『コーラン』で、イエス・キリストはどのように描かれているか (美津島明)
http://manga.world.coocan.jp/quran.html「コーランから見た聖書」から転載させていただきました
*以下、『コーラン』からの引用が相当数ありますが、章のみ明記し、節までは示していません。読む上での煩わしさを軽減するためです。悪しからず。
先日ある読書会で井筒俊彦『「コーラン」を読む』(岩波現代文庫)を読む機会を得ました。ISISをめぐる一連の報道に接して、少しくらいはイスラム社会のことを知っておかなければちょっとまずいだろうという思いが参加者の間で一致した、ということです。
ほかの参加者はどうだか分かりませんが、私はこれまで(恥ずかしながら)イスラム教やイスラム社会についてまともに考えたことがありませんでした。だから、イスラム世界についてほとんど知識がない者でも、抵抗なく読み進めることができて、しかも、中身が充実している本書はとても有難かった。そう思います。
『コーラン』についていくつか興味を抱いた点がありました。特に、イエス・キリストがどのように描かれているのか知りたいという気持ちがとても強くなりました。『新約聖書』については、以前から人並み以上の関心がありましたし、結構がっぷり四つでそれと取り組んだ経験がないわけではなかったからです。井筒氏によれば、『コーラン』は、イエス・キリストにたびたび触れていて、神の子などではもとよりなく、単なる預言者のひとりとして登場しているそうなのです。
それで早速、岩波文庫の『コーラン』(上・中・下三冊。井筒俊彦訳)を手に入れて、インターネットの情報を頼りに、該当箇所に一通り目を通してみたのです。以下は、そのご報告です。
『コーラン』のなかで、いちばんまとまった形でイエス・キリストが取り上げられているもののひとつは、第19章「マルヤム(聖母マリア)」です。まずは、それに触れましょう。
第19章は、ほかの章と同じく「慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において」という決まり文句で始まっています。井筒氏によれば、この決まり文句にはとても深い意味があります。まず、「慈愛あまねき」はラフマーンを訳したもので、「慈悲ふかく」はラヒームです。ラフマーンという名の慈悲心は、無償の慈悲であり、こちらの側に特段のそれに値する事情がないのに、神が慈悲をかけてくださる場合なのです。言いかえれば、存在の広がりが、すなわち神の慈悲の広がりである、という考え方がなされている。神が慈悲を示す、それがすなわち神が世界を創造するということ。この慈悲は、何物をも差別しない。善きものも悪いものも、美しいものも醜いものも、人間も虫けらも、みな等しく創り出される。森羅万象が神の慈悲の現れなのですね。これがラフマーンで、そういう意味合いが「慈愛あまねく」には込められています。井筒氏によれば、菩薩の慈悲心に近いものとイメージして大過がないようです。
それに対して、「慈悲ふかく」と訳されたラヒームは、無償ではなくて、何か慈悲に値することが人間の側にあって、それに対して与えられる慈悲なのです。慈悲をかけられる側は、それに値する状態であることが義務となる。それに対応して、慈悲をかける側は、慈悲をかけられる状態にある人間に対して、当然慈悲をかけるべき義務を負う。人間が神に対して義務を負うのと対応して、神も人間に対して義務を負う。それが、神と人間との間の契約としての信仰という考え方や、イスラム教における商人的性格という特徴につながることになります。もちろん、神と人間との間の契約としての信仰という考え方は、『コーラン』のみならず『旧約聖書』にも見られます。というか、イスラム教は契約という考え方をユダヤ教から引き継いだ、というのが真相ではないかと思われます。また、ラヒームは、終末論的ヴィジョンにおける神の審判によって、信仰篤き者たちに天国行きが約束されることともつながりがあるでしょう。終末論的ヴィジョンについては後ほど触れましょう。
次に、「アッラーの御名において」の文言について。ここは原語では、「ビスミッラー」と発音されます。イスラム教徒は、衿を正して物を言うとき冒頭で「ビスミッラー」と言うそうです。いい加減な言葉のやり取りや行為の世界を離れて、厳粛な宗教的世界にこれから入っていくよ、ということですね。
井筒氏によれば、「アッラー」を、その原義を織りこんだ上で英訳すると「the God」となり、ユダヤ教の「ヤハウェー」に該当します。ユダヤ教徒は、『旧約聖書』を読誦する場合、これを絶対口に出しません。それを発音する代わりに「お名前」という意味に当たる言葉を発します。神の名をダイレクトに口に出すなんて、恐ろしくてとんでもないこと、というわけです。日本にもかつてこういう感性はありましたね。例えば、源義経を「九郎殿」と呼んで、本名を口に出すのをはばかったなどという話が思い出されます。
しかるに、イスラームでは、神の名はタブーではありません。タブーどころか、「アッラー」をはじめとして、九十九の神の名を事あるごとに口に出すことにこそ、深い宗教的意義を認めようとするのです。そこがユダヤ教やキリスト教とは決定的に違いますね。日本の伝統的感性とも違うのかもしれません。
いまイスラム教では神の名が九十九ある、という意味のことを言いました。井筒氏によれば、それらは、ジャマール系統とジャラー系統に大別されます。ジャマール系は、「美しさ」「やさしさ」「愛」「慈悲」など、親しみやすい性質を表します。それに対して、ジャラール系は、「恐ろしさ」「怒り」「復讐」など、神の暗い面を表します。そうして、その名はいわゆる名詞に限られません。だから、先ほど出てきたラフーマン(慈悲あまねき)やラヒーム(慈悲ふかく)も神の名なのです。むろんそれらは、ジャマール系の神の名です。
私は自分が知ったことをすぐに他人様に伝えたがる性分のようですので、まだいろいろと申し上げたいことがありますが、こんなことをいつまでもやっていると、〈『コーラン』で、イエス・キリストはどのように描かれているか〉という当面のテーマになかなかたどり着けなくなってしまいそうなので、これくらいにしておきます。
その次に、「カーフ・ハー・ヤー・アィン・サード」という五つのアラビア文字が並んでいます。注もなにもないので、よく分かりませんが、神秘的なおまじないみたいなものなのでしょうか。
この章の冒頭は、アッラーとザカリーヤーとの問答によって進められます。ザカリーヤーとは、『新約聖書』所収の「ルカ伝」において、ヨハネの父として登場する人物で、そこでは「ザカリヤ」と表記されています。ヨハネはイエス・キリストにヨルダン川で洗礼を授けた預言者。十二人の使徒のなかの一人であるヨハネとは別人物です。
