ってしまうには、近代をめぐる歴史認識のコペルニクス的転換が必要であると考えます。つまり、「近代になってから個人が誕生したかのように喧伝されているが、実は西欧キリスト教社会にはもともと強い個人が存在していた。近代社会になってそこに強い光が当てられたので、そのような印象を受けるのである」というふうな。私にはとてもとてもできませんが、とても面白い切り口であると思います。

もしも、ご意見があれば、遠慮なく。小浜逸郎氏とのやり取りをご覧いただければお分かりになるとおり、私はいつまでもこういうことをやっていられる質(たち)なので。というか、もともと、こういうことをやるためにブログを始めたようなものです。


*****

Commented by soichi2011 さん
最近近親者の葬儀がありまして、せっかく美津島さんのおはからいにも何も応えられず、失礼いたしました。「遅くともやらないよりはマシ」と思いますので、また雑駁な感想など書き入れます。
 うちは浄土宗だったのだ、ということを、前述の葬儀で初めてはっきり知りました。それから、最近(なのかな)の通夜では、最初に浄土宗の紹介というか、プロモーション・ビデオが流される、ということも。なんか、あざといような…。思い起こせば十年以上昔、キリスト教の通夜に出ましたら、神父様のお話があって、故人のことには最初ちょっと触れたかと思ったら、あとはその十倍ぐらい、「神は偉大なり」という趣旨になりました(いや、それ以前に、キリスト教にお通夜ってあったけ?)。などなど、まあ、宗教と雖も、俗世の都合に合わせて、いろいろなことをするものなのだなと思われた次第です。
 でも、このビデオにはなかなか考えさせられました。曰く、浄土宗は、それまでの、国家の護持や、僧たちの悟りが主眼ではなく、宗教本来の(と、そのビデオでは言っていました)役割である、人々に救いをもたらすために、法然上人が始めたものだ、と。ははあ、そうか、ここが、以前のブログにあった、橋爪氏と小浜逸郎・長谷川三千子・松崎健一郎各氏の対立点になったのだな、と思い至りました。
 その直後に呉智英氏の『つぎはぎ仏教入門』を読みましたら、以上のことがとても簡潔に書かれていました。「キリスト教は救いの宗教、仏教は覚り(悟り、を呉氏は敢えてこう書いています)の宗教」だが、後者は長い歴史の中で、さまざまな変質を経た。浄土宗・浄土真宗はその変種の一つであって、阿弥陀仏をまるで人格神のように扱い、救いを強調するところは、キリスト教に近い、とのことでした。
 読書会での議論の時、橋爪氏は釈尊の、原点に近い仏教を強くイメージされ、小浜氏と松崎氏は親鸞が、長谷川氏は道元が、主に頭にあって、それで議論がイマイチ噛み合わなかったようですね。これも仏教の多様性のなせる業、と申せましょうか。
 それでは、釈尊が創出した、宮崎哲哉氏などの言う「根本仏教」とはどういうものか、もう少ししたら愚考をまとめて、お目に掛けたいと思います。
2012/07/10 18:05

Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん

コメントをどうもありがとうございます。

> 読書会での議論の時、橋爪氏は釈尊の、原点に近い仏教を強くイメージされ、小浜氏と松崎氏は親鸞が、長谷川氏は道元が、主に頭にあって、それで議論がイマイチ噛み合わなかったようですね。これも仏教の多様性のなせる業、と申せましょうか。

読書会でのこの議論、私も頭に残ってしまいました。遠慮抜きで言ってしまえば、この議論で、橋爪氏の人間的な弱点が顔を覗かせていると、いまでは思っています。小浜・松崎・長谷川の三名に共通しているのは、橋爪氏の、仏教を巡る断言に対して異議申し立てている点です。自分たちの方こそ真の仏教論を展開していると主張していた人は誰もいません。そうしていたのは、橋爪氏だけです。
それが、議論が噛み合っていない一番の原因だったのではないでしょうか。

これを普通に言うと、橋爪氏はその局面で、やや大人気のない「言い張り」をしていた、となるでしょう。これは、おそらく、橋爪氏がいちばん頭に来るタイプの指摘ではないかという気がなんとなくします。

人間通の心理学者ユングは、たしか『タイプ論』なかで「理性が高度に磨かれた人は、おうおうにして感情の洗練がおろそかになりやすい」と言っています。

私が言いたいことは、もうご賢察のことと思われます。橋爪氏にその指摘がすっぽりと当てはまってしまうのではなかろうか、ということです。実は、以前からうすうすそう感じてはいたのですけれど。