ザカリーヤーは、アッラーに、年老いた自分に世継ぎを授けてくださるよう喚(よ)びかけます。すると、アッラーはそれに「喜べよ、汝に息子が生まれるであろう。その名はヤフヤー(ヨハネ)」と応えます。生まれたヨハネは、アッラーから叡智と無垢の心とを授けられ、敬虔で親孝行な息子として成長します。
そこで話は突然マルヤム(聖母マリア)のことに移ります(もしかしたら、マリアがザカリアの妻と親戚であるという「ルカ伝」の記述を踏まえているのかもしれませんが)。ここからは、物語風に話が進みます。設定はよくわかりませんが、アッラーの独り言と申しあげたらいいのでしょうか。形式的には、聴いているのはモハメットということになるのでしょうが、神がかり的な迫力はあまり感じられません。
マルヤムが家族と別れて東側の場所(聖殿の東側、または、家の東側)に引き籠もり、ベールをつけてみなに顔を見られないようにしたとき(古解釈によれば月経時のもの忌みのこと、だそうです)、聖霊(天使ガブリエル)が、たくましい男の姿になって彼女の前に現れます。彼女に無垢な息子を授けるために主のお使いとして参上したのです。マルヤムは、おそらくびっくりして「なんで私に息子などできましょう。私は男に触れられたことのないからだ。淫らな心も持っていません」と言います。天使ガブリエルは、それを受けて「主は、〈わしにとってはいとやすいこと。それに、その子(マリアの産む子)をぜひ人間への神兆とも、またわが慈悲の現れともしたい。とにかくもうこれは決まったこと〉と言っている」と応えます。こうしてマルヤムは身籠り、人目を避けて引き籠ります。
『コーラン』は、『新約聖書』におけるマリアの処女懐妊神話を引き継いでいるのですね。そういえば聖母マリアは、『コーラン』のなかでただひとりその名が章の題名になっている女性だそうです。内容的にも、彼女ほど大きく取り上げられた女性はほかにいないそうです。では、次に進みます。
やがて陣痛が起こり、マルヤムが、そのあまりの苦しさに耐え兼ねていると、地下から次のような声がしました。「そう悲しまないで。神様が貴女の足もとに小川をおいてくださいました。それからあなたが寄りかかっている椰子の木を揺すぶってごらんなさい。みずみずしい採りごろの実がばらばらと落ちてきます。さあ、食べて飲んで、ご機嫌を直してください。それでもし万が一、誰か人間に遭うようなことがあったら、『私は、お情け深い神様に無言をお誓い申しておりますので、今日はどなたにもお話できませぬ』と断っておきなさい」。
ここで場面は、変わります。マルヤムが産んだ赤子を伴って一族の人々のところにやってきます。イエスはすでに生まれているのです。人々はびっくりして言います。「これ、マルヤム、そなたはなんという大変なことをしでかしたのじゃ。ハールーン(モーセの兄アロン)の姉よ(聖母マリアのことを指しています。どうして聖母マリアが「アロンの姉」なのかわからない、と注でも言われています。普通は、『旧約聖書』に出てくるモーセの姉ミリヤムをマリアと混同したのだろうと言われるそうですが、それも定説というわけではなさそうです)、お前のお父さんは悪い人ではなかったし、母さんだって淫らな女ではなかったのに」。
マルヤムは、子どもを指さして、「この子に直接聞いてください」という身振りを示します。一同は、「まだ揺籃の中にいる赤ん坊とどうして話などできるものか」と言います。もっともなことです。しかし、ここで奇蹟が起こります。
その赤ん坊、すなわちイエス・キリストが口を開くのです。「私はアッラーの僕(しもべ)です。アッラーは私に啓典を授け、私を預言者にして下さいました。そして、どこにいようとも私は祝福された身にしていただいたのです。また命あるかぎり、礼拝と喜捨のつとめをかかさぬように、との御いましめをいただきました。それから、母さんにはよく孝行をつくすように、と。私を生意気な、情けない人間にはなさいませんでした。ああ祝福されたわが身よ、私の生まれた日に、やがて死に逝く日に、そしてまた生きかえって召される日に」。
イエス・キリストは神の子、というキリスト教の主張に対して、『コーラン』は、もともとアッラーにお子ができたりするわけがない、何事でも、こうとお決めになったら、「在れ」と仰るだけでそうなるほどのお方ではないか、と正面から否定します。イエス・キリストは、アブラハムに始まりモハメットに終わる預言者の系列の一人であって、それ以上でもそれ以下でもない、ましてや、神や、神の子であるはずがない、というのが『コーラン』の立場なのです。
ここで気になるのは、『コーラン』において、預言者とはなにかということです。第22章「預言者」には、彼らは啓示を受けただけのことであって、ただの人間にすぎないと明記されています。そこに預言者として名が挙げられているのは、ムハマンド、ムーサー(モーセ)、ハールーン(アロン)、イブラヒーム(アブラハム)、ルート(ロト)、イスハーク(イサク)、ヤアクーブ(ヤコブ)、ヌーフ(ノア)、ダーウド(ダビデ)、スライマーン(ソロモン)、アィユーブ(ヨブ)などで、彼らとともに「陰部(ほと)を堅く防ぎ通したあの女」すなわちマリアの「息子」すなわちイエス・キリストが挙げられています。
ここで、いささか当論考の主題とはずれることになってしまいますけれど、『コーラン』によれば最後にして最大の預言者モハメットとその他の預言者の違いについて触れておきましょう。これは、ユダヤ教・キリスト教とイスラム教における預言者の異同と言いかえることができるでしょう。
井筒氏によれば、『旧約聖書』の預言者と、イスラムの預言者とは、同じセム民族のセム的宗教精神の現象であって、多くの点で同性質、同傾向であると言い得るのですが、根本的に異なるところは、未来の歴史的事件を予言するかしないかという点にあります。『旧約聖書』の預言者たちは、イエス・キリストを含めて、イスラエルという国がこれからどうなるだろうとか、エルサレムの神殿がいつ、誰によって、どうやって、何が原因で破壊されるのかとか、あるいは、ユダヤ人はいつどうやってバビロンに連れていかれるのかとか、そういう歴史的事件を予見し、予言します。それに対して、モハメットの場合、未来に関する予言は一切ありません。アラビアが今後どうなるだろうとか、メッカの神殿は破壊されるだろうとか、そういう歴史的事件を、モハメットは一切予言しないのです。未来に起こるべきことを予言しないし、またしようと思ってもできないとモハメットは公言してもいるのです。未来はただ神のみぞ知り給う、と。そのことと関連して、『旧約聖書』の預言者においては第二次的であった倫理的現実批判が、『コーラン』の預言者においては顕著となります。
では、『コーラン』において顕著に見られる終末論的ヴィジョンは予言ではないのか、という疑問が湧いてきますね。それに対して、井筒氏は、次のように答えます。すなわち、〈世界の終末というのは、現実の歴史的事実の予言ではない。エルサレムが何月何日に陥落して、ユダヤ人がバビロンにいつ連れていかれるかというような歴史的事実の予言とはまったく性質が違う。人間が墓から呼び出されて、審きの庭に引き出され、地獄や天国に行くだろうなどということは、いくらヴィジョンがはっきりしていても、それは歴史的事件の予言ではなくて、超歴史的な事件の描写である〉というふうに。これで納得がいくかと問われれば、いささか小首をかしげるところがないわけではないのですが、では、お前はどう考えるのだと言われれば、いまのところ引き下がるよりほかはないので、井筒氏の見解を紹介するにとどめておきましょう。
話を元に戻します。『コーラン』から、イエス・キリストについて触れている箇所をほかのところからピックアップしてみましょう。
第3章「イスラーン一家」も、イエス・キリストについてけっこうまとめて取り上げています。そこでイエスは、イーサーと呼ばれています。第19章と重なるところはなるべく省きましょう。天使らは、マルヤム(聖母マリア)に次のように告げます。「お前は、神から発する御言葉を産みまつるであろう。その名はメシア。マルヤムの子イーサー。その御方は現世にても来世にても高きほまれを受け、神のお傍近き座につかれるであろう。揺籃の中にあっても、また成人してからも人々に語りかけ、義(ただ)しき人となられるであろう」。また、「神はその子に聖典と聖智と律法と福音とをお教えになり、イスラエルの子らのもとに使徒としてお遣わしになるであろうぞ」とも告げます。人でありながら、「神のお傍近き座につかれる」というのですから、イエスはここではかなり破格の丁重な扱いを受けていると言っていいでしょう。
その次に唐突に、次のようなイエスの言葉が出てきます。「さあ、わしはこうしてお前たちのところへ主のお徴(しるし)を持ってやって来た。お前たちの目の前で、泥で鳥の形を作り、それに息を吹き込めば、アッラーのお許しで、たちまちそれは一羽の鳥になるだろう。また、盲者や癩患者を癒(なお)し、アッラーのお許しがあれば死者を蘇らせもしよう。お前がどんな物を食べているか、また家の中にどんなものを貯めこんでいるのかも言い当てて見せよう。これこそお前らのために下された神の御(み)しるし、もしお前らに信仰があるならば」。
ここから読み取ることができるのは、『新約聖書』に記されたイエスの数々の奇蹟は、人間イエスが神の許しを得て信仰篤き人々に示した神の徴(しるし)なのであって、神の子であるがゆえになしえたことなのではない、という『コーラン』の主張です。イエスの言葉はさらに続きます。「わしはまた、わしの前に下された律法を確証し(「ユダヤ教の律法(トーラー)も福音と同じく唯一なる天地創造の神アッラーの啓示によるものであることを確証し」と注があります)、かつまたこれまでお前たちに宗教上禁じられていたことの一部を解禁してもやろう。わしはほかならぬお前たちの神様の神兆を持ってお前たちのところへ来た者。だからお前たちもアッラーを畏れかしこみ、わしの言いつけに従うがよい。まことにアッラーはわしの神でもあればまたお前たちの神でもあるのだぞ。だからアッラーをあがめまつれ。それこそ正しい道であるぞ」。
イエスが、自分ではなく唯一絶対の神アッラーをひたすらあがめまつるべきであると言っていると、くどいほどに強調しているのです。それに続く言葉は、イエスのみならず十二人の使徒もまたアッラーをひたすらあがめまつると言っているのだ、とされるのは次のとおりです。
イエスが「このわしを助けてアッラーにつかえまつる者はおらぬか」と訊ねると、十二人の使徒たちは、「私どもはアッラーの味方になります。私どもはアッラーを信じます故に、どうか私どもの恭順の証人となってください。主よ、私どもは汝の下し給うたものを信じ、汝の遣わし給うたこの人に従います。なにとぞ私どもを汝の神性の証人たちの列に加え給え」と答えます。イエスのみならず十二人の使徒もアッラーの僕(しもべ)であることを受け入れている、と言っているのです。十二人の使徒がイエスに従うのは、イエスが神の子であるがゆえではなくて、アッラーが遣わした人であるからである、と彼らに言わしめているのですね。
その後に、アッラーはイエスに語りかけます。「これイーサー(イエス)、わしは汝を召し寄せてわがもとまで高く昇らせ、無信仰のやからのけがれから汝を浄(きよ)めてやろうと思う。また汝の後に従って来た者どもは、復活のその日まで無信仰のやからより高いところに置いてやろう。そしていよいよ復活の時が来たら、汝らはみなわしのところに連れて来られるのだぞ。汝らがいまそうして論争している問題についても、その時わしがみんな裁いてやろうぞ。信仰なき者どもは、この世でもまたあの世でも、わしが恐ろしい罰で罰してやろう。誰一人あの者どもを助けてくれるものはあるまいぞ」。
『コーラン』において、終末論的なヴィジョンが鮮やかに描かれていることは先ほど申し上げました。ここで、終末論的なヴィジョンとは、「天地が終わるときの状態」と「死者の復活」と「神の審判」とから成るものです。「天地が終わるときの状態」の描写は、次のようなものです。
どんどんと戸を叩く、何事ぞ、戸を叩く。(迫り来る終末の時の不気味さを象徴しています)
戸を叩く音、その何事ぞとはなんで知る。(〈その何事ぞとはなんで知る〉はシャーマンの決まり文句)
人々あたかも飛び散る蛾のごとく散らされる日。
山々あたかも毟(むし)られた羊毛のごとく成る日。(第101章 戸を叩く音 より)
あるいは、
大空が真二つに割れて、畏れかしこみ主の御言葉に耳傾ける時、
大地が平らに伸び、その中のもの全部吐き出し空(から)になって、
畏れかしこみ主の御言葉に耳傾ける時。 (第84章 真二つ より)
というのもその光景でしょう。とはいうものの「その中のもの全部吐き出し空(から)になって」とあるのは、すでに復活が始まっていることを示しています。実はこのように、「天地が終わるときの状態」と「死者の復活」と「神の審判」とは別々なものではなくて、意味の連関としても、イマージュとしても有機的な統一体を成し、連鎖しているものなのです。そのことを鮮やかに示しているのが、第81章「巻きつける」です。
(1) 太陽が暗黒でぐるぐる巻きにされる時、
(頭にターバンをぐるぐる巻きつけるように太陽に暗黒が巻きつけられて光を失うとき)
(2) 星々が落ちる時、
(3) 山々が飛び散る時、
(4) 産み月近い駱駝を見かえる人もなくなる時、
(「産み月近い駱駝」はアラビア人にとってこの上なく貴重なもの)
(5) 野獣ら続々と集い来る時、
(恐怖のあまり、動物たちが一箇所に集まってくる、という意味)
(6) 海洋(わたつみ)ふつふつと煮えたぎる時、
(7) 魂ことごとく組み合わされる時、
(復活のときに、いままで離れていた魂が肉体とまた組み合うことを指している)