> それでは、釈尊が創出した、宮崎哲哉氏などの言う「根本仏教」とはどういうものか、もう少ししたら愚考をまとめて、お目に掛けたいと思います。

とても楽しみにしています。
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『不思議なキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸)を読む (イザ!ブログ 2012・6・12、15掲載分)

2013年11月20日 19時01分46秒 | 宗教
先日(5月27日(日))、自分自身いつも参加している「しょ~と・ぴ~す」という読書会で『ふしぎなキリスト教』を取り上げました。著者ご本人たち、つまり橋爪大三郎氏と大澤真幸氏も参加、という超豪華版の読書会です。その上、一般参加者として哲学者・長谷川三千子氏、社会学者・菅野仁氏の顔も見受けられました。主宰者の由紀草一氏と小浜逸郎氏が参加したのはもちろんのことです。参加者は総数二八名。いつもの三倍程度です。

レポーターのFさんが、「意識レベルの信仰」と「態度レベルの信仰」という本書のキーワードについてのごく短いレポートを読み上げたのを受けて、橋爪・大澤両氏が一神教についてのコメントをしました。

橋爪氏いわく。ユダヤ教・キリスト教の信仰の特徴は、向こう側(神)とこちら側(人間)をきっちりと分けること。それが一神教の本質。それゆえ、一神教はドグマを持つ。ドグマは、一般的には「教義」と訳されるが、「独断」とマイナスの意味にも訳されるように、日本人にとっては違和感を覚えるもの。だから、一神教は日本人にとって縁遠いものになる。マルクス主義もその中核にドグマを持つ。だから、これも日本人にとって縁遠い。キリスト教やマルクス主義が日本で普及しないのは、致し方がない。また、マルクス主義は、無神論を標榜しているけれど、その理論的なフレームはキリスト教から借用している。ゲームの「上がり」を神の国にするか共産主義社会にするかの違いがあるだけ。

大澤氏いわく。信じているとはどういう状態か。本格的なキリスト教徒であるほど、自分がいかに不信者であるかを語ろうとする。その真摯さが周りの信者仲間たちの心を揺さぶる。単純に信じている姿より、信と不信とを突き詰める方が、信が深い印象を与える。そこがキリスト教の信の面白いところ。キリスト教成立史において決定的な役割を果たしたパウロが、その面白さを象徴している。ローマ市民権を持つパウロは、キリスト教徒になるまでは、熱心なユダヤ教徒として当時の新興宗教のキリスト教徒を片っ端から捕まえては尋問し、弾圧していた。その過程で、キリスト教を深く知ることになり、次第にキリスト教に傾斜し、精神的なバランスが保てなくなったところでイエス・キリストの「会って」しまい回心することになる。教団としてのキリスト教の事実上の創始者パウロ自身、信と不信とを徹底的に突き詰めることによってキリスト教徒になった。

だいたいそんなお話で、会が始まりました。

橋爪氏は、高性能の精密機械のように、どんな質問に対しても、きっちりと応答します。これが、質問者の「健全な」(?)攻撃性を誘発するところがあって、橋爪氏が現れるところ、いつも質問の洪水です。その日もそうでした。それに対して、きっちりきっちりと答えられ続けると、それを聴き続ける方では、なんとはなしに身体の隅っこの方で小首をかしげ気味の自分が気になってくる。それがまた質問を誘発することになるのです。

対する大澤氏は、どこか高速度の飄逸な独り言の趣のある語り口。橋爪氏がスパっと断言する頭括型の語りをするのに対して、大澤氏は、ああでもないこうでもないと自問自答しながら右に左にゆれながら思考を進めるタイプ。私は本書以外に大澤氏の著書を読んだことがないので断言はできませんが、そういう印象を受けました。

この二人それそれの対照的な持ち味がちょうどほどよくブレンドされたので、本書は、この手の「堅め」の本としては30万部という驚異的なベスト・セラー本になったのでしょう。30万部売れたことについては、後ほどにふたたび触れましょう。ちなみに、20年前であれば、この本は300万部売れたことになります。というのは、当時と今とではベスト・セラーの桁数が一桁違うそうですから。これは、出版社の編集者たちから直になんども伺ったことなので間違いないものと思われます。活字離れ、長引くデフレ不況、才能の他業界への流出。原因はそんなところでしょうか。

議論を整理する意味で本書から引用しましょう。

ユダヤ教にイエス・キリストが存在しないのは当然として、キリスト教を視野に収めているイスラム教にも、イエス・キリストという要素は存在しない。(中略)とすると、イエス・キリストというのは何なのか。それをどういうふうに理解すべきなのか。あるいは、宗教社会学的にみて、それがどういうふうに理解されてきたのか。ここが「ふしぎ」の源泉です。(by 大澤)
では、そもそもキリスト教がなにゆえ問題になるのか。

「われわれの社会」を、大きく、最も基本的な部分でとらえれば、それは、「近代社会」ということになる。それならば、近代あるいは近代社会とは何か。近代というのは、ざっくり言ってしまえば西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。したがって、その西洋とは何かということを考えなければ、現在のわれわれの社会がそういうものかもわからないし、また現在ぶつかっている基本的な困難が何であるかもわからない。それならば、近代の根拠になっている西洋とは何か。(中略)その中核にあるのがキリスト教であることは、誰も否定できまい。(中略)近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった。(中略)いまある程度近代化した社会の中で、近代の根っこにあるキリスト教を「わかっていない度合い」というのをもしIQのような指数で調べることができたとしたら、おそらく日本がトップになるだろう。(中略)日本があまりににもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中にあったことがその原因である。」(by 大澤)

ここが、本書の基本的着眼点・問題意識です。引用をさらに続けましょう。

日本は、キリスト教についてほとんど理解しないままに、近代化してきた。(中略)現代、われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある。それは、結局は西洋というものを相対化しなければならない事態ということである。(by 大澤)

これらの基本的着眼点・問題意識は、橋爪氏のものでもあります。そこで意気投合して本書を作ることになったと本人が「あとがき」で言っているのだから間違いありません。

実は、私はこれらの基本的着眼点・問題意識をせいぜい半分くらいしか共有できない者です。だから、一方では本書の問答を楽しみながら、他方では本書との距離を感じつづけもしました。そのことについては、「その2」で述べましょう。今回は、読書会の模様をお伝えするのが主眼ですから。

読書会の問答で一番印象に残っているのは、日本人にとってキリスト教は本当に「ふしぎ」なのかをめぐってのものです。小浜逸郎氏と『吉本隆明 異和』の著者・松崎健一郎氏と長谷川三千子氏の三人が少しずつニュアンスを変えながら、「それほどふしぎとは言えないのではないか」という、本書に対する反論を試みました。

小浜氏によれば、法然・親鸞の浄土思想は、ほとんど一神教に近いとのこと。私とのメールでのやり取りを公開したものの中に、そのことに言及したものがあるので、再録します。

私は最近、親鸞をやっていて、つくづく思うのですが、鎌倉仏教、ことにひたすら称名念仏を勧める浄土教のそれは、限りなく一神教に近いという印象を持ちます。偶像崇拝に対する否定的な言及もあるし、依拠している大乗仏典の浄土三部教のうち、ことに観無量寿経において浄土のすばらしいありさまを五感による想像力を駆使して絢爛と描き出したシーンに対しては、法然も親鸞もほとんどまったく興味を示していないのですね。阿弥陀様への深い信仰心だけが、唯一のよりどころです。私には、この絶対信仰のあり方は、イエス、ルター、カルヴァンなどと共通していると思えてなりません。

これは不思議といえば不思議で、というのは、遣唐使廃止以後の平安の世では、鎖国に近い状態が三百年も続き、あまり文化の東西交流が盛んな時代ではなかったにもかかわらず、その閉鎖的な日本で仏教が独自の発展を遂げ、その究極的な結果として末法思想の極限としての法然・親鸞の登場となったわけです。イエスの登場、原始キリスト教の成立と時を隔てること、およそ千年です。


そういう主旨のことを改めて述べつつ、小浜氏は橋爪氏に「だから、ことさらにキリスト教の「ふしぎさ」を強調するのはあまり適切とは言えないのではないか」と問い質(ただ)しました。