(8) 生埋(いきうめ)の嬰児(みどりご)が、
(古代アラビアでは女の子が生まれるとそのまま生埋めにする風習があった)
(9) なんの罪あって殺された、と訊かれる時、
(10)帳簿がさっと開かれる時、
(「帳簿」とは、各人の行為が詳細に記されている天の帳簿)
(11)天がめりめり剥ぎ取られる時、
(12)地獄がかっと焚かれる時、
(13)天国がぐっと近づく時、
(14)その時こそどの魂も己が所業の結末を知る。
(1) から(6)までが終末の光景。(7)が復活の光景。(8)から(10)までが審判の日の光景。
(11)から(14)までが審判の結果としての賞罰です。このように、それらはひとつながりになっているのです。
「終末」と「復活」と「審判」について長々と述べたのは、『コーラン』において終末論のヴィジョンがいかに重要な位置を占めているのかを、いささかなりとも感じ取っていただきたかったからです。そのことを勘案すれば、先の「汝の後に従って来た者どもは、復活のその日まで無信仰のやからより高いところに置いてやろう」という文言が、『コーラン』において、キリスト教の十二人の使徒がいかに手厚く遇されているかを示しているのだということを、お分かりいただけるのではないでしょうか。つまり、イスラム教は最初からキリスト教に対して敵対的であったわけではないということです。そのことに私はいささかほっとするところがあります。私がほっとしてもしょうがないのでしょうけれど。
次は、第4章「女」から。ここでアッラーは、ユダヤ教徒を激しく非難します。同章によれば、ユダヤ教徒は、アッラーとの契約に違反し、アッラーの神兆を信じようとせず、預言者たちを理由なく殺害し、アッラーの言葉を軽んじ無視し続けました。『コーラン』は、ユダヤ教徒に対して、「実はアッラーがはじめから彼らには無信仰の刻印を捺して置き給うた」という強烈な言葉を投げつけます。その上で、次のように言います。
「『わしらは救世主(メシア)、神の使徒、マルヤム(聖母マリア)の子イーサー(イエス)を殺したぞ』などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと」と。その注に、〈回教ではイエスが十字架にかけられて死んだことをユダヤ人の嘘言として否定する。イエスでなくてイエスに似た男が殺されたにすぎない〉とあります。で、『コーラン』はこう続けます。「もともと啓典の中でこの点について論争している人々はイエスについて、本当に十字架にかけられたのかどうか疑問に思っている。彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけでないし、ただいいかげんに憶測しているだけのこと。いや、彼らは断じてイエスを殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍(そば)に引き上げ給うたのじゃ」。
もう少し続けましょう。「啓典の民(ここではキリスト教徒のこと)の中にはただの一人だに死ぬ前にイエスへの信仰を抱くようにならぬものはないであろう。やがて復活の日が来る時、彼はあの者ども(ユダヤ教徒)に不利な証人となるであろう」。
いかがでしょうか。ここでのアッラーは、ユダヤ教徒を激しく非難し、キリストやキリスト教徒の肩を持っているような印象があります。注には〈ユダヤ教徒、キリスト教徒に対する回教徒の態度は時期によって異なる。最初は両者に対する親愛と信頼。この期待はまずユダヤ教徒に裏切られ、憎悪に転ずるが、キリスト教徒は味方だと思っている。今のこの箇所はちょうどそういう時期に当たる。次にはユダヤ教徒もキリスト教徒もともに不倶戴天の敵となる〉とあります。「そういう時期」というのが具体的にいつのことを指すのかはっきりしませんが、とても参考になる注です。
しかし、イスラム教徒からこの時期に味方だと思われたキリスト教徒は、実のところ困惑していた、というか、はっきり言ってしまえば、迷惑千万と思っていたのではないでしょうか。というのは、キリスト教徒にとって、イエスが十字架に掛けられたことは、彼らの信仰の根幹を成す原罪意識を支える核心であり、また、そこからイエスの復活が導き出される決定的に重要な宗教的契機なのであるから、いくらユダヤ教徒を否定するためだとは言え、それを否定されることは到底甘受しえなかったと思われるからです。だから、キリスト教徒がイスラム教徒と決裂することは、その時期においてすでに決定されていたと申し上げても過言ではなかろうと思われます。先ほど私は「ほっとした」などと申し上げてしまいましたが、それは早計であったのかもしれません。
ではイスラム教が、キリスト教に対して否定的になった時期の文言を見てみましょう。第5章「食卓」からです。「『我々はナザレびと(キリスト教徒)じゃ』と自称する者どもと我ら(アッラー)は契約を結んだが、彼らは神から教えて戴いたものの一部をすっかり忘れてしまったので、我らは彼らの間に敵意と憎悪とをかき立てた。復活(よみがえり)のその日まで続く憎しみを。その日になったらアッラー御自ら、彼らがどんな悪事をはたらいて来たかを一々彼らに説明してきかせ給うであろう」
その注に、〈晩年においてはマホメットはユダヤ教徒ばかりでなくキリスト教徒をも公然の敵として宣言した〉とあるのは見逃せません。この時点で、その後のイスラム教とキリスト教との敵対関係・憎悪関係が決定づけられたと申し上げても過言ではないからです。むろん、その責めをイスラム教のみに帰するつもりはありません。詳しくは知りませんが、マホメットの対キリスト教観の変化をもたらしたそれなりの理由や不可避性があったのかもしれないからです。それを論じることは、いまの私の手に余ります。今後の宿題としましょう。
次の文言は、イスラム教徒のユダヤ教やキリスト教に対する憎悪を直截に表出したものです。第9章「改悛」からです。「『ウザイル(エズラ)は神の子』とユダヤ人は言い、『メシアは神の子』とキリスト教徒は言う。どうせ昔の無信仰者どもの口真似をして、あんなことを口先だけで言っているにすぎぬ。えい、いっそアッラーが彼らを一気に撃ち殺し給えばいいに。まことに、なんと邪曲(よこしま)な人々であることか。」 他宗教に対する憎悪をこれほど剥き出しにした文言は、私が記憶している限り、『旧約聖書』にも『新約聖書』にも見当たらないような気がします。続けましょう。「彼らは、アッラーをさし措いて、仲間のラビや修道士を主とあがめている。それからマルヤム(マリア)の息子メシアも。唯一なる御神をのみあがめよと、あれほど固く言いつけられているのに。アッラーのほかに神はないはず。ああ何たる恐れ多いことか。それをあのようなもの(偶像)と同列に置くとは」。ここには、憎悪の果ての永嘆さえ感じられような気がします。激越さの極北と申しましょうか。
だいぶ長くなりました。これで終わります。
http://manga.world.coocan.jp/quran.html「コーランから見た聖書」から転載させていただきました
*以下、『コーラン』からの引用が相当数ありますが、章のみ明記し、節までは示していません。読む上での煩わしさを軽減するためです。悪しからず。
先日ある読書会で井筒俊彦『「コーラン」を読む』(岩波現代文庫)を読む機会を得ました。ISISをめぐる一連の報道に接して、少しくらいはイスラム社会のことを知っておかなければちょっとまずいだろうという思いが参加者の間で一致した、ということです。
ほかの参加者はどうだか分かりませんが、私はこれまで(恥ずかしながら)イスラム教やイスラム社会についてまともに考えたことがありませんでした。だから、イスラム世界についてほとんど知識がない者でも、抵抗なく読み進めることができて、しかも、中身が充実している本書はとても有難かった。そう思います。
『コーラン』についていくつか興味を抱いた点がありました。特に、イエス・キリストがどのように描かれているのか知りたいという気持ちがとても強くなりました。『新約聖書』については、以前から人並み以上の関心がありましたし、結構がっぷり四つでそれと取り組んだ経験がないわけではなかったからです。井筒氏によれば、『コーラン』は、イエス・キリストにたびたび触れていて、神の子などではもとよりなく、単なる預言者のひとりとして登場しているそうなのです。
それで早速、岩波文庫の『コーラン』(上・中・下三冊。井筒俊彦訳)を手に入れて、インターネットの情報を頼りに、該当箇所に一通り目を通してみたのです。以下は、そのご報告です。
『コーラン』のなかで、いちばんまとまった形でイエス・キリストが取り上げられているもののひとつは、第19章「マルヤム(聖母マリア)」です。まずは、それに触れましょう。
第19章は、ほかの章と同じく「慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において」という決まり文句で始まっています。井筒氏によれば、この決まり文句にはとても深い意味があります。まず、「慈愛あまねき」はラフマーンを訳したもので、「慈悲ふかく」はラヒームです。ラフマーンという名の慈悲心は、無償の慈悲であり、こちらの側に特段のそれに値する事情がないのに、神が慈悲をかけてくださる場合なのです。言いかえれば、存在の広がりが、すなわち神の慈悲の広がりである、という考え方がなされている。神が慈悲を示す、それがすなわち神が世界を創造するということ。この慈悲は、何物をも差別しない。善きものも悪いものも、美しいものも醜いものも、人間も虫けらも、みな等しく創り出される。森羅万象が神の慈悲の現れなのですね。これがラフマーンで、そういう意味合いが「慈愛あまねく」には込められています。井筒氏によれば、菩薩の慈悲心に近いものとイメージして大過がないようです。
それに対して、「慈悲ふかく」と訳されたラヒームは、無償ではなくて、何か慈悲に値することが人間の側にあって、それに対して与えられる慈悲なのです。慈悲をかけられる側は、それに値する状態であることが義務となる。それに対応して、慈悲をかける側は、慈悲をかけられる状態にある人間に対して、当然慈悲をかけるべき義務を負う。人間が神に対して義務を負うのと対応して、神も人間に対して義務を負う。それが、神と人間との間の契約としての信仰という考え方や、イスラム教における商人的性格という特徴につながることになります。もちろん、神と人間との間の契約としての信仰という考え方は、『コーラン』のみならず『旧約聖書』にも見られます。というか、イスラム教は契約という考え方をユダヤ教から引き継いだ、というのが真相ではないかと思われます。また、ラヒームは、終末論的ヴィジョンにおける神の審判によって、信仰篤き者たちに天国行きが約束されることともつながりがあるでしょう。終末論的ヴィジョンについては後ほど触れましょう。
次に、「アッラーの御名において」の文言について。ここは原語では、「ビスミッラー」と発音されます。イスラム教徒は、衿を正して物を言うとき冒頭で「ビスミッラー」と言うそうです。いい加減な言葉のやり取りや行為の世界を離れて、厳粛な宗教的世界にこれから入っていくよ、ということですね。
井筒氏によれば、「アッラー」を、その原義を織りこんだ上で英訳すると「the God」となり、ユダヤ教の「ヤハウェー」に該当します。ユダヤ教徒は、『旧約聖書』を読誦する場合、これを絶対口に出しません。それを発音する代わりに「お名前」という意味に当たる言葉を発します。神の名をダイレクトに口に出すなんて、恐ろしくてとんでもないこと、というわけです。日本にもかつてこういう感性はありましたね。例えば、源義経を「九郎殿」と呼んで、本名を口に出すのをはばかったなどという話が思い出されます。
しかるに、イスラームでは、神の名はタブーではありません。タブーどころか、「アッラー」をはじめとして、九十九の神の名を事あるごとに口に出すことにこそ、深い宗教的意義を認めようとするのです。そこがユダヤ教やキリスト教とは決定的に違いますね。日本の伝統的感性とも違うのかもしれません。
いまイスラム教では神の名が九十九ある、という意味のことを言いました。井筒氏によれば、それらは、ジャマール系統とジャラー系統に大別されます。ジャマール系は、「美しさ」「やさしさ」「愛」「慈悲」など、親しみやすい性質を表します。それに対して、ジャラール系は、「恐ろしさ」「怒り」「復讐」など、神の暗い面を表します。そうして、その名はいわゆる名詞に限られません。だから、先ほど出てきたラフーマン(慈悲あまねき)やラヒーム(慈悲ふかく)も神の名なのです。むろんそれらは、ジャマール系の神の名です。
私は自分が知ったことをすぐに他人様に伝えたがる性分のようですので、まだいろいろと申し上げたいことがありますが、こんなことをいつまでもやっていると、〈『コーラン』で、イエス・キリストはどのように描かれているか〉という当面のテーマになかなかたどり着けなくなってしまいそうなので、これくらいにしておきます。
その次に、「カーフ・ハー・ヤー・アィン・サード」という五つのアラビア文字が並んでいます。注もなにもないので、よく分かりませんが、神秘的なおまじないみたいなものなのでしょうか。
この章の冒頭は、アッラーとザカリーヤーとの問答によって進められます。ザカリーヤーとは、『新約聖書』所収の「ルカ伝」において、ヨハネの父として登場する人物で、そこでは「ザカリヤ」と表記されています。ヨハネはイエス・キリストにヨルダン川で洗礼を授けた預言者。十二人の使徒のなかの一人であるヨハネとは別人物です。