それに対して、橋爪氏はおおむね次のように述べました。

仏教は言ってみれば、唯物論である。自分たちを取り巻いている宇宙の法則を、どこまで徹底的に認識したかが勝負であって、それを徹底的に認識した人が、仏(ブッダ)と呼ばれる。だから、仏といえども、宇宙を支配する法則を変えることはまったくできない。そうした法則をありのままに徹底的に認識し、自分と宇宙が完全な調和に到達下した状態が理想なのである。だから、仏教には、人間と隔絶した神の存在などありえない。神々の存在を否定するわけではないが、神々よりずっと偉大なブッダという存在がいる。神々はブッダの脇役で、ブッダの偉大さを賛美するだけ。神秘はどこにもない。一神教の神のように世界を創造するなんてこともない。それが、仏教の基本。そこから唯一神が生じる可能性は基本的にない。たまたま、仏教に一神教に似た傾向が現れたからとしても、それは一神教とは根本的に似て非なるものである。

そこで、松崎健一郎氏が親鸞の和讃を引き合いに出して、「親鸞の絶対他力においては、煩悩具足は信仰さえも阿弥陀仏から与えられるものという考え方がなされている。だから、仏教の基本が絶対自力であるからといって、それが一神教に限りなく近づく可能性までも否定するのはまずいのではないか」という意味の発言をしました。

さらに、長谷川三千子氏が、「絶対自力の極地のような道元でさえ、絶対自力そのものは仏から与えられたものと考えている」という意味の発言をしました。

小浜・松崎・長谷川の三者と橋爪氏との議論は、どこかしら噛み合わないところを残しました。平たく言えば、平行線。

小浜・松崎・長谷川の三者の共通の論点を抽出すると、「橋爪氏のように、ことさらに一神教(の文化)と他宗教(の文化)との違いを強調するのは、誤りというわけではないが、やや行き過ぎではないか。むしろ、似た点さらには共通点も同様に押さえる必要があるのではないか」となるでしょう。素朴に言ってしまえば、国や民族や宗教や文化が違っても同じ人間なのだから、似たようなところや共通点があってもちっとも不思議ではないだろう、ということになります。これを「いいや、そんなことはない」と全否定する人はあまりいないのではないでしょうか。

橋爪氏の厳密な文化論は、人類の普遍性をめぐる、そういう素朴な直観に対して応えるところがやや少ないという印象を私は持ちました。その詳細については「その2」で展開しようと思っています。

次に印象に残っているのは、長谷川氏が、人格神について橋爪・大澤両氏に尋ねた場面です。長谷川氏は、おおよそ「自分は文学として旧約聖書を読んでいる。特に最古の資料とされるJ資料を読んでいるときに感じることがある。それは、ヤハウェイという唯一神は、人間のように怒ったり、嫉妬深かったり、と実に情熱的な人格神であるということ。それがキリスト教になるとどうなるのか。そこを改めて伺いたい」という意味の問いかけをしました。

それに対して、橋爪氏は、次のように答えています。

全知全能で世界を創造した唯一絶対の神が同時に人格神であることは矛盾しているようである。しかし、人間は神に似ているが、神は人間に似てないと考えればよいのではないか。つまり、人間は自分を神に似ていると思っているが、神の存在そのものは実は人間にまったく似ていない、と。違う言い方をすれば、神は自分の存在をこの世界で示すために人間を必要とする。

長谷川氏の問いかけにストレートに答えたというより、一神教における人格神の捉え方の原則を語った形でした。      

大澤氏は、次のように答えています。

ユダヤ教において、唯一神であり人格神であった存在が、キリスト教においては、イエス・キリストが人格神の要素を100%担うことで、天上の唯一神は人格神の要素を払拭し超越的な存在になった。

ここは、本書の一番魅力的なところに関わります。それは、次の箇所です。

大澤 福音書を読む限りは、キリストは相当、人間として苦しんでいるような気がしますね。(中略)僕らが強く心を動かされるのは、人間として苦しんでいるイエスの姿をそこに見るからですよね。もし人類の歴史の中で最も影響力の大きかった出来事を一つ挙げろと言われたら、ぼくはイエスの処刑だと思うんです。たった一人の人間の死が、結果的には人類史に圧倒的な足跡を残し、いまでも大きな影響を及ぼしている。なぜこの出来事がこれほどのインパクトをもったのか。それはやっぱり、イエスが惨めに殺されていくからでしょう。冤罪ではないかと思うような微妙な罪で、しかし、十字架という最も惨めな方法で殺された。それですごく心を動かされるわけです。

それに呼応する言い方を、橋爪氏もしています。

橋爪 (中略)十字架のイエス・キリストは、人間が苦しむのとまったく同じ苦しみを、受けなければならない。と同時に、かたときも、神の子であるという自覚を失ってもならない。どう考えたって、神の子の自覚があれば、人間と同じ苦しみを受けられないのではと思われるけれども、でも神の子の自覚が百パーセントありつつ、人間としての苦しみを百パーセント受けた。これが公式な教理として、決定されたのです。

百パーセント神であると同時に百パーセント人間であるイエス。それを大澤氏は「キリスト教が抱えている究極の逆説のひとつの断面」と指摘しています。私は、この一連の二人のやり取りに深く心を動かされました。この手の本では滅多に味わえない感慨・感動を本書から得ることができたのです。ここで、二人はキリスト教が人々を惹きつけてやまない魅力の、矛盾に満ちた源泉に確かにそうして深く触れ得ています。

これに関連して、複数の参加者から、「キリスト教徒ではない者の率直な思いなのだが、キリストが魅力的な存在であることは認めるけれど、2000年も前の一人の人間の死に対してなぜ疚しさとか罪の意識とかを持たなければならないのか。どうしても腑に落ちないところがある」という率直な声が挙がった。

それに対しては、大澤氏が次のように答えました。

宗教的な時間は、普通の時間と間尺が異なる。教会で牧師がダビデやソロモンやキリストについて語るとき、キリスト教徒の心には、彼らがありありとイメージされている。まるで昨日今日の出来事のように彼らの事跡が語られ、また受けとめられる。

また、橋爪氏はそれに関連して次のように述べました。

旧約聖書に原罪の観念はない。それを作ったのは、パウロである。パウロはイエス・キリストが十字架で死んだことの意味について考えるうちに原罪の考え方に行き着いた。そこから逆にさかのぼって、アダムとイブのエピソードが人間存在の原罪を示すものとされた。

社会学者の菅野仁氏が、「30万部売れるというのは、ひとつの社会現象である。お二人は、社会学者としてそれをどう考えているのか」という意味の質問をしました。(菅野仁氏には『教育幻想』(ちくまプライマリー新書)という名著があります)

それに対して、大澤氏が次のように答えました。

社会現象というのは、その通りと思う。30万部売れると、自分たちが書いたという事実から本が一人歩きしていくような感触が生じてくる。この本を手にとってみようとする人々の思いとしては、不可避的なグローバル化ということがあるのだろう。それに対する「仲間はずれ感」から来る不安。それと、東日本大震災が惹起した不安感が重なったのではないか。

閉会間際に、長谷川氏が語ったことが印象に残っています。氏いわく「一神教が、科学的知見とうまく棲み分けていることは分かった。しかし、「存在」を問い続けてきた哲学と宗教とは、いわば天敵のようなものなのではないか。一神教からすれば、「世界は神が作った。以上」で存在問題は終わり。しかし、それにこだわり続けてきた哲学は、それでは収まらない。だから、「存在」問題をめぐって、宗教と哲学は最後まで折り合わないと考える」。

それに対して橋爪氏が「どうして、哲学が「存在」問題をめぐって展開されてきたと言い切れるのですか」と反論。すかさず長谷川氏が「それはギリシャ哲学以来・・・」と言いかけたところで、時間切れのゴングならぬ、時間切れの場内ブザーが鳴って取りあえずとりあえずお開き。その勢いのまま、二次会になだれ込んでいきました。アルコールで景気をつけて、「試合」再開という流れに。

豪華メンバーによる興味深い読書会でした。

*****

数日前アップした投稿の反響が私の当初の予想を超えています。『ふしぎなキリスト教』がベスト・セラーになった影響でしょうか。読書会の地味な報告、と暢気に構えていたところ、ちょっと違う雰囲気なのです。ツイッター上で、私の報告を基に、橋爪批判が展開されていたりします。文責はすべて私にあることをここで明記しておきますね。

今回は、本書に対する私なりの読みをなるべく明らかにすることを主眼にしましょう。

本書の基本的な認識・問題意識をもう一度私なりに言うと次のようになります。

日本近現代史は、ざっくりと言えば西欧型の近代社会・近代システムに巻き込まれ続けてきた歴史である。そうして、西欧型の近代社会・近代システムの核には、キリスト教がある。だから、西欧型の近代社会・近代システムは、キリスト教文化なのである。それゆえ、西欧型の近代社会・近代システムの本質を理解するには、キリスト教の核心を理解しなければならない。