ザカリーヤーは、アッラーに、年老いた自分に世継ぎを授けてくださるよう喚(よ)びかけます。すると、アッラーはそれに「喜べよ、汝に息子が生まれるであろう。その名はヤフヤー(ヨハネ)」と応えます。生まれたヨハネは、アッラーから叡智と無垢の心とを授けられ、敬虔で親孝行な息子として成長します。
そこで話は突然マルヤム(聖母マリア)のことに移ります(もしかしたら、マリアがザカリアの妻と親戚であるという「ルカ伝」の記述を踏まえているのかもしれませんが)。ここからは、物語風に話が進みます。設定はよくわかりませんが、アッラーの独り言と申しあげたらいいのでしょうか。形式的には、聴いているのはモハメットということになるのでしょうが、神がかり的な迫力はあまり感じられません。
マルヤムが家族と別れて東側の場所(聖殿の東側、または、家の東側)に引き籠もり、ベールをつけてみなに顔を見られないようにしたとき(古解釈によれば月経時のもの忌みのこと、だそうです)、聖霊(天使ガブリエル)が、たくましい男の姿になって彼女の前に現れます。彼女に無垢な息子を授けるために主のお使いとして参上したのです。マルヤムは、おそらくびっくりして「なんで私に息子などできましょう。私は男に触れられたことのないからだ。淫らな心も持っていません」と言います。天使ガブリエルは、それを受けて「主は、〈わしにとってはいとやすいこと。それに、その子(マリアの産む子)をぜひ人間への神兆とも、またわが慈悲の現れともしたい。とにかくもうこれは決まったこと〉と言っている」と応えます。こうしてマルヤムは身籠り、人目を避けて引き籠ります。
『コーラン』は、『新約聖書』におけるマリアの処女懐妊神話を引き継いでいるのですね。そういえば聖母マリアは、『コーラン』のなかでただひとりその名が章の題名になっている女性だそうです。内容的にも、彼女ほど大きく取り上げられた女性はほかにいないそうです。では、次に進みます。
やがて陣痛が起こり、マルヤムが、そのあまりの苦しさに耐え兼ねていると、地下から次のような声がしました。「そう悲しまないで。神様が貴女の足もとに小川をおいてくださいました。それからあなたが寄りかかっている椰子の木を揺すぶってごらんなさい。みずみずしい採りごろの実がばらばらと落ちてきます。さあ、食べて飲んで、ご機嫌を直してください。それでもし万が一、誰か人間に遭うようなことがあったら、『私は、お情け深い神様に無言をお誓い申しておりますので、今日はどなたにもお話できませぬ』と断っておきなさい」。
ここで場面は、変わります。マルヤムが産んだ赤子を伴って一族の人々のところにやってきます。イエスはすでに生まれているのです。人々はびっくりして言います。「これ、マルヤム、そなたはなんという大変なことをしでかしたのじゃ。ハールーン(モーセの兄アロン)の姉よ(聖母マリアのことを指しています。どうして聖母マリアが「アロンの姉」なのかわからない、と注でも言われています。普通は、『旧約聖書』に出てくるモーセの姉ミリヤムをマリアと混同したのだろうと言われるそうですが、それも定説というわけではなさそうです)、お前のお父さんは悪い人ではなかったし、母さんだって淫らな女ではなかったのに」。
マルヤムは、子どもを指さして、「この子に直接聞いてください」という身振りを示します。一同は、「まだ揺籃の中にいる赤ん坊とどうして話などできるものか」と言います。もっともなことです。しかし、ここで奇蹟が起こります。
その赤ん坊、すなわちイエス・キリストが口を開くのです。「私はアッラーの僕(しもべ)です。アッラーは私に啓典を授け、私を預言者にして下さいました。そして、どこにいようとも私は祝福された身にしていただいたのです。また命あるかぎり、礼拝と喜捨のつとめをかかさぬように、との御いましめをいただきました。それから、母さんにはよく孝行をつくすように、と。私を生意気な、情けない人間にはなさいませんでした。ああ祝福されたわが身よ、私の生まれた日に、やがて死に逝く日に、そしてまた生きかえって召される日に」。
イエス・キリストは神の子、というキリスト教の主張に対して、『コーラン』は、もともとアッラーにお子ができたりするわけがない、何事でも、こうとお決めになったら、「在れ」と仰るだけでそうなるほどのお方ではないか、と正面から否定します。イエス・キリストは、アブラハムに始まりモハメットに終わる預言者の系列の一人であって、それ以上でもそれ以下でもない、ましてや、神や、神の子であるはずがない、というのが『コーラン』の立場なのです。
ここで気になるのは、『コーラン』において、預言者とはなにかということです。第22章「預言者」には、彼らは啓示を受けただけのことであって、ただの人間にすぎないと明記されています。そこに預言者として名が挙げられているのは、ムハマンド、ムーサー(モーセ)、ハールーン(アロン)、イブラヒーム(アブラハム)、ルート(ロト)、イスハーク(イサク)、ヤアクーブ(ヤコブ)、ヌーフ(ノア)、ダーウド(ダビデ)、スライマーン(ソロモン)、アィユーブ(ヨブ)などで、彼らとともに「陰部(ほと)を堅く防ぎ通したあの女」すなわちマリアの「息子」すなわちイエス・キリストが挙げられています。
ここで、いささか当論考の主題とはずれることになってしまいますけれど、『コーラン』によれば最後にして最大の預言者モハメットとその他の預言者の違いについて触れておきましょう。これは、ユダヤ教・キリスト教とイスラム教における預言者の異同と言いかえることができるでしょう。
井筒氏によれば、『旧約聖書』の預言者と、イスラムの預言者とは、同じセム民族のセム的宗教精神の現象であって、多くの点で同性質、同傾向であると言い得るのですが、根本的に異なるところは、未来の歴史的事件を予言するかしないかという点にあります。『旧約聖書』の預言者たちは、イエス・キリストを含めて、イスラエルという国がこれからどうなるだろうとか、エルサレムの神殿がいつ、誰によって、どうやって、何が原因で破壊されるのかとか、あるいは、ユダヤ人はいつどうやってバビロンに連れていかれるのかとか、そういう歴史的事件を予見し、予言します。それに対して、モハメットの場合、未来に関する予言は一切ありません。アラビアが今後どうなるだろうとか、メッカの神殿は破壊されるだろうとか、そういう歴史的事件を、モハメットは一切予言しないのです。未来に起こるべきことを予言しないし、またしようと思ってもできないとモハメットは公言してもいるのです。未来はただ神のみぞ知り給う、と。そのことと関連して、『旧約聖書』の預言者においては第二次的であった倫理的現実批判が、『コーラン』の預言者においては顕著となります。