ところが、一神教の伝統のない日本人はキリスト教を理解するのが不得手である。だから、西欧の近代社会が模範となり、それを外面的に吸収していれば済んでいるうちはよかった。ところが、環境問題やエネルギー問題や格差の問題のような近代の限界を示唆する現象が生じてくると、その本質への理解が必要になってくる。近代の限界を乗り超えるには、その本質をしっかりと把握したうえで、それを編み変えなければならないからである。われわれは、無から有を生む手品に期待することはできないのである。

また、グローバリゼーションとは、キリスト教に由来する西洋文明が、それとは異なった宗教的な伝統を受け継ぐ文明や文化と、これまでにないほどに深いレベルで交流したり、混じり合ったりすることである。社交辞令を言って綺麗事で済ましていられないのである。相手の本質をきちんと踏まえて交流しなければ、ぎくしゃくした関係に終始することになってしまうからだ。

だから、日本人がキリスト教を理解するのが不得手のままなのはとてもまずい。それを克服する一助に本書がなればいいのだが。

本書の基本的な認識・問題意識は、おおよそそんなところではないかと思われます。

で、私は前回こう申し上げました。

実は、私はこれらの基本的着眼点・問題意識をせいぜい半分くらいしか共有できない者です。だから、一方では本書の問答を楽しみながら、他方では本書との距離を感じつづけもしました。

では、私はなぜ本書の基本的着眼点・問題意識をせいぜい半分くらいしか共有できないのでしょうか。

それは、キリスト教の理解不足を解消することで、いまの日本が直面している困難が解消するとはとても思えないからです。

では、「いまの日本が直面している困難」とは何なのでしょうか。本書が掲げている「環境問題やエネルギー問題や格差の問題」がそれなのでしょうか。

ここは橋爪氏のマネをします。「それは全然違います」。

「環境問題やエネルギー問題」が思想問題・文明論になっているのは確かです。しかしそういう現状の大半は、それらの問題の本質に対する人々の致命的な無理解・無知・不勉強・頭の悪さが原因なのです。むしろ、この無知の全体構造の方こそが大問題です。「環境問題やエネルギー問題なんてない」という「暴論」の方がむしろ事の真相に近いくらいなのですね。

私が何を言っているのかよく分からないという方が結構いらっしゃるのではないでしょうか。このことについてはいずれ踏み込んだお話をしようと思っています。とりあえず「地球は温暖化していて、このままでは、南極と北極の氷が溶けて、太平洋の島々が水没してしまう」とか「環境破壊を緩和するために、ゴミの分別やリサイクルをどんどん推し進めなければならない」とか「割り箸は森林伐採を促進するから環境に悪い」とか「風力発電は環境にやさしい」などと口走る人がいたら、眉に唾をつけましょう、とだけ言っておきます。国・地方公共団体・マスコミ・教育界は総がかりで、環境問題について、膨大なウソを一般国民に垂れ流し続けてきたのです。

「格差」社会が問題であることはもちろんです。格差が広がりすぎることは、資本主義の活力としての「機会の平等」を骨抜きにしてしまうからです。

しかし、「格差」は決してなくなりません。また、あえて言いますが、なくなる必要もありません。それが適度にあることはその社会に活力があることの証なのですから。要は、程度の問題なのです。

「環境問題やエネルギー問題や格差の問題」が、いまの日本が直面している困難なのではないとすれば、ほかに何があるのでしょう。

私は、いまの日本が直面しているさまざまな困難の核心は、20年来続いているデフレ不況問題であると考えます。人々が抱いている将来に対する漠然とした不安感や閉塞感の根には、この問題があるのです。東日本大震災や福島原発事故が、そういう不安感や閉塞感をさらに深めたのは確かなことでしょう。本書が30万部も売れた社会的な原因の少なくとも一つとして、「人々が抱いている将来に対する漠然とした不安感や閉塞感」を挙げることも可能であると思われます。

また、デフレ不況下において経済の全体の規模が縮小する場合、格差社会の下層に対してより強烈な圧力がかかるので「格差」が大きな問題であるかのような様相を呈するのです。デフレ不況から脱することができれば、「格差」は長い時間をかけてなるべく「改善すべき問題」という本来の位置に戻ります。

では、本書が主張するように、日本人が本書をしっかりと読んでキリスト教を正確に理解したのならば、日本が20年来続いているデフレ不況から脱する可能性が生まれるのでしょうか。少なくともその端緒をつかむことくらいは可能なのでしょうか。

いずれに対してもNOと答えるよりほかはありません。なぜなら、日本が先進国のなかで唯一20年間もデフレ不況で苦しんでいるのは、政府・日銀が誤った経済政策を実施し続けているからです。いわゆる伝統的歴史的なキリスト教とはとりあえず何の関係もありません。

では、政府・日銀は何故誤った経済政策を実施し続けているのでしょうか。いろいろな言い方ができるのでしょうが、とくに政府の場合、デフレ不況時に大胆な公共投資・財政出動を推し進めようとするケインズ政策を過剰に否定し、政府の役割をなるべく小さくしようとする新自由主義理論をむやみに有り難がってきたから、と言えるでしょう。また、デフレ脱却のために供給能力を高めることを是とする、などという間違った理論を事あるごとに口走る日銀も似たり寄ったりです。日銀には、もう一つ、わずかでもインフレを許せば、それがいつハイパー・インフレに化けるか知れたものではないというデフレ原理主義があります。日銀は、あらゆる姑息な手を使って、金融緩和を拒み続けています。

つまり、パワー・エリートが間違った経済理論・経済思想を信奉していることが諸問題の根にあるのです。さらには、彼らに国民主権に対する深い理解がなく、浅薄な特権意識の呪縛から自由ではないことが問題を深刻にしています。彼らは、国民の生活向上のために粉骨砕身することそれ自体にエリートとしての誇りの根拠を置くことができにくい、ということです。

知識人には、世のため人のため国家のために、パワー・エリートの馬鹿げた盲信をそれぞれの立場で批判・撃破する責任があります。なぜなら、「知識」人の知識は、いわば公共財であって、究極的には一般国民の幸福追求のために存在するものであるからです。

そんな問題意識を抱いている私からすれば、キリスト教に関しては何が問題になるのでしょう。

新自由主義は、アメリカで生まれた特殊なリベラリズムです。新自由主義は、いわゆるリバータリアリズムと呼ばれているものの経済学的な表現として捉えることができるでしょう。リバータリアリズムは、反国家的で極端な個人主義(たとえば、自分の肉体を自由に行使する権利=売春権の容認!)によって特徴づけることができるでしょう。それをさらに極端にしたものが、国家の介入を原理主義的に排除しようとするソブリン市民です。彼らは、駐車違反を注意した警官を平気で撃ち殺したりします。

では、この極端な個人主義=個人原理主義が、何故アメリカで生まれたのでしょうか。まあ、いろいろとあるのでしょうけれど、それが「慣習なきキリスト教社会の産物」であるとはとりあえず言えるでしょう。慣習という理屈抜きの根っこ=人倫感覚のない言説は極端に走りがちになりますね。

この、アメリカは「慣習なきキリスト教社会」であるという視点が、本書からすっぽりと抜け落ちているように感じるのです。日本がいま直面している困難とキリスト教文化とのかかわり合いをめぐる議論がいまひとつパワー不足・切り込み不足、という印象を受けてしまうのは、ひとつはそのせいなのではないでしょうか。問題意識の焦点の解像度が今ひとつ鮮明ではないと言いましょうか。

いまの日本は、半ば以上勝手に自分からアメリカという「特殊な」キリスト教社会に呪縛されています。呪縛されていることのひとつの形が「20年来続いているデフレ不況問題である」と言っても過言ではないでしょう。だからと言って、反米的な言説を繰り広げてみたとしても、それはガス抜き以外のなんの意味もありません。

本書に対して、ないものねだりをしても仕方がないのかもしれません。「ブーブーいうんだったら、てめえがやれ」と言われてしまえば一言もないからです。

話を移しましょう。

パワー・エリートに、国民主権に対する深い理解がなく、浅薄な特権意識の呪縛から自由ではないという問題について、本書は一定の鮮明な光を当てています。

「主権や国家の考え方はみな、神のアナロジー」という橋爪氏の言葉は、言われてみればもっともです。「主権」の原義は「無上の権利」です。それを担いうる存在は究極的には神のみである、という考え方は、一神教の伝統のない日本人にも理解不能ではありません。

その理解を是とすると、「国家主権」さらには「国民主権」などという言葉の奇妙さが際立つのではないでしょうか。神の被造物にすぎない人間や人間の作り物が神の専有物を担うという考え方は、神への冒涜以外の何物でもありません。この近代人の救いがたいヒュブリス(傲慢さ)は何に由来するのでしょうか。(私は別に怒っているのではありません。思考の理路に従っているだけです)