では、『コーラン』において顕著に見られる終末論的ヴィジョンは予言ではないのか、という疑問が湧いてきますね。それに対して、井筒氏は、次のように答えます。すなわち、〈世界の終末というのは、現実の歴史的事実の予言ではない。エルサレムが何月何日に陥落して、ユダヤ人がバビロンにいつ連れていかれるかというような歴史的事実の予言とはまったく性質が違う。人間が墓から呼び出されて、審きの庭に引き出され、地獄や天国に行くだろうなどということは、いくらヴィジョンがはっきりしていても、それは歴史的事件の予言ではなくて、超歴史的な事件の描写である〉というふうに。これで納得がいくかと問われれば、いささか小首をかしげるところがないわけではないのですが、では、お前はどう考えるのだと言われれば、いまのところ引き下がるよりほかはないので、井筒氏の見解を紹介するにとどめておきましょう。
話を元に戻します。『コーラン』から、イエス・キリストについて触れている箇所をほかのところからピックアップしてみましょう。
第3章「イスラーン一家」も、イエス・キリストについてけっこうまとめて取り上げています。そこでイエスは、イーサーと呼ばれています。第19章と重なるところはなるべく省きましょう。天使らは、マルヤム(聖母マリア)に次のように告げます。「お前は、神から発する御言葉を産みまつるであろう。その名はメシア。マルヤムの子イーサー。その御方は現世にても来世にても高きほまれを受け、神のお傍近き座につかれるであろう。揺籃の中にあっても、また成人してからも人々に語りかけ、義(ただ)しき人となられるであろう」。また、「神はその子に聖典と聖智と律法と福音とをお教えになり、イスラエルの子らのもとに使徒としてお遣わしになるであろうぞ」とも告げます。人でありながら、「神のお傍近き座につかれる」というのですから、イエスはここではかなり破格の丁重な扱いを受けていると言っていいでしょう。
その次に唐突に、次のようなイエスの言葉が出てきます。「さあ、わしはこうしてお前たちのところへ主のお徴(しるし)を持ってやって来た。お前たちの目の前で、泥で鳥の形を作り、それに息を吹き込めば、アッラーのお許しで、たちまちそれは一羽の鳥になるだろう。また、盲者や癩患者を癒(なお)し、アッラーのお許しがあれば死者を蘇らせもしよう。お前がどんな物を食べているか、また家の中にどんなものを貯めこんでいるのかも言い当てて見せよう。これこそお前らのために下された神の御(み)しるし、もしお前らに信仰があるならば」。
ここから読み取ることができるのは、『新約聖書』に記されたイエスの数々の奇蹟は、人間イエスが神の許しを得て信仰篤き人々に示した神の徴(しるし)なのであって、神の子であるがゆえになしえたことなのではない、という『コーラン』の主張です。イエスの言葉はさらに続きます。「わしはまた、わしの前に下された律法を確証し(「ユダヤ教の律法(トーラー)も福音と同じく唯一なる天地創造の神アッラーの啓示によるものであることを確証し」と注があります)、かつまたこれまでお前たちに宗教上禁じられていたことの一部を解禁してもやろう。わしはほかならぬお前たちの神様の神兆を持ってお前たちのところへ来た者。だからお前たちもアッラーを畏れかしこみ、わしの言いつけに従うがよい。まことにアッラーはわしの神でもあればまたお前たちの神でもあるのだぞ。だからアッラーをあがめまつれ。それこそ正しい道であるぞ」。
イエスが、自分ではなく唯一絶対の神アッラーをひたすらあがめまつるべきであると言っていると、くどいほどに強調しているのです。それに続く言葉は、イエスのみならず十二人の使徒もまたアッラーをひたすらあがめまつると言っているのだ、とされるのは次のとおりです。
イエスが「このわしを助けてアッラーにつかえまつる者はおらぬか」と訊ねると、十二人の使徒たちは、「私どもはアッラーの味方になります。私どもはアッラーを信じます故に、どうか私どもの恭順の証人となってください。主よ、私どもは汝の下し給うたものを信じ、汝の遣わし給うたこの人に従います。なにとぞ私どもを汝の神性の証人たちの列に加え給え」と答えます。イエスのみならず十二人の使徒もアッラーの僕(しもべ)であることを受け入れている、と言っているのです。十二人の使徒がイエスに従うのは、イエスが神の子であるがゆえではなくて、アッラーが遣わした人であるからである、と彼らに言わしめているのですね。
その後に、アッラーはイエスに語りかけます。「これイーサー(イエス)、わしは汝を召し寄せてわがもとまで高く昇らせ、無信仰のやからのけがれから汝を浄(きよ)めてやろうと思う。また汝の後に従って来た者どもは、復活のその日まで無信仰のやからより高いところに置いてやろう。そしていよいよ復活の時が来たら、汝らはみなわしのところに連れて来られるのだぞ。汝らがいまそうして論争している問題についても、その時わしがみんな裁いてやろうぞ。信仰なき者どもは、この世でもまたあの世でも、わしが恐ろしい罰で罰してやろう。誰一人あの者どもを助けてくれるものはあるまいぞ」。
『コーラン』において、終末論的なヴィジョンが鮮やかに描かれていることは先ほど申し上げました。ここで、終末論的なヴィジョンとは、「天地が終わるときの状態」と「死者の復活」と「神の審判」とから成るものです。「天地が終わるときの状態」の描写は、次のようなものです。
どんどんと戸を叩く、何事ぞ、戸を叩く。(迫り来る終末の時の不気味さを象徴しています)
戸を叩く音、その何事ぞとはなんで知る。(〈その何事ぞとはなんで知る〉はシャーマンの決まり文句)
人々あたかも飛び散る蛾のごとく散らされる日。
山々あたかも毟(むし)られた羊毛のごとく成る日。(第101章 戸を叩く音 より)
あるいは、
大空が真二つに割れて、畏れかしこみ主の御言葉に耳傾ける時、
大地が平らに伸び、その中のもの全部吐き出し空(から)になって、
畏れかしこみ主の御言葉に耳傾ける時。 (第84章 真二つ より)
というのもその光景でしょう。とはいうものの「その中のもの全部吐き出し空(から)になって」とあるのは、すでに復活が始まっていることを示しています。実はこのように、「天地が終わるときの状態」と「死者の復活」と「神の審判」とは別々なものではなくて、意味の連関としても、イマージュとしても有機的な統一体を成し、連鎖しているものなのです。そのことを鮮やかに示しているのが、第81章「巻きつける」です。
(1) 太陽が暗黒でぐるぐる巻きにされる時、
(頭にターバンをぐるぐる巻きつけるように太陽に暗黒が巻きつけられて光を失うとき)
(2) 星々が落ちる時、
(3) 山々が飛び散る時、
(4) 産み月近い駱駝を見かえる人もなくなる時、
(「産み月近い駱駝」はアラビア人にとってこの上なく貴重なもの)
(5) 野獣ら続々と集い来る時、
(恐怖のあまり、動物たちが一箇所に集まってくる、という意味)
(6) 海洋(わたつみ)ふつふつと煮えたぎる時、
(7) 魂ことごとく組み合わされる時、
(復活のときに、いままで離れていた魂が肉体とまた組み合うことを指している)
(8) 生埋(いきうめ)の嬰児(みどりご)が、