大澤氏によれば、そこには「宗教色を脱した概念自体が、実はキリスト教という宗教の産物」であるという、キリスト教文化の逆説がある、という言い方になります。つまり、外見上の大文字の無神論としての近代は、実はキリスト教という一神教の産物である。

これをもっと分かりやすく噛み砕いて見せてくれているのが橋爪氏です。引用しましょう。

一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて、人間がいちばん偉い。人間が神を信仰し、服従することは大事ですけれども、神がつくったこの世界に対して、人間の主権があるんですね。ほんとうは神の主権があるんですけど、それが人間にゆだねられている。スチュワードシップというのですが、空家になった地球を人間が管理・監督する権限があるんです。(中略)世界は神が作ったのだけれども、そのあとは、ただのモノです。ただのモノである世界の中心で、人間が理性をもっている。この認識から自然科学が始まる。こんな認識が成立するのはめったにないことなんです。だから、キリスト教徒、それも特に敬虔なキリスト教徒が、優秀な自然科学者になる。

橋爪氏は、ここでとても興味深いことを言っています。キリスト教の深い信仰のど真ん中から、神の代理人としての人間、すなわち無神論者が生まれるというのです。そうして、その無神論者が神の専有物である主権を担う。神の下の平等が、神の不在における平等になる。聖霊のはたらきによって、公会議における人間が集まって下した教義上の結論が解釈を超えたものになったように、国会における決議が全体意思を超えた一般意思となる。

キリスト教の伝統の流れの中にある西欧のパワー・エリートたちにとっては、主権や平等思想や一般意思などという近代政治思想のキー・ワードをめぐる深いニュアンスは、おそらく暗黙の前提なのでしょう。異なる伝統の流れの中にある日本のパワー・エリートがそれをよく理解できないのは、むしろ当然のことなのかもしれません。事実、彼らが民主主義の理念に触れるとき、なんだか幼稚な印象を受けることが多いですね。

しかしながら、(これが今回の最後のお話です)見よう見真似の近代化であったにしろ、そのお陰で日本は、中国に抜かれたとは言えGDP世界第三位の大国になり、環境問題対策では世界のトップを切り、法治国家としての落ち着いた秩序が確立されていることは、世界が認めるところです。よっぽどのへそ曲がりでもない限り、日本はまがい物の近代化をしたのだから、その果実もまがい物である、とは言い難いでしょう。現実は現実なのですから。完璧だとはもちろん言いませんよ。不完全な存在としての人間がこしらえたものなのだから、不完全なところがあるのは当然のことです。

つまり、西欧発の近代ではあったのですが、それが世界中に広がり、それぞれの国や民族の広い意味での文化によってアレンジをほどこされ、そのことで独自の発展を遂げてきたという側面が歴史として無視しえないところまで来ていることを私は強調したいところがあるのです。

もちろん、国や民族の数だけの近代化や資本主義があるという側面が、国際的な混乱をもたらすのも確かなことでしょう。その場合、原点を確かめる意味で、そもそも近代とはどういうものであったのかを考察し、それを押さえておくことは意味があるとは思います。

しかし、他方では西欧型の純粋の近代がその核にもつ純粋な無神論(人間が神に成り代わること)は、自ずから人間論的な限界があることは明らかです。

橋爪氏が指摘しているように、近代化を経てもなお、この世界のあらゆるものにその数だけの神を感じる神道的な感性を保存している日本人は、西欧的な基準からすれば、決して無神論者になりえません。それは、橋爪氏が言う通り弱点にもなりえますが、西欧近代の無神論がもたらすニヒリズムを緩和する可能性もあるのではないでしょうか。

これを哲学の分野に移し替えると、どうなるか。キリスト教的な感性からすれば、神が不在となった世界という「空家」=客観のなかで、主権者となった人間は主観に押し込められることになります。近代西欧哲学を根のところで規定してきた主観・客観の二分法が、キリスト教的な感性に基づく思考の枠組みであることが分かりますね。

それに対して、この世界のあらゆるものにその数だけの神を感じる神道的な感性にとって、主観からくっきりと区別された客観は存在しないし、逆に、客観からくっきりと区別された主観も存在しません。そこに、主観と客観とが交流する形容詞的世界が像を結ぶことになりますね。

この世界像は、私見によれば、主観・客観の二分法による世界像に重大な変更を迫る起爆力が、さらには破壊力さえもがあります。

弱点と可能性。どちらに転ぶか。要は、自らの歴史的感性に対する自己認識の明晰さの程度によるのではないかと私は考えます。
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