(古代アラビアでは女の子が生まれるとそのまま生埋めにする風習があった)
(9) なんの罪あって殺された、と訊かれる時、
(10)帳簿がさっと開かれる時、
(「帳簿」とは、各人の行為が詳細に記されている天の帳簿)
(11)天がめりめり剥ぎ取られる時、
(12)地獄がかっと焚かれる時、
(13)天国がぐっと近づく時、
(14)その時こそどの魂も己が所業の結末を知る。
(1) から(6)までが終末の光景。(7)が復活の光景。(8)から(10)までが審判の日の光景。
(11)から(14)までが審判の結果としての賞罰です。このように、それらはひとつながりになっているのです。
「終末」と「復活」と「審判」について長々と述べたのは、『コーラン』において終末論のヴィジョンがいかに重要な位置を占めているのかを、いささかなりとも感じ取っていただきたかったからです。そのことを勘案すれば、先の「汝の後に従って来た者どもは、復活のその日まで無信仰のやからより高いところに置いてやろう」という文言が、『コーラン』において、キリスト教の十二人の使徒がいかに手厚く遇されているかを示しているのだということを、お分かりいただけるのではないでしょうか。つまり、イスラム教は最初からキリスト教に対して敵対的であったわけではないということです。そのことに私はいささかほっとするところがあります。私がほっとしてもしょうがないのでしょうけれど。
次は、第4章「女」から。ここでアッラーは、ユダヤ教徒を激しく非難します。同章によれば、ユダヤ教徒は、アッラーとの契約に違反し、アッラーの神兆を信じようとせず、預言者たちを理由なく殺害し、アッラーの言葉を軽んじ無視し続けました。『コーラン』は、ユダヤ教徒に対して、「実はアッラーがはじめから彼らには無信仰の刻印を捺して置き給うた」という強烈な言葉を投げつけます。その上で、次のように言います。
「『わしらは救世主(メシア)、神の使徒、マルヤム(聖母マリア)の子イーサー(イエス)を殺したぞ』などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと」と。その注に、〈回教ではイエスが十字架にかけられて死んだことをユダヤ人の嘘言として否定する。イエスでなくてイエスに似た男が殺されたにすぎない〉とあります。で、『コーラン』はこう続けます。「もともと啓典の中でこの点について論争している人々はイエスについて、本当に十字架にかけられたのかどうか疑問に思っている。彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけでないし、ただいいかげんに憶測しているだけのこと。いや、彼らは断じてイエスを殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍(そば)に引き上げ給うたのじゃ」。
もう少し続けましょう。「啓典の民(ここではキリスト教徒のこと)の中にはただの一人だに死ぬ前にイエスへの信仰を抱くようにならぬものはないであろう。やがて復活の日が来る時、彼はあの者ども(ユダヤ教徒)に不利な証人となるであろう」。
いかがでしょうか。ここでのアッラーは、ユダヤ教徒を激しく非難し、キリストやキリスト教徒の肩を持っているような印象があります。注には〈ユダヤ教徒、キリスト教徒に対する回教徒の態度は時期によって異なる。最初は両者に対する親愛と信頼。この期待はまずユダヤ教徒に裏切られ、憎悪に転ずるが、キリスト教徒は味方だと思っている。今のこの箇所はちょうどそういう時期に当たる。次にはユダヤ教徒もキリスト教徒もともに不倶戴天の敵となる〉とあります。「そういう時期」というのが具体的にいつのことを指すのかはっきりしませんが、とても参考になる注です。
しかし、イスラム教徒からこの時期に味方だと思われたキリスト教徒は、実のところ困惑していた、というか、はっきり言ってしまえば、迷惑千万と思っていたのではないでしょうか。というのは、キリスト教徒にとって、イエスが十字架に掛けられたことは、彼らの信仰の根幹を成す原罪意識を支える核心であり、また、そこからイエスの復活が導き出される決定的に重要な宗教的契機なのであるから、いくらユダヤ教徒を否定するためだとは言え、それを否定されることは到底甘受しえなかったと思われるからです。だから、キリスト教徒がイスラム教徒と決裂することは、その時期においてすでに決定されていたと申し上げても過言ではなかろうと思われます。先ほど私は「ほっとした」などと申し上げてしまいましたが、それは早計であったのかもしれません。
ではイスラム教が、キリスト教に対して否定的になった時期の文言を見てみましょう。第5章「食卓」からです。「『我々はナザレびと(キリスト教徒)じゃ』と自称する者どもと我ら(アッラー)は契約を結んだが、彼らは神から教えて戴いたものの一部をすっかり忘れてしまったので、我らは彼らの間に敵意と憎悪とをかき立てた。復活(よみがえり)のその日まで続く憎しみを。その日になったらアッラー御自ら、彼らがどんな悪事をはたらいて来たかを一々彼らに説明してきかせ給うであろう」
その注に、〈晩年においてはマホメットはユダヤ教徒ばかりでなくキリスト教徒をも公然の敵として宣言した〉とあるのは見逃せません。この時点で、その後のイスラム教とキリスト教との敵対関係・憎悪関係が決定づけられたと申し上げても過言ではないからです。むろん、その責めをイスラム教のみに帰するつもりはありません。詳しくは知りませんが、マホメットの対キリスト教観の変化をもたらしたそれなりの理由や不可避性があったのかもしれないからです。それを論じることは、いまの私の手に余ります。今後の宿題としましょう。
次の文言は、イスラム教徒のユダヤ教やキリスト教に対する憎悪を直截に表出したものです。第9章「改悛」からです。「『ウザイル(エズラ)は神の子』とユダヤ人は言い、『メシアは神の子』とキリスト教徒は言う。どうせ昔の無信仰者どもの口真似をして、あんなことを口先だけで言っているにすぎぬ。えい、いっそアッラーが彼らを一気に撃ち殺し給えばいいに。まことに、なんと邪曲(よこしま)な人々であることか。」 他宗教に対する憎悪をこれほど剥き出しにした文言は、私が記憶している限り、『旧約聖書』にも『新約聖書』にも見当たらないような気がします。続けましょう。「彼らは、アッラーをさし措いて、仲間のラビや修道士を主とあがめている。それからマルヤム(マリア)の息子メシアも。唯一なる御神をのみあがめよと、あれほど固く言いつけられているのに。アッラーのほかに神はないはず。ああ何たる恐れ多いことか。それをあのようなもの(偶像)と同列に置くとは」。ここには、憎悪の果ての永嘆さえ感じられような気がします。激越さの極北と申しましょうか。
だいぶ長くなりました。これで終わります